無垢な僧侶は祝えない
クミアメの町の少し手前には小川が流れていて、陽光を浴びた川面は蜜のようにとろりとろりと揺らめいていた。
そのそばで膝を抱えて座るトロップは、川の中を、まるで宝物でも落としたように憮然とした表情で見つめていた。
「どうしたらいいの……」
呟き、深いため息をはく。
それをもう何度も繰り返している。そばに生えていた広葉樹の枝に止まっていた小鳥が一羽から三羽に増えていた。
「だけど……そんな知り合いもいないし……。――ん?」
俯いていたトロップがふと顔を上げる。
小鳥たちも枝から飛び立った。
土手の上から足音のようなものが聞こえてきたからだ。
ざりっ…………ざりっ……。
音だけで伝わってくる。
元気よく腕を振って、リズミカルに歩いてはいないことが。
倒れそうになる前にどうにか前に出した足の裏が、地面の小石の上を滑る音だった。
上の道では予想通りふらふらの足取りで歩く、少女が一人いた。
十八の歳を迎えるトロップの胸ほどの低い背丈、旅を続けていることを暗に語る薄汚れたマントに着られている。
そして何より、トロップよりも丈の長い杖が目を引いた。飾りのない簡素な杖だ。
もはやその杖をこつんと足の先で突けば簡単に倒れてしまうだろう。
膝がケタケタと笑っている様子に、トロップは思わず駆け出し、その身を腕で受け止めた。
「だ、大丈夫なのあなた? この辺りじゃ見ない顔だけど」
「あ、は、はい……ありがとうございます」
小動物のように大きな目が特徴的な顔だった。都会で着飾る貴族たちのように垢ぬけてはいない。
「……って、杖……ってことは、あなた魔導師様!?」
トロップは切れ長の目を大きく見開く。
「うえっ!?」
杖を持つ少女はトロップに負けないくらい驚いた。
「ぜぜぜぜ、全然全然全然違います! ままま、魔導師様を名乗るなんてそんな……誤解でも恐れ多いです!」
先程のよろめきが嘘のように素早く手を振り、首も振り全力で否定した。青味の混ざった黒い短い髪がわさわさとはたきのように暴れる。
「そ、そうなの……?」
トロップが気圧され、露骨に肩をすくめる。
「す、すみません」
謝る必要はないのだが、その落ち込んだ様子に思わず少女はそう言ったようだ。
「私はまだまだ半人前のそのまた半人前の修行中の僧侶ですから」
「……僧侶様なの!?」
その単語はトロップの気持ちを回復させたようだ。
杖を持ったままの少女の手をトロップはがしりと掴み、
「お願い! 助けてほしいの!」
トロップは僧侶の少女の返事を待たずして、町の中へと引っ張っていく。
「私ね、明日結婚するの」
「そ、そうなんですか。おめで――」
しかし、険しい表情の今のトロップは、祝辞を求めていなかった。
「お父様が病で伏せてしまったの。こんな時に」
荒くなり始めた息を無理やり飲んで整える。
「ちょっと前からね、体調が悪くて苦しそうだった。だけど『お前の婚姻の儀だけは見てからじゃないと死ねない』って、誤魔化しながら頑張ってきたんだけど……急に、昨日の夜から」
トロップの目尻に涙が溜まっていたが、彼女は流れる前に、空いてる方の手の甲で拭う。
それでも零れてしまった涙が宙に消えてしまいそうなほど、彼女の足取りは早く、少女は躓きそうになりながらも腕を引かれる速さに遅れまいと必死に足を動かした。
「ホント、あとたったの一日なのに……急に今日式はあげられないし。ていうか今日だったら私を見届けるなんてとても、あはは。ホント、運がないんだから」
「こ、ここまで頑張ってきたんですから、そう言っては――」
「わかってる!」
トロップは町の中ほどで急に足を止めてそう叫んだ。
少女はついに躓いて転んでしまう。
行き交う町の人たちが怪訝そうに、物珍しそうに一瞥しながら、通り過ぎていく。
「……ごめん、大きな声出した。……でも、お願い!」
トロップは少女の腕を掴んで立たせると、その両肩を握った。
傾き始めた陽の光は、少し伸ばした二人の影を石畳の上に描いていた。
「生き返らせてとは言わない。まだ死んだわけじゃないしね。病を治してほしいだけなの」
トロップの瞼が、涙を止めるように細くなる。
少女は顔に影をさす。
「……ひ、人の運命は、たとえ魔導書に書かれた術を用いても簡単に覆せるものではありません」
トロップの眼差しから逃げるように斜め下を向いた。
「どうして? あなたたち魔導師様は、不思議な力で病気やけがを治せるんでしょう!? だったら!」
トロップはもはや加減ができないとばかりに、少女の体を揺らした。
少女が幼い顔を苦痛に歪めたことに気付いて、ようやく息を飲んだ。
