第15話 退勤後の密約
秘密を共有するたびに、人と人の距離は縮まる。だが、秘密が増えるほど——裏切りの代償も大きくなる。
ダリウスの不正取引の証拠が、着実に積み上がっていた。
東方商人との面会記録。辺境伯領を経由する物流ルート。東棟三階の個室で行われている密会の日時。
すべて、殿下とわたしの退勤後の調査で得たものだ。
「殿下。ダリウスの監視を続けて二週間が経ちました。報告します」
「言え」
「東棟三階の個室で、週に二回、商人との接触を確認しています。時間帯は夕刻——わたしの退勤後です」
「お前が退勤してから、動いているのか」
「はい。わたしの退勤時刻を把握しているようです」
「つまり、お前の存在を警戒している」
「警戒というより、観察です。わたしがいない時間帯を選んで動いている。こちらの行動パターンを読まれています」
殿下のペンが速く回った。苛立ちではなく、思考の加速だ。
「逆に言えば、お前がいる時間帯は動けないということだ。お前の存在が抑止力になっている」
「ありがたいのか、怖いのか分かりませんが」
「両方だ」
「側近がいなくなったタイミングを狙っている、と」
「そうなります。ですので——」
「退勤後に張り込んだのか」
「……はい」
殿下が書類から顔を上げた。
「定時退勤はどうした」
「退勤はしました。退勤した上で、個人的に東棟を観察しました」
「それは退勤ではなく残業だ」
「自発的なボランティアです」
殿下の目が細くなった。呆れと感心が半々の表情。もう何度も見た顔だ。
「……話を続けろ」
「密会の相手は、いつも同じ商人です。取引の内容は、辺境伯領を経由した物品の流通。品目は陶器と装飾品——オルランドのときと同じです」
「宰相府への報告ラインは?」
「密会のたびに、ダリウスは宰相府に書簡を送っています。書簡の内容は不明ですが、頻度と時期が一致します」
殿下が椅子の背にもたれた。天井を見上げる。
「証拠は揃ってきている。だが、まだ宰相の名前が直接出てこない」
「はい。ダリウスの口から宰相の名前を引き出す必要があります」
「どうやって」
「接触します。側近としての業務名目で、ダリウスの執務室に出入りする機会を増やします」
殿下がわたしを見た。紫の瞳に、判断と——わずかな懸念がある。
「お前の判断が鈍るとは思わないが、一つだけ条件がある」
「何でしょうか」
「一人で会うな。ニナかトビアスを同行させろ」
「殿下。わたしは——」
「これは命令だ」
殿下の声に、有無を言わせない力がこもっていた。冷徹ではない。守ろうとしている声だ。
「あの男は——他人を利用することに躊躇がない。お前が一人でいれば、利用しようとする」
「利用されるほど甘くはありません」
「甘さの問題ではない。安全の問題だ」
安全。殿下がわたしの安全を気にかけている。
前世では、わたしの安全を気にかけてくれる人は一人もいなかった。ダリウスも、世界も。
「……かしこまりました」
殿下は、わたしがダリウスに対して個人的な感情を持っていることを知っている。知った上で、わたしを信頼し、同時に守ろうとしている。
その気遣いが、嬉しくて——少しだけ、苦しい。
◇
翌日。ニナを伴って、ダリウスの執務室を訪ねた。
「ダリウス様。東方交渉の報告書式について、追加の説明に参りました」
「ああ、フラウ殿。助かるよ」
ダリウスが椅子から立ち上がり、わたしたちを迎えた。
「そちらの侍女は?」
「ニナです。書類の運搬係として同行しています」
ニナがおどおどと頭を下げた。スカートの裾を握っている。
ダリウスの目がニナを捉えた。一瞬、記憶を辿るような表情。
「以前お話を聞いた侍女さんだね。ニナさん、だったか」
「は、はい……」
「覚えてくれていたとは光栄だ」
ダリウスが微笑んだ。柔らかい笑顔。だが、ニナの手はスカートの裾を強く握っていた。
