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斬って繋がる。この想い。

作者: 柏望

百合!アクション!前回の指摘を生かしてバンバン書きました。

落文投稿もだいぶ数が増えてきたのでこれからも頑張ります。


 朝日が差し込み始めた道場の中で剣戟の音が満ちていく。

 鏡のように磨かれた板張りの上で、師範の眼光を前に相手の区別なく、自在に技をぶつけあう。型を完璧に習得し、一定以上の実力を誇る門弟のみ認められた。地稽古と呼ばれる実戦形式の打ち合いだ。

 木剣を握りしめた男たちの恰好は様々で。道着。ジャージ。シャツ。上裸の者も少なくない。老若を問わず。上下の見境もない。剣が届く範囲の仲間を握りしめた木刀でひたすら打ち付けることに励んでいる。

 吠えるような声。空を斬り裂いて木剣同士が激突する音。踏み抜かんばかりの勢いで跳躍を受けた悲鳴の如き床の軋み。

 頬に赤みが差した少年が振り上げ、白髪の混じりの頭をした熟練が弾く。力任せにぶつけられる木剣の隙間を刺すような一撃が飛んでくる。

 加減はしない。この場に於いて、怪我をするならお前が悪い。

 全員が全員を打ち据えにいく暴力の坩堝。道場の中でも限られた者にしか許されぬ地稽古では。切り結ぶ者全てが己の全力を出して潰すべき相手だという信頼で繋がっていた。

 誰も彼もが闘争に酔うなかで、乱闘を見つめる六つの瞳がある。

 道場全域を視界に抑え、一人も逃さじと照覧しているのは師範。洛果(らくら)啓明(ひろあき)。還暦を迎えようとしつつも、なお、道場を営み門弟を統べる剣客である。

 一人一人の剣筋を捉え、同胞たちを理解しようと観察しているのは師範代。洛果昴。啓明の息子にして、次代の師範としても道場の内外から評判の高い青年だった。

 最後の少女は屏風や額の中の絵画を眺めるように、目の前で繰り広げられる鍛錬に見入っていた。洛果(さき)。今年の春に中学に進学したばかりの、洛果家の末娘。この場で最も年少であることを考慮しても、不自然に映る。

「畳め」

 啓明の言葉に、はいと一言で昴が横に置いた木刀を握り立ち上がる。闘争を始めた兄を見つめる閃の視線から昴が消失するのは一瞬だった。

 剛力。俊敏。頑健。精妙。体現するかの如き面々が次々に武器を手から落としていく。

 修練を重ねたものは視界の端に映る微かな残像を必死に追う。が、目に入るのはまた倒される同門の徒ばかりだった。

 残りは片手に収まるほど。足を潰し、指を飛ばさん。とばかりに猛りあっていた手練れたちが背中を合わせて同胞を打ち倒す一つの影に対応しようとする。

 一人が受けて、二人が総掛かりで倒す。互いが互いの死角を埋め、隙を庇いあう妙技はその場でできるものではない。今朝の地稽古の前から密やかに訓練を重ねてきたものだ。

全力で打ち合った。

立っているのは俺たちと師範代以外に誰もいない。

 だから仕掛ける。

 心技体をぶつけあう純粋な暴力の渦は。数人でたった一人を床に伏せるための策謀の静寂に変わる。

 この場にいる者、誰も卑怯だとは思うまい。


 受けた一太刀が宙を舞う。落下直前の木刀を昴が掴み、左右から飛来する一閃を防ぎ止めた。

「あ」

「おお」

 絶死致命。鮮やかな連携がなんということもなしに弾かれた。仕掛けた側からも驚嘆の吐息が漏れる。

 改めて認識する。

厳然たる実力差の前には小細工など無意味なのだ。

「そこまで」

 

 朝日に照らされた稽古場に大音声が響く。啓明の声は微かに年齢を感じさせる。それでも門弟たちにはなにより恐ろしくも心強いものだった。

「よし、お前たち。クーリングダウンだ」

「はい。若先生」

 昴が声を上げて外へ向かうと残りの門弟たちも背中を追う。ある者は隣に居たものの健闘を讃えながら。またある者は動きづらそうにしている仲間へ手を差し出しつつ。皆、師へと一礼をし、まっすぐ昴の元へ走っていく。

 啓明は静かに見送り。閃は声をかけた門弟一人一人に労いの言葉をかけつつ、後ろ姿を羨望の目で追っていった。

 あの中に自分がいたらどれだけのことができるのだろう。どれほど立つことができたのだろう。兄であり師範代である昴と打ち合えたなら。

「始めるか」

 細やかな夢想は父の声によってかき消される。

 これから先の時間こそ、閃がここにいる理由だからだ。

「構え」

 指図を受けた閃が瞬時に抜刀を完了させる。啓明の指が木刀に触れようとすると閃の放った一閃が飛来してきた。

 閃による刺突は常の者から見れば残像しか映らぬほどの迅速。が、啓明にはそよ風の如き生温いものだった。

 雷速の一撃が反転する。

 啓明の打ち込みは、攻撃を目に捉え、後から放っても、閃に回避を強いるほど速かった。

 怒涛の乱打が稽古の開始を告げた。

 先ほどまで行われていた地稽古とは違い、剣が手から離れ、背が床についてもまだ続く。

 当たれば骨と肉が弾け砕ける。掠めれば皮膚が抉れ千切られる。

 これほどまでの苛烈な修練に挑まされているのには理由があった。師範である啓明は、一子相伝の秘技を二子に伝授しようとしているのだ。

 本来ならば、昴のように完成した肉体と円熟した技術が伴って初めて伝えられるべきものだ。数段飛ばしでうら若き乙女に伝じようとする行為は無謀を通り越して愚の骨頂と言わざるを得ない。

 しかし。

 彼女は今もなお立っている。

 幼くして修羅への道を歩まされることを可能にしてしまうほどの才能が彼女にはあり。

 父は娘の才に目が眩んだ。

 兄を真似をして拾った棒を振り回す童女の頃から、剣を握り構えを覚えるようになり、ひりつくような闘争への恐怖が消え、逃げるばかりだったものが反撃と先制を行うようになり、時には数合打ち合うこともある。

