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第1話 死の間際に聞こえた拍手喝采

死ぬ直前に見た景色が、夕焼けではなく水たまりだったのが、わたしの人生を端的に表している気がした。


 冷たい石畳に頬が押しつけられている。視界の半分が赤黒く滲んで、残りの半分には、割れた空が映っていた。


 痛みはもうほとんどない。あるのは、ただ鈍い後悔だけだ。


 ——ああ、もっとちゃんと生きておけばよかった。


 コレットという名前の、なんの取り柄もない平民の娘。それがわたしの前世だった。いや、前世というのは正確ではない。今まさに終わりかけている、この人生そのものだ。


 パン工房で働き、つましく暮らし、身の程をわきまえた恋をした。婚約者のダリウスは、伯爵家の三男だった。身分違いの恋だと周囲に言われたが、彼が「君だけだ」と囁いてくれた夜を、わたしは信じた。


 三年間、信じた。休日のたびにダリウスの屋敷に通い、彼の好きなレモンの焼き菓子を焼いて持っていった。伯爵家の三男という微妙な立場の彼を、わたしなりに支えているつもりだった。彼が疲れた顔で愚痴を言う夜には、隣に座って黙って聞いた。それが恋だと思っていた。


「コレット、悪いが婚約は解消させてもらう」


 彼の声には、申し訳なさすら混じっていなかった。代わりに混じっていたのは、少しの苛立ちだった。まるで、面倒な書類仕事を片付けるみたいな口調で。


「男爵家の令嬢との縁談が決まった。家の都合だ。君も分かるだろう」


 分かるだろう。その五文字が、三年分の「君だけだ」を粉々にした。


 わたしは泣かなかった。泣く代わりに、息を止めた。止めて、止めて、窒息しそうになってから、やっと吐き出した。吐き出した息は白くて、冬の夜気に溶けて消えた。わたしの三年間も、あんなふうに消えるのだと思った。それが精一杯の抵抗だった。


「……分かりました」


 分かっていない。なにも分かっていない。でも、それ以外に言える言葉をわたしは持っていなかった。平民の娘には、伯爵家の事情に口を挟む権利がない。わたしは最初から、ダリウスの人生における端役だったのだ。


 ——いや。端役ですらなかった。


 婚約破棄のあと、わたしは仕事に戻った。パンを捏ね、窯の火を見て、売り場に並べる。同じ日々。同僚たちは気を遣って何も聞かなかったが、時折わたしの手元を心配そうに見ていた。パン生地を捏ねる力が少し弱くなっていたのだろう。焼き上がりのパンの形が、少しだけ歪んでいた。ただ、帰り道の足取りだけが少し重くなった。


 唯一の慰めは、一冊の物語だった。


 古本屋で見つけた、装丁も安っぽい薄い本。『蒼穹のセレスティン』。ファンタジア大陸を舞台にした、架空の王国の物語。冷徹だが民思いの王太子セレスティンが、腐敗した王宮を浄化していく話。


 わたしはこの物語に、救われた。


 セレスティン殿下が剣を振るたびに胸が高鳴り、悪党を追い詰めるたびに拳を握った。推しがいるだけで、明日を生きる理由になる。大げさではなく、本当にそうだった。


 だから、あの夜も、物語の新刊を手に入れた帰り道だった。


 足取りは軽かった。新刊を読むのが楽しみで、いつもより早足で路地を曲がった。


 そこに、人影があった。


 顔は見えなかった。暗がりの中で分かったのは、相手の手に何かが光っていたことだけだ。


 衝撃。胸に走った熱い痛み。膝が折れて、石畳にくずおれた。


 どうして。誰。なんで。


 疑問が渦巻くのに、声が出ない。口の中に鉄の味が広がる。


 視界がぼやけていく中で、わたしの手からこぼれ落ちた本が、水たまりに落ちた。表紙の『蒼穹のセレスティン』という文字が、赤い水に滲んでいく。


「……推しの新刊、まだ読んでない、のに」


 最後の言葉がそれだったのは、我ながらどうかと思う。


 でも、偽らざる本心だった。


 セレスティン殿下の結末を見届けたかった。あの物語の中で、殿下がどんな顔で笑うのかを知りたかった。


 意識が遠くなる。暗闇が迫る。


 そのとき、不思議な音が聞こえた。


 拍手だ。


 どこか遠くから、盛大な拍手が聞こえる。まるで芝居の幕が下りたあとのように。


 ——なに、これ。わたしの人生に拍手してくれる人なんて、いないはずなのに。


 暗転。


 そして、光。





 目が覚めたとき、最初に感じたのは、枕が柔らかすぎることへの違和感だった。羽毛だ。頬に当たる感触が、パン工房の二階で使っていた煎餅みたいに薄い枕とはまるで違う。身体全体がじんわりと温かい。毛布の質が明らかに違う。肌に触れる布地が滑らかで、まるで絹のようだった。


