第22話 辺境伯の影
調査には二種類ある。記録を追うものと、人を追うもの。
記録は嘘をつかないが、人は嘘をつく。だからこそ、両方が必要だ。
辺境伯クラインベルクの私兵団について、トビアスが情報を持ってきた。
「フラウ。辺境伯の私兵団、調べてきた」
「早いね」
「騎士団の中にも辺境伯領の出身者がいるんだ。三人ほど。そいつらの故郷の話を聞く名目で、酒場で聞き込んだ」
「お酒は大丈夫だった?」
「俺は強い方だ。問題はあいつらも強かったことだが」
後頭部を掻く手が、いつもより重い。
トビアスが周囲を確認してから、声を落とした。
「私兵団は約五十名。領地の警備が名目だが、実態は宰相府の指示で動く非公式部隊だ」
「五十名。小さな軍隊ですね」
「ああ。しかも練度が高い。元傭兵を集めてるから、正規の騎士より実戦慣れしてる奴もいる」
「騎士団で対抗できますか」
「正面からやれば勝てる。だが、あいつらの得意分野は正面戦じゃない」
「暗殺や潜入か」
「そうだ。だから厄介なんだ」
「非公式?」
「王宮の記録には存在しない。辺境伯が個人的に雇った傭兵が母体で、宰相府が資金を出している」
「資金の出元は特別予備費ですね」
「だろうな。金の流れまでは掴めんが」
わたしは手帳に書き留めた。
「トビアス。もう一つ。私兵団の中に、王宮に出入りしている人間はいるか」
「いる。三名ほど、定期的に王宮に来ている。名目は辺境伯への連絡役だが——」
「実際は?」
「宰相府に直接報告している。外交局や騎士団を通さずに」
宰相府への非公式な報告ライン。マルグリット、オルランド、ダリウスに続く、もう一つの経路だ。
「その三名の顔と名前は分かる?」
「顔は見たことがある。名前は——一人だけ分かった。ヴェルナーという男だ」
「ヴェルナー」
「四十代半ば。元傭兵だ。寡黙で目立たない」
「だが、騎士団の中では評判が悪い」
「なぜ?」
「『目が死んでいる』と。仕事をする人間の目じゃなくて、仕事を"こなす"人間の目だと。俺も一度すれ違ったことがあるが——あの目は、人を殺したことのある目だ」
「殺したことのある目」
「騎士団で長くやってれば、分かるんだ。戦場で人を斬った人間と、暗がりで人を殺した人間の目は違う」
トビアスの顔が真剣だった。後頭部を掻く余裕もない。
「フラウ。あの男には近づくな。俺が観察する」
「ありがとう。でも、確認しなければならないことがあるの」
「何だ」
「袖口の紋章。前世で最後に見た——犯人の紋章と一致するかどうか」
「それは……お前じゃないと確認できないのか」
「わたし以外に、前世の記憶はありません」
トビアスが唸った。
「分かった。だが、距離は保て。俺がそばにいる」
「ありがとう」
「礼はいい。——フラウ、お前が殺されたら、殿下が俺を殺す。それだけは勘弁してくれ」
冗談なのか本気なのか。たぶん、両方だ。
「どんな評判?」
「『目が死んでいる』と。仕事をする人間の目じゃなくて、仕事を"こなす"人間の目だと」
仕事をこなす人間。命じられたことを、感情なく実行する人間。
前世で路地裏に立っていた人影を思い出した。暗がりの中で、こちらを見つめていた目。あの視線には——感情がなかった。
もしヴェルナーが、前世のわたしを殺した実行犯だとしたら。
「トビアス。ヴェルナーが次に王宮に来る日は分かるか」
「三日後だ。辺境伯の定期連絡に合わせて来る」
「分かった。——殿下に報告する」
◇
退勤後、閲覧室で殿下に報告した。
「辺境伯の私兵団。非公式部隊で、宰相府が資金を出しています」
殿下が資料を受け取った。
「王宮に定期的に出入りしている連絡役が三名。うち一名はヴェルナーという元傭兵です」
「ヴェルナー。聞いたことがない名前だ」
「王宮の公式記録には存在しません。辺境伯の個人的な従者という扱いで出入りしています」
「記録にない人間が、王宮を自由に歩いている。それ自体が問題だ」
「はい。騎士団の入門記録にも名前がない。顔パスで通されている状態です」
「トビアスに入門管理の強化を指示する」
「はい。そしてこの男が——前世のわたしを殺した実行犯である可能性があります」
殿下がわたしを見た。
「根拠は」
「前世で殺されたとき、犯人の動きには感情がありませんでした。訓練された人間の動作です。傭兵の経歴と一致します」
