第23話 紋章の記憶
真実に近づくほど、足元は揺れる。それでも止まれない。止まったら、前世の自分が報われない。
会議室を出た後、わたしの足は震えていた。殿下がそれに気づいたのか、廊下で歩調を緩めてくれた。
「確認できたか」
「はい。ヴェルナーの袖口の紋章。前世で見たものと同じです」
「確実か」
「……九割」
殿下は追及しなかった。「九割」の残りの一割が、暗闇の中の記憶の曖昧さであることを理解している。
「九割なら、動くに値する。ただし——」
「ヴェルナーは実行犯であって、指示者ではない」
「そうだ。傭兵は自分の判断で殺さない。誰かの指示で動いた」
「指示者は——」
「それを確定させることが、次の一手だ」
殿下がわたしを見た。
「フラウ。ここからは危険度が上がる。覚悟はあるか」
「退勤時刻を守る覚悟なら、常にあります」
殿下の唇が微かに上がった。
「……お前は、本当にぶれないな」
◇
翌日。わたしはベアトリスに連絡を取った。
東屋。午後の光。
ベアトリスの翡翠の瞳が、わたしを迎えた。扇は閉じている。
「ベアトリス様。辺境伯クラインベルクについて、もう少し情報が必要です」
「辺境伯ね。何を知りたいの」
「私兵団の指揮系統です。宰相府が資金を出していることは分かっています。ですが、実際の指示を出しているのは宰相本人なのか、それとも——」
「別の人間がいると?」
「可能性を考えています」
ベアトリスが紅茶を一口飲んだ。カップを戻す仕草が、少し緊張している。
「フラウ。辺境伯の件は、公爵家の中でも敏感な話題なの。表立って調べるのは難しい」
「裏からでも構いません」
「……あなた、本当に遠慮がないわね」
「殿下の側近ですから」
ベアトリスの唇が微かに弧を描いた。皮肉ではなく、認めるような笑みだ。
「フラウ。一つ、気になることがあるの」
「何ですか」
「辺境伯の私兵団について調べているとき、もう一つの名前が浮上したわ」
「名前?」
「エルヴィン」
心臓が跳ねた。
「エルヴィン——殿下の第二側近の?」
「ええ。エルヴィンの出身は、クラインベルク辺境伯領なの」
ベアトリスの翡翠の瞳が、鋭くなった。
「知っていた?」
知らなかった。フラウの記憶にも、エルヴィンの出身地の情報はない。
「辺境伯領出身の人間が、王太子の側近にいる」
「偶然かもしれない。辺境伯領は広いし、すべての出身者が辺境伯の手駒とは限らないわ」
「ベアトリス様は、偶然だと思いますか」
「思わないわ。——わたくしの勘だけれど」
「わたしも同じ勘です」
二人の女の勘が一致した。偶然を否定する根拠にはならないが、無視もできない。
「ベアトリス様。エルヴィンの家族関係は分かりますか」
「父親は辺境伯領の農民。母親は——不明よ。記録がないの」
「記録がない」
「ええ。まるで、意図的に消されたかのように」
消された記録。コレット・ハイデンの追放と同じ匂いがする。
「ベアトリス様。もう一つ。辺境伯の私兵団の中で、ヴェルナーという男をご存知ですか」
「ヴェルナー? 名前だけなら聞いたことがあるわ。辺境伯の古い従者で、社交界には絶対に顔を出さない男」
「社交界に出ない理由は」
「正式な身分がないからよ。傭兵あがりの従者は、社交界では門前払い」
「つまり、公式な場には記録が残らない」
「そういうことね」
ベアトリスが紅茶のカップを回した。考えている。
「ただ、一つ気になることがあるわ」
「何ですか」
「公爵家の晩餐会で、辺境伯が従者について話していたことがあるの。『古い付き合いの男がいる。口が堅くて信頼できる』と」
「辺境伯がわざわざ従者の話を?」
「珍しいことよ。だからこそ覚えていたの。辺境伯が信頼を口にする相手は——ほとんどいないわ」
「ヴェルナーは辺境伯にとって特別な存在だということですね」
「右腕に近い立場。社交界に出せないのは——出せない仕事を任されているからよ」
「出せない仕事」
「暗い仕事。——あの男が、あなたの追っている犯人?」
「実行犯の可能性があります」
ベアトリスの翡翠の瞳が鋭くなった。
「フラウ。辺境伯の右腕を追うということは、辺境伯本人を敵に回すということよ」
「覚悟しています」
「覚悟だけでは足りないわ。計画が必要よ」
「分かっています。一人では動きません」
「当然よ。——さっさと犯人を捕まえて、定時に帰りなさい」
わたしは思い返した。エルヴィンは常に沈黙していた。ヘルマンの裏切りが発覚したときも、表情を変えなかった。
だが、ヘルマンが退室した後——エルヴィンは窓の外を見つめていた。あの横顔には、何の感情もないように見えた。
いや。感情がなかったのではなく——抑え込んでいたのか。
「ベアトリス様。エルヴィンが辺境伯領出身であるという情報の出元は」
「公爵家の人事記録よ。貴族家の従者や側近の出自を調べるのは、社交界では常識なの」
「なぜ、今になってこの情報を?」
「あなたが辺境伯を追い始めたからよ。関連する人間を洗い出すのは当然でしょう」
「ベアトリス様自身は、エルヴィンをどう見ていますか」
「社交界では目立たない男ね。わたくしのパーティーに殿下が出席されたとき、エルヴィンは隅で壁に溶け込んでいたわ」
「壁に溶け込む」
「存在感を消すのが上手いの。それは——訓練されているか、あるいは本能的に身を隠す癖がある人間の特徴よ」
ベアトリスの分析は鋭い。この女性はただの令嬢ではない。
「ありがとうございます。大きな手がかりです」
ベアトリスが扇を開いた。口元を隠す。
「フラウ。気をつけなさい。あなたの隣にいる人間が、全員味方とは限らないわ」
隣にいる人間。側近室で、毎日わたしの隣で書類を整理していた男。
エルヴィンは——何者なのだ。
宿舎に戻り、手帳を膝の上に広げた。
『ヴェルナー:辺境伯の私兵。前世の殺害の実行犯(紋章一致・九割)。
指示者は不明。』
『エルヴィン:クラインベルク辺境伯領出身。第二側近として殿下の傍にいる。
ヘルマンの裏切りを知っていた可能性。辺境伯との関係を調査する必要あり。』
ペンを置いた。
エルヴィンが敵だとしたら——殿下は、二人の側近に裏切られたことになる。
それだけは、避けたい。推しをこれ以上傷つけたくない。
——だが、真実から目を逸らすわけにはいかない。




