再出発
ラズリの初めての街での暮らしは、比較的穏やかに毎日が過ぎていった。
食べ物は買わない。店を見て回るだけなら構わないが、試食を貰うと見返りが発生する為、それも禁止。奏については、外出する際必ずフード付きの外套を羽織ることと、宿屋以外の場所では絶対にフードを外さないこと。などなど、幾つかの制約はあったが、そのどれもが簡単に守れるようなものであった為、ラズリはそこまで窮屈な思いはしなかった。
寧ろ、たったこれだけの約束事を守るだけで自由にできるなんて最高だとばかりに、連日外出しては街を隅から隅まで見て回ったのだ。
おかげで沢山の人達と顔見知りになれたし、最近では街で出会った人達と気安く挨拶を交わせるようにもなり、日を追うごとに大好きな人達を失った心の傷が癒やされていくような気がした。
狭い路地裏に入り込んでしまった時は少々怖い思いもしたが、そこは奏がさり気なく何とかしてくれて、怪我ひとつせず事なきを得ることができた。しかし、相手には少しやり過ぎてしまったらしく、後から闇に怒られたと奏はブツクサ言っていたが。
そんな風に毎日を過ごしていたある日、偶にしか姿を見せない闇が、宿屋の窓から外を見つつ、唐突にこう言った。
「そろそろ出発時ですかね?」
ドクン、とラズリの心臓が一際大きな音をたてる。
最初から、同じ場所に長く留まれないことは分かっていた。自分は王宮騎士に追われる身。もし見つかれば、街の人達も巻き込まれるかもしれない。だから適当に居場所を変えなければいけないのだと。
分かってはいたけれど、実際に言われると(嫌だ)と思ってしまう自分がいる。
「そうだな。あんま同じ場所に留まっていても、見つかる可能性が増えるだけだし。この辺りが妥当かもな」
奏が頷き、ラズリの荷物を簡単に纏めだす。
この街へ来たばかりの頃、大量に買い過ぎて闇に怒られた果物は、既に全部食べ切った。
今現在室内にあるのは、殆どがラズリの着用する服ばかりだ。移動する際は奏が持ち歩く──と言うより、次元の狭間? に放り込んでおくらしい──ようで、すぐに必要な物と今はいらない物とに分けられていく。
ねえそれ、私の服なんだよね?
どうして着る本人でもない奏が選り分けているのか意味が分からないが、次元の狭間から服を取り出すことはラズリには出来ない為、口を出すのは憚られ、黙って見つめるしかない。
王宮騎士に狙われているのは自分であり、奏と闇は自分の為に一緒にいてくれているだけなのに、街への滞在の是非を自分は問われることすらなく、勝手に決められてしまうことに悲しくなるのは、間違っているだろうか。
けれど、それを口にする事すらラズリにはできないのだ。
この街へ来たのも、この街から出て行かなければならないのも、全て自分の為だと知っているから。
ならば、せめてと──。
「じゃあ私、仲良くなった人達にお別れを──」
言ってくるね、と言おうとしたのだが。
「必要ありません」
と、冷たい声で遮られた。
「どうして? 私はこの街の人間じゃないけど、いきなり居なくなったら皆心配するでしょう?」
それに、せっかく仲良くなったのだから、せめてお別れを言うぐらいはしたい。少しぐらい別れを惜しんだって良いではないか。
そう言いたかったのに、闇から返ってきた言葉は、信じられないもので。
「私達が街を出た後、あなたに関わる記憶は住民からすべて消去致しますので、気に留めることはありませんよ」
だから、別れは必要ないのだと。
自分達が街からいなくなれば、誰一人覚えている者はいないからと、闇は告げたのだ。
「そんなの……!」
嫌だ、と言いかけて。
揺らぐことのない闇の緋色の瞳に、ラズリは反論を諦めて唇を噛んだ。
記憶を消すのは、この街の人達のため。王宮騎士が街へ聞き込みに来た時、ラズリのことを知っていれば酷い目に遭うかもしれない。ラズリの村を燃やしたように、ここもまた燃やされてしまうかもしれない。
だったら、何も知らない方が良いのだ。何も知らなければ、彼等は被害に遭うことはない。
「よし、行くか!」
態とらしく奏が明るい声を出し、俯くラズリの手を引いて歩き出す。
「元気出せよ、ラズリ。次の街にも同じような人間なんていっぱいいるって」
「うん……」
慰められても、そう簡単には割り切れないし、元気も出ない。
どうして自分が──。
村を燃やされてから、頭から離れない問い。
こんな事にならなければ、王宮騎士などに追われなければ、こんな気持ちにならなくて済んだのに。ずっとずっと、あの村で幸せに暮らしていられたのに。
「もう、何もかもすっ飛ばして王宮に乗り込んじまうか?」
ラズリがそうしたいなら、俺は構わないぞ?
と奏が茶化すように顔を覗き込んでくる。
一瞬だけ、そうしてしまおうか? と考えたものの、結局ラズリはその問い掛けには首を横に振った。
何となくだが、今はまだその時でないような気がした。
今王宮に行ってしまえば後悔するような、勇み足だと思えるような、そんな予感。
ただの予感かもしれないし、もしかしたら外れているかもしれないけれど。こういう予感は、無視するとあまり良いことがないような気がすることも確かで。
「此処からは、ゆっくり歩いて行くことにするわ。街や村だけでなく、他の森とかも見てみたいから」
辛い気持ちをひた隠し、心配気な奏にラズリは微笑んで見せた。
そう、急ぐことはない。
閉じられた村で育ってきたラズリには、まだまだ知らないことが山のようにあるのだから。
「分かった。じゃあ、そうするか」
快諾した奏に、背後から闇の声が飛んだ。
「森の中は危険な物が多いですから、十分に気を付けて下さいよ。私は一緒には行けませんからね」
「分かってるって。俺がラズリを危険な目に遭わせる筈ないだろ?」
「それが信用できないから言ってるんですが?」
ジト目で見つめてくる闇から逃げるように、奏は些か乱暴に宿屋の扉を閉める。
閉めたところで、闇からは見えているのに。
「こっからは暫く二人だけになるみたいだが、まぁ……変な物食わなきゃ大丈夫だろ」
もの凄く適当で、不安にしかならない一言。
「大丈夫、大丈夫」と繰り返す奏を見て、ラズリは危なそうな物は絶対に触らないようにしよう……と心に決めた。