 這えば立て。立てば歩め。歩めば??。

 鍛錬という名の虐待を行っていたとしても、胸中はありふれた父親のものだった。

 

 幾ほど経っただろう。

 父娘は道場に近づく足音を捉えた。師範代である昴が、寒水行や黙想を済ませた弟子たちを連れて戻ってきたのだ。

「ここまで」

 啓明が閃の木刀を叩き落として鍛錬の終わりを告げる。黙礼をして立ち去ろうとする娘に珍しく、声が続いた。

「放課後は如何に過ごす」

「勉学に励む所存です」

 閃は父に認められた時のみ剣術の修練を許されている。

 酷使から肉体を保護するためもある。だが、門弟たちの面子を守るため。という面が最も大きい。

 武術においては、世間で勃興している男女を並べようとする風潮は遠い。異性との戦いは勝って当然。負けて恥という考えがまだ根強いのだ。

 加えて閃は師範と師範代の係累である。

 閃がどれほどの腕前を発揮したところで、忖度と思惑が相手に全力を出させることを許さない。よって、双方の実力が正当に評価されることはないのだ。

 どれほど鍛錬を重ね、技術を磨こうとも、道場に於いて披露することはない。閃も承知の上だった。

 だからこそ啓明が続けた言葉に耳を疑った。

「剣道部にて精進せい」

 昴は剣道部に入らなかった。

 いずれ道場を継ぐ身の上だからではない。防具で身を固めた状態でなお、人を傷つけまいとする竹刀を用いる。究極的に言えば戦闘術でない剣道を習得することに意味を見出さなかったからだ。

 これは昴の妹である閃にとっても同じことだった。

 兄と同じ理由で、兄と同じく、勉学に励もうというのに父は違う言葉を投げかけてくる。

 師であり父の言葉だ。否応もないが、疑問は残る。

「戯れを学べ」

 啓明は閃に、同胞と切磋琢磨しあうことを望んだ。息子と同じような振る舞いを道場で与えられぬ以上は、部活動というまた別の環境に託すしかない。


 稽古場を出た後、ローファーを履いて中学校に向かう。その日の放課後、閃は剣道部に入部届を提出した。


 洛果閃の兄、洛果昴はかつて剣道部への入部を渇望されていた身だった。

 道場で活動しておらず、公式戦の記録もない。とはいえ、剣道部にとって昴の妹の入部は喜ばしい知らせだったに違いない。最初の内は。

 確かに、閃は剣術を学んでいる。しかし、剣道に触れるのは中学校に入ってからが初めてだった。

 道場での立ち振る舞いの癖が抜けない上に、自分で防具も着けられない。道場ではありとされていたことが危険すぎると禁じ手にされていることも多かった。

 強い。が、使えない。

 という評価が密やかに取り沙汰されるようになると、また別の問題点が浮上してきた。

 先輩への礼は失さず、絶対服従。掃除清掃の類は病的なまでに徹底的。

 道場の門弟たちの振る舞いを参考にして、閃は部活動に勤しんだ。しかしそれは。学生の物腰としてあまりに堅すぎる。

 剣道部の中で、閃の時代錯誤とすらいえる態度を揶揄うような風潮が現れた。

 閃も馬耳東風と言わんばかりに部員へ落ち込む様子を見せなかった。むしろ、師範の娘という立場すら物笑いの種にならんばかりの勢いが閃にとっては興味深い。

 退屈な部員生活の中で、閃の実力すら軽視してしまう連中がでてきてしまった。お互いにとって不幸だったろう。


「洛果。今日はお前がやれ」

 その日は、閃が主将によるしごきの相手となった。

 虫の居所が悪かったのか。はたまた機嫌が良かったのか。周囲にいる1年生には知る由もない。だが、痛い目に遭うのが自分でなくてよかったと心から安堵しているのにも違いはない。

 閃に組み手を挑んだ上級生は大会での主将を務める三年の大岸だった。名は体を表すとでも言わんばかりに彼女の身体は大柄で。戦い方も腕力を生かして相手の防御を打ち崩し一本を取りに行くという豪快なものだった。

 大会を踏まえると彼女の練習相手に戦力のあるものを宛がうわけにもいかず。かといって主将を務めるほどの腕前の持ち主に型だけを練習させるというのも難しい。

 いつの間にか、大岸の錬磨は実力のないものをにひたすら技をかけるという過酷な内容になった。練習試合という名目の『しごき』の相手は最下層の1年が務めることになる。

 しごきの対象になってしまった大半の部員は回避を選択しようとするが全国で優勝を狙うほどの技量が逃がさない。二年や同学年の中には切り結ぼうとするものも若干名いる。

 が、大岸が満足するころには床に伏して全身を痣だらけにするのが常だった。

 その中で、有名な道場の師範の娘が来たのだという。目をかけてやるつもりだったが、防具を付けるのにすら手間取っているようでは先も知れる。

 兄が入部を断ったのも、所詮は低い程度だったからに違いない。

 邪推と慢心が綻びを呼ぶことになる。


「洛果参りました。どうぞ宜しくお願い致します」

「おう。御託はいいから全力でかかってこいや」

 閃は迷った。

 門下生ならいざ知らず。たかだか中学生という浅い井戸の中で腕が立つというだけの蛙にどう相手すればいいのかわからなかった。

 道場では防具を付けない。木刀は当たり所が悪ければ簡単に死に至る。そうであるが故、打ち据えた後には遠慮があった。少なくとも、道場ではそうだった。

 対して目の前で笑う大岸はどうだろう。

 倒した相手に罵倒に等しき叱責を与え、それでもなお奮いあがったものを捻り潰してまた嘲る。

 仮にも目上であるので口を挟むようなことはしなかった。だが、自分に向けてそれを認めるつもりはない。見習うつもりもない。

 よし。ならば。


 剣道場のみならず、校庭にいるものまでが校内へ雷が落ちたものと錯覚した。

 

