第13話 公爵令嬢の本音は扇の裏に
味方のふりをした敵より厄介なのは、敵のふりをした味方だ。どちらが本物か見極めるまで、油断はできない。
ベアトリスから書簡が届いたのは、朝の業務開始直後だった。
蜜蝋で封をされた上品な封書。公爵家の紋章が押されている。中身は一行だけ。
『本日の午後、中庭の東屋にて。——B』
短い。だが、ベアトリスらしい。余計な言葉を使わない人だ。
殿下に午後の外出を申請した。
「ベアトリスか」
「はい。情報提供の可能性があります」
「行け。——ただし、情報の出元は聞くな。向こうから言わない限り」
「心得ています」
午後。中庭の東屋に向かう途中、回廊の窓から中庭が見えた。
季節の花が咲き乱れている。王宮の庭師は優秀だ。
だが、この美しさの裏側で——横領も収賄も、静かに行われてきた。花が綺麗なほど、闇は深い。
東屋は中庭の奥まった場所にある。人目を避けるには最適な場所だ。ベアトリスは場所選びも抜かりない。
ベアトリスはすでに座っていた。蜂蜜色の巻き髪が午後の光に輝いている。翡翠の瞳がわたしを捉えた。
扇は閉じている。警戒を解いているサインだ。
「フラウ。座って」
「失礼します」
「紅茶は?」
「いただきます」
侍女がカップを二つ置いて去った。ベアトリスがカップに口をつけるのを待ってから、わたしも飲んだ。
「単刀直入に言うわ。公爵家の社交ネットワークを通じて、いくつか分かったことがある」
ベアトリスが手元の書類を差し出した。
「王宮の行事出資金の流れを追ったの。公爵家が出資した金額と、実際に行事に使われた金額に差異があったわ」
「差額はどこに?」
「宰相府の管轄する『特別予備費』に計上されている。行事備品の購入名目で」
特別予備費。殿下とわたしが追っていた不正取引の、もう一つの入口だ。
「ベアトリス様。その特別予備費の決裁者は」
「宰相ギルベルト本人よ。次官や局長ではなく、宰相の直接決裁」
紅茶のカップを持つ手が、微かに震えた。机の下に隠す。
「これまでの調査では、宰相は間接的な指示者だと推測していました」
「直接決裁ということは、ギルベルトは黒幕であると同時に、実行者でもある」
ベアトリスの翡翠の瞳が、鋭い。政略のために育てられただけではない。自分の頭で考え、結論を出す女性だ。
「ベアトリス様。この情報を殿下に?」
「あなたから伝えて。わたくしの名前は出さないで」
「もちろんです」
ベアトリスが紅茶を一口飲んだ。カップを戻す仕草が、少しだけ緩い。わたしの前で、鎧を下ろし始めている。
「フラウ。一つ聞いていいかしら」
「何でしょうか」
「あなた、新任のダリウスに対して特別な感情を持っているように見えるのだけれど」
心臓が跳ねた。
「……なぜそう思われますか」
「女の勘よ」
ベアトリスが扇を開いた。だが、その奥の目は真剣だ。
「あの男を見るとき、あなたの目に浮かぶのは怒りでも憎しみでもないの。もっと深い——失望の色よ」
失望。そうかもしれない。信じた相手に裏切られたときの、底の抜けたような感覚。
「……個人的な事情です」
「聞かないわ。でも、一つだけ」
ベアトリスが扇を閉じた。
「感情で動くと、この王宮では生き残れない。わたくしは、それを身をもって知っているの」
「身をもって、とは」
「わたくしも、かつて感情で動いたことがあるの」
ベアトリスの声が、少しだけ低くなった。
「公爵家の令嬢として初めて社交界に出たとき、ある男に心を動かされた。結局、それは政略だった。わたくしの感情を利用して、公爵家との繋がりを得ようとしただけ」
「……」
「その男は、公爵家の名前だけが目当てだった。わたくし自身には、欠片も興味がなかった」
翡翠の瞳が、一瞬だけ暗くなった。すぐに戻る。感情の制御に慣れた人間の動作だ。
「それ以来、わたくしは扇の裏に本音を隠すことにしたのよ」
短く、乾いた告白だった。だが、その乾きの中に——わたしと同じ痛みがあった。
「ベアトリス様。わたしは感情では動きません。事実だけを追います」
「いい返事ね。——だから、あなたを信頼しているのよ」
「ありがとうございます」
「礼はいらないわ。あなたが潰れると、わたくしの情報提供先がなくなるもの」
皮肉交じりの笑み。でも、その奥にある気遣いを、わたしは受け取った。
東屋を離れる前に、ベアトリスが呼び止めた。
「フラウ。もう一つだけ」
「はい」
「ダリウスが外交局で接触している商人。あの商人の背後に、もう一つ別の組織がある」
「別の組織?」
「クラインベルク辺境伯の私兵団よ。辺境伯は表向き領地の警備を名目にしているけれど、実態は宰相府の非公式な実行部隊」
「私兵団が物流の護衛を?」
「護衛だけではないわ。邪魔な人間を——消す役目もあると、わたくしは聞いている」
邪魔な人間を消す。
前世のわたしを殺した犯人は、王宮の紋章を身につけていた。だが、王宮の人間が直接手を下すとは限らない。
辺境伯の私兵が、宰相府の指示で動いていたとしたら——
「ベアトリス様。その情報は確かですか」
「公爵家の社交ネットワークは、噂だけでは動かないわ。複数の証言がある」
「ありがとうございます。大きな手がかりです」
ベアトリスが扇を開いた。口元を隠して、微笑む。
「気をつけなさい。——あなたが消されたら、わたくしが困るもの」
皮肉に見せかけた心配。この人のやさしさは、いつも棘に包まれている。
◇
退勤後。閲覧室で殿下にベアトリスの情報を伝えた。
「特別予備費の直接決裁。宰相自身が資金を動かしている」
殿下の表情が、微かに硬くなった。
「直接決裁の記録は、枢密院の監査対象だ。だが、宰相は枢密院の議長も兼任している」
「自分で自分を監査する構造ですか」
「そうだ。二十年前に枢密院の規程が改定されたとき、宰相の議長兼任が決まった。改定を主導したのは——」
「宰相本人」
「その通りだ。自分の権力を監査する仕組みを、自分で骨抜きにした」
制度の壁。対立軸の一つが、ここでも機能している。宰相は制度そのものを支配することで、不正を不正と呼ばれない構造を作り上げた。
「そうだ。制度上の盲点だ」
「殿下。宰相の権限を超える監査は、誰が行えますか」
「王太子か、国王のみだ」
「では、否定できない証拠が必要です」
殿下が頷いた。
「父上は宰相を信頼している。二十年以上、この国を共に支えてきた相手だ。息子の言葉だけで疑うとは思えない」
「だからこそ——証拠がすべてですね」
「ああ。積み上げろ、フラウ。一つずつ」
殿下の紫の瞳に、信頼の色がある。
宿舎に戻り、手帳を開いた。
『ベアトリス情報:特別予備費は宰相の直接決裁。枢密院議長との兼任で自己監査構造。
制度的盲点。』
『ベアトリスの過去:かつて感情で動いて利用された経験あり。以後、扇の裏に本音を隠す。
——わたしと同じ痛みを持つ人。信頼できる。』
ペンを置いた。
敵は賢い。正面からは崩れない。でも、どんな完璧な城にも一つは穴がある。
その穴を見つけるのが、退勤後のわたしの仕事だ。




