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第26話 追い詰める

追い詰められた人間は、二つの行動のどちらかを取る。逃げるか、反撃するか。宰相ギルベルトは——どちらでもなかった。


 殿下が王太子権限で監査を発動した。


 枢密会議の場で、殿下は立ち上がった。


「本日、王太子権限に基づき、宰相府の特別予備費に対する特別監査を発動する」


 会議室が凍りついた。老臣たちが顔を見合わせている。


 宰相ギルベルトは——微笑んでいた。穏やかな、いつもの笑み。


「殿下。特別監査とは、穏やかではありませんね」


「穏やかではない状況だからだ」


「何か、お気づきの点がおありで」


「侍女長の横領。財務局の収賄。外交官の不正取引」


 殿下が一つずつ指を折った。


「すべてが特別予備費を経由している。そして特別予備費の決裁者は、宰相閣下——あなただ」


 ギルベルトの微笑みは消えなかった。紅茶のカップを手に持ったまま、平然としている。


「それは重大なご指摘ですね。もちろん、監査には全面的に協力いたします」


 ——協力する。


 抵抗しない。逃げもしない。反撃もしない。


 完璧な余裕。追い詰められているのではなく、追い詰められることすら想定の範囲内だという態度。


 わたしは記録を取りながら、ギルベルトの手元を見た。紅茶のカップの液面。揺れていない。


 この男は、本気で動揺していないのか。





 監査は三日間にわたって行われた。トビアスの騎士団が宰相府の書庫を封鎖し、わたしとエルヴィンが記録を精査した。


 エルヴィンは黙々と記録を読み解いた。宰相府の分類方式を知っている強みが、ここで活きた。


「フラウ。この記録の綴じ方には法則がある」


「法則?」


「正規の記録と、非正規の記録で、綴じ糸の色が違う。正規は白糸。非正規は——」


「灰色の糸か」


「いや。赤い糸だ。目立つが、赤い糸の記録は『機密』として扱われる」


「つまり——」


「赤い糸の記録だけを追えば、非公式の取引が分かる」


「そういうことだ」


 エルヴィンの情報がなければ、この分類には気づけなかった。味方になってくれて、本当に良かった。


 赤い糸の記録を追った結果。


 特別予備費の記録は——表面上は完璧だった。


 一銭の狂いもない。すべての支出に正当な名目があり、承認印があり、受領証がある。


「殿下。白い糸の記録——正規の記録には不正の痕跡がありません」


「赤い糸は」


「赤い糸の記録は——もっと複雑です」


 エルヴィンが書類の束を広げた。


「赤い糸の記録には、正規の記録と同じ取引が——異なる金額で記録されています」


「二重記録か」


「はい。正規の記録では百の支出が、機密記録では百五十として計上されている。差額の五十が——」


「裏金として流れている」


「正確に言えば、差額は辺境伯領宛ての『特別警備費』として支出されています」


「特別警備費。私兵団の維持費だな」


 すべてが繋がった。特別予備費から正規の支出を装い、差額を辺境伯の私兵団に流す。宰相の直接決裁だから、中間チェックは入らない。


「殿下。記録に不正の痕跡はありません」


「すべてが正当な手続きで処理されています」


「だが、正規と機密の二重記録がある。その差額が不正の証拠だ」


「はい。ただし——この二重記録の存在を証明するには、赤い糸の記録そのものを公式に提出する必要があります。機密記録は通常、枢密院にも開示されません」


「王太子権限で開示を命じる」


「それには——」


「国王の承認が必要だ。分かっている」


 壁が、また一つ増えた。だが、突破口は見えた。


「殿下。もう一つの方法があります」


「何だ」


「オルランドです。オルランドはすでに自白しています。彼が特別予備費の二重記録について証言すれば——」


「赤い糸の記録を公式に提出する根拠になる」


「はい」


「オルランドは外交局預かりだ。所在は」


「東棟の謹慎室です。騎士団の監視下にあります」


「すぐに会いに行け」


「殿下——退勤時刻を過ぎています」


「これは命令だ。行け」


「……かしこまりました」


 わたしとトビアスは、オルランドの謹慎先に向かった。


 東棟の廊下は暗い。燭台の灯りがまばらに揺れている。


 謹慎室の扉の前に立った。鍵は——外から掛かっている。


「トビアス。鍵が外からだ」


「ん? おかしいな。中にいるなら、内側から掛けるはずだ」


 扉を開けた。


 だが——遅かった。


 オルランドの部屋は、もぬけの殻だった。


荷物もない。人の気配もない。


窓が開いている。夜風がカーテンを揺らしている。


 ただ、部屋の隅に——椅子が倒れていた。争った痕跡。


「逃げたのか?」


 トビアスが部屋を確認した。窓枠を触り、扉の鍵を調べる。


「違う。——連れ出されたんだ」


 トビアスが鍵を確認した。


「鍵が外から掛けられている。自分で出たなら、内側から開けるはずだ」


「つまり、誰かがオルランドを部屋から連れ出して、外から鍵をかけた」


「ああ。しかも手慣れている。争いの痕跡が最小限だ」


「抵抗する暇を与えなかった、ということか」


「そうだ。プロの仕事だ」


 プロの仕事。辺境伯の私兵団の手口だ。


 オルランドは、誰かに連れ出された。証言を封じるために。


「トビアス。窓の外を見て」


「ああ。——足跡がある。二人分だ」


 トビアスがしゃがみ込んで地面を確認した。


「片方は引きずった痕がある」


「オルランドは自分の足で歩いていない。意識を失わせてから運んだ」


「傭兵の手口だな。文官相手なら一瞬だ」


 わたしは部屋を見回した。机の上は散らかっていない。寝台も乱れていない。


 起きている状態で制圧された。抵抗する暇もなく。


「トビアス。オルランドが連れ去られたのは、いつ頃だと思う」


「足跡の乾き具合からして、三刻前。わたしたちが退勤した直後だ」


「わたしたちの退勤を待っていた」


「そういうことだな。——フラウ、お前の退勤パターンが読まれている」


 背筋が冷えた。わたしの定時退勤が、敵にとっての行動開始の合図になっている。


 部屋の隅に、小さな紙片が落ちていた。拾い上げると、走り書きの一行。


『真犯人は宰相ではない。守ってくれていたのはあの人だ。——O』


 Oはオルランドの頭文字。


 真犯人は宰相ではない。守ってくれていた——?


 何を言っているんだ。


 ——宰相が、犯人ではない?


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