第4章 カラスの道
人は、忘れたいことを忘れられるわけではないが、時として、過去は唐突にその姿を現し、我々の心を強く揺さぶります。だが、それをどう受け入れ、向き合うかは私たち次第です。この物語は、あるひとりの青年が長い間心の奥底にしまい込んでいた記憶と再び向き合う過程を描いています。どんな秘密も、最終的には表に出るが、それをどんな形で受け止めるのか…それがこの物語のテーマでもあります。
夕食の匂いが廊下に漂っていた。
靴を脱ぎながら、胸の奥に沈んだ重さがずっと抜けない。
リビングの明かりに照らされた母の背中を見た瞬間、言葉が詰まりながら今日の出来事を話した。
「母さん…今日ね……とある病院に行ったら、俺を担当してくれた看護師に会ったんだ。入院してたときのこと、全部教えてくれたよ。……なんで今まで黙ってたの?」
母はゆっくりと顔を上げた。
表情は薄暗く影を落としている。
「あなたに……思い出してほしくなかったのよ。」
「そっか。でも俺は、知りたかった。友達――いや、家族みたいだった親友のことを。」
言葉を吐き出すたび、胸が熱くなり、頬をつたって涙が落ちた。
「そうよね……隠しててごめんなさい。今度、お墓に行ってお別れを言いましょ。」
「うん。絶対行く。」
強く頷き、俺は自分の部屋に戻った。
ベッドに倒れ込んだとたん、重たかった頭の中がふっと軽くなる。
「今日は本当に……疲れた。まさか自分に、あんな過去があったなんて…」
窓を開けると秋風が流れ込み、カーテンが静かに揺れた。
その風に当たりながら、ふとポケットから取り出した封筒を見つめる。
――雲を突き進むカラスの絵。
どこかで聞いたことがあるようなないような。
意味のわからないざわつきだけが胸に残った。
考えているうちに意識は沈み、暗闇へと落ちていった。
ハッと目を開くと、そこは自分の部屋ではなかった。
揺れる視界、聞き慣れたエンジン音。
俺は車の後部座席にいた。
「お兄ちゃん、起きた?もうすぐ着くって。」
横で妹がこちらを覗き込んでいた。
「え……どこ向かってるの?」
「は? 鴉雲寺だよ。親友にお別れ言いたいから連れてってって、お兄ちゃんが言ったじゃん。」
「……そ、そうだった。ごめん、寝ぼけてた。」
「しっかりしてよね。」
妹はわざとらしくため息をつき、腕を組んだ。
その仕草に少し笑ってしまった。
鴉雲寺――
あの封筒のカラスの絵と同じだ。
でも、こんな簡単な謎が答えなのだろうか?
疑問が浮かんだまま、車は寺の前に到着した。
山門は古びているのに、どこか鋭い気配を放っていた。
入口に描かれた黒いカラスは雲を割り、まるでこちらを見つめているようだった。
不意に背筋が冷える。
由来を読もうとした瞬間、母が呼んだ。
「潤、早くおいで。」
俺は慌てて家族に追いつき、寺の奥へ進む。
健の墓を探すが、家族は一切迷わず一直線に歩いていく。
まるで何度も来たことがあるかのように…
健の墓は、ぽつんと立っていてひどく汚れていた。
文字は苔と土に覆われ、ほとんど読めない。
周りの墓は日々手入れされているのに、ここだけが誰にも触れられていないようだった。
――どうして、ここだけ?
「潤、入口の蛇口で水を汲んできてくれる?」と母親に言われバケツを受け取る。
バケツを抱え歩いていると、一匹のカラスがこちらを見るように木に止まった。
カァ、と鳴くと、目の前には小さな男の子が立っていた。
家具屋で見た、あの子だ。
「君は……誰なの? 今度はどこにも行かずに教えて。」
男の子は微笑む。
「もう、僕のこと分かるでしょ?」
胸の奥で何かが弾けた。
「……健!」
涙が一気にあふれ、彼の姿が滲んだ。
「会いたかった……ごめん。お前のこと忘れてて。」
「気にすんなよ。」
健は笑いながら俺を抱きしめた。
懐かしい温もりが胸にしみる。
しばらく話していると、カァ、とカラスの鳴き声が寺に響いた。
「また新しい人が来たな。」
健がぽつりと呟く。
「どういうこと?」
「カラスは魂を運ぶんだ。寺で鳴き声がすると、誰かが死者の国へ行くか、そこから戻ってくる。」
「……そんな意味があったのか。全然知らなかった。」
「普通は知らなくていいことだよ。」
健の横顔が少し寂しげに見えた。
「そういえばさ、夏頃に夢を見たんだ。お前と家具屋の店員が出てきて……」
俺が笑いながら話すと、健の表情が急に沈んだ。
「あれ、俺の父さんだよ。」
「え……」
「父さんは家具屋で働きながら家具を作ってて……前に一緒に麦茶飲んだだろ? あのテーブル、父さんの手作りだった。」
「ああ……夢の中で、なんか懐かしく感じたのは、そのせいか。」
健は少し視線を落とした。
「俺が死んだ後、父さんはすぐに俺の後を追うように自殺した。
でも今、お墓のところにいるよ。潤のお父さんと仲良かったから、会えて喜んでるはずだ。」
「そっか……。」
「妹は元気にしてる?」
「ああ、毎日バタバタしてるよ。なんで?」
「秘密。」
その返事の意味を聞き返す前に、空気が静かになった。
沈黙が二人の間に落ちる。
しばらくすると、木に止まっていたカラスがカァ、と鳴く。
「潤。そろそろ帰る時間だ。」
「えっ……まだ話したいことたくさんあるのに!」
景色が暗く溶けだした。
「潤、これを。」
健が封筒を手渡す。
闇の向こうで、汚れた墓石にうっすらと「北野」の文字が浮かんだ。
その前に立つ健と、健の父が、ゆっくりと手を振っていた。
目が覚めた。
そこはいつもの自分の部屋だった。
手には、健から渡された封筒。
中にはQRコードの一部と、一枚の写真。
俺はその場所を一瞬で理解した。
――だって、ここは……
人は、どんなに過去を振り返ろうとも、決してその全てを理解することはできないのかもしれません。しかし、それでもその一部を知ることで、前に進む力を得ることができるのだということ。
健がくれた言葉、そしてあの封筒に込められたメッセージ。それらが私を次のステップへと導いてくれると信じています。この物語が、誰かにとっても同じような力になれば嬉しいです。




