表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/30

第20話 ぶふぉの正体


隠し続けた秘密は、いつか自分の口から漏れるか、他人の手で暴かれるか。どちらかしかない。


その夜は、いつもと同じはずだった。退勤後の閲覧室。


燭台の灯り。古い本の匂い。


 殿下が対面に座り、わたしが資料を広げる。この一月で何十回と繰り返した光景だ。


 だが、今夜は——終わりの始まりだった。


 退勤後の閲覧室。殿下とわたし。二十五年前の記録を追う作業。


 ヴィルヘルミナが新たに見つけてくれた資料があった。二十五年前の宮廷歌劇団の公演記録だ。


「殿下。この記録に、コレット・ハイデンの最後の公演が載っています」


「演目は」


「『蒼穹の王子』です。架空の王国を舞台にした歌劇で——」


 わたしの手が止まった。ページを繰る指先が、凍ったように動かない。


 言葉が途中で止まった。


 『蒼穹の王子』。『蒼穹のセレスティン』。


 前世でわたしが読んでいた物語は、二十五年前の宮廷歌劇が原作だったのか。


 ——待って。前世の世界と、この世界の繋がり。コレット・ハイデンが作った歌劇が、前世の世界に「物語」として存在していた。


 頭が回転する。指先が冷たくなる。


 前世で読んでいた物語が、この世界の宮廷歌劇を原作にしていた。前世の母がその歌劇の歌姫だった。


 つまり——コレット・ハイデンの娘であるわたしは、母の作った物語の世界に転生したことになる。


 偶然ではない。何かの意志が、わたしをここに送り込んだ。


「フラウ?」


「……すみません。少し、驚いて」


「何に驚いた」


「この演目名です。『蒼穹の王子』。わたしが——」


 止まれ。ここで言ったら全部バレる。


「……わたしが以前読んだことのある物語と、題名が似ていたので」


 殿下の目がわたしを捉えた。紫の瞳が、燭台の灯りの中で深い色をしている。


「フラウ。お前は、この世界の外にある物語を知っているのか」


 心臓が止まった。


「——殿下、それは」


「前から気になっていた。お前は時折、まるでこの世界を知っているかのように動く。王宮の構造も、人間関係の力学も、初任の側近にしては理解が早すぎる」


 殿下が椅子から立ち上がった。わたしに向き直る。


「お前の呼吸は嘘をつくと浅くなる」


 殿下が一歩、近づいた。


「手帳を書くときの集中力は、何かを記録しているのではない。何かを思い出している人間の動きだ」


「それは——」


「侍女長の横領に気づいたとき、お前は驚いていなかった。まるで結果を知っていたかのように動いた。オルランドのときも、ダリウスのときも——お前は常に、答えを知っている人間のように振る舞っていた」


