第11話 新しい外交官と古い嘘
人間は、忘れた顔には無関心だが、忘れられた側は一生覚えている。
朝の側近室で、殿下が予定を読み上げた。
「本日、新任の宮廷外交官が着任する。ヴァルトシュタイン伯爵家の嫡男、ダリウスだ」
ペンが手から滑り落ちた。机の上で小さな音を立てる。
殿下がわたしを見た。ペンは回していない。純粋な観察の目だ。
「知っているのか」
「……いいえ。手が滑りました」
嘘だ。知っている。知りすぎている。
ダリウス。前世のわたしを「家の都合」で捨てた男。三年間の「君だけだ」を、一夜で撤回した男。
心臓が速い。手のひらが汗ばむ。深呼吸を二回して、呼吸を戻す。
落ち着け。わたしは今、フラウだ。
コレットではない。あの男はわたしの顔を知らない。
「着任の挨拶に同席する。準備しろ」
「かしこまりました」
第二側近のエルヴィンがちらりとこちらを見たが、すぐに自分の書類に戻った。相変わらず、他人の動揺には興味がない男だ。
——だが、エルヴィンの無関心は本物だろうか。この王宮では、無関心を装うことも技術の一つだ。
今は考えすぎだ。目の前の業務に集中する。
第一側近のヘルマンは枢密会議の準備で不在だった。つまり、殿下の隣で新任者を迎えるのはわたしだけということになる。
推しの隣は嬉しい。だが、前世の婚約者と再会する場にそれが重なるのは——正直、胃が痛い。
午後。応接室の扉が開いた。
金髪碧眼。社交用の完璧な微笑み。
背筋を伸ばした姿勢。前世で何百回も見た顔が、そこにあった。
ただ、以前より痩せている。目の下に薄い影がある。
出世の道は、彼にとっても楽ではなかったのだろう。前世で男爵家の令嬢と結婚した後、どんな人生を歩んだのか。
爪は綺麗に整えられているが、右手の中指にペンだこがある。書類仕事が多い証拠だ。
靴は上等だが、踵がすり減っている。見栄えは保つが、実情は苦しい。伯爵家の現状が、足元に出ている。
——同情はしない。
前世の記憶が蘇る。暖炉の前。
「婚約は解消させてもらう」と告げた声。あのときの苛立ちを含んだ口調が、耳の奥で反響する。
だが、今のわたしはコレットではない。あの夜の痛みを、武器に変えられる立場にいる。
「ダリウス・ヴァルトシュタインでございます。殿下にお仕えできる光栄に感謝いたします」
流暢な挨拶。声の抑揚まで計算されている。
昔からそうだった。この男は、自分をよく見せる技術だけは天才的だ。
「歓迎する。外交局の業務は宰相府との連携が主になる」
「はい。宰相閣下にはすでにご挨拶を——」
「着任前にか」
殿下の声が平坦になった。ペンを回す速度が上がっている。
「いえ、先ほど到着した際に、ご挨拶の機会をいただきまして」
殿下の紫の瞳が、一度だけダリウスの足元を見た。靴の踵のすり減りを、殿下も見抜いたのだろう。
「到着してまず宰相府か。外交局長への挨拶は」
「これから向かうつもりでした」
「順番が違うな」
殿下の声が低くなった。だが、すぐに平坦に戻る。
「まあいい。詳細は側近から説明させる。フラウ、案内を」
「はい」
わたしはダリウスの前に立った。琥珀色の瞳で、碧い目を見上げる。
ダリウスの目がわたしを捉えた。一瞬——ほんの一瞬だけ、眉が動いた。
だが、すぐに社交用の笑みに戻った。
「よろしくお願いします、フラウ殿」
認識されていない。当然だ。コレットとフラウは別人だ。
それでも、胸の奥がちくりと痛んだ。三年間を共にした相手に、存在ごと忘れられている。
前世のわたしは、本当にその程度の存在だったのだ。
案内しながら、わたしはダリウスを観察した。新任者の人物評価は業務の一環だ。
廊下を歩くダリウスは、壁の装飾に目をやりながら、さりげなく周囲を確認している。出入り口の位置、すれ違う人間の肩書。
外交官らしい観察力だ。だが、わたしに対しては警戒が薄い。平民の側近を、脅威とみなしていない。
前世でもそうだった。ダリウスは自分より下の身分の人間を警戒しない。それが、この男の最大の弱点だ。
「この王宮は、想像以上に広いですね」
「東棟が業務区画、西棟が生活区画、北棟が図書館と記録室です」
「詳しいね。君はいつからここに?」
「着任して一月ほどです」
「一月でこの地理感覚か。優秀だ。——平民出身だと聞いたけれど」
「はい」
「それで王太子殿下の側近に。大したものだ」
褒めているように聞こえるが、本質は品定めだ。この人間は使えるか。
味方にできるか。あるいは、排除すべきか。
前世でも同じ目をしていた。初めて会ったとき、パン工房の娘を値踏みする目。
