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第2話 推しの横顔と殺意の残り香

世の中には、朝から心臓に悪い光景というものがある。たとえば、窓辺に立つ推しの横顔など。


 側近室に足を踏み入れた瞬間、わたしの足が止まった。


 銀灰色の髪が朝日を受けて淡く光っている。深い紫の瞳が書類に落とされ、薄い唇がわずかに引き結ばれている。ペンを指先で回す癖は、何かに不満があるときのサインだ。


 セレスティン殿下。推し。物語の中でしか見たことのなかった存在が、三歩先に立っている。


 息を吸うのを忘れた。


「……遅い。フラウ、始業は七の刻だ」


 殿下の声は低くて平坦で、感情の色がない。それがいい。そこがいい。この温度のない声に、わたしは前世で何度胸を焦がしたことか。


「申し訳ございません、殿下。以後、気をつけます」


 声が裏返らなかったのは奇跡だ。心の中では「ぶふぉ」が三十回ほど連打されている。


 殿下が一瞬だけこちらを見た。紫の瞳がわたしを捉えて、すぐに書類に戻る。品定めするような視線ではなく、ただ確認しただけ。道具の動作確認に近い。


 それでいい。側近とはそういうものだ。推しの道具であることに、わたしは何の不満もない。


 フラウの記憶によれば、第三側近の仕事は主に書類整理と伝達だ。第一側近が政務補佐、第二側近が外交連絡、そしてわたしが雑務。地味だが、目立たず動けるという意味では、犯人捜しには都合がいい。


「本日の予定を」


「はい。午前は枢密会議の資料確認、午後はクラインベルク辺境伯との面会です」


 フラウの記憶を頼りに淀みなく答えた。殿下は頷きもしない。ただペンの回転が止まったのが、了承の合図だとフラウの記憶が教えてくれた。


 ——推しの仕草を間近で観察できるこの環境、控えめに言って天国では。


 いや。天国に浮かれている場合ではない。


 今朝、身支度を整えながら、わたしは前世の最後の記憶を何度も反芻した。路地裏、暗闇、光る刃物。そして——犯人の袖口にあった紋章。


 あの紋章は、間違いなく王宮のものだった。ただし、どの部署の紋章かまでは暗がりで判別できなかった。王宮の紋章は部署ごとに微妙にデザインが異なる。騎士団、侍女部、文官室、側近室——それぞれに固有の刺繍パターンがある。


 つまり、犯人を特定するには、王宮内の全部署の紋章を確認する必要がある。


 そして、その人物がなぜ前世のコレットを——パン工房で働く平凡な平民を殺す必要があったのかを、突き止めなければならない。


「フラウ」


 殿下の声にびくりとした。


「枢密会議の資料、三部不足している」


「確認いたします」


 背筋を正して、書庫に向かう。側近としての仕事をこなしながら、犯人を追う。二足のわらじだが、まずは目の前の業務だ。信頼を失ったら、王宮内を自由に動くこともできない。


 書庫へ向かう廊下で、すれ違った人々を観察した。騎士、侍女、文官。全員の袖口に紋章がある。それぞれ微妙にデザインが異なるが、遠目では区別がつかない。近くで見比べないと。


「あの、失礼します」


 声をかけられて振り向くと、小柄な侍女が立っていた。丸顔にそばかす。スカートの裾をぎゅっと握っている。


「わたし、ニナと申します。王太子殿下付きの侍女で……今日からフラウ様と同じ区画の担当になりまして」


「フラウでいいよ。様はいらない」


「えっ、でも、側近様に……」


「わたしも平民出身だから。堅苦しいのは苦手なの」


 ニナは少し目を丸くしてから、ほっとしたように微笑んだ。


「では、フラウさん。よろしくお願いします」


 よろしく、と返しながら、わたしはニナの袖口を見た。侍女部の紋章。銀糸で薔薇の蔓を模した刺繍。


 ——これではない。


 前世で見た紋章は、もっと直線的なデザインだった。薔薇の蔓ではなく、何か幾何学的な模様。


 一つ、除外。先は長い。


 書庫で不足資料を見つけて側近室に戻ると、殿下はまだ同じ姿勢で書類を読んでいた。ペンは回っていない。集中しているときは回さないのだ。


 資料を殿下の机に置く。殿下の指先が資料の端をめくる。その仕草すら美しいのだから、もう罪だと思う。


「午前の公務が終了しましたら、お茶をお持ちします」


「不要だ」


「かしこまりました」


 不要。その二文字にすら萌える自分が怖い。重症だ。


 午前の公務は滞りなく進んだ。フラウの記憶のおかげで業務自体に困ることはないが、細かい王宮の慣習までは記憶に残っていない部分もある。即興で対応しながら、それらしく振る舞う。