 全部見られていた。推しの観察力を甘く見ていた。


「そして——あの声」


「声?」


「『ぶふぉ』。お前がときどき漏らすあの声だ」


 殿下が一歩、近づいた。


「最初は癖だと思っていた。だが、あの声が出るのは決まって——私が何かをしたときだ」


 わたしの息が止まった。


「私が書類を褒めたとき。私の手がお前に触れたとき」


 殿下の紫の瞳が、燭台の灯りに揺れた。


「全部、あの声が出る」


 殿下の紫の瞳が、真っ直ぐわたしを見下ろしている。


「フラウ。お前は何者だ」


 沈黙が落ちた。閲覧室の燭台が、かすかに揺れている。


 逃げられない。嘘をつける状況ではない。


 殿下の紫の瞳が、燭台の灯りを映している。その中にわたしの顔が映っている。コレットではなく、フラウの顔。


だが、この身体の中にいるのは——コレットだ。パン工房の娘。


推しに恋した読者。路地裏で殺された女。


 殿下の前で、もう嘘は通じない。


 わたしは、深呼吸をした。一回。二回。


 そして、口を開いた。


「殿下。わたしは——転生者です」


 声が震えた。でも、止めなかった。


「前世では、コレットという名前の平民でした。パン工房で働いていました。婚約者に捨てられて、路地裏で何者かに刺されて死にました」


 殿下は無表情だった。だが、指先がわずかに動いている。


「死の間際に、犯人の袖口に王宮の紋章が見えました。そして——目覚めたら、この世界でフラウとして生きていました」


「この世界を知っていた理由は」


「前世で読んでいた物語です。『蒼穹のセレスティン』という本」


 わたしは呼吸を整えた。


「殿下が主人公の物語でした。それが——二十五年前の歌劇と繋がっている」


 殿下は黙ったまま、わたしを見つめていた。


 紫の瞳に、何の感情が浮かんでいるのか読めない。


 殿下は長い間、何も言わなかった。燭台の灯りが揺れるたびに、紫の瞳の色が変わる。


 怒りではない。困惑でもない。何か——計り知れないものが、あの瞳の奥で動いている。


「……つまり、お前は」


「はい」


「最初から——私を知っていた」


「はい。殿下は、わたしの推しでした」


「推し」


「尊敬し、憧れ、応援している存在のことです。物語の中の殿下に、わたしは救われていました」


 長い沈黙。


殿下がペンを手に取った。回し始めた。


苛立ちの回転ではない。もっとゆっくりとした、考え込むときの回転。


「お前が定時退勤にこだわる理由は」


「前世では、自分の時間がなかったからです。すべてを他者に捧げて、最後は殺されました。今度は——自分の時間を守りたかった」


「お前がダリウスに個人的な感情を持っていた理由は」


「前世の婚約者です。わたしを捨てた男でした」


「お前が犯人を追っている理由は」


「前世で殺されたからです。殺した人間が、この王宮にいる」


 殿下がペンを止めた。机の上に、静かに置く。


「……フラウ」


「はい」


「お前が転生者であることは、信じる」


 息を吸い込んだ。


「だが、一つだけ聞く」


「何でしょうか」


「お前が私に仕えてきたのは——『推し』だからか。それとも、私という人間を見た上での判断か」


 その問いに、わたしは迷わなかった。


「最初は推しだったかもしれません。でも今は——殿下という人間を見ています」


 言葉が詰まりかけた。でも、続けた。


「冷徹に見えて、部下の字を褒める人。正しいことのために、孤独に戦い続ける人」


 喉が震えた。でも、目は逸らさなかった。


「わたしは殿下のファンではなく、殿下の側近です。それだけは——嘘じゃありません」


 殿下が、長い間わたしを見つめていた。


 やがて、静かに言った。


 殿下がペンを手に取った。回し始めた。苛立ちでも考え込みでもない、新しい回転だ。


 ゆっくりと、確かめるように。


「——明日も、定時で帰れ。調査は続ける」


 それだけだった。


 いつもと同じ言葉。いつもと同じ口調。


 だが、その中に——新しい温度があった。転生者だと知った上で、日常を否定しないという選択。


 それは、わたしがこの世界で受け取った、最も温かい言葉だった。


 閲覧室を出て、廊下を歩く。膝が震えている。目の奥が熱い。


涙が出そうだった。でも、泣かない。


前世のわたしは泣けなかった。今のわたしは、泣く代わりに——歩く。


 一歩、一歩。宿舎までの廊下が、今夜は長い。


 秘密を明かした。推しに、全部話した。


 怒られるかもしれない。信頼を失うかもしれない。


 でも、殿下は言ってくれた。「定時で帰れ」と。いつもと同じ言葉を。


 わたしの日常を、否定しなかった。


 宿舎に戻った。ベッドに腰を下ろし、手帳を膝の上で開いた。


『殿下に転生を告白。すべてを話した。


殿下は信じてくれた。「定時で帰れ」と言ってくれた。』


 ペンが止まった。もう一行書きたいが、うまく言葉にならない。


 結局、書いたのはこれだけだった。


『ぶふぉ。(泣きそうな方の)』


 ——明日から、何が変わるのだろう。何も変わらないのだろうか。


 分からない。でも、一つだけ確かなことがある。


 わたしはもう、殿下に嘘をつかなくていい。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

第2章完結となります!!

もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