 大岸が威圧するように前進する中、閃は微動だにしなかった。

 それどころか、欠伸をこらえているように見えたと証言が出るほどにゆるりと竹刀を握っている。

 大岸は先の態度を明らかな挑発と捉えた。割らんばかりの声を上げ大きく振りかぶる。これは試合ではない。だらしない後輩に活を入れてやるのだ。

 だから、入院程度は問題にもならないだろう。

「め」

「めええええええん」


 ここで大岸の記憶は途絶えている。

 大岸が叫んだ後、閃の竹刀がピクリと動く。次の瞬間には主将が床に倒れ伏していた。

 体格で大岸が圧倒的に上回っている。閃は圧倒的後手に回っていた。そもそも一歩たりとも動いた形跡がない。

 しかし、この場において立っているのは新入部員のほうだった。

 皆が目を疑うなか、閃は竹刀を置いて大岸の防具を外す。鼻血を流す大岸に最低限の処置をした後は、悠々と保健室まで担いで運ぶ。

 

 後にこの一件は、大岸たっての希望で熱中症ということになる。熱中症による昏倒によって倒れたことになったので、閃の行動は不問とされた。

 主将を容赦なく一撃で打ち伏せた閃は部内で畏怖を集め、孤立した。


 とある日も閃は一人で素振りに勤しんでいる。会話をする相手こそいなくなってしまったが、誰の目をはばかることなく孤独な練習に励む。そんなことも道場の箱入り娘には貴重で新鮮な経験だった。

 といっても、購入したテキストをもとに、愚直なまでの基礎練習を繰り返しているだが。

 風変わりな同級生の元へ大岸から逃げるように訪れる同胞も少なくない。しかし、その日はなぜだか一人もいない。

 大会が近いからか。と一人合点して振っていた竹刀の動きが止まる。

 何かがいる。それもすぐ後ろに。

 殺気や回避すべき危険の兆候は感じないし認識できない。だが、練習場所まで足を運んできた者は、相手が自分を見る前に察知できるはず。誰も来ない体育館の裏で籠っていたのは、気配を感じ取る訓練も兼ねていたのだから。

 自身はあったがそれだけに、ここまで接近できる何者かは生半可ではない。

 ゆっくりと振り返ると、ジャージを着た女子生徒がこちらに向かって手を開閉していた。

 礼を失さないようにすかさず頭を下げつつ、足元の体育館履きの色を確認する。藤色は三年生に割り当てられた色だ。

 体育館履きのサイズはずいぶんと大きい。大岸のものを優に越えている。すらりとした長い足の筋肉は均整がとれており、つま先の一本に至るまで隙というものを見つけられなかった。立ち方も重心がどちらに寄ることもなく、すぐにどうとでも動けるようにしてある。

