這いずる札
大切な駒を取り戻そうと、何度も何度も名前を呼んだ。
今すぐとはいかなくとも、繰り返し名前を呼んでさえいれば、そのうち自分の元へ戻って来ると。彼女は自分の声を絶対に無視できないはずだと信じ、ルーチェは幾度も繰り返し氷依の名を呼び続けた。
しかし、どれだけ名を呼ぼうとも、彼女はルーチェの前へ姿を現す事はなく。
何故なんだ?
握り潰した札から薄らと漏れ出した黒い靄を、ルーチェは憎々し気に睨み付けた。
もし氷依が攫われたりしていなければ、この札の中に封じ込められている魔性の魔力をなんとかして彼女の身体に注ぎ込み、魔力を補充するつもりだった。例えそれが純粋なる氷依の魔力でなかったとしても、元は同じ魔性という種族の魔力だ。互換性はあるだろうと考えて。
なのに今、氷依は攫われ、何処にいるのか全く居場所が掴めずにいる。
恐らくはまだ捕らえられているのだろう。でなければ、彼女が自分の元へ戻らないなどあり得ない。
そして多分──あの灰色の髪を持つ男こそが、この札に込められた魔力の持ち主に違いないという確信がルーチェにはあった。
確信に至った理由は、魔性独特の魔力の『色』だ。
殆どの魔性は、見た目と同じ色の能力を使う。水色の髪と瞳を持った氷依が水や氷の能力を使っていたように、あの灰色の魔性も結界を張った際、彼の周囲にぼんやりと灰色の膜ができていた。
今握っている札から漏れている靄は黒く見えるが、光に翳すと灰色に見えなくもないし、黒っぽい灰色のものが寄り集まれば、それは限りなく『黒』へと近づく。
そう考えれば、疑いようはないと思った。
そして恐らく、この札に吸い取られた魔力の残滓を追って、あの男はここへとやって来たのだ。他者の魔力は追えずとも、自分のものであれば、追うのはそう難しい事ではないのだろう。だからこそ彼の魔力を吸った札と共にいた氷依は見つかり、連れ去られてしまったのだ。
しかも、狙ったかのようにルーチェの作成した札を新たに身体へ貼り付けられて──。
「氷依に興味があったのなら、大人しく氷依だけを攫っていけば良かったものを……」
彼女の身体が盾として使われた時の光景が脳裏に浮かび上がる。札が貼り付いた瞬間、彼女はなんとも言えない苦し気な表情を浮かべていた。
既に魔力が心もとない状態に陥っていた氷依が、再度札を貼り付けられて無事な保証は何処にもない。寧ろ、氷依の身体に残る魔力の全てを吸い取られ、既に存在が消滅してしまっている可能性すらある。
「連れて行ったところで、札を剥がすことのできる人間がいなければ、氷依は助からないのに……っ!」
怒りに任せ、ルーチェは拳で壁を殴りつけた。
彼にとって、氷依は大切な、たった一つの駒であった。
人間と比べ、とても便利で使いやすい。これから更に役立ってもらう予定であった駒だったのに。
「こんな事で……こんな簡単にっ!」
奪われなければならないなんて──。
どうしてこんなにも邪魔ばかり入る? 何か目に見えない不可思議な力のようなものでも働いているのだろうか?
いや、そんな考えは馬鹿げている。馬鹿げているが、こうも邪魔ばかりされると、どうしてもそのような考えが頭に浮かんで離れない。
迷信……なんてもの自分は絶対に信じないが、思わず信じそうになってしまうぐらいには、今の状況はルーチェにとって絶望的なものであった。
「……ん?」
ふと、ルーチェはそこで、床を這うようにして動く一枚の札に目を止めた。
ミルドが王宮へ持ち帰った際、一枚だけ真っ黒に染め上げられていなかったものだ。それが今、意思を持っているかのように、ゆっくりと動いている。
まるで、目的を持ってどこかへ向かっているかのように。
「……どういうことだ?」
問いを漏らし、札が向かう方向へと目をやったルーチェは──視線の先に、土下座するミルドの姿を認めたのだった。