ニナは覚えている。この男の目が「笑っていない」ことを。
「ニナさん、だったね。以前はありがとう」
「い、いえ……」
報告書の書式を説明しながら、わたしはダリウスの執務室を観察した。
前回と比べて変わった点がある。壁際の棚に新しい書類入れが増えていた。
鍵付きだ。外交業務の機密書類か、それとも——別のものか。
ダリウスのインク壺は右側に置かれている。右利きだ。
だが、ペンの持ち方が独特で、人差し指と中指で挟むように持つ。長時間の筆記に慣れた人間の持ち方。
机の上は前回と同じく整頓されている。引き出しには鍵。壁際の棚に個人的な物は少ない。
だが——机の端に、また小さな包みがあった。紙に包まれた四角い何か。
「それは?」
「ああ、これか。レモンの焼き菓子だよ。知り合いが送ってくれるんだ」
レモンの焼き菓子。わたしが前世で、三年間焼き続けた菓子と同じだ。
手が震えそうになった。机の下で拳を握る。
レモンの香りが、ほのかに漂っている。焼きたてではない。
昨日か、一昨日のものだ。それでもこの匂いは——前世の記憶を、容赦なく呼び覚ます。
「お好きなんですか」
「昔はね。今はそうでもないんだが——懐かしくて、つい頼んでしまう」
懐かしい。あの男が、わたしの焼き菓子を「懐かしい」と言っている。
懐かしい。あの男が、わたしの焼き菓子を「懐かしい」と言っている。
三年間、毎週焼いた。レモンの皮をすりおろすとき、指先が黄色くなった。それを見るたびにダリウスが笑った。
——あの笑顔も、計算だったのだろうか。
「誰が焼いていたか、覚えておられますか」
何を聞いているんだ、わたしは。
ダリウスが首を傾げた。碧い目が、少し遠くなる。
「……昔の知り合いだよ。もう会えない人だ」
「もう会えない」
「ああ。——どうかしたかい?」
「いいえ。——書式の説明は以上です」
「そうか。ありがとう」
ダリウスがカップに手を伸ばした。レモンの焼き菓子の包みの横に、一通の書簡が見えた。封蝋に——宰相府の紋章。
一瞬だけ見えた。ダリウスが書類で隠す前の、一瞬。
宰相府からの書簡が、外交官の机上にある。公式の連絡なら外交局長経由のはずだ。直接届いているということは——非公式の指示。
この情報は殿下に報告する。
ニナと共に退室した。廊下を歩きながら、呼吸を整えた。
ニナが心配そうにこちらを見ている。
「フラウさん、大丈夫ですか? 顔色が……」
「大丈夫。少し疲れただけ」
嘘だ。疲れではない。前世の記憶が、胸を締めつけているのだ。
廊下の窓から差し込む夕日が、ダリウスの金髪と同じ色をしている。それだけで、呼吸が浅くなる。
「あの方、感じはいいんですけど……なんだか、目が怖いんです」
「怖い?」
「はい。笑っているのに、目が笑っていないというか……。マルグリット様と同じ種類の目です」
ニナの直感は侮れない。この子は権力者の嘘を、本能で見抜く。
「ニナ。いい観察力だね」
「そうですか……? ただの勘なんですけど」
「勘は大事よ。これからも教えてね」
宿舎に戻った。窓を開けて夜風を入れてから、手帳を取り出した。
『ダリウスの執務室観察(2回目):レモンの焼き菓子がまた机上に。「昔の知り合いが焼いていた。もう会えない人」と発言。
前世のわたしを記憶の片隅で覚えているのか、あるいは社交辞令か。判断保留。』
『ニナの観察:「笑っているのに目が笑っていない」。マルグリットと同じ種類の目。
——的確だ。』
ペンを置いて、天井を見上げた。
あの男のために焼いた菓子の味を、身体はまだ覚えている。小麦粉と卵と砂糖の配合。レモンの皮をすりおろす感触。
でも、もう焼かない。前世のわたしは、あの男のために焼き続けて、捨てられた。
今のわたしは、推しの傍で働いて、定時で帰って、真実を追う。
——それだけでいい。それだけで十分だ。