 道場に於いても、ここまで見事な立ち姿を自然に披露できるものは多くはない。

「上級生だからってそんな改まんなくてもいいよ。補習を受けに来たんだし」

「補習ですか」

 突拍子もないことを言われたので思わず顔を見上げて圧倒される。

 燃えているのだと錯覚するほどの明るい金髪が目に入った。相手が誰かは一目瞭然。染髪禁止のこの中学校で、見事な黄金の髪を持つものは桐枝柘榴(きりえざくろ)ただ一人。

 閃の耳に入る桐枝の噂は混沌を極めている。

 絶大な権力を学内に築いた生徒会長、銀城(ぎんじょう)荘丹弥(そにや)の親友。

 時代に残された最後の女番。

 不登校の生徒との交流を続ける優しい生徒。

 気に食わなければ何人にも牙を向く好き勝手の類。

 語るものは皆真実であると言う。語られた内容を否定するものもいない。

 鵜呑みにすれば全て真実になってしまう。

 生徒たちの評判は、見方によって幾らでも姿を変える無貌のありようにも見えた。

 正体不明の上級生が補欠未満の剣道部員へ、補習を受けに来たのだという。

 思わず勘繰ったが断る理由もない。とりあえず体育倉庫から竹刀を持ってくるところから始めることになった。


 桐枝柘榴は好き勝手の類。補習があるので早退欠席はしないが、いつ登校するかは彼女の胸先三寸。

 当然として、授業に出席をした実績が足りなくなる。学科の成績は非の打ち所がないから試験を受ければ大抵の補習は免除された。

 だが、美術や体育など一部の科目でそうもいかなくなる。作品を提出し、身体を動かさなければならない。そのように考える教師が桐枝の学年を受け持っていたからだ。

 美術の課題はすぐに終えることができた。桐枝の親友である銀城が生徒会室の一角を貸し出し、手ずから作品の制作を手伝った。

 問題は体育である。桐枝の担当である体育教師は生活指導も兼任していた。乱暴狼藉は働かないが放埓放縦の徒である灸を据える絶好の機会であると息巻いている。

 激突必至の中、生徒会長として、桐枝の親友として、銀城は一計を案じた。

 懇意にしている学年主任に連絡を取り、体育の補習を部活動での実習形式とすることに成功したのである。

「面。メン。めえええええええん」

 閃にものを教えた経験はない。教わった経験はあるが、苛烈極まりないものだとわかっていた。なので補習の方法も、教科書の内容にいくらか実践を交えてなぞるだけになる。

 桐枝は物覚えが良く、筋もいい。言えば言った以上。見せれば見せたもの以上を閃に披露し続けた。教える手間は少ない。

 しかし。

 それだけに。

 閃にとっては退屈だった。

 原理原則を教えて、基礎基本のみ果たせればそれで良い。最低限の内容を繰り返させて飽きて帰ってもらうと画策もした。のだが。

「胴。どう。ドオオオオオオオオウ」

 構え方。身体捌き。面打ち。胴打ち。小手打ち。突き。桐枝の動きはたった数日の中の数時間で仕込んだものとは思えないほどに仕上がった。

 初めて会った時に、何か天性のものを感じ取らなければなかったと閃が反省するほどに。

 もし門弟であったなら。一合でもいい、打ち合ってみたらどうなるか。閃は思わずにいられない。

「いやーいい汗かくねえ。さっちゃんはどう。楽しい?」

「指導ですので」

 馴れ馴れしいほど人懐こく話しかける桐枝を受け流すように返事をした。

 無邪気に防具を装着する。楽し気に剣を振るう。ごく単純な基本動作も飽きずに何度も繰り返す。

 物珍しいからだろうか。暴れるのが好きな性分だからだろうか。なぜだろうかと考え始めた瞬間、桐枝の言葉が閃の何かに罅を入れる。

「勿体ないなぁ。そんなに強いのに楽しめないなんて」

「楽しむ。ですか」

「うん。勝って嬉しいってだけじゃなくて。やることが楽しいみたいな。なんていうか。頑張ってるのはわかるのに、楽しそうな顔を見たことないんだよね」

 戯れを学んで来いと父が告げたことを思い出す。

 今まで、剣道部では邪魔にならないように過ごしてきたつもりだった。不本意ながらという接頭辞はつくけれど、競い合える実力がある部員がいるのだから仕方ない。

 そうやって呑み込んできたはずの何かが、桐枝の言葉で再びくすぶり始める。

「だからさ。ちょっと試合してみない。私と」

「え」

「練習時間削って補習に付き合ってもらったんだし。ずっと物足りそうな顔してたの見てきたからさ。私なりのお礼だと思って。ね」

 断ろうとしたができなかった。桐枝の練習風景が脳裏を過る。

 教科書のままの打撃。手本通りの足さばき。だが、それをここまで短期間で、素早く、正確に、何度も繰り出せるものは何人いるだろうか。

「なら。お互い防具を付けましょう。試合は試合ですし、念のため」

 防具を付けるということで安全に配慮したという言い訳は立つ。邪魔としか思わなかった防具を軽く感じるのはこれが初めてだった。


 事前に取り決めた結果。試合の開始は吹奏楽部の演奏音が聞こえてきたらということになった。

 位置に着いたら礼をして始め。という道場の方式を閃は提案した。が、自分の慣れ親しんだ方法によって開幕するのは不公平だと感じ、取り下げることにした。

 トランペットの軽快なファンファーレが春風に運ばれて開闢を告げる。

「めえええええええん」

 先に動いたのは閃だった。大岸に放ったものと同じ面打ち。型に嵌りきっているものの、釣り合わない実力のものには捉えることも防ぐことも困難だった。

 

 岩を打ったかのような感触。痺れの残る掌の先に。竹刀を受けて立ち続ける桐枝がいた。

「どおおおおおおおお」

 歓喜に浸る暇はない。桐枝の叫びが咄嗟に身を横に跳ねさせた。防具越しに感じる威圧感が閃から声にならない呻きを絞り出す。

 攻撃の後訪れる、一瞬の隙。どれほど強烈であっても、いいや強烈だからこそ発揮された後の緩みは必ず現れる。

「こてえええええええ」

 面の全面。胴の前面。それに対して、小手が有効とされる範囲は手を覆う小手の部分のみ。的が小さく。動きが大きく。外せば迅速の反撃が襲い掛かる。

 狙い難く。外し易く。なにより危うい。

 しかし、自らの竹刀に最も近づくのもこの部位である。

 攻防一体だからこそ守りが手薄になる瞬間を閃は見逃さなかった。弾かれた勢いを何倍にも打ち返す閃の一撃は強烈必中。

 ただし。攻撃を行う前に部位を叫ばなければの話だが。

 小手を吹き飛ばさんばかりの打撃を、桐枝は咄嗟に竹刀を引いて受ける。双方の竹刀が衝撃でバネのように揺れ動いた。

 桐枝が閃の押し込みを抑えたまま前進を始める。

 閃が豪打を避けて有効部位へ竹刀を滑らせる。

 視界を右に左に惑わし隙を作る。回避させて動作を固定する。攻めなければ捻じ伏せられる。流れを断たねば呑みこまれる。

 二人の竹刀は空を斬りながら攻撃を続ける。

 当てる場所がごく僅かな部位に限られ、事前にどこに来るかが相手から叫びをあげて申告される。

 フェイントや小細工を弄しても、手の内が知られている以上は余計な体力を浪費するだけだった。よって、双方が守りを忘れたようにひたすら打ちあう歪な光景が誕生していく。

 体育館の裏から響く異様な音の正体に生徒たちが辿り着いたころ。刹那。ほんの一瞬の間に二人の均衡が崩れる。

 偶然。閃の尋常でない踏み込みに、体育館履きの靴底が悲鳴を上げた。僅かに足さばきを鈍らせた閃の目の前に唸りを鳴らしながら剣先が飛来する。

「めえええええええん」

 これもやはり。打突直前の叫びが無ければ決まっていたのだろう。

 この一戦で初めて、閃が桐枝の竹刀を受けた。

 爆破されたかのような衝撃を訴える両腕。早鐘を打つように鼓動を刻む心臓。吐くことも吸うこともできないほどに硬直した筋肉。限界に触れるまで酷使された閃の肉体が体格で数段上の相手との鍔迫り合いを可能にした。

 竹刀の震えから桐枝の心臓の鼓動が伝わる。

 面と面がぶつかりあうほどの距離感で、閃は桐枝の澄んだ瞳一面に自分が映っているのを見た。


 これだ。

 この光景が見たかった。


 竹刀からミシリという音が滲むように響くと、閃の脚が白熱するかの如く力を引き出す。

 後方へ飛ぶ閃は素早く、桐枝は勢いを余らせて竹刀を地面にぶつける。

 完全に剣先が下がり、再び打ち込むにも閃の一撃を受けるにも竹刀を持ち上げるしかない。一撃を叩きこむには格好の好機だったが、閃は敢えて立ち止まった。


 桐枝に構え直されたが、それでいい。付け焼刃の剣道ではなく、自分の業で目の前の相手に向き合いたい。

 閃は竹刀を背面に届かんばかりに掲げ、腰を落とした。本来ならば一瞬で終わらせるべき予備動作。それを見せつけるかのように慎重着実に行ったのは、絶対に外したくないという願いが故か。

