第26話 追い詰める
追い詰められた人間は、二つの行動のどちらかを取る。逃げるか、反撃するか。宰相ギルベルトは——どちらでもなかった。
殿下が王太子権限で監査を発動した。
枢密会議の場で、殿下は立ち上がった。
「本日、王太子権限に基づき、宰相府の特別予備費に対する特別監査を発動する」
会議室が凍りついた。老臣たちが顔を見合わせている。
宰相ギルベルトは——微笑んでいた。穏やかな、いつもの笑み。
「殿下。特別監査とは、穏やかではありませんね」
「穏やかではない状況だからだ」
「何か、お気づきの点がおありで」
「侍女長の横領。財務局の収賄。外交官の不正取引」
殿下が一つずつ指を折った。
「すべてが特別予備費を経由している。そして特別予備費の決裁者は、宰相閣下——あなただ」
ギルベルトの微笑みは消えなかった。紅茶のカップを手に持ったまま、平然としている。
「それは重大なご指摘ですね。もちろん、監査には全面的に協力いたします」
——協力する。
抵抗しない。逃げもしない。反撃もしない。
完璧な余裕。追い詰められているのではなく、追い詰められることすら想定の範囲内だという態度。
わたしは記録を取りながら、ギルベルトの手元を見た。紅茶のカップの液面。揺れていない。
この男は、本気で動揺していないのか。
◇
監査は三日間にわたって行われた。トビアスの騎士団が宰相府の書庫を封鎖し、わたしとエルヴィンが記録を精査した。
エルヴィンは黙々と記録を読み解いた。宰相府の分類方式を知っている強みが、ここで活きた。
「フラウ。この記録の綴じ方には法則がある」
「法則?」
「正規の記録と、非正規の記録で、綴じ糸の色が違う。正規は白糸。非正規は——」
「灰色の糸か」
「いや。赤い糸だ。目立つが、赤い糸の記録は『機密』として扱われる」
「つまり——」
「赤い糸の記録だけを追えば、非公式の取引が分かる」
「そういうことだ」
エルヴィンの情報がなければ、この分類には気づけなかった。味方になってくれて、本当に良かった。
赤い糸の記録を追った結果。
特別予備費の記録は——表面上は完璧だった。
一銭の狂いもない。すべての支出に正当な名目があり、承認印があり、受領証がある。
「殿下。白い糸の記録——正規の記録には不正の痕跡がありません」
「赤い糸は」
「赤い糸の記録は——もっと複雑です」
エルヴィンが書類の束を広げた。
「赤い糸の記録には、正規の記録と同じ取引が——異なる金額で記録されています」
「二重記録か」
「はい。正規の記録では百の支出が、機密記録では百五十として計上されている。差額の五十が——」
「裏金として流れている」
「正確に言えば、差額は辺境伯領宛ての『特別警備費』として支出されています」
「特別警備費。私兵団の維持費だな」
すべてが繋がった。特別予備費から正規の支出を装い、差額を辺境伯の私兵団に流す。宰相の直接決裁だから、中間チェックは入らない。
「殿下。記録に不正の痕跡はありません」
「すべてが正当な手続きで処理されています」
「だが、正規と機密の二重記録がある。その差額が不正の証拠だ」
「はい。ただし——この二重記録の存在を証明するには、赤い糸の記録そのものを公式に提出する必要があります。機密記録は通常、枢密院にも開示されません」
「王太子権限で開示を命じる」
「それには——」
「国王の承認が必要だ。分かっている」
壁が、また一つ増えた。だが、突破口は見えた。
「殿下。もう一つの方法があります」
「何だ」
「オルランドです。オルランドはすでに自白しています。彼が特別予備費の二重記録について証言すれば——」
「赤い糸の記録を公式に提出する根拠になる」
「はい」
「オルランドは外交局預かりだ。所在は」
「東棟の謹慎室です。騎士団の監視下にあります」
「すぐに会いに行け」
「殿下——退勤時刻を過ぎています」
「これは命令だ。行け」
「……かしこまりました」
わたしとトビアスは、オルランドの謹慎先に向かった。
東棟の廊下は暗い。燭台の灯りがまばらに揺れている。
謹慎室の扉の前に立った。鍵は——外から掛かっている。
「トビアス。鍵が外からだ」
「ん? おかしいな。中にいるなら、内側から掛けるはずだ」
扉を開けた。
だが——遅かった。
オルランドの部屋は、もぬけの殻だった。
荷物もない。人の気配もない。
窓が開いている。夜風がカーテンを揺らしている。
ただ、部屋の隅に——椅子が倒れていた。争った痕跡。
「逃げたのか?」
トビアスが部屋を確認した。窓枠を触り、扉の鍵を調べる。
「違う。——連れ出されたんだ」
トビアスが鍵を確認した。
「鍵が外から掛けられている。自分で出たなら、内側から開けるはずだ」
「つまり、誰かがオルランドを部屋から連れ出して、外から鍵をかけた」
「ああ。しかも手慣れている。争いの痕跡が最小限だ」
「抵抗する暇を与えなかった、ということか」
「そうだ。プロの仕事だ」
プロの仕事。辺境伯の私兵団の手口だ。
オルランドは、誰かに連れ出された。証言を封じるために。
「トビアス。窓の外を見て」
「ああ。——足跡がある。二人分だ」
トビアスがしゃがみ込んで地面を確認した。
「片方は引きずった痕がある」
「オルランドは自分の足で歩いていない。意識を失わせてから運んだ」
「傭兵の手口だな。文官相手なら一瞬だ」
わたしは部屋を見回した。机の上は散らかっていない。寝台も乱れていない。
起きている状態で制圧された。抵抗する暇もなく。
「トビアス。オルランドが連れ去られたのは、いつ頃だと思う」
「足跡の乾き具合からして、三刻前。わたしたちが退勤した直後だ」
「わたしたちの退勤を待っていた」
「そういうことだな。——フラウ、お前の退勤パターンが読まれている」
背筋が冷えた。わたしの定時退勤が、敵にとっての行動開始の合図になっている。
部屋の隅に、小さな紙片が落ちていた。拾い上げると、走り書きの一行。
『真犯人は宰相ではない。守ってくれていたのはあの人だ。——O』
Oはオルランドの頭文字。
真犯人は宰相ではない。守ってくれていた——?
何を言っているんだ。
——宰相が、犯人ではない?