 側近室には第一側近のヘルマンと、第二側近のエルヴィンもいるが、二人ともわたしに関心がない。第三側近は「雑務係」であって、上二人とは扱いが違うのだ。


 それもまた、都合がいい。目立たない存在であるほど、自由に動ける。


 午後、辺境伯との面会を陪席した。殿下は寡黙だが、要所で的確な質問を挟む。辺境伯が言葉を濁した瞬間を見逃さず、静かに核心を突く。


 ——推しの有能さを至近距離で拝める贅沢。控えめに言って、この転生は最高なのでは。


 面会が終わり、殿下が退室し、陪席者が散っていく。


 時計を見た。


 五の刻。退勤時刻だ。


 わたしは書類を閉じ、筆記具を片付け、席を立った。


「フラウ、どこへ行く」


 第一側近のヘルマンが眉を上げた。白髪混じりの壮年の男で、殿下への忠誠心は厚いが、融通が利かない。


「退勤です」


「まだ明日の資料整理が残っているが」


「定時ですので」


 ヘルマンの眉が更に上がった。王宮の側近が定時退勤するなど、前代未聞らしい。フラウの記憶にも、側近が定時で帰った事例はない。


「殿下の側近として——」


「定時退勤は権利です。では、失礼いたします」


 振り返らずに側近室を出た。背中にヘルマンの困惑した視線を感じるが、気にしない。


 退勤後の時間は、わたしにとって命懸けの調査時間なのだ。残業している暇はない。


 廊下を歩きながら、今日一日で観察した情報を整理した。


 王宮内で見かけた紋章のうち、前世で見た「直線的で幾何学的なデザイン」に近いものが二つあった。


 一つは、財務局の紋章。


 もう一つは——宰相府の紋章。


 どちらも確認が必要だ。明日、業務の合間にもう少し近くで見てみよう。


 退勤ルートを歩いていると、通りかかった回廊の奥に、人影が見えた。


 夕暮れの回廊に、銀混じりの黒髪をきっちりまとめた女性が立っている。その背後に、もう一人。若い侍女——顔は見えないが、肩が震えている。


「——あなたが失くしたのではないですか」


 銀混じりの髪の女性の声は冷ややかだった。どこかで聞いた声だ。フラウの記憶が引き出される。侍女長、マルグリット。


「違います、マルグリット様。わたしは確かに所定の場所に——」


「言い訳は結構。始末書を提出なさい。それと、今月の賃金から差し引きます」


 若い侍女の肩が一段と震えた。


 わたしは足を止め、柱の影から様子を窺った。介入するつもりはない。今のわたしに、侍女長に逆らう権限はないし、初日から波風を立てるのは愚策だ。


 だが、目と耳は使える。


 マルグリットが去ったあと、若い侍女がしゃがみこんで顔を覆った。その侍女の肩に見覚えがあった。


 ニナだ。


 朝、挨拶してくれた、あの侍女。


 声をかけるべきか迷ったが、今は調査が優先だ。それに、他人の問題に首を突っ込む余裕は——


 足が勝手に動いていた。


「ニナ」


 ニナが顔を上げた。目が赤い。


「フラウ、さん……」


「何を失くしたの」


「備品の鍵です。でも、わたしは確かに返却したんです。返却記録にも——」


 ニナの声が詰まる。


 返却記録があるのに、紛失の責任を問われている。それは、記録が改ざんされたか、鍵が返却後に持ち出されたか、どちらかだ。


 ……初日から、きな臭い話が転がり込んできた。


「ニナ。明日の朝、その返却記録を見せてもらえる?」


「え?」


「調べてみたいことがあるの」


 ニナは戸惑いながらも、小さく頷いた。


 宿舎に戻る道すがら、わたしは考えた。


 侍女長マルグリットの不自然な叱責。紛失した鍵。改ざんされたかもしれない記録。


 それが前世の殺害事件と関係があるかは分からない。だが、王宮内の不正の糸口にはなるかもしれない。不正を辿れば、人間関係が見えてくる。人間関係が見えれば、犯人に近づける。


 部屋に戻り、窓を開けた。夜風が頬を撫でる。


 今日一日で分かったこと。


 推しは生で見ると致死量の美しさだということ。


 定時退勤は命を賭けてでも守る価値があるということ。


 そして——この王宮には、わたしを殺した人間がいるということ。


 ベッドに腰を下ろし、枕元の小さなランプを灯した。


 フラウの持ち物の中に、白紙の手帳があった。これを使おう。


 最初のページに、今日の観察結果を書き込んだ。


『犯人の手がかり:王宮紋章、直線的・幾何学的デザイン。候補:財務局、宰相府。要確認。』


『不審点:侍女長マルグリットによる不自然な鍵紛失の処理。ニナが標的か。背景を調査する。』


 手帳を閉じて、ランプを消した。


 暗闇の中で、天井を見つめる。


 殿下の横顔が脳裏に浮かんだ。あの紫の瞳。ペンを回す指先。「不要だ」と言い切る低い声。


「……ぶふぉ」


 小さく呟いて、毛布を頭まで被った。


 推しの傍で働ける幸福と、殺人犯を追う恐怖が、胸の中で奇妙に共存している。


 明日もまた、推しの顔を見て、犯人を追って、定時に帰る。


 そんな日々が始まるのだと思うと——怖いのに、少しだけ心が躍った。


 手帳の二ページ目に、もう一つだけ書き足す。


 ランプを再び灯し、短い一文を記した。


『侍女長の鍵束——本数を数えること。』


 手帳を枕の下に滑り込ませて、今度こそ目を閉じた。



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