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祖父のドーベルマン、イヴ

作者: 寸田武雄

ドーベルマンという犬について、私はとにかく複雑な思いを抱いている。映画の悪役、ヤクザやマフィアが飼っている、悪役の犬、というイメージが、なんとなく刷り込まれている。


そういう描写をたまたまテレビで見かけた映画などで見てしまうと、なんだかまたドーベルマンというスラッとしたあの犬の気高さを汚されたようで嫌な気持ちになるのだが、同時に、私自身が幼少の思い出から、ドーベルに苦手意識を持っているのだから世話はない。


ドーベルマン。あの、毛が短く、黒く光沢のある毛並みの、三角の耳を持った犬。栄えある警察犬の一種。尻尾は短く、肛門が丸見えになっている。スラリとしたしなやかな体は、他の犬と比べてもそのスタイルの良さは比較にならないだろう。


とはいえ、幼少の記憶を振り返れば、いざドーベルマンにまた接することがあれば、私はへっぴり腰で逃げ出すだろう。その自信がある。


祖父は昔から、犬を飼っていたらしい。その種類は秋田犬にシェパードなどだったらしいのだが、その姿はアルバムですらお目にかかったことはない。


したがって私の知る祖父の飼い犬は自ずとドーベルマンに限られる。その中で、特に私が印象に残っているのは、イヴと名付けられたドーベルだった。


イヴは私が生まれた時は既に成犬として、祖父の家にいた。両親が何かと多忙のとき、祖父の家に預けられるのだが、そのリビングには昼間にも関わらずカーテンが閉められていた。


その向こうには中庭が広がっていて、そこにイヴが住んでいた。


祖父にとっては私は孫で、十分身内と呼べただろうが、イヴにとってはそうではない。お邪魔します、と玄関で声を上げると、変質した空気にイヴはすぐさま反応した。カーテン越しに、荒い息遣いが聞こえてくる。


そして、私を見るなり、窓ガラス越しに吠えかかるのである。長い舌をハッハッ、と垂らしつつ、耳をピンと尖らせ、前足で、ちょっとした洗濯物を干すための柵を踏みつけては身を乗り出し、下腹を震わせて大声で吠える。ワン、ワン……と。


イヴにとっては私は部外者で身内ではないのである。


一方で、大好きな飼い主である祖父が家に招き、普段は自分にだけ構ってくれる相手が、私という異分子にかかりきりになっているという状況が、イヴにとっては面白くなかったのかも知れない。


または、祖父が家にあげるくらいだ、自分に構うのも当然だと思っていたのかも知れない。


真意は定かではないが、とにかく、私が祖父の家に行くたびにイヴは敵意を剥き出しにして吠えかかった。幼い私にはそう思えた。


故に私は、すっかり犬がだめになってしまった。祖父の家に遊びに行くことは幼い頃の楽しいお泊りであったが、そこにいる番犬とでも言うべきイヴは、相容れない、祖父の家の中で唯一私を敵視する存在であった。


家に遊びに行ったからといって、祖父はしょっちゅう私に構っていたわけでもなく、イヴの世話に、中庭に降りていく事が多々あった。


途端に吠える声は鳴りを潜め、ハッハッ、と荒い息が聞こえてくる。祖父の腰に体を擦り付けるようにしてぐるぐると回り、前足を揃えたまま後ろ足でぴょんと小さく跳ねる。その姿は、私に見せるそれとは大違いだった。


イヴは、よく躾けられていたと思う。私は怖さからイヴと遊んでこい、と祖父に誘われても断っていたが、兄はそうでもなかったようで、よく祖父とともにイヴと遊んでいた。一度たりともイヴは、兄を噛みついたりすることはなかった。


それどころか、イヴは祖父のいない間、兄のボディガードを務めていたこともあったらしい。


イヴの散歩に兄がついていったとき、祖父が準備で少しの間目を離していた。その間、イヴは首輪をつけられ、そのリードを兄が持っていたらしいのだが、見知らぬ大人が近づくたび、イヴは兄の前に身を乗り出し、グルル、と低い声で威嚇していたというから、少なくとも、祖父の命令さえあればイヴは立派に兄を守ってくれる優しい犬だったのだろう。


兄が大丈夫なら、私も大丈夫なはずだ。子供特有の理論に基づき、幼い私なりに、イヴと仲良くしようとしたこともあったが、やはり駄目であった。イヴは犬歯を剥き出しにしてグルル、とうなる。こちらがへっぴり腰なのを見て、自分のほうが立場が上だとわかっていたのかも知れない。


私からすればどうしようもなく獰猛な犬であったが、そんなイヴは、寂しがり屋であった。


祖父がカーテンを閉めるとき、または、夜遅くまで電気をつけて、室内で身内の団欒を楽しんでいたとき、イヴは中庭から何度も吠えた。祖父を呼んでいたらしい。相手をしろ、と呼んでいたということである。