「ご…………ごめんなさい。つい……」
いえ――少女は弱い笑顔を見せて言う。
「天の采配は、そう簡単には変えられないと大魔導師様も仰ってました。その先に続くのであれば、怪我や病も治せないことはないですが、理の先を創ることは、神魔の領域となりますので……」
「そう……」
トロップの手が、左、そして右と順に少女の細い腕を滑り落ちていく。
少女は、慰めることもなく、共に堕ちることもなく、静かに告げた。
「……ですが、少しだけ、お力添えはできるかもしれません。永遠というわけではないですが、その……一日くらいの少しの時だけなら、延ばせるかもしれないです」
「え……そ、そうなの?」
「人の運命を超える為に必要なものは、膨大な魔導の力ではなく――」
「――お父様」
トロップの家は、町の中でよく見かけるこじんまりとした家だった。貧しすぎず、富すぎず、この辺りの町村でよく見かける中流家庭だ。
奥の部屋の簡素なベッドにトロップの父は寝ていた。
燈會の灯りの下でも、その顔色が青白いと分かる。
彼女の呼びかけに、皺のきざまれた瞼がゆっくりと持ち上がった。
「……トロップか」
父のガウム氏の、痰が絡んだこ声だった。「すまんな。明日はお前の婚姻の儀だというのに」
「……」
トロップはその言葉には、何も返さなかった。
笑うような困ったような複雑な表情を浮かべるばかり。
やがてぎゅっと目を閉じると頭を振るって、笑顔を作った。
「お父様、僧侶様をお連れしたの」
トロップが振り返ると、母親と僧侶の少女が部屋に入ってきたところだった。
乳鉢と、薬を飲むための水を運んできた。
「おぉ……」
父は、しわ枯れた低い声を唸らせた。「何かの思し召しか。僧侶様が。まさかこのような偶然が……」
「あ、あのっ」
マントに身を包んだままの僧侶は、ひどくあせあせとしていた。
「わ、私はまだまだ修行中の身ですから、そうかしこまらないでください」
杖にしがみつくように両手でぎゅうっと握りしめている。
その後ろでトロップの母がベッドそばのテーブルの上に乳鉢を置いた。
少女はガチガチに震えながら鉢の中で薬草や木の実を混ぜてすり潰したものに向かって、杖を構えた。
「え、えいっ!」
振り下ろされた杖の先端から、緑の光が……パッと散った。
そう――ひとつまみの塩でも振りかけたように。
「へ?」
思わずトロップがそう漏らした。
「でで、ですから、私は修行中の身でして……ごめんなさい……」
それでも一応、薬草のペーストに降りかかったようだ。色が似ていてパッと見ただけではよくわからないが。
「いや、とんでもない……」
父が弱々しくも微笑を浮かべた。「僧侶様にわしなどのためにお祈りをしてもらえるとは、贅沢に過ぎるというもの……ありがとうございます」
「お父様……」
「あ、あの。」
少女は父の手を取り、言った。
「人の運命を変える為、乗り越えるために必要なのは、魔導師の大きな力だけではないです。人の、強い意志が必要なんです」
――多分。
と付け加えた小さな小さな声は、体力の少なくなった父には聞こえていなかった。
「――ありがとうね」
薄暗い廊下に出ると、扉を背にしてトロップは少女にささやいた。
「ひとまず薬は飲んでくれたし。朝はそんな元気もなかったから」
「い、いえ……」
少女は引きつった笑みを返す。
「何かあなたにお礼しなくちゃ。と言っても、ご覧の通り質素な暮らしだから、大したお金はないけど」
「いい、いえ! 私は修行中ですし、それにお金はもらえません」
「そ、そうなの? でもそれじゃあどうしよう? ちょっとした食事しかないけど――」
「お願いします!」
この日、トロップは少女に出会ってから一番元気な声を聴いた気がした。
「ぱ、パンとスープだけでかまいませんので! というかそれが好きです!」
一頻り興奮した後、少女は顔を赤くして小さくなった。
「すすすす、すみませんすみません! 私……」
トロップはそんな少女の姿につい吹き出してしまう。
「ふふっ。大丈夫よ。あ、もう遅いし、今日はうちに泊まって行きなさいよ。……えーっと……」
「は、はい?」
不思議そうに見上げてきた少女へ、トロップは苦笑いを返した。
「そう言えば、あなたの名前聞いてなかったわね。あはは」
「――……お父様?」
部屋を覗いたトロップはそろりと声をかける。
父は、すっかり眠っていた。灯りの消えた室内は、星屑たちの光が窓から入り、青く染まっていた。
このまま、朝になっても起きないのではないか――そう思うと、トロップはおちおちと眠ることもできなかった。
