第20話 ぶふぉの正体
隠し続けた秘密は、いつか自分の口から漏れるか、他人の手で暴かれるか。どちらかしかない。
その夜は、いつもと同じはずだった。退勤後の閲覧室。
燭台の灯り。古い本の匂い。
殿下が対面に座り、わたしが資料を広げる。この一月で何十回と繰り返した光景だ。
だが、今夜は——終わりの始まりだった。
退勤後の閲覧室。殿下とわたし。二十五年前の記録を追う作業。
ヴィルヘルミナが新たに見つけてくれた資料があった。二十五年前の宮廷歌劇団の公演記録だ。
「殿下。この記録に、コレット・ハイデンの最後の公演が載っています」
「演目は」
「『蒼穹の王子』です。架空の王国を舞台にした歌劇で——」
わたしの手が止まった。ページを繰る指先が、凍ったように動かない。
言葉が途中で止まった。
『蒼穹の王子』。『蒼穹のセレスティン』。
前世でわたしが読んでいた物語は、二十五年前の宮廷歌劇が原作だったのか。
——待って。前世の世界と、この世界の繋がり。コレット・ハイデンが作った歌劇が、前世の世界に「物語」として存在していた。
頭が回転する。指先が冷たくなる。
前世で読んでいた物語が、この世界の宮廷歌劇を原作にしていた。前世の母がその歌劇の歌姫だった。
つまり——コレット・ハイデンの娘であるわたしは、母の作った物語の世界に転生したことになる。
偶然ではない。何かの意志が、わたしをここに送り込んだ。
「フラウ?」
「……すみません。少し、驚いて」
「何に驚いた」
「この演目名です。『蒼穹の王子』。わたしが——」
止まれ。ここで言ったら全部バレる。
「……わたしが以前読んだことのある物語と、題名が似ていたので」
殿下の目がわたしを捉えた。紫の瞳が、燭台の灯りの中で深い色をしている。
「フラウ。お前は、この世界の外にある物語を知っているのか」
心臓が止まった。
「——殿下、それは」
「前から気になっていた。お前は時折、まるでこの世界を知っているかのように動く。王宮の構造も、人間関係の力学も、初任の側近にしては理解が早すぎる」
殿下が椅子から立ち上がった。わたしに向き直る。
「お前の呼吸は嘘をつくと浅くなる」
殿下が一歩、近づいた。
「手帳を書くときの集中力は、何かを記録しているのではない。何かを思い出している人間の動きだ」
「それは——」
「侍女長の横領に気づいたとき、お前は驚いていなかった。まるで結果を知っていたかのように動いた。オルランドのときも、ダリウスのときも——お前は常に、答えを知っている人間のように振る舞っていた」
全部見られていた。推しの観察力を甘く見ていた。
「そして——あの声」
「声?」
「『ぶふぉ』。お前がときどき漏らすあの声だ」
殿下が一歩、近づいた。
「最初は癖だと思っていた。だが、あの声が出るのは決まって——私が何かをしたときだ」
わたしの息が止まった。
「私が書類を褒めたとき。私の手がお前に触れたとき」
殿下の紫の瞳が、燭台の灯りに揺れた。
「全部、あの声が出る」
殿下の紫の瞳が、真っ直ぐわたしを見下ろしている。
「フラウ。お前は何者だ」
沈黙が落ちた。閲覧室の燭台が、かすかに揺れている。
逃げられない。嘘をつける状況ではない。
殿下の紫の瞳が、燭台の灯りを映している。その中にわたしの顔が映っている。コレットではなく、フラウの顔。
だが、この身体の中にいるのは——コレットだ。パン工房の娘。
推しに恋した読者。路地裏で殺された女。
殿下の前で、もう嘘は通じない。
わたしは、深呼吸をした。一回。二回。
そして、口を開いた。
「殿下。わたしは——転生者です」
声が震えた。でも、止めなかった。
「前世では、コレットという名前の平民でした。パン工房で働いていました。婚約者に捨てられて、路地裏で何者かに刺されて死にました」
殿下は無表情だった。だが、指先がわずかに動いている。
