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第23話 紋章の記憶

真実に近づくほど、足元は揺れる。それでも止まれない。止まったら、前世の自分が報われない。


 会議室を出た後、わたしの足は震えていた。殿下がそれに気づいたのか、廊下で歩調を緩めてくれた。


「確認できたか」


「はい。ヴェルナーの袖口の紋章。前世で見たものと同じです」


「確実か」


「……九割」


 殿下は追及しなかった。「九割」の残りの一割が、暗闇の中の記憶の曖昧さであることを理解している。


「九割なら、動くに値する。ただし——」


「ヴェルナーは実行犯であって、指示者ではない」


「そうだ。傭兵は自分の判断で殺さない。誰かの指示で動いた」


「指示者は——」


「それを確定させることが、次の一手だ」


 殿下がわたしを見た。


「フラウ。ここからは危険度が上がる。覚悟はあるか」


「退勤時刻を守る覚悟なら、常にあります」


 殿下の唇が微かに上がった。


「……お前は、本当にぶれないな」





 翌日。わたしはベアトリスに連絡を取った。


東屋。午後の光。


ベアトリスの翡翠の瞳が、わたしを迎えた。扇は閉じている。


「ベアトリス様。辺境伯クラインベルクについて、もう少し情報が必要です」


「辺境伯ね。何を知りたいの」


「私兵団の指揮系統です。宰相府が資金を出していることは分かっています。ですが、実際の指示を出しているのは宰相本人なのか、それとも——」


「別の人間がいると?」


「可能性を考えています」


 ベアトリスが紅茶を一口飲んだ。カップを戻す仕草が、少し緊張している。


「フラウ。辺境伯の件は、公爵家の中でも敏感な話題なの。表立って調べるのは難しい」


「裏からでも構いません」


「……あなた、本当に遠慮がないわね」


「殿下の側近ですから」


 ベアトリスの唇が微かに弧を描いた。皮肉ではなく、認めるような笑みだ。


「フラウ。一つ、気になることがあるの」


「何ですか」


「辺境伯の私兵団について調べているとき、もう一つの名前が浮上したわ」


「名前?」


「エルヴィン」


 心臓が跳ねた。


「エルヴィン——殿下の第二側近の?」


「ええ。エルヴィンの出身は、クラインベルク辺境伯領なの」


 ベアトリスの翡翠の瞳が、鋭くなった。


「知っていた?」


 知らなかった。フラウの記憶にも、エルヴィンの出身地の情報はない。


「辺境伯領出身の人間が、王太子の側近にいる」


「偶然かもしれない。辺境伯領は広いし、すべての出身者が辺境伯の手駒とは限らないわ」


「ベアトリス様は、偶然だと思いますか」


「思わないわ。——わたくしの勘だけれど」


「わたしも同じ勘です」


 二人の女の勘が一致した。偶然を否定する根拠にはならないが、無視もできない。


「ベアトリス様。エルヴィンの家族関係は分かりますか」


「父親は辺境伯領の農民。母親は——不明よ。記録がないの」


「記録がない」


「ええ。まるで、意図的に消されたかのように」


 消された記録。コレット・ハイデンの追放と同じ匂いがする。


「ベアトリス様。もう一つ。辺境伯の私兵団の中で、ヴェルナーという男をご存知ですか」


「ヴェルナー? 名前だけなら聞いたことがあるわ。辺境伯の古い従者で、社交界には絶対に顔を出さない男」


「社交界に出ない理由は」


「正式な身分がないからよ。傭兵あがりの従者は、社交界では門前払い」


「つまり、公式な場には記録が残らない」


「そういうことね」


 ベアトリスが紅茶のカップを回した。考えている。


「ただ、一つ気になることがあるわ」


「何ですか」


「公爵家の晩餐会で、辺境伯が従者について話していたことがあるの。『古い付き合いの男がいる。口が堅くて信頼できる』と」


「辺境伯がわざわざ従者の話を?」


「珍しいことよ。だからこそ覚えていたの。辺境伯が信頼を口にする相手は——ほとんどいないわ」


「ヴェルナーは辺境伯にとって特別な存在だということですね」


「右腕に近い立場。社交界に出せないのは——出せない仕事を任されているからよ」


「出せない仕事」


「暗い仕事。——あの男が、あなたの追っている犯人?」


「実行犯の可能性があります」


 ベアトリスの翡翠の瞳が鋭くなった。


「フラウ。辺境伯の右腕を追うということは、辺境伯本人を敵に回すということよ」


「覚悟しています」


「覚悟だけでは足りないわ。計画が必要よ」


「分かっています。一人では動きません」


「当然よ。——さっさと犯人を捕まえて、定時に帰りなさい」


 わたしは思い返した。エルヴィンは常に沈黙していた。ヘルマンの裏切りが発覚したときも、表情を変えなかった。


 だが、ヘルマンが退室した後——エルヴィンは窓の外を見つめていた。あの横顔には、何の感情もないように見えた。


 いや。感情がなかったのではなく——抑え込んでいたのか。


「ベアトリス様。エルヴィンが辺境伯領出身であるという情報の出元は」


「公爵家の人事記録よ。貴族家の従者や側近の出自を調べるのは、社交界では常識なの」


「なぜ、今になってこの情報を?」


「あなたが辺境伯を追い始めたからよ。関連する人間を洗い出すのは当然でしょう」


「ベアトリス様自身は、エルヴィンをどう見ていますか」


「社交界では目立たない男ね。わたくしのパーティーに殿下が出席されたとき、エルヴィンは隅で壁に溶け込んでいたわ」


「壁に溶け込む」


「存在感を消すのが上手いの。それは——訓練されているか、あるいは本能的に身を隠す癖がある人間の特徴よ」


 ベアトリスの分析は鋭い。この女性はただの令嬢ではない。


「ありがとうございます。大きな手がかりです」


 ベアトリスが扇を開いた。口元を隠す。


「フラウ。気をつけなさい。あなたの隣にいる人間が、全員味方とは限らないわ」


 隣にいる人間。側近室で、毎日わたしの隣で書類を整理していた男。


 エルヴィンは——何者なのだ。


 宿舎に戻り、手帳を膝の上に広げた。


『ヴェルナー:辺境伯の私兵。前世の殺害の実行犯(紋章一致・九割)。


指示者は不明。』


『エルヴィン:クラインベルク辺境伯領出身。第二側近として殿下の傍にいる。


ヘルマンの裏切りを知っていた可能性。辺境伯との関係を調査する必要あり。』


 ペンを置いた。


 エルヴィンが敵だとしたら——殿下は、二人の側近に裏切られたことになる。


 それだけは、避けたい。推しをこれ以上傷つけたくない。


 ——だが、真実から目を逸らすわけにはいかない。


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