さすがに近所迷惑になるということもあって、祖父がうるさい、、と一喝すると、ついこちらが哀れに思えるほど、クゥン、クゥンと鼻を鳴らし、スピスピ、と力なく鳴いた。そして暫くすると、身動ぎする音すらしなくなったものだった。


そういうときだけ私は、ああ、この犬も祖父のことが好きなんだな、と思わずにはいられなかった。


今にして思えば、相手をしろ、だったのか、お前ばかりずるい、だったのか、ともかくコミュニケーションをとろうとするイヴに、冷淡にもカーテンを閉めてその姿をシャットアウトしていた自分は、なかなかに冷酷だったのではあるまいか。


とはいえ、やはりイヴにとって、私は眼中になかったのかも知れない。


ある時の散歩で、祖父がボールを投げ、それをイヴが咥えて戻って来る、というトレーニングに参加したことがある。私はちょっとした悪戯心から、祖父が投げた瞬間に、イヴと同時に走り出した。


元来体を動かすのが下手な私は、すぐにイヴに追いつかれた。


そこで、ちょっとしたラフプレーのつもりで、イヴの進路に思い切って飛び出したのだが、なんとイヴは、私のズボンを思い切り踏んで、背中で大きく跳躍すると、転倒する私をよそに、颯爽と走り去ってしまった。


背中を見せたほうが悪い、と当時家族から笑われたものだが、さすがの私もイヴを睨むと、すい、と目を逸らしたのを覚えている。家にいるときはともかく、散歩や遠出で全身を使って遊ぶときは、表情豊かな姿を見せてくれる犬であった。


そして、イヴを語る上で、決して外せないエピソードがある。


祖父は交配も自分で行っていたのたが、知り合いの牡のドーベルマンとの間で子供を産ませ、牝の犬を引き取る、という形で育てていた。


そのイヴが、とうとう母親になったのである。


生まれたばかりの子犬は、目を閉じて、鼻だけが動いているように見える。くんくん、と鼻を動かし、祖父を呼ぶイヴのようにクゥンクゥンと鳴くさまは、この私でさえも、ああ、犬はこんなにも可愛らしいのだな、と思わずにはいられなかった。目を閉じて眠っている人形のような小さな鼓動が、イヴの娘であった。


ところが、ふれあいを終えた頃、祖父が厳しい声で言ったのである。


ーーこれから、イヴを連れてくる、決して、触れようとするな、と。


仔犬のお披露目のため、祖父の車に乗せられて、自分の子犬を取り上げられていたイヴは、短い毛を逆立て、ヴヴ、と低く唸りながら、中庭を囲む親戚たちを威嚇した。祖父にしがみつくような素振りも見せず、むしろ、祖父の指示も嫌々聞いているようでーー普段見る、彼女の姿とは大違いであった。


彼女は自分の家へ、幼い娘を抱えていき、ようやく少しだけ冷静さを取り戻したようだった。


それでも、珍しく、祖父に向かって、ワン、ワンとーーまるで、どうして娘を取り上げたのか、叫ぶように吠えた。


それは、日頃私を威嚇するイヴの声そのもので、いざとなればイヴは、娘のためならば祖父にさえ躍りかかっていくようで、私は内心、気が気ではなかった。


これが、私の知る、ドーベルマン、イヴの物語である。そんなイヴも、グレイシアと名付けられた娘が、昼寝の邪魔をしたら怒って吠えるくらいだったから、その落差には驚いたものだ。


祖父の腰の周りをくるくると回り、器用に後ろ足をバネのように使って、踊るように身をしならせるイヴ。それを完全に真似るようなグレイシア。


2頭とも、祖父を置いて既に旅立ってしまった。グレイシアが、祖父の最後の飼い犬であった。


今も、2頭がいた中庭は、1日中カーテンが下りている。そこのカーテンを開ければ、こちらに気づいたイヴが、柵に両足を乗せて吠えかかってくるのではないか。


オニキスのように黒い光沢のある毛並みを光らせたあの美しい犬が、そこで長い舌を出して、ハッハッ、と荒い息を整えているのではないか。


そんな思いに駆られて、そっとカーテンの隙間から、中庭を覗くことがある。そこにはイヴたちの小屋、祖父が作った手製の小屋がある。ただ、イヴたちが、もういないだけなのだった。


イヴ達が出迎えてくれない、祖父の家は静かにひっそりとしている。門扉をくぐり、伺うのを躊躇わせるような空気は、ある意味、イヴがまだ家をあのつぶらな眼でじっと見張っている証なのかもしれない。



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― 新着の感想 ―
私は犬好きな方で、あまり犬に嫌われる事も無いのですが、何故か母方の実家の犬にだけは嫌われていて、小学生の頃帰省するの度におどかされていました。 何故だったのか、私は仲良くしたかったのですが。 そんな事…
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