第16話 二十五年前の歌姫が遺したもの
消された人間の痕跡は、消した側が思うほど綺麗には消えない。必ずどこかに、一欠片が残る。
ヴィルヘルミナに会いに行ったのは、退勤後だった。
図書館の奥、普段は入れない特別書庫の前で、主席司書は待っていた。三つ編みの白髪が、燭台の灯りに揺れている。
「フラウ。来ると思っていたわ」
「二十五年前のコレット・ハイデンについて、もう少し教えてください」
「急かすわね」
ヴィルヘルミナが微笑んだ。穏やかだが、目は笑っていない。わたしを測っている。
「でも、あなたの目を見れば——待てないことは分かるわ」
ヴィルヘルミナが特別書庫の鍵を開けた。中に入ると、古い革装丁の本が棚にびっしり並んでいる。
埃っぽいが、手入れは行き届いている。背表紙が擦り切れた本が、丁寧に並べられている。
この人は、忘れられた記録も大切に守っている。消された人間の痕跡を、静かに保存し続けている。
——それは、記録に対する敬意なのか。それとも、消された人間への弔いなのか。
「コレット・ハイデンは、王宮歌劇団の歌姫だった」
ヴィルヘルミナが棚から一冊を取り出した。二十五年前の歌劇団の記録だ。
「美しい声を持ち、王族にも愛された。——そして、若き日の宰相ギルベルトとも親しかった」
「宰相と」
「ええ。二人は恋仲だったのよ」
ヴィルヘルミナの目が遠くなった。
「身分違いの恋。平民の歌姫と、宰相候補の若き貴族。許されない関係だった」
身分違いの恋。前世のわたしとダリウスの関係と、同じ構図。
「恋仲だった二人に、何が起きたのですか」
「コレットは、ギルベルトが宰相になるための障害になった」
「平民の女と結ばれた男を、貴族たちは宰相として認めない」
「そう。ギルベルトは選んだの。王国の安定と、自分の地位を」
ヴィルヘルミナの声が、少し低くなった。
「コレットは王宮から追放された」
「追放されたコレットは、どうなったのですか」
「公式記録はそこで途切れている」
ヴィルヘルミナが本の頁を押さえた。重要な話をするときの癖だ。
「でも——わたしが個人的に調べたところ、コレットは追放後、市井でひっそりと暮らしていたの。歌を捨てて、別の仕事をしながら」
「パン工房」
声が出た。自分でも驚いた。
ヴィルヘルミナがわたしを見た。穏やかな瞳の奥に、鋭い光。
「……なぜ、それを知っているの」
しまった。前世の記憶だ。公式記録にはない情報。
「……推測です。平民の女性が身を隠すなら、工房や商店が一般的ですから」
ヴィルヘルミナは長い沈黙のあと、ゆっくり頷いた。信じたのか、見逃したのか。
だが、その目には——何かを確信したような光があった。この人は、わたしの正体に半分気づいている。
それでも追及しないのは、わたしが自分で真実に辿り着くのを待っているからだ。
「追放の理由は、表向きは『歌劇団の不祥事』とされていたわね」
「不祥事の内容は」
「公式には記録されていないの。でも——わたしは当時の歌劇団員の日誌を保管している」
ヴィルヘルミナが棚の奥から、薄い手帳を取り出した。革表紙が擦り切れている。
「この日誌には、コレットが追放された本当の理由が書かれている」
「本当の理由」
「コレットは、ギルベルトの秘密を知ってしまったの。彼が宰相候補になるために行った——ある取引の記録を」
「取引?」
「先代宰相の失脚を画策したのよ。ギルベルトは先代の不正の証拠を捏造して、枢密院に告発した。それで先代が退き、ギルベルトが宰相になった」
証拠の捏造。不正を暴くのではなく、不正を作り出して相手を陥れた。
「コレットはそれを知って、ギルベルトに問い質した。彼女は正直な人だったの」
「その結果——追放された」
「ええ。『口封じ』よ。殺すのではなく、社会的に消した」
ヴィルヘルミナの指が、本の頁を押さえる力が強くなった。
「歌姫としての名声も、宮廷との繋がりも、すべて奪って市井に放り出した」
わたしは黙って聞いていた。拳が震えている。
前世の母は——この仕打ちを受けて、パン工房で暮らしていたのか。歌を奪われ、恋人に捨てられ、娘を一人で育てながら。
「ヴィルヘルミナさん。なぜ、この日誌を保管しているんですか」
「記録は真実の証人だからよ。消された人間の声を、誰かが守らなければならない」
本の上の指が、微かに震えていた。ヴィルヘルミナにとっても、これは他人事ではないのだ。
「コレットには娘がいたの」
「娘?」
「追放後に生まれた子よ。父親が誰かは、記録にない」
「でも——時期を考えれば」
「そうね。宰相の子である可能性が高い」
ヴィルヘルミナが本を閉じた。わたしを真っ直ぐ見つめる。
「コレット・ハイデンの娘は、母と同じように平民として育った。歌ではなく、パンを焼いて暮らした」
——前世のわたしだ。母から教わったパンの焼き方。小麦粉と酵母の匂いに包まれた日々。
「フラウ。あなたは本当に、ただの平民の側近なの?」
背筋が凍った。
「……わたしはフラウです。それ以上でも以下でもありません」
「そう」
ヴィルヘルミナは追及しなかった。だが、次の言葉は——忠告だった。
「二十五年前の歌姫の娘が、どうなったか」
ヴィルヘルミナが本の頁を押さえた。
「それを調べれば、あなたの真実に近づけるわ」
「わたしの真実」
「ええ。——気をつけなさい、フラウ。真実の刃は、持つ者をも傷つける」
図書館を出た。廊下の窓から外を見ると、夕闇が迫っていた。
歩きながら、頭の中で情報を整理する。
コレット・ハイデン。宮廷歌姫。
宰相の恋人。追放。
パン工房。娘。
点と点が、線になりかけている。だが、その線の先にあるものが——怖い。
宿舎に戻った。
頭が回転している。指先が震えている。
前世のわたしの母が、二十五年前の宮廷歌姫コレット・ハイデンだったとしたら——
前世のわたしは、宰相ギルベルトの隠し子ということになる。
わたしが前世で殺された理由。宰相の隠し子の存在が、誰かにとって都合が悪かった。
——誰にとって?
宰相本人か。あるいは、宰相の地位を脅かす者か。
宿舎に戻り、手帳を開いた。
『コレット・ハイデン:宰相ギルベルトの元恋人。身分差のため追放。
追放後にパン工房で暮らし、娘を出産。娘の父は宰相の可能性。』
『前世のわたし(コレット)は、宮廷歌姫の娘か。つまり——宰相の隠し子。』
『殺害動機の仮説:宰相の隠し子の存在が露見することを恐れた何者かが、前世のわたしを殺害した。』
『追加情報:ギルベルトは先代宰相を証拠捏造で失脚させている。これが露見すれば、現宰相の地位は崩壊する。
コレット・ハイデンはその秘密を知っていたために追放された。その娘であるわたしも——秘密を知り得る存在として、排除された可能性がある。』
ペンを置いた。
真実に近づいている。だが、近づくほど——足元が揺らぐ。
わたしの前世の死は、偶然の犯行ではなかった。わたしの血筋に理由があった。
——では、この転生にも、理由があるのだろうか。




