第18話 推しの手は思ったより温かい
信頼が深まるとき、人は無意識に距離を詰める。歩幅が揃い、呼吸が合い、隣にいることが自然になる。
ヘルマンの解任から三日。側近室は第二側近エルヴィンとわたしの二人体制になった。
業務量は増えたが、不思議と回っている。殿下がわたしに任せる範囲が広がったからだ。
「フラウ。午後の枢密会議の資料、お前が作成しろ」
「かしこまりました」
第一側近の仕事だ。以前のわたしには回ってこなかった業務。殿下の信頼が、一段上がった証拠。
ヘルマンがいた席は、空のままだ。殿下はそこに別の椅子を置かせようとしなかった。空席を残すことが、殿下なりの弔いなのかもしれない。
「フラウ。ヘルマンの担当だった予算関連の書類も引き継げ」
「かしこまりました。書類の保管場所は」
「ヘルマンの机の——」
殿下の声が一瞬止まった。空席を見つめている。
「……左の棚だ」
「承知しました」
殿下は感情を見せない。だが、空席に目を向けるたびに——ペンの回転が遅くなる。
「エルヴィン。書簡の整理を頼む」
「承知しました」
エルヴィンが短く答えた。この男は必要最低限しか話さないが、仕事は正確だ。ヘルマンが去った後も動揺した様子はない。
——あるいは、動揺を見せないことに長けているのか。
午後の枢密会議。議題は東方交渉。ダリウスが報告に立つ。
「東方諸国との通商交渉は順調に進行しております。来月にはクラインベルク辺境伯領を経由した新規ルートの開設が——」
殿下の指が、微かに動いた。わたしへの合図。
「ダリウス殿。新規ルートの開設について、一点確認があります」
わたしが声を上げた。会議室の視線が集まる。
「辺境伯領経由の物流ルートは、先日の財務局監査で不正利用が確認されたルートと同一です。再利用のリスク評価は行われていますか」
会議室の空気が変わった。枢密院の老臣たちが、わたしに視線を向ける。平民の側近が発言すること自体が珍しいのだ。
ダリウスの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「もちろん、リスクについては検討済みです」
「辺境伯領経由のルートは、財務局の監査で不正が確認されています。同一ルートの再利用は、再発リスクの観点から枢密院の承認が必要です」
「それは——」
「規定です。殿下、よろしいでしょうか」
殿下が頷いた。
「フラウの指摘は妥当だ。ダリウス、具体的な検討資料の提出を求める。次回の会議までに」
ダリウスの碧い目がわたしを捉えた。初めて、警戒の色が浮かぶ。
「……承知しました」
会議後。廊下でダリウスに呼び止められた。
「フラウ殿。先ほどの質問だが」
「はい」
「少し踏み込みすぎではないかね」
「殿下の指示です」
ダリウスの手が襟元に伸びかけた。不利な状況で無意識に襟を正す癖。前世と同じだ。
「そうか。殿下の指示なら仕方ない」
「ダリウス様。一つお伝えしておきます」
「何だい」
「この王宮では、規定違反は必ず記録に残ります。どなたの庇護があっても、記録は消えません」
ダリウスの微笑みが消えた。碧い目が、初めて冷たくなる。
「忠告として受け取っておくよ」
ダリウスが一歩、近づいた。声がさらに低くなる。
「だが、フラウ殿。この王宮で長く生き残りたいなら——敵を選んだ方がいい」
「敵を選ぶ必要はありません。不正を行う人間が敵になるだけです」
ダリウスの碧い目が、わたしを射抜いた。
「君は——昔、誰かにそう教わったのか」
心臓が止まりそうになった。「昔」。この男は何を言っている。
「いいえ。自分で学びました」
「そうか。——フラウ殿」
「はい」
「君は、誰のために動いている?」
「殿下のためです」
「本当に?」
「本当に」
ダリウスが黙って踵を返した。襟元を正す手が、無意識に動いている。
わたしはその背中を見送った。金髪が廊下の灯りに揺れている。
前世では、この男の背中を追いかけていた。レモンの焼き菓子を持って、伯爵邸の門をくぐるたびに。
今は追いかけない。追い詰める側に、わたしはいる。
——追い詰められている。自覚があるのかないのか。
◇
退勤後、閲覧室に向かう廊下で、殿下と鉢合わせた。
また退勤ルートで偶然を装っている。もう指摘しない。殿下がわたしの退勤ルートを覚えていること自体が、嬉しいから。
「フラウ。今日の会議、見事だった」
「殿下の合図があったからです」
「合図に応えられる人間は少ない。ヘルマンにも、それはできなかった」
ヘルマンの名前が出るたび、殿下の声が微かに揺れる。まだ痛みが残っている。
「殿下。ヘルマン殿は、悪い人ではありませんでした」
「分かっている。——だが、もう隣にはいない」
「……はい」
並んで歩く。最初は三歩後ろだった距離が、いつの間にか半歩になっている。
閲覧室への階段を上るとき、わたしの足が段差で滑った。
咄嗟に伸びてきた手が、わたしの腕を掴んだ。
殿下の手だ。
温かい。想像していたよりずっと温かい。冷徹で完璧主義な推しの手が、こんなに温かいなんて。
殿下の手が、わたしの腕を掴んでいる。引き上げる力。温かい体温。
距離が近い。殿下の服の香り——白檀に似た、上品な匂い。転生した朝に嗅いだのと同じ匂いだ。
「——大丈夫か」
「はい。ありがとうございます」
「足元は見ろ。側近が階段で転んでは示しがつかない」
「……申し訳ございません」
殿下の手が離れた。その指先が、一瞬だけ躊躇するように空を泳いだ。
わたしの腕に、殿下の手の温度が残っている。じんわりと、骨の奥まで染みるような温かさ。
「……ぶふぉ」
小さく漏れた。
「フラウ。今、何か言ったか」
「いいえ。何も」
「嘘だな」
殿下の声が、少しだけ柔らかい。
「お前の呼吸が変わった」
「気のせいです」
「お前の『気のせい』は、だいたい嘘だ」
殿下の唇が微かに上がった。からかっているのか、本気なのか。
閲覧室に入り、調査を始めた。だが、腕に残る温度が気になって、資料の文字が頭に入らない。
手帳を膝に乗せたが、ペンが動かなかった。
調査の進捗は書ける。ダリウスの会議での反応、ベアトリスの情報、ニナの報告。
でも、殿下の手の温かさは書けない。書いた瞬間に、それは調査メモではなくなる。
——推しの手は温かい。これは調査メモには書けない。
だが、忘れることもできない。