「死の間際に、犯人の袖口に王宮の紋章が見えました。そして——目覚めたら、この世界でフラウとして生きていました」
「この世界を知っていた理由は」
「前世で読んでいた物語です。『蒼穹のセレスティン』という本」
わたしは呼吸を整えた。
「殿下が主人公の物語でした。それが——二十五年前の歌劇と繋がっている」
殿下は黙ったまま、わたしを見つめていた。
紫の瞳に、何の感情が浮かんでいるのか読めない。
殿下は長い間、何も言わなかった。燭台の灯りが揺れるたびに、紫の瞳の色が変わる。
怒りではない。困惑でもない。何か——計り知れないものが、あの瞳の奥で動いている。
「……つまり、お前は」
「はい」
「最初から——私を知っていた」
「はい。殿下は、わたしの推しでした」
「推し」
「尊敬し、憧れ、応援している存在のことです。物語の中の殿下に、わたしは救われていました」
長い沈黙。
殿下がペンを手に取った。回し始めた。
苛立ちの回転ではない。もっとゆっくりとした、考え込むときの回転。
「お前が定時退勤にこだわる理由は」
「前世では、自分の時間がなかったからです。すべてを他者に捧げて、最後は殺されました。今度は——自分の時間を守りたかった」
「お前がダリウスに個人的な感情を持っていた理由は」
「前世の婚約者です。わたしを捨てた男でした」
「お前が犯人を追っている理由は」
「前世で殺されたからです。殺した人間が、この王宮にいる」
殿下がペンを止めた。机の上に、静かに置く。
「……フラウ」
「はい」
「お前が転生者であることは、信じる」
息を吸い込んだ。
「だが、一つだけ聞く」
「何でしょうか」
「お前が私に仕えてきたのは——『推し』だからか。それとも、私という人間を見た上での判断か」
その問いに、わたしは迷わなかった。
「最初は推しだったかもしれません。でも今は——殿下という人間を見ています」
言葉が詰まりかけた。でも、続けた。
「冷徹に見えて、部下の字を褒める人。正しいことのために、孤独に戦い続ける人」
喉が震えた。でも、目は逸らさなかった。
「わたしは殿下のファンではなく、殿下の側近です。それだけは——嘘じゃありません」
殿下が、長い間わたしを見つめていた。
やがて、静かに言った。
殿下がペンを手に取った。回し始めた。苛立ちでも考え込みでもない、新しい回転だ。
ゆっくりと、確かめるように。
「——明日も、定時で帰れ。調査は続ける」
それだけだった。
いつもと同じ言葉。いつもと同じ口調。
だが、その中に——新しい温度があった。転生者だと知った上で、日常を否定しないという選択。
それは、わたしがこの世界で受け取った、最も温かい言葉だった。
閲覧室を出て、廊下を歩く。膝が震えている。目の奥が熱い。
涙が出そうだった。でも、泣かない。
前世のわたしは泣けなかった。今のわたしは、泣く代わりに——歩く。
一歩、一歩。宿舎までの廊下が、今夜は長い。
秘密を明かした。推しに、全部話した。
怒られるかもしれない。信頼を失うかもしれない。
でも、殿下は言ってくれた。「定時で帰れ」と。いつもと同じ言葉を。
わたしの日常を、否定しなかった。
宿舎に戻った。ベッドに腰を下ろし、手帳を膝の上で開いた。
『殿下に転生を告白。すべてを話した。
殿下は信じてくれた。「定時で帰れ」と言ってくれた。』
ペンが止まった。もう一行書きたいが、うまく言葉にならない。
結局、書いたのはこれだけだった。
『ぶふぉ。(泣きそうな方の)』
——明日から、何が変わるのだろう。何も変わらないのだろうか。
分からない。でも、一つだけ確かなことがある。
わたしはもう、殿下に嘘をつかなくていい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第2章完結となります!!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