 秘技。兜割り。

 真剣にて鎧を破壊し、内にある生身を刻む。道場での一定の実力を持った者しか扱えない業である。

 閃は桐枝の防御をこの兜割りで突破することを試みた。


 未知の挙動を始めた閃に対して、桐枝もこれまでとは違う構えを取って応じる。

 竹刀を片手に握った中段。左手を使った喉元への突き。相手にとっては注視すべき剣先が点であり防ぎづらく、腕の伸びも加わるので速い。

 反面として、外し易く大きな隙を晒しやすくなる。

 そして何よりも、突きが有効とされる部位は喉元のみであり非常に危険な技だった。その為に閃は桐枝に突きを指導していない。

 教科書で読んだ内容。良く知った親友の動き。読み齧り、見様見真似の出たとこ勝負で、手練れが行う未知の構えに相対することになる。

 分の悪い賭けだと桐枝もわかっていた。が、本気の相手に自分も全身全霊を発揮することを決めたのだ。


 面に景色を遮られた世界で。見えるものはお互いばかりだった。

 乱れた呼吸が。

 数度重なり。

 ピタリと符合した瞬間。


「そこまで」

 重なった呼吸が響き渡る大音声に打ち消される。お互いに出鼻を挫かれ、相手を警戒して構え直すが、向こうも同じ様子らしい。

 何が起きた。

 閃と桐枝。二人が揃って声の主の方へと首を傾けた。

「生徒会はあなたたちの行為を他の生徒の恐怖心を煽る危険行為と判断しました。双方、剣を収めなさい」

 防具で全身を固め、手には竹刀を持ち、剣圧で近づくことすらままならない凶徒が二人。

 体育館から我先にと避難する生徒の中、たった一人修羅場に乱入できるものがいる。

 生徒会長、銀城荘丹弥。閃や桐枝たち財郷区第一中学校の生徒たちを取りまとめている上級生だ。

「竹刀を。置いてください」

 異国の血を引いているという翠玉のような目が二人を射抜く。警告ではなく説得に来たのだと、声色は幾分丸くなっていたが、眼光の鋭さは激しさを増している。

 閃は迸る威圧感に自らの父を重ね、無意識に竹刀の先を向けてしまった。

「そう。残念。伊藤」

 わかった。という怯えた声と共に、銀城の背後から竹刀が投げられた。銀城は頭上を掠めて通り過ぎようとするそれを、二人に目を据えたまま捉えて構えてみせる。

 銀城の構えは身体を微かに反らし、首と竹刀を持った腕だけを相手に向ける奇怪なものだった。

 剣術を熟知した閃にとって、銀城のゆらりとした構えは剣を受けるにはあまりにも無駄が多すぎる。だが、彼女の前に広がる数メートルは踏み込むなと勘が告げていた。

「破損した竹刀で私に挑戦しても、あなたが怪我をするだけですよ。洛果さん」

「え」

 刃を横に傾けてみれば、閃の竹刀は中ほどで割れていた。竹刀は木刀に比べて柔らかく、力が籠りづらい。

 思い切り打ちつけても木刀に比べて折れることは少ないが、所詮は竹が原材料だ。割れるときは割れる。限界を超えて叩き続ければ、日ごろの手入れを念入りにしようと壊れるのだ。

「柘榴。この中学校で突きの使用は授業でも部活動でも禁止。あのままやっても反則負け。満足してちょうだい」

「ソーニャ。いいとこだったのに。でも、見たいものは見れたし。今日はお開きだな」

「良かったわね。どの部が補習を担当するかは協議中だったのに。そのうえでこんな騒ぎまで起こしてくれて。手間をかけさせないで」

 桐枝柘榴は好き勝手の類。銀城に防具を外すのを手伝わせると、防具を片付けると言ってあっという間にどこかへ消えてしまった。


「というわけで、形式だけとはいえお説教をさせてもらいました。柘榴のワガママに付き合ってくれた人に心苦しいです。ごめんなさいね。それと、どうもありがとう。友人としてお礼を言います」

「こちらこそ、お手数をおかけしました。すいません」

 死闘の後、生徒会室で閃は銀城から指導を受けていた。言葉にはいくらか校則や規範について触れるものがあったが、大部分はなぜ桐枝が閃のもとへ訪れたのかという話だった。

 桐枝の補習の経緯は閃の理解していたものとはだいぶ違う。部活動での実習形式なのは本人から聞かされていた。正確な事実は生徒会が指定した部活で仮入部のような形で数日過ごすことによって済ませる予定だったらしい。

 圧倒的な身体能力と人柄を求めて、多くの部が桐枝の獲得に動いた。生徒会の与り知らぬところでは、競りのようなものまで行われていたという。

 無論、鎮圧のため生徒会は動いたが。ごたごたの中でも桐枝は好き勝手に動いた。

「あなたが気に入ったらしくてね。先生方と私で止めに行こうとしたら、もう引き留められない雰囲気ができてしまっていたの」

 朝の朝礼や祭事で見る銀城は同性ながらに端正な顔立ちであると感じていた。廊下や校庭で垣間見る面持ちや声色も砂糖菓子のように繊細に緻密に作られたものだと認識していた。

 そんな生徒会長が眉を寄せてため息を漏らしている。

 これまでの活躍や聞いた限りでの噂。先ほどの気迫も含めて、どこか人間味が欠けている印象を閃は持っていた。が、桐枝柘榴は親友として少女らしい表情を引き出していた。

「先輩は、なんで私なんか気に入ったんですか」

「柘榴のことよね。本人から聞いた方がいいと思う」

 ただし、柘榴の謹慎期間が明けてからね。という回答を閃は銀城から受け取る。

 閃は、自分がなんで銀城にそんなことを質問したのだろう。下校のためにローファーに履き替えている時、頭の片隅に引っかかっていることに気づいた。


 桐枝と一戦を交えてから数日、柘榴は啓明から稽古を受けることはなかった。

 原因は閃の不調である。

 銀城の計らいで家庭への連絡等はなく特に罰もない。しかし、閃の指先は桐枝との激突から奇妙な疼きを持ち主に訴え続けている。

 未知の感覚は精妙でなければならない刃の操作を僅かに狂わせた。

 

