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第17話 裏切りの温度

信頼とは、壊れるまでその脆さに気づけないものだ。


 ヘルマンは、二十年間殿下に仕えてきた側近だ。殿下が子供の頃から傍にいた。


 わたしが着任してからも、ヘルマンは丁寧だった。書類の書式を教えてくれたし、殿下の予定の立て方も指導してくれた。無愛想だが、仕事に真摯な人だ。


 ——だからこそ、この異変は見逃せなかった。


 気づいたのは、朝の側近室でのことだった。


 第一側近ヘルマンが、わたしの机の上を整理していた。普段は自分の業務以外に手を出さない男が、わたしの机に触れている。


「ヘルマン殿。何をされていますか」


「昨日の会議資料の整理だ。お前の分類が雑だったのでな」


 嘘だ。わたしの分類は殿下にも褒められている。


 ヘルマンの手が震えていた。書類を持つ指先が、微かに揺れている。


 ——これは、後ろめたさの震えだ。


 だが、追及はしなかった。今はまだ、泳がせる。


 退勤後、わたしは側近室に戻った。鍵を使い、自分の机を確認する。


 引き出しの中。書類の順番が変わっている。上から三枚目と四枚目が入れ替わっている。


 ヘルマンは、わたしの調査メモを探していた。


 だが、調査メモは手帳に書いている。手帳は常にわたしの身につけている。引き出しには業務書類しかない。


 問題は——誰がヘルマンにそう指示したか。


「トビアス。相談がある」


 翌日の退勤後、回廊でトビアスを呼び止めた。


「ヘルマンが動いている。わたしの机を探っていた」


 トビアスの表情が硬くなった。後頭部を掻く余裕もない。


「ヘルマンは、殿下に二十年仕えてきた側近だぞ」


「だからこそ、です。宰相が『王国のため』という名目で協力を求めたら——忠義心の強い人間ほど断れない」


「忠義心を利用された、と」


「可能性です。確定ではありません」


「利用されているなら、本人に自覚はないかもしれない」


「だが、結果的には殿下の情報が漏れている」


「はい。だからこそ、感情ではなく証拠で判断する必要があります」


「確定させるのか」


「殿下に報告して、判断を仰ぎます」


 トビアスが唸った。


「ヘルマンは……いい人だぞ。少なくとも、俺はそう思っていた」


「いい人だから、利用されるんです」


 殿下に直接報告した。


「殿下。ヘルマン殿がわたしの机を調べていました」


 殿下のペンが止まった。回転が完全に停止する。初めて見る反応だ。


「……確かか」


「書類の順番が変わっていました。業務上の理由はありません」


「引き出しの中の書類は、業務資料のみです。調査に関わる情報は持ち出していません」


「ならば問題ないのでは」


「問題は、探ろうとした行為そのものです。殿下の側近室の情報が、外部に求められている」


「いつからだ」


「宰相が側近室を訪れた翌週からです」


「書類の順番は、わたしが特定のルールで並べています。五十音順ではなく、日付と重要度の二軸で」


「つまり、知らない人間が触れば必ず崩れる仕組みか」


「はい。トラップです」


 殿下の目が細くなった。


「お前はいつからそんなことを」


「着任初日からです」


「……恐ろしい女だな」


「褒め言葉として受け取ります」


 長い沈黙。殿下の指先がペンを握ったまま、動かない。


「ヘルマンは、私が子供の頃からの側近だ」


 殿下の声が低い。苦い。二十年の信頼が揺らぐ重みが、その声にある。


「殿下。ヘルマン殿が敵だとは限りません。利用されている可能性もあります」


「分かっている。——だが、確認は必要だ」


 殿下がわたしを見た。紫の瞳に、覚悟の色。


「フラウ。ヘルマンの行動を記録しろ。一週間だ」


 殿下がペンを置いた。


「その結果で判断する」


「かしこまりました」





 一週間の監視。結果は明白だった。


 ヘルマンは、週に二回、宰相府に出入りしていた。側近の業務では説明のつかない頻度だ。


 そして——ヘルマンが宰相府に渡していたのは、殿下のスケジュールと、側近室の業務内容だった。


「殿下のスケジュールには、退勤後の閲覧室の利用時間も含まれています」


「私とお前が何を調べているか、筒抜けだったということか」


「はい。ただし、調査の具体的な内容までは渡していません。ヘルマン殿が知っているのは、殿下の行動パターンだけです」


「それだけでも十分だ。行動パターンから、何を調べているか推測できる」


 情報漏洩。二十年仕えた側近が、殿下の情報を宰相に流していた。


 殿下に報告したとき、殿下は長い間黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「ヘルマンを呼べ」


 ヘルマンが側近室に入ってきたとき、殿下はペンを回していなかった。机の上に、証拠の記録が並べられていた。


「ヘルマン。説明してもらおうか」


 白髪混じりの壮年の側近は、証拠を見下ろし、長い息を吐いた。


 ヘルマンの肩が、わずかに震えた。白髪混じりの髪が、燭台の灯りに揺れている。二十年の歳月が、この男の髪を白くした。


「……殿下。わたしは、王国のためだと信じておりました」


「宰相にそう言われたか」


「はい。殿下の行動を報告することが、王国の安定に繋がると」


「いつからだ」


「三ヶ月前です。フラウが着任した直後からです」


 わたしの着任直後。つまり、宰相はわたしが着任した時点で警戒を始めていた。


「どのような言い方で」


「『殿下はまだお若い。暴走を防ぐためにも、周囲が支えなければならない』と」


 殿下の目が閉じられた。三秒。開いたとき、そこにあったのは怒りではなく——悲しみだった。


「ヘルマン。お前の忠義は本物だったと、今でも思っている」


「殿下——」


「だが、忠義の向け先を間違えた。宰相の言葉を鵜呑みにし、自分の主君を売った。それが事実だ」


 ヘルマンの肩が震えた。目頭が赤い。


「第一側近の任を解く。王宮内での業務は継続を許すが、側近室への出入りは禁じる」


「……殿下。長年お仕えして、わたしは——」


「だからこそ、追放はしない」


 殿下の声が、かすかに震えた。一瞬だけ。すぐに平坦に戻る。


「だが、もう隣には置けない」


 ヘルマンが退室した。第二側近のエルヴィンは窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。


 側近室に沈黙が落ちた。


 時計の振り子音だけが、規則正しく響いている。


 エルヴィンが静かに席を立ち、退室した。わたしと殿下だけが残された。


 殿下は窓辺に立ち、外を見つめていた。銀灰色の髪が、夕日に照らされて橙色に染まっている。


 背中が、いつもより小さく見えた。冷徹で完璧主義な王太子の背中が。


 わたしは何も言わなかった。言葉では、この痛みは癒せない。


 ただ、殿下の机に、温かい茶を一杯置いた。


 殿下は振り向かずに、カップに手を伸ばした。


 ——その指先が、微かに震えていた。


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