第28話 黒幕の顔
敵の顔が分かったとき、恐怖は消えない。むしろ——輪郭を得た恐怖の方が、ずっと鋭い。
ヴェルナーが執務室に立っている。表情のない目が、わたしたちを見つめている。
殿下が立ち上がった。
「辺境伯が呼んでいるとは、どういう意味だ」
「辺境伯閣下が、宰相閣下との面会を求めておられます」
「この時間に、前触れもなく?」
「緊急の案件とのことです」
ギルベルトの顔色が悪い。だが、すぐに——あの穏やかな笑みを被り直した。
「殿下。わたしが対応します。お二人は——」
「宰相。私も同席する」
「殿下、それは——」
「王太子として、辺境伯との面会に同席するのは不自然ではない。行くぞ、フラウ」
「はい」
応接室に向かう廊下で、殿下がわたしの横を歩いた。半歩の距離。いつもより近い。
「フラウ。辺境伯は、お前の前世の殺害を命じた人間だ」
「はい」
「怖いか」
「怖いです。でも——退勤時刻まではまだ余裕があります」
殿下の唇が微かに上がった。場違いな冗談だが、それで呼吸が少し楽になった。
応接室。
辺境伯クラインベルクは、すでに座っていた。
初めて見る顔だった。六十代の壮年。
白髪交じりの顎鬚。鷹のように鋭い目。背筋が真っ直ぐで、軍人の姿勢だ。
——この男が、前世のわたしの命を奪った張本人。
手が震えそうになった。殿下の存在を背中に感じて、堪えた。
「殿下。わざわざのお越し、恐縮です」
辺境伯の声は低く、落ち着いている。王太子の前でも萎縮しない。
「辺境伯。突然の来訪の理由を聞こうか」
「東方交渉の件で、宰相閣下と直接お話しする必要がありまして」
「東方交渉はダリウスの件で凍結している。辺境伯が直接関与する理由はないはずだが」
「それが——新たな情報がございまして」
辺境伯の鷹の目が、わたしを捉えた。
「失礼ですが、こちらの侍女は」
「侍女ではない。私の側近だ」
「側近。——ああ、噂の定時退勤の」
辺境伯が笑った。だが、目は笑っていない。
「フラウと申します」
「フラウ。——いい名だ」
辺境伯がわたしを見る目に、一瞬——何かが過ぎった。記憶を辿るような動き。
「どこかで会ったことがあったかな」
「いいえ。初めてお会いします」
「そうか。——不思議だ。どこかで見たことがある顔だ」
コレット・ハイデンの面影。前世の母に似ているのか、あるいは——前世のわたし自身に。
殿下がわたしの前に半歩出た。さりげなく、辺境伯の視線を遮る。
「辺境伯。用件を」
「ああ、失礼。つい。——年寄りは昔のことを思い出すのが好きでね」
昔のこと。二十五年前を——思い出しているのか。
わたしの前世の母を知っている。コレット・ハイデンの歌声を聞いていた時代を覚えている。
そしてその歌姫を追い詰め、娘を殺した男が——穏やかな笑みで目の前に座っている。
拳を握った。殿下の背中の温もりを感じる。
——今は動くな。証拠を固めるまで。
「辺境伯。用件を」
殿下が話を戻した。辺境伯はわたしから視線を外し、宰相に向き直った。
会話は東方交渉の表面的な内容に終始した。だが、辺境伯の言葉の端々に——脅しの匂いがある。
「宰相閣下も、最近は色々とお忙しいようですね」
「ええ。通常の業務です」
「監査などもあったと聞きましたが」
ギルベルトの笑みが揺れた。辺境伯は監査の件を知っている。情報が漏れている。
「何か、不都合なことでも見つかりましたか」
「見つかっていません。記録は正常です」
「それは何よりです。——記録は、正常であるべきですからね」
辺境伯の声に、冷ややかな圧がこもった。「余計なことをするな」という警告だ。
「殿下も、王太子として色々とご苦労が多いことでしょう」
「苦労は仕事の一部だ」
「ごもっとも。ただ——若い王太子が、古い慣習に手を入れるのは、なかなか難しいものです」
殿下のペンが——ない。この場にペンはない。代わりに、膝の上で拳が握られている。
「忠告として受け取っておこう」
「忠告? いえいえ。老人の世間話ですよ」
辺境伯が微笑んだ。宰相の穏やかな笑みとは違う。支配者の笑みだ。
——この男は、殿下すら恐れていない。
面会が終わり、辺境伯が退室した。ヴェルナーが従者として後に続く。
応接室に残された三人——殿下、わたし、ギルベルト——の間に、重い沈黙が落ちた。
「宰相」
殿下の声が低い。
「辺境伯は、監査のことを知っていた」
「はい」
「情報源は」
「ローザでしょう。新侍女長は——辺境伯の息のかかった人間です」
「マルグリットの後任を、辺境伯が送り込んだのか」
「わたしが阻止するべきでした。力が及ばなかった」
ギルベルトの声に、疲弊がにじんでいる。
「宰相。ローザはいつから辺境伯と繋がっていた」
「マルグリットの解任直後です。後任を選ぶ際、宰相府から推薦があった。わたしは反対したが——枢密院の多数決で押し切られた」
「枢密院にも辺境伯の影響力が及んでいるのか」
「残念ながら。老臣たちの中には、辺境伯の領地から利益を得ている者もいます」
殿下の拳が、膝の上で握り締められていた。
「制度の隅々まで、辺境伯の根が張っている。一つ一つ切っても、きりがない」
「殿下。駒を一つずつ排除しても、本体は倒せません」
「分かっている」
「辺境伯本人を倒すしかありません」
「王太子権限では、領地を持つ貴族に直接手を出せない」
「はい。国王陛下の権限が必要です」
「父上に直訴する」
殿下の声に、覚悟があった。
「宰相。あなたの証言が必要です」
「……承知しました」
「協力してくれるのか」
「二十年間、一人で戦ってきました。もう——一人で抱え込むのは終わりにしたい」
ギルベルトの笑みが、初めて——穏やかな仮面ではなく、本物の弱さを見せた。
わたしは手帳を取り出した。
『辺境伯クラインベルク:直接来訪。監査の情報を把握している。
情報源はローザ(新侍女長)。辺境伯は宰相を牽制しに来た。
ギルベルトへの圧力。』
『辺境伯がわたしの顔を見たとき、一瞬——誰かと重ねるような動きをした。コレット・ハイデンの面影を見たのか。』
ペンを置いた。
黒幕の顔は分かった。だが、この男を追い詰めるには——もっと大きな力が必要だ。
——王太子権限だけでは足りないかもしれない。




