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第14話 宰相閣下の紅茶は冷めない

穏やかな人間ほど、怒ったときが怖い。だが、本当に恐ろしいのは——怒りすら見せない人間だ。


 朝の側近室は、ヘルマンの不在を除けばいつも通りだった。殿下が書類を読み、エルヴィンが黙々と書簡を整理し、わたしが予定を確認する。


 殿下は昨夜遅くまで閲覧室にいた。目の下に薄い影がある。紅茶を三杯飲んだ形跡が、机の脇のカップに残っている。


 ——殿下、ちゃんと寝てください。推しの体調管理は側近の責務です。


 そんなことは口に出せないので、黙って二杯目の茶を淹れた。


「フラウ。淹れ方が上手くなったな」


「前任の侍女に教わりました」


「ニナか」


「はい」


 殿下が茶を一口飲んだ。わたしの淹れた茶を飲んでくれるようになったのは、ここ一週間のことだ。


 以前は「不要だ」の一言だったのに。


 ——心の中がざわついた。推しの言葉は、いつも不意打ちだ。


 その日常が壊れたのは、突然だった。


 宰相ギルベルトが、側近室を訪れた。


 前触れはなかった。朝の業務が始まったばかりの時刻に、扉を叩く音がして、白髪を撫でつけた紳士が穏やかに微笑みながら入ってきた。


「殿下。お忙しいところ失礼します」


「宰相。何用だ」


 殿下の声が、わずかに硬い。指先が落ち着きなく動いている。


「いえ、大した用ではありません。新任の外交官ダリウスの着任報告と、東方交渉の進捗確認です」


 ギルベルトの声は柔らかい。手には紅茶のカップを持っている。


 ——この人は、いつも紅茶を持っている。


 フラウの記憶にも、ギルベルトは常に紅茶を手にしている印象がある。だが、飲んでいるところを見たことがない。


 カップの中の液面が揺れない。手が微動だにしないのだ。五十歳の男の手が、完全に静止している。


服装は完璧だ。皺一つない上着。


磨き抜かれた靴。だが、袖口のボタンが——わずかに左右で色が違う。


左が金、右が銀。意図的か、無意識か。


どちらにせよ、この男は細部まで計算する人間だ。偶然はない。


 それは穏やかさではない。制御だ。感情を完璧に制御している人間の手。


「ダリウスの着任報告は外交局長から受けている」


 殿下の声は平坦だが、言外に「なぜ来た」という問いがある。


「わざわざ宰相閣下が来る必要はないのでは」


「まあ、堅いことを言わないでください。たまには側近室に顔を出すのも悪くないでしょう」


 殿下のペンが止まった。再び回り始める。


「フラウ。ダリウスの着任書類を」


「はい」


 わたしは書類を取りに立った。棚に向かう間に、背後でギルベルトの気配を感じた。


 視線。穏やかな笑みの奥にある、品定めの目。


「フラウ、と言ったかな」


「はい。第三側近です」


「聞いているよ。侍女長の件も、財務局の件も、君が関わったそうだね」


 心臓が冷えた。だが、表情は動かさない。


「わたしは在庫を確認しただけです」


「謙遜だね。——在庫の確認で侍女長を解任に追い込むとは、なかなかの手腕だ」


 褒め言葉の形をした警告だ。「お前を見ている」と言っている。


「恐縮です」


「優秀な側近がいると、殿下も心強いだろう。——ただ」


 ギルベルトがカップを口元に近づけた。だが、飲まない。唇がカップの縁に触れる直前で止まる。


「優秀すぎる人間は、ときに——危ういものだ」


 声のトーンは変わらない。穏やかなまま。だが、言葉の温度が一度下がった。


「ご忠告、ありがとうございます」


「忠告? いやいや、世間話だよ」


 ギルベルトが微笑んだ。皺一つない笑顔。完璧すぎて、人間味がない。


 殿下との報告は五分で終わった。ギルベルトは穏やかに退室した。


 扉が閉まった後、殿下が呟いた。


「あの男が側近室に来るのは、珍しい」


「はい。年に一度あるかないか、とヘルマン殿が言っていました」


「つまり、わざわざ来た理由がある」


「わたしを見に来たのだと思います」


 殿下の指がペンを回している。苛立ちではなく、警戒の回転だ。


「フラウ」


「はい」


「宰相に目をつけられた」


「承知しています」


「怖くないのか」


 殿下の声に、わずかな——気遣いがあった。冷徹な上司の言葉ではなく、同じ戦場にいる仲間の言葉。


「怖いです。あの方の笑顔には、温度がありません」


「温度がない?」


「紅茶を持っているのに、飲まないんです。カップの中身は冷めているのに、新しいものを頼まない。つまり、あの紅茶は飲むためのものではない」


 殿下がわたしを見た。


「小道具か」


「はい。手に何かを持っていれば、人は穏やかに見える。相手の警戒を解くための演出です」


「……お前の観察力は、ときどき背筋が寒くなるな」


「褒め言葉として受け取ります」


 殿下の唇が微かに上がった。


「退勤時刻は変えるなよ」


「もちろんです」


「それと——」


 殿下が椅子から立ち上がった。窓辺に歩み寄る。


「宰相は、お前だけを見に来たのではないかもしれない」


「と言いますと」


「私の反応も見ていた。お前が脅されたとき、私がどう動くか。——試されたのだ」


「殿下が、ですか」


「ああ。あの男は、敵の弱点を探るのが得意だ。私の弱点がお前であるかどうかを、確かめに来た」


 殿下の弱点がわたし。


 その言葉の意味を、わたしは正しく受け取れなかった。受け取るのが怖かった。


「殿下。わたしは殿下の弱点ではありません」


「そうか」


「はい。わたしは殿下の武器です」


 殿下がわたしを見た。紫の瞳に、微かな——驚きがあった。


「……いい答えだ」


 怖い。本当に怖い。あの穏やかな笑みの裏に何があるか、わたしはまだ知らない。


 だが、怖いからこそ——止まれない。止まったら、向こうの思う壺だ。


 退勤後、宿舎に戻る道すがら、今日の出来事を反芻した。


 ギルベルトは「世間話だ」と言った。だが、あの男が世間話で側近室を訪れるはずがない。目的はわたしの観察だ。


問題は、何を見に来たのか。わたしの顔か。


わたしの反応か。あるいは——殿下との距離感か。


 宿舎に戻り、ランプの灯りの下で手帳を開いた。


『ギルベルト:側近室に直接来訪。わたしの存在を認識し、「優秀すぎる人間は危うい」と発言。


警告か、威嚇か。』


『紅茶の観察:飲まない。カップは小道具。


手の震えゼロ。感情の制御が完璧。』


『仮説:宰相はわたしの調査活動を把握している。情報源は不明。


側近室内に宰相の耳がある可能性。』


 ペンを置いた。


 手帳を閉じて、窓を開けた。夜風が頬を撫でる。


 ギルベルトの穏やかな笑顔を思い出す。あの完璧な微笑みの裏側に、何人の人生が潰されてきたのか。


 コレット・ハイデンも、あの笑顔に消されたのだろうか。


 そして前世のわたしも——。


 ランプを消す前に、手帳にもう一行書き足した。


『殿下が「お前が弱点か確かめに来た」と言った。殿下の弱点がわたしであるはずがない。


だが、殿下がそう言ったこと自体が——胸が騒ぐ案件だ。』


 ——あの紅茶の仮面の下に、何が隠れているのか。それを暴くまでは、退勤を止めるわけにはいかない。


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