「ダリウス様。宰相府との連携について、一つ確認があります」
「何だい」
「外交局の業務報告は、外交局長を経由するのが規定です。宰相府への直接報告は規定にありません」
ダリウスの微笑みが、ほんの一瞬だけ揺れた。
「もちろん、規定は承知しているよ。宰相閣下への挨拶は、あくまで儀礼的なものだ」
「かしこまりました。外交局はこちらです」
ダリウスが立ち止まった。振り返って、わたしを見る。
「君は、なぜか話しやすいね。初めて会った気がしない」
前世で聞いた言葉だ。出会った頃のダリウスは、同じ笑顔でそう言った。あのときは本心だと信じていた。
今は、もう信じない。
「光栄です。ご不明な点があれば、翌日にお願いします」
「翌日?」
「五の刻で退勤ですので。では、失礼いたします」
ダリウスが目を丸くしている。
「退勤……? まだ陽が高いが」
「規定です」
その顔を背に、わたしは廊下を歩き出した。前世では、この男の前で堂々と背を向けることなどできなかった。
今は違う。わたしには退勤という名の盾がある。
◇
退勤後。殿下との合流場所に向かう途中、トビアスとすれ違った。
「フラウ。新任の外交官、知ってるか」
「案内しました」
「あいつ、着任初日に宰相府と外交局を行ったり来たりしてる。普通は外交局に籠もって引き継ぎだろ」
トビアスが後頭部を掻いた。
「殿下の前でも宰相への挨拶を自分から口にしていました」
「隠す気がないのか、あいつ」
「隠す気がないか、隠せないほど関係が深いか。どちらにしても不自然です」
「あと一つ。あの外交官、ニナに声をかけてたぞ」
「ニナに?」
「ああ。侍女部の配置とか、誰がどの区画を担当してるとか聞いてた。ニナは律儀に答えちまってたよ」
ニナは人を疑うことを知らない。それが美点であり、危うさでもある。
ニナに。マルグリットの横領を知る侍女に。
「ニナには注意しておきます。トビアス、もう一つ頼みがあります」
「言ってくれ」
「ダリウスの着任の経緯を調べてほしい。ヴァルトシュタイン伯爵家と宰相府の接点を」
「騎士団の情報網を使えば、ある程度は。三日くれ」
「お願いします」
トビアスが笑って去っていった。
閲覧室で殿下と合流した。二十五年前の調査を続けながら、ダリウスの件を報告する。
「殿下。ダリウスの件ですが」
「言え」
「着任初日に宰相府と外交局を往復しています。挨拶だけでは説明がつきません。すでに業務上の連絡を取っている可能性があります」
「着任前から宰相府と関係がある、ということか」
「はい。それと、ニナに接触しています。侍女部の情報を探っているようです」
殿下の指が資料の端で止まった。
「侍女部の情報。マルグリットの横領に関する内部事情か」
「おそらく。オルランドの後任として不正ルートを引き継ぐなら、過去の失敗を把握しておく必要があります」
「合理的な分析だ。——トビアスに調査を依頼したか」
「三日で報告が来ます」
「手回しが早いな」
「退勤後の成果です」
殿下の唇が微かに動いた。もう見慣れた仕草だ。笑っているのか呆れているのか。
「フラウ。一つ聞く」
「はい」
「あの男が王宮にいることで、お前の判断に影響は出るか」
真っ直ぐな問いだ。殿下は遠回しなことを言わない。
「……出ません。出さないと約束します」
「約束ではなく、事実を聞いている」
「事実として、影響は出ていません。あの男は調査対象の一人です。それ以上でも以下でもありません」
殿下はしばらくわたしを見つめてから、頷いた。
「信じる」
殿下がペンを手に取った。回さずに、指先で弾くように叩いた。
「あの男は、外交官としては有能に見える。だが、有能さの方向が——宰相に似ている」
「似ている、とは」
「自分の手を汚さず、他人を動かす技術に長けている。そういう人間は便利だが、信用はできない」
推しが前世の婚約者を「信用できない」と評している。複雑な気分だが、正確な評価だ。
「だが、もし影響が出たら」
「すぐに申告します」
「それでいい」
資料を広げた。二十五年前の宮廷年鑑の続き。
燭台の灯りが揺れるたびに、殿下の銀灰色の髪が光る。その横顔を盗み見ながら、わたしは文字を追った。
だが、指先に残る緊張が、なかなか抜けない。ダリウスの碧い目が、記憶にこびりついている。
あの目は、前世で三年間見つめた目だ。今は敵として見なければならない目だ。
前世の婚約者と、現世の謎が、同じ王宮の中で交差し始めている。
——あの男がここにいるのは、偶然ではないかもしれない。




