第12話 レモンの焼き菓子は二度焼かない
復讐心で動く人間は、足元を見失う。だからわたしは、感情ではなく事実だけを追う。
ダリウスが着任して三日。王宮の空気が、わずかに変わった。
廊下ですれ違う文官たちの囁き声が増えている。「新しい外交官は宰相閣下の推薦らしい」「伯爵家の嫡男なのに、やけに腰が低い」。噂は水のように広がる。
だが、わたしが注目しているのは噂ではなく、事実だ。
トビアスの騎士団情報網が、最初の報告を寄越した。
「フラウ。ヴァルトシュタイン伯爵家の件、分かったぞ」
退勤後の廊下で、トビアスが声をひそめた。周囲に人がいないことを確認してから、話し始める。
「十年前、伯爵家は経営破綻寸前だった。領地の税収が激減して、爵位の返上すら検討されていた」
「それが持ち直した理由は?」
「宰相府からの特別融資。名目は『辺境振興』だ」
「返済条件は?」
「それがな——返済記録がない。融資を受けたのは確かだが、一銭も返していない」
返済義務のない融資。つまり、実質的な資金提供だ。
「トビアス。宰相府が返済を求めない融資を出すとき、見返りは金ではなく忠誠です」
「つまり、伯爵家は丸ごと宰相府の手駒になったってことか」
「そういうことです。ダリウスが着任初日に宰相府へ挨拶に行ったのも、これで説明がつきます」
トビアスが唸った。後頭部を掻く手が、いつもより強い。
「あの外交官、最初から宰相の使い走りかよ」
「使い走りというより、十年かけて育てた駒です。没落寸前の伯爵家に資金を注入し、嫡男を宮廷外交官として送り込んだ」
「気持ち悪いな。チェスの駒みたいだ」
「チェスと違うのは、駒に自覚がないかもしれないということです」
トビアスが首を傾げた。
「自覚がない?」
「ダリウスは、宰相府の融資を『支援』だと思い込んでいる可能性があります。恩を返している気分で不正に手を貸している」
「それ、余計にタチが悪いな」
「ええ。罪悪感のない人間は、証拠を隠す動機が薄い。つまり、油断しています」
トビアスが口笛を吹いた。
「お前、本当に怖い女だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「チェスと違うのは、駒に自覚がないかもしれないということです」
トビアスが首を傾げた。
「自覚がない?」
「ダリウスは、宰相府の融資を『支援』だと思い込んでいる可能性があります。恩を返している気分で不正に手を貸している。だとすれば、本人は罪悪感がない」
「それ、余計にタチが悪いな」
「ええ。罪悪感のない人間は、証拠を隠す動機が薄い。油断しています」
トビアスが笑った。物騒な笑いだ。
「お前、本当に怖い女だな」
「褒め言葉として受け取ります」
外交局の書棚は、側近室の権限で閲覧できる。ダリウスの着任書類を手に取ると、紙の端が微かに折れていた。
誰かがすでに確認している。折り目の位置は、着任前面会の記載がある頁だ。ダリウス自身か、あるいは——宰相府の誰かが、事前に記録を確認したのか。
翌日の昼休み。洗濯場でニナを見つけた。
「ニナ。少し話がある」
「フラウさん! 何でしょう」
「新任のダリウス様に、侍女部のことを聞かれたでしょう」
ニナの目が丸くなった。スカートの裾をぎゅっと握る。
「は、はい……。配置のことを聞かれて、つい……。すみません」
「ニナのせいじゃない。あの方は話を引き出すのが上手いから」
「すごく感じのよい方で……つい安心してしまって」
「感じのいい人ほど、警戒した方がいいの。業務のことは、上長の許可なく外部に話さないでね」
「分かりました。気をつけます」
「もう一つ聞いていい?」
「はい」
「ダリウス様は、他に誰と話していた?」
ニナは眉を寄せて考えた。
「えっと……ローザ様と立ち話をしているのを見ました。茶室の前で」
「ローザ様と」
「はい。二人とも笑っていましたけど、なんだか……お互いを試しているような笑い方でした」
ニナの観察力は侮れない。権力者同士の駆け引きを、肌感覚で察知する。
「ありがとう。とても助かったわ」
「あの……フラウさん」
「何?」
「ダリウス様って、なんだか……フラウさんのことを気にしているみたいです」
「気にしている?」
「はい。わたしに聞いてきたんです。『あの側近は、いつもああいう話し方なのか』って」
「なんて答えたの?」
「『フラウさんは定時退勤を大事にする方です』って」
ニナが真面目な顔で言った。回答として完璧すぎて、少し笑ってしまった。