「傭兵が平民の女を殺す動機は」
「自分の判断では殺しません。誰かの指示です」
「指示者は辺境伯か」
「可能性が高いです。ただし——」
「確証がない」
「はい。確証を得るには、ヴェルナーの袖口を確認する必要があります」
「袖口?」
「前世で最後に見たのは、犯人の袖口の紋章です。直線的で幾何学的なデザイン。辺境伯家の紋章に酷似しています」
「ヴェルナーが同じ紋章を身につけていれば——」
「状況証拠がもう一つ増えます」
「お前が直接確認するのは危険だ」
「分かっています。だから——」
「三日後の定期連絡に、私が同席する。その場でヴェルナーを観察する」
「殿下が?」
「辺境伯の定期連絡に王太子が立ち会うのは不自然ではない。東方交渉の件もある」
「かしこまりました」
殿下が頷いた。
「三日後。——私も同席する」
「殿下が?」
「辺境伯の定期連絡に、王太子が立ち会うのは不自然ではない。その場でヴェルナーを観察する」
「かしこまりました」
三日後。辺境伯の定期連絡の場に、殿下とわたしが陪席した。表向きは「東方交渉の進捗確認」だ。
会議室に入る前、殿下がわたしの横に立った。
「フラウ。呼吸を整えろ」
「整えています」
「嘘だ。手が震えている」
袖の中で拳を握り直した。
「大丈夫です。観察に集中します」
「観察だけだ。声をかけるな。目を合わせるな」
「はい」
「もし——あの男が前世の犯人だと確信しても、この場では動くな」
「分かっています」
「分かっているなら、拳を緩めろ。爪が手のひらに食い込んでいる」
殿下は——いつからわたしの手を見ていたのだ。
拳を緩めた。殿下の存在を背中に感じる。それだけで、少し楽になった。
ヴェルナーは辺境伯の後ろに控えていた。四十代半ばの男。
痩身。表情がない。
目が——確かに、死んでいた。トビアスの情報通りだ。
この男は、人を殺すことに何の感情も持たない。命じられたことを実行するだけの機械のような男。
前世の路地裏で、この目がわたしを見下ろしていたのかもしれない。
わたしはヴェルナーの袖口を見た。辺境伯家の従者服。袖口には——辺境伯家の紋章。
直線的で、幾何学的なデザイン。
呼吸が止まった。
前世で見た紋章と——同じだ。
手が震えた。膝が震えた。殿下が隣にいなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。
殿下の手が、机の下でわたしの手に触れた。一瞬だけ。それだけで、呼吸が戻った。
会議が終わるまでの残り時間が、永遠のように感じた。
◇
退勤後、閲覧室で殿下に報告した。
「確認できたか」
「はい。ヴェルナーの袖口の紋章。前世で見たものと同じです」
「確実か」
「九割。暗闇の中の記憶なので、一割の不確実性は残ります」
「お前の手が震えていた。九割ではなく、もっと高いだろう」
「……はい。感情を排すれば、九割五分です」
「それなら十分だ」
殿下がペンを取った。
「次の一手を考えよう。ヴェルナーは実行犯であって、指示者ではない」
「傭兵は自分の判断で動きません。誰かの命令です」
「指示者は辺境伯か」
「可能性が最も高い。ただし、宰相府を経由している可能性も排除できません」
「宰相が関与しているかどうか——それが問題だ」
「はい。宰相が指示したのか、辺境伯が独断で動いたのか。この区別が、今後の調査の分岐点になります」
「どちらの場合でも、ヴェルナーの身柄を確保する必要がある」
「トビアスに協力を頼みます」
「ヴェルナーを追い詰めると、辺境伯に警戒される」
「はい。だから、今は泳がせます。次の定期連絡で、もう一度接近する機会を作ります」
殿下が頷いた。
「フラウ。一つ聞く」
「はい」
「前世の犯人を目の前にして——どう感じた」
わたしは正直に答えた。
「殺したいとは思いませんでした。ただ——真実が知りたいと思いました」
「真実」
「なぜわたしが殺されなければならなかったのか。誰がそう決めたのか。それを知るまでは、終われません」
「……お前は、強いな」
「強くありません。殿下が隣にいたから、立っていられただけです」
殿下は何も言わなかった。だが、ペンの回転が——少しだけ、穏やかになった。
——見つけた。犯人の手がかりを。