 かつて、柳生十兵衛という片目の剣豪がいた。新陰流という古剣術を柳生新陰流という形に昇華させた、後世にも名が残る大剣豪である。では、なぜ片目を失うに至ったのか。

 強敵との戦いで失ったのではない。父である柳生宗矩との稽古の最中に失ったのだ。

 柳生宗矩も江戸幕府将軍、秀忠と家光二代に渡って剣術を指南した実績のある剣の使い手。その二人をもってしても、万全の状態であっても不覚を取ることがあるのだ。

 

 啓明が預かる道場でも事故は年に数度、起こる。重度であるか軽度であるかは問わないとして。

 よって、僅かでも不調の見られる相手に術技を伝ずる危険を師範としても父としても回避した。

 それでも見学と称して閃は啓明の横で稽古を眺めることは許される。道場全体の門弟の動きや配置、個々人別々の剣捌きを同時に把握する訓練のためだ。

 兄の昴はこれが非常に得意だった。及ばないものの、閃も門弟たちの血沸き肉踊らんばかりの歓喜を敏感に感じ取っていた。


「そこまで」

 啓明の号令で夕の稽古が終わる。退出の準備を済ませた門弟たちが昴に連れられて道場から出ていく。ここ最近と同じく、座学を行う予定だった。

 しかし、桐枝と交わした刃の熱気にあてられた閃は少しずつ理性を削られていた。

 桐枝のように。父の瞳に自分を映してもらいたかった。決着をつける前に終わってしまった戦いが入った心の罅を埋めて欲しかった。

 そして、閃は木刀を握る。


「一刀。奉りたく」

 振り返る啓明は無言だったが、立ち去りはしない。

 相手にほぼ真横を晒し、弓を引くように片手を向ける。握られた木刀は僅かに傾けた身体の角度に隠し、狙いどころを定められないようにしているのだろう。

 道場では教えていない。啓明にとっては未知の構えである。

「存分に戯れよ」

 愛娘である。才能を見込んだ直弟子である。成長が如何ほどのものか、この目で見たくなった。

 閃は昴のように己の視線を外すほどの身体捌きにはまだ至っていない。

 よって、刀身を隠すという手段に出たのだろう。と、啓明は結論付けた。

 猪口才な真似を。と、剣道家なら笑うのだろう。

 だがしかし、我らが遣うは剣術。刃を交えて殺し合いをしていた時代から粛々と相手を斬る業を磨き続けてきたのだ。

 刃と刃が交わる場において、敵の身体に鋼を潜り込ませることの如何に困難なことか。どこに侮る道理があろう。

 師範として。父として。成長を見届けたくなった。


 閃は目を見開いた。

 回避を許さず、届いたはずの刃があらぬ方向へと向かっていく。啓明の拳が木刀を殴りつけ、不可視の剣筋を逸らしたのだ。

 二の太刀を加えようと袖の内に隠した小刀に手を伸ばそうとするも。

 閃の目は錐のように鋭く曲げられた足の指がみぞおちに深く食らいついたのを見るばかりだった。

 

 辛うじて着地をし、利き腕が木刀を握っていることを確認する。渾身が素手で返された悔しさ。反撃も回避もできなかった無念さ。身体の中で滾る激情が精妙に動かさなければならない指先を震わせて呼吸を乱す。

 閃を焦がす闘志が憔悴する精神を煽り立ち上がらせる。

「まだ。まだ」

 終わっていない。父との鍛錬は木刀を落としても、地面に膝から崩れ落ちても続いた。たかが蹴りを一撃貰っただけで、終われなんかしない。

 今一度刺突を与えるべく中段に構えると、なぜだか膝が崩れていた。

 床が見る間に近づく瞬間。衝撃が啓明のいた場所から伝わってきた。倒れた閃が辛うじて目線を向けると、そこには兄が自分を庇うように父と鍔迫り合いをしていて。

 まくしたてる兄に、父が放った一言だけが、よく耳に響いた。

「戯れなればこそ、当身で済ませてやったのだ」


 閃が道場で目を覚ますと、父は既にいなかった。


 買い替えたばかりの体育館履きが悲鳴を上げる。竹刀は唸りながら、空中のある一点を塗りつぶすように切り裂いていく。

 自らを受け入れてくれた笑顔へ刃を届けん。と、祈るように。

 父から指導を得ることを許されず、校舎裏で半狂乱で竹刀を振るう。そんなことが数日続いた。

 もっと力強く。更に速く。弾かれず避けられない。自分だけの業を産み出すため。今まで身に着けた術技節理を異次元の速度で反復学習を繰り返しつづける。

 息が乱れる。指先が震える。己の身体がバラけてしまいそうな疲労の中で、何かを掴みかけた瞬間。

「お・つ・か・れ」

 そっと両肩に手が触れた。

 振り向かなくても誰かはわかる。

 傾聴した声を。竹刀越しに伝わってきた鼓動を。鍔迫りの時に香った匂いを。

 感じ取れる全てが桐枝柘榴のものだったからだ。

「ありがとね。補習はうまくいったよ。この前のあれも、楽しかった」

 返事ができないまま、桐枝の指は竹刀を握ったままの閃の掌に紙片を忍ばせていく。

「見つかったら困るから今日は帰るけどさ。これは受け取ってくれるよね」

 目を瞑って頷く。閃は柘榴の大きな掌の感触を忘れないように、紙片を握りしめた。

「じゃあね、待ってるから」

 桐枝の足音が遠くなるのを確認してから、まだ温もりが残る紙片を開く。思った以上に丁寧に折りたたまれていた便箋には時間とある公園の名前に加えて、一筆が記されてあった。