「ニナ。それは最高の回答よ」
「えへへ。褒められた」
ニナが嬉しそうに微笑んだ。スカートの裾を握る手が、少しだけ緩んだ。
「ありがとう。——あと、もう一つ聞いていい?」
「はい」
「新しい侍女長のローザ様。最近、誰かと頻繁に会っていない?」
ニナは少し考えてから、声をひそめた。
「宰相府の侍女頭と、週に二回ほど茶室で会っているみたいです。業務上の打ち合わせだと言っていますが……打ち合わせにしては、長いんです」
「どのくらい?」
「毎回、二刻以上です」
二刻。通常の業務打ち合わせなら半刻で済む。
ローザが宰相府と密接に連絡を取っている。マルグリットの後任が、同じ方向に動いている。侍女部の支配構造は、人を替えただけで何も変わっていない。
「ありがとう、ニナ。何かあったらまた教えて」
午後。側近業務の合間に、外交局の業務記録を確認した。
ダリウスの担当案件は、東方諸国との通商交渉。表向きは順当な配置だ。
だが、記録の中に不自然な点があった。ダリウスが着任前に、東方諸国の商人と面会した記録がある。着任前の個別面会は、外交局の規定に違反する。
「殿下。ダリウスの業務記録に、一点不審な箇所があります」
「言え」
「着任前に東方商人との面会記録があります。外交局の資格を得る前の接触です」
「日付は」
「三ヶ月前です。ダリウスはまだ伯爵領にいた時期に、辺境伯領で商人と会っています」
「伯爵領から辺境伯領まで、馬で三日はかかる。わざわざ出向いたということか」
「はい。偶然の出会いではなく、意図的な接触です」
殿下が書類から目を上げた。
「着任前に外交業務を行った、と」
「はい。さらに、この商人の所在地がクラインベルク辺境伯領です」
「辺境伯領。——オルランドと同じルートか」
「同じ構図です。オルランドが摘発された穴を、ダリウスが埋めている形です」
殿下の指先が、書類の端で止まった。
「証拠を固めろ。枢密会議で追及する」
「かしこまりました」
わたしは手元の記録を整理しながら、補足した。
「ただ、殿下」
「何だ」
「ダリウスを単独で摘発しても、尻尾を切られるだけです。宰相府は別の駒を送り込んできます」
「泳がせるのか」
「はい。ダリウスの動きを監視しながら、宰相府への報告ラインを洗い出す方が得策です」
殿下がわたしを見た。紫の瞳に、判断の光がある。
「お前の提案を採用する。ダリウスは泳がせる」
殿下がペンを置いた。
「だが、泳がせるにも限度がある。一月だ」
「一月。十分です」
「それと、フラウ」
「はい」
「ダリウスに直接接触しろ。側近の業務名目で、あの男の動きを近くで監視する」
胸の奥が軋んだ。だが、呼吸を整えて抑え込む。
「かしこまりました」
「無理はするな。お前の目が曇るなら、すぐに引け」
「目は曇りません」
殿下がわたしを見つめた。長い視線。何かを確認するような。
「お前がそう言うなら、信じる。だが——」
「だが?」
「退勤時刻は守れ。監視業務が退勤時刻を侵食するのは許さない」
「……推しがそう言うなら」
「何だ?」
「何でもありません」
危ない。「推し」と言いかけた。心の中の言葉が口から漏れるのは、殿下の前だと特に危うい。
「目は曇りません」
「——そうか」
殿下は短く答えて、書類に戻った。それ以上は聞かない。この方は、踏み込むべき線を知っている。
退勤後。部屋に戻り、ランプを灯してから手帳を取り出した。
『ダリウス関連:伯爵家は十年前に宰相府の融資で延命。返済記録なし。
実質的な従属関係。着任前の東方商人との面会は規定違反。
辺境伯領ルートの再利用。ローザ(新侍女長)も宰相府と接触中。
週二回、二刻以上の会合。』
ペンを置いた。窓の外を見ると、月が雲に隠れていた。暗い夜だ。
前世で殺された夜も、こんな暗い夜だった。月も星も見えない路地裏。
あの夜の犯人は、まだ見つかっていない。ダリウスの不正は犯人に直結するものではないかもしれない。だが、宰相府という共通点がある。
すべての糸を辿れば、きっとどこかで——前世の死と、現世の不正が交わる。
前世のダリウスは、わたしを捨てた。現世のダリウスは、不正に手を染めている。
だが、わたしは復讐のためにこの男を追い詰めるのではない。真実に辿り着くために、事実を積み上げる。
——でも、正直に言えば。あの男の足元が崩れていく音は、少しだけ心地よい。
手帳にもう一行。
『レモンの焼き菓子は、もう焼かない。二度と。』