 パン工房の二階の、煎餅みたいに薄い枕で寝ていたわたしが、こんなふわふわの枕を持っているはずがない。


 次に感じたのは、匂いの違いだった。小麦粉と酵母の匂いがしない。代わりに、白檀に似た上品な香りが鼻をくすぐる。


「……ここ、どこ」


 起き上がって、周囲を見回した。天蓋付きのベッドではないが、それなりに立派な部屋だった。木の温もりがある調度品。窓からは、朝の光。


 そして、枕元に置かれた一着の衣装。


 深い紺色の上着に、銀の刺繍。胸元には小さな紋章が縫いとられている。


 この紋章を、わたしは知っている。何百回と読み返した物語の中で、何度も描写されていた紋章。銀糸で鷹の翼を模した精緻な刺繍。指先で触れると、糸の凹凸がはっきり分かる。現実の手触りだ。夢ではない。


 『蒼穹のセレスティン』に登場する、王太子付き側近の紋章だ。


 心臓が跳ねた。いや、跳ねたなんてものじゃない。心臓が胸骨を蹴破ろうとしている。手が震え、膝が笑い、視界の端がちかちかする。


 鏡を探した。部屋の隅にある姿見に駆け寄って、自分の顔を見た。


 知らない顔だった。栗色の髪。琥珀色の瞳。前世のコレットより少し目が大きくて、鼻筋が通っている。二十代前半の女性の顔だ。


 ——待って。


 記憶が流れ込んでくる。この身体の持ち主の記憶。名前はフラウ。平民出身だが、事務処理能力を買われて王太子付きの第三側近に抜擢された女性。


 フラウ。


 フラウ? あの物語で、名前だけ出てきた端役の側近。台詞もなく、設定も薄い、背景に溶け込むだけのモブキャラクター。よりによって、そのモブに転生したのか、わたしは。だが待て。モブということは、物語に干渉しない立場だということだ。つまり——推しを近くで見られる、最高のポジションではないか。


「ぶふぉ」


 変な声が出た。出てしまった。動揺が喉を直撃したのだ。


 落ち着け。落ち着けわたし。


 整理しよう。


 わたし、コレットは、路地裏で刺されて死んだ。そして目覚めたら、『蒼穹のセレスティン』の世界に、側近のフラウとして転生していた。


 つまり。


 推しの王太子セレスティン殿下の、側近。


 殿下の。側近。


 わたしが。


「ぶ、ぶふぉ……」


 二度目の「ぶふぉ」は、もはや言葉ですらなかった。感情がオーバーフローしたときに漏れる音。推しが尊すぎる情報を処理しきれなかったときの排気音。


 膝が震える。手も震える。全身が震える。


 だって。殿下の傍で働けるということは。毎日、あの銀灰色の髪と深い紫の瞳を間近で見られるということで。


 ——いや待て。


 震えが別の種類に変わった。


 記憶が、もう一つ、流れ込んでくる。フラウの記憶ではない。コレットの——前世のわたしの、最後の記憶。


 路地裏。暗がり。光る何か。


 あの瞬間、視界の隅に映ったものがある。暗くてよく見えなかったけれど、確かに見た。


 犯人の袖口に、刺繍があった。


 あの刺繍のデザイン。どこかで見たことがある。この部屋に来て、この衣装を見て、やっと思い出した。


 王宮の——紋章だ。


 わたしを殺した犯人は、王宮の関係者。


 足元から冷気が這い上がってくるような感覚に、わたしは枕元の衣装を見つめた。


 推しの傍で働ける夢のような環境。


 その同じ場所に、わたしを殺した人間がいる。


 ドアの外から、朝の支度を促す鈴の音が聞こえた。


 側近としての初日が始まる。推しに会える。殺した犯人にも会うかもしれない。


 わたしは深呼吸をして、紺色の上着に袖を通した。


 ——殺されたまま終わるつもりはない。前世は、何もかも諦めて生きていた。婚約破棄されても声を上げず、不条理を飲み込んで、最後は暗がりの中で命を奪われた。今度は違う。この身体には前世の記憶がある。この世界の知識がある。そして何より——推しの傍にいられる。


 でもまず、推しの顔を拝ませてください。話はそれからだ。


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