「次はお互い本気で!」


 その日、夜十二時に閃はピタリと覚醒した。桐枝との約束の場所に赴くために。

 再び丁寧に折りたたんだ便箋を懐にしまって、スニーカーに履き替える。

 上着こそ学生服だったが、その下は短袴を履いていた。腰の辺りには二本、棒のようなものが帯に差されている。

 真剣だった。

 

 玄関を出て、外へ通じる門へ向かおうとする。闇の中に一人佇んでいる影がある。

 閃は彼なら遠くからでも気づくことができた。

「兄さん」

「どこに持ってくつもりだ」

 素直に答えてどうとなる場所でもない。聞くだけは聞いてくれるだろう。が、人を斬りに行く。とは言っても首を縦には決して振らないだろう。

「戻れ。今なら不問にする」

 静止された程度で立ち止まりはしない。自分を待っている人がいるのだから。

 柄に閃の掌が触れようとした瞬間は既に、昴が抜刀を完了していた。動作が消失し、最初から存在していたが如くの神速の早業。


 詰みである。


 それがどうしたと。

 刃を構える相手を無視するかの如く、閃は抜刀を開始した。

 心臓。眉間。肝臓。まったく同時に衝撃が突き抜けていく。呼吸が狂い、脈が乱れる。斬られたと五感が訴えかけるが、暗転を引き起こす視界の中でも閃は動作を止めなかった。

 晦まし。

 斬撃で発生させる風圧や身体捌きの妙により、相手に自らを斬られたと錯覚させる業である。

 通常であれば技の起点を誤認させ、次へ繋ぐ刹那の一瞬を稼ぐといった使われ方をする。小手先と類される技術だった。

 見掛け倒しを極め、斬られたという感覚を誘発し意識を消失させる。昴はその場しのぎの一手を斬らずして勝負を決する技術として昇華させたのだ。

 

「やっぱり。斬ってはくれないのですね」

 荒い息を上げた閃が抜刀を完了した刃を昴の首筋に触れさせる。

 閃は斬られたという認識をした。神経は無意識に動転しており、昏倒寸前にまで陥っている。

 しかし、閃は気合で立ち続けた。兄が自分を斬るつもりはないことを確信していたから。

「誰が。妹を斬れるかよ」

 閃の額。髪の毛一本分ほどの隙間が昴の刃との間に開かれている。加えて刃が閃と真逆の方向を向いている。刃身が閃の身体に最接近する直前に柄を翻し、すんでのところで峰打ちになるように仕向けた。

 どれほど精妙に感覚を欺けたとしても、手の内が読まれていたのでは意味がない。

 剣の腕前なら昴の圧勝だっただろう。

 閃が兄を優しい人物だと信じ、昴も妹の信頼に応える性分だった。兄妹の信頼が敗北の理由だった。

「斬りたい人ができました。きっと私のことも斬ってくれます」

 昴も閃の心中を推し量る。

 自分が斬られていないのは、刃に血糊を付けたくないからだろう。つまり、この次に立ち会う相手こそが最大の標的で、細心の注意を払っているのだ。

 話せる事情があるのなら、兄妹で刃を向けあうことになっていないはずで。譲れぬ相手なら兄としてできることは一つだった。

「無事で帰れよ」

「武運をお祈りください」


 夏が近づいているとはいえ、夜風が吹けばまだ肌寒かった。

 川沿いのとある公園が桐枝の指定した集合場所だった。街灯もまばらで、通りがかる人も少ない。女子中学生が集まるには危険な場所だが、武装をしているなら話は別だろう。

「お待たせしました。先輩」

「全然。ここに来るまで大変だったでしょ」

 お互いさまと笑う桐枝の視線の先には銀城がいた。お気遣いなくと手短に告げると、水筒からカップに飲み物を注ぎ始める。

「振り切ろうとしたら間に合わなかっただろうから。その代わり、邪魔はさせない約束だよ」

 兄と同じように、銀城も桐枝を止めようとしたのだろう。と閃は勘づく。

 大事にしてくれる相手を刃で切り捨てようとしなくとも最初からこうすればよかったのかもしれないが。気づいても、もう遅かった。

「じゃ。始めよっか」

 承知。と言わんばかりに閃は抜刀した。

 対する桐枝は素手で挑む。いくらか仕込んではいると閃は感じたが、武装した相手と立ち回るには無防備に等しかった。

 刃を背に張り付かんばかりに構え、腰を落とす。

 以前、体育館で桐枝に向けたものと同じものだった。

 防具を履かず、竹刀も握っていない。丸腰の人間に鋼鉄の装甲を破壊することを目的にした威力は過剰に過ぎる。しかし、この無駄こそが必勝に不可欠だと閃は判断した。

 無刀取り。一般的に真剣白羽取りと称される技術を、或いは似たようなものを習得していると閃は確信している。

 本気でぶつかると告げた猛者だ。無策で自分に挑むはずがないのだから相手以上の力で押し通る。

 かつて、これ以上になく閃は自らを昂らせていた。暗い闇の中に燃える瞳は挑戦者の姿を目いっぱいに映している。

 瞳の内にいる己を閃はじっと見つめ返した。

 そいつが満面の笑顔を向けた瞬間、脚が地面から跳ねる。

 閃は周囲の景色が線となって蕩けていくのを認識する。一世一代の勝負が生み出した空前絶後の加速。最速の一撃が閃の知覚に追いついていないのだ。

 

 数瞬、閃の目の前にいる桐枝が消えた。

 

 思い切り刃を振り下ろすと、破裂するが如き甲高い音が闇に響く。

 