「お父様……私、信じてますから。お父様の強い意志を。強いお父様を……」
トロップはベッドのそばに椅子を置くと、父の手を取る。
怒った声、笑った顔、逞しい腕、広い背中……。
派手ではないが、いつを振り返っても幸せに溢れていたことを思い出し、トロップは静かに泣き始め、そしてそのまま眠りについた……。
「――トロップ……これ、トロップ。起きぬか」
「……んあ?」
体を揺り動かされ、トロップは目を覚ました。
開いた瞼の向こう側には、父の笑顔があった。
明らかに、昨日までと違うその顔色に、その声に、トロップの寝ぼけていた頭が一気に覚醒する。
「え……お、お父様……?」
「こんなところで寝て風邪を引いたらどうするんだ。今日はお前の大事な日だろう」
「お母様!」
「トロップ、お前も見たのかい、父さんの様子を」
台所で二人は手を取り合う。やつれていたように見えた母親の顔も、今はもうふっくらと膨らんでいるようだった。
「うん。すごい、一晩であんなに……」
「でも……それでも、そうは長くないってね」
母は諦めたようにため息を吐きながら言った。
「うん。でも……あ、そう! あの子は!? お礼を言いたいのに、どこにもいないの」
母は窓の向こうに映る町並みに目を向けた。
「あの子、どうやら夜明け前に出たみたいだね」
「え!?」
「酷く申し訳なさそうだったよ。昨日の夜も最後まで念の為にってお薬を作りながら『お役に立てずすみません』と言ってたからね」
母の手の中には、ボウルに山盛りされたペーストがあった。
「そんな……そんなことない! たとえそうだとしても、今日という日を迎えることができたんだから」
しかし、トロップが町の外までを探している時間はなかった。
トロップの婚姻の式は無事行われた。
隣町より神官がやってきて、教会では恭しい式があげられた。
二人が住む新しい家には親類縁者、隣近所の人たちが集まり、盛大にお祝いしてくれた。
もちろんその中には、トロップの父も笑顔で並んでいた。
昨日までの病床に伏せていた様子が嘘のように、自分の足で立っていた。
みんなも、トロップの結婚以上に、そのことを祝っていた。
だけど、トロップと母だけは、次第に複雑な気持ちになっていた。
明日になったらもう――。
そんな邪念を払う様に、トロップは静かに首を振る。
今を大切にしよう――そう胸の中で誓う。
そして隣に立つ夫を愛すことを誓った。
それから半年――。
トロップの父は、みんなに見守れながら……。
「おお! ガウムさんよ、今日もはりきってんな」
今日も元気に農作業をしていた。
「あぁ、長いこと寝ちまってたから、取り戻さなきゃな」
そんな日常的なのんびりとしたやりとりを眺めながら、トロップは引きつった笑みを浮かべた。
「え……お父様全然元気なんだけど。めちゃくちゃ鍬ふりまわしてるんだけど。あの子、一日伸びるかどうかとか言ってたのに……。あの子が作ってくれたお薬もとっくに無くなってるのに。いや、もちろん、元気なのはいいんだけど……」
「あの子?」
隣にいたトロップの夫が訊き返す。
「あ、うん。実は――」
夫が心配しないように、あの日のことは今まで黙っていたのだ。
「――で、薬に力を付与して下さったみたいなの。こんなことなら、あの時追いかけて、オネットにもっとちゃんとお礼しとけば良かった」
「おねっと…………え、オネットだって!!?」
夫は目を真ん丸にして驚いた。
「う、うん。え、知ってるの?」
トロップは簡単に訊き返す。まるで隣町の自分の友達のことでも思い描くように。
「噂で聞いたことがある。大魔導師様のただ一人のお弟子様の名前だよ! 君も聞いたことがあるだろう? 都を襲った大火災や、ベグール川の大洪水を静めた大魔導師様のこと。あとまぁ、偏屈でも有名な大魔導師様だけど、生涯でただ一人お弟子様と認めた女の子がいたはず。うん、間違いない、その名はオネットだったよ!」
「ええええええええええええええええええええええええ!?」
「――うぅ……あんな調子の良いこと言って……まだ見習いのくせに、恥ずかしいやら申し訳ないやら……」
オネットは霞み始めた星空の下、一人顔を赤くしたり肩を落としたりしていた。
「どんな顔して明日の朝を迎えたらいいのかわからなくて、出て来ちゃいましたけど……。お父様の意思の強さを信じて、一日でも長く命が続けばいいなぁ……」
オネットは杖と薄紫にけぶる朝焼けを頼りに、一人修行の旅を続けるのだった。
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