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第25話 エルヴィンの告白

敵だと思っていた人間が味方だったとき、人は二つの感情を同時に味わう。安堵と、自分の浅はかさへの恥ずかしさだ。


 その夜は、退勤後の閲覧室で殿下と調査を進めていた。


 扉が、叩かれた。


 殿下とわたしが同時に顔を上げた。この時間に閲覧室を訪ねる人間は限られている。


「殿下。エルヴィンです。入ってもよろしいですか」


 殿下とわたしは視線を交わした。殿下が頷く。


「入れ」


 エルヴィンが入ってきた。いつもと同じ無表情——だが、目が違う。いつもの空虚さではなく、覚悟の色がある。


「殿下。お話があります」


「座れ」


 エルヴィンが対面に座った。わたしは殿下の横にいる。


「フラウ殿にも聞いていただきたい」


「わたしにも?」


「はい」


 エルヴィンが深く息を吐いた。いつもの寡黙な男とは、別人のようだった。


「わたしは——宰相閣下に命じられて、殿下のもとに送り込まれた人間です」


 空気が凍った。殿下の指先が微かに動いた。


「十年前。わたしが十五歳のとき、宰相閣下がわたしの家族を訪ねてきました」


「宰相が直接辺境伯領の農家を?」


「はい。辺境伯領にも巡回することがあると聞いていましたが——実際には、わたしの家族を名指しで訪ねてきたのです」


「なぜお前の家族を」


「分かりません。ただ——母がかつて王宮で働いていたと、後から知りました」


 わたしの心臓が跳ねた。エルヴィンの母が王宮で働いていた?


「何の仕事を」


「侍女です。二十年以上前に辞めたと聞いています。理由は——聞いたことがありません」


 二十年以上前。コレット・ハイデンが追放された時期と重なる。


「エルヴィン。お前の母親の名前は」


 殿下が問いかけた。エルヴィンの表情が、初めて——明確に揺れた。


「……マリア、です」


 マリア。フラウの記憶にも、ヴィルヘルミナの記録にも出てこない名前だ。だが——二十五年前に王宮を離れた侍女。


「続けてくれ」


「宰相閣下は、わたしに『王宮で働く機会を与える。その代わり、王太子の動向を報告しろ』と言いました」


「ヘルマンと同じ構造か」


「はい。ただし——ヘルマン殿と違うのは」


 エルヴィンの目が、真っ直ぐ殿下を見た。


「わたしは、三年前に報告を止めました」


 沈黙。


「三年前に、何があった」


「殿下が——領地視察の帰路で、辺境伯領の貧しい村に立ち寄られたことを覚えておられますか」


「ああ。——飢饉の被害を確認するためだった」


「あの村は、わたしの故郷です」


 殿下の表情が、初めて——明確に動いた。


「殿下は、村人たちに直接声をかけてくださいました。支援物資の手配も即座に指示された」


 エルヴィンの声が、かすかに震えた。


「飢饉で家畜が全滅した農家に、殿下は自分の食事を分けてくださった。護衛が止めるのを振り切って」


「覚えている」


「あの日、わたしの妹が殿下に花を渡しました。小さな、野に咲く花を。殿下は——受け取ってくださった」


 殿下の表情が、初めて——明確に動いた。記憶が蘇ったのだろう。


「あの日から、わたしは宰相への報告を止めました。殿下に仕えることを、本心から選びました」


「なぜ、今まで黙っていた」


「言えば、即座に解任されると思ったからです。ヘルマン殿のように」


「黙っていた方が問題だ」


「承知しています。——ですが、フラウ殿が来てから」


 エルヴィンがわたしを見た。


「あなたの行動を見ていました。侍女長の不正を暴き、財務局の収賄を追及し、ダリウスを摘発した。すべて証拠を積み上げて、正面から」


「……」


「あなたには、嘘をつき続けるべきではないと思いました。わたしの過去も、すべて」


 わたしは黙って聞いていた。エルヴィンの目が、初めて——人間らしい温度を持っている。


「殿下」


 エルヴィンが頭を下げた。


「処分は覚悟しています」


 長い沈黙。殿下のペンが机の上に置かれている。回していない。


「エルヴィン。一つ確認する」


「はい」


「三年前に報告を止めた後、宰相府から催促はなかったのか」


「ありませんでした。ですが——別の人間が、わたしの代わりに報告を始めたようです」


「ヘルマンか」


「はい。時期が一致します。わたしが報告を止めた直後に、ヘルマン殿が宰相府と接触を始めた」


 殿下の目が細くなった。


「つまり、宰相はお前が離反したことに気づいていた。お前の代わりにヘルマンを取り込んだ」


「そう考えています」


「なぜ、お前を排除しなかった」


「分かりません。ただ——宰相閣下は、わたしを排除するより、泳がせる方を選んだのだと思います」


「泳がせて、観察するためか」


「はい」


 殿下が立ち上がった。エルヴィンの前に立つ。


「エルヴィン。お前を解任はしない」


 エルヴィンの目が見開かれた。


「ただし、条件がある。今後はすべてを報告しろ」


 殿下の声が、静かに響いた。


「宰相府から接触があった場合も、辺境伯領に関する情報も。隠し事は一切なしだ」


「……はい」


「お前の忠義の向け先が変わったことは——三年前の行動で証明されている。だが、信頼を取り戻すには時間がかかる。それは理解しろ」


「承知しています」


 エルヴィンが再び頭を下げた。今度は——深く。


 わたしは隣で見守りながら、胸の中の緊張が解けていくのを感じた。


 エルヴィンは敵ではなかった。宰相の駒として送り込まれたが、殿下の人柄に触れて——自分の意志で味方に変わった。


 ヘルマンは「王国のため」と言われて動いた。エルヴィンは「殿下のため」に止まった。


 同じ構造だが、結末が違う。何が違ったのか。


——殿下だ。殿下の行動が、エルヴィンの心を変えた。


飢饉の村で、自分の食事を分けた王太子。花を受け取ってくれた王太子。


 推しの人柄が、人を変える。物語の中だけではなく、現実でも。


 エルヴィンが退室した後、殿下がわたしを見た。


「フラウ。お前はエルヴィンを疑っていたな」


「はい」


「正直に言え。今の話を、信じるか」


「信じます」


「根拠は」


「三年前に報告を止めたという時期が、ヘルマンの取り込み時期と一致します。宰相がエルヴィンの代わりにヘルマンを使い始めたのなら、エルヴィンの離反を宰相は把握していたことになる」


「宰相が把握していたのに、エルヴィンを排除しなかった」


「はい。排除すれば殿下に察知される。だから泳がせた」


「宰相は合理的だからな」


「はい。合理的すぎるほどに」


「合理的、か。あの男らしい」


 殿下の声に、複雑な響きがあった。敵ではなかった宰相。だが、二十年間騙されていた事実は残る。


「殿下。宰相閣下は——敵ではありませんでした」


「分かっている。だが、味方と呼ぶにも——まだ早い」


「はい。それは——これからの行動で決まります」


 閲覧室を出るとき、殿下が呟いた。


「三人目の側近は、ようやく本物かもしれないな」


 わたしは答えなかった。代わりに、小さく微笑んだ。


 ——推しの傍で働く人間が、少しずつ本物になっていく。それだけで、この転生の意味がある。


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