 閃の兜割りが桐枝の投擲した水筒を両断した。二つに割れた中からは僅かな冷気と共に煙のようなものが噴き出し閃の視界を遮る。


 剣道三倍段という言葉がある。

 槍や薙刀を持った敵に剣術で立ち向かう場合は三倍の技量が必要だという意味だ。

 一般的な解釈では、素手の状態で剣を持った者に立ち向かう場合とされている。が、如何なる達人であろうと素手の時は逃げるのが武術を嗜むものの間でも上策とされている。

 桐枝にも帯刀した閃を相手に互角以上の勝負をする自信はあった。しかし好き勝手の類といえど、三倍以上の実力があると言い張るほど阿呆でもない。

 というわけで、足りない分は策を使うことにした。

 水筒を投げつけてまずは閃の構えた刀を振り下ろさせる。中に詰めた液体窒素が大気に触れて瞬間的に蒸発。

 破裂音と煙幕が数瞬でも反応を鈍らせれば上々だ。水筒が斬られず避けられても相手が無駄な動作をすることに変わりない。

 とにかく、肉弾が及ぶまでの距離を稼げればそれで良かった。

「やああああああああああああああ」

 桐枝の叫びが闇に響く。

 刃を振り下ろした閃は後方へ身を翻し、瞬きも許さぬ間に構え直す。

 向かってくる相手を一刀両断にする真向唐竹割り。間合いに入るまでのコンマ数秒の中に、勝利を思い浮かべる余裕はなかった。

 叫びが途絶えた瞬間、桐枝は片足を天上へ届かんばかりに伸ばした。かかと落としのようにも見えたが、桐枝の体格や勢いを考慮してもまだ刃の間合いには及ばない。

 半歩、前へ進み。閃は全力で刃を振り下ろした。

 一閃は恐ろしいほどの力強さで弧を描き標的へと向かう。

 速度。勢い。ともに閃が放った最上を上回る一撃だった。が、過剰すぎる。刃が止まらず、地面に激突した。

 

 かかと落としは閃ではなく、振り下ろされる刃へと向けられていたのだ。


 シューズの裏に仕込まれたスパイクが刃を絡め、踏みしめた勢いそのままに大地へと固定する。

 深々と刺さった刀は引くも押すもできない。閃は腰に履いたままの脇差に手を伸ばす。

 咄嗟の判断だった。が、それでも遅い。

「な」

 桐枝の掌が抜刀しようとする閃の拳ごと脇差を掴む。無刃取り。相手の動きの言って先を読み、懐に飛び込んで抜刀を制する術技である。

 刃を地面から抜き去る時間はなく、桐枝の剛力により脇差の抜刀は不可能。もはや、剣を用いた決着はできない。

 しかし、ここからが本番だと閃の闘志は燃え上がった。

 頭突きをかまそうと頭をのけぞらせると、宙空に一本の刀がそびえている。

 夜闇を照らす白銀。天辺に至るまで凛と伸びるそれは、桐枝の手刀だった。

「きれい」

 吸い込まれるように眼前へ迫る刃に、閃はただ見惚れていた。

 

 鈍い音が響く。うめきと悲鳴が捩じり交ぜられたような声だった。が、苦痛の主は閃ではない。

「嘘。ソーニャ。なんで」

「私がついてきたのは。あなた達に。互いを傷つけさせないため」

 徒手空拳の射程に自らを押し通した銀城が、桐枝の攻撃を身に受ける形で防いだ。

 二人を傷つけず、傷つけさせない。

 その為に、我が身を以て、決着の一撃を受け止める。

「柘榴。もう十分。あの子の笑顔は見れたでしょう」

 散り散りになりそうな息を抑えながら銀城は言葉を繋げていく。

 銀城は脱力した閃を背中で押して、双方の間合いから離脱させる。ゼンマイの切れた時計仕掛けのように、閃はゆっくりと地面へと座り込んだ。

「時間もない。通報が来てる。これ以上続けるなら、警察とまで戦うつもり」

「いいねそれ。大変だけど」

 その前に。と、桐枝は銀城の肩に手をつける。

 銀城も道を譲った。二人の約束に終止符は付けられない。決めるのは桐枝と洛果の二人なのだから。

「まだ。終わってないよね。続けよう」

 桐枝が閃に掌を差し出す。ぼうと今までのやりとりを見ていた閃の拳に、もはや剣は握られていない。

 縋りつくように手を握りしめた閃の唇から、自分でも思わぬ言葉が漏れた。

「いいえ。私の負けです」

「楽しかった」

「はい」

「見たかったんだ。嬉しそうな顔」

 敗北と勝利の美酒が二人を破顔させた。


「よし。じゃ、逃げよっか。ソーニャ。ベストルートは」

「川を渡って区外へ逃げる」

「ぶっちゃけてくれるなあ」

 銀城が水筒を拾った後、三人で川を渡った。思ったより水位は低く、僅かに水を割る音もせせらぎの音に消えていく。

 閃が川を渡っている途中、対岸に視線を向けると赤い光が自分たちのいた場所へ走っていくのが見えた。

「顔も見られない。獲物も見せない。秘密裏に済ませるならこうしか考えられなかった。ごめんなさい」

「そりゃ足は濡れちゃうけどさ。この季節なら歩いてる内に乾くよ」

 閃は刀を濡らさないよう抱えたまま二人を見つめる。勝負はついた。間違いなく、お互いに本気を出せた。

 だからこそ、閃は自分に足りないもの。目指すべき姿を認識した。

「桐枝先輩」

 笑顔を向ける桐枝に、剣を握ることに喜びを与えてくれた桐枝に、閃は全力で応えたかった。

 自分にしかできない。自分だからできる何か。自分という存在の究極を受け止めてくれた相手に、今度こそ叩きつけたい。

 勝ち負けではなく、自分の想いを最高だと思える手段でわかって欲しかった。

「もっと先輩のこと、知りたいです。たくさん見て。一緒にいて。私も強くなって」

 閃は一拍。呼吸を置いた。

 胸の高まりをどう伝えるべきだろう。本当にこれでいいのか。考えれば考えるほど、答えがわからなくなっていきそうだったから。

 一番シンプルな言葉で伝えることにしよう。

「あなたを斬ります」

読んでいただき、大変ありがとうございました。

百合のスパダリという矛盾した単語が柏の脳裏を過っています。

どこかの長編でこいつらにまた出会うかもしれないので、乞うご期待。

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