若き伯爵と悪魔の令嬢 ~悪魔は契約を破らない~
連載中の話を進める前に、どうしても書きたかった話その1です。
昔々、あるところに、とても大きな森がありました。
国一番の大きな街よりも広く、大きな森です。
その森の一番深い場所に、一軒の大きな屋敷がありました。
その屋敷には、一匹の悪魔が住んでいました。
黄金の髪に、エメラルドのような翠の瞳。
貴族や紳士を連想させるお洒落な服と、シルクハット。
顔には常に、ニコニコとした微笑みが張り付けられています。
一見すると物腰の柔らかい優しそうな人、あるいは胡散臭いエセ紳士に見えるかもしれません。
けれど彼は正真正銘、本物の悪魔でした。
王国の騎士団ですら手を出せない迷いの森、その最奥に佇む屋敷に住まう彼は、時折フラッと外に出掛けます。
あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、国中を気まぐれに彷徨い、様々な場所で色々な人達と出会い、語りかけるのです。
そして言葉巧みに相手の望みを聞き出しては、いつも持ち歩いている魔法の契約書に、魔法の羽ペンで相手の名前を書かせ、不思議な力でどんな願いも叶えてあげました。
大漁を願う漁師には、魚の群れを呼び寄せてやりました。
豊作を願う農夫には、作物に最適な天候を作ってやりました。
成功を願う商人には、大きな店を建ててやりました。
出世を願う騎士には、あらゆる敵を打ち倒す魔剣を与えてやりました。
けれど、やはり彼は本物の悪魔。願いを叶えたら、その対価はしっかりと持っていきます。
大漁に喜んでいた漁師は、その日に獲れた一番大きくて高価な魚を目の前で食べられてしまいました。
豊作に喜んだ農夫は、いつもの二倍はあった収穫を半分持っていかれました。
成功を収めた商人は、売り上げの一部を死ぬまで悪魔に収め続けることになりました。
出世した騎士は、今の地位に満足した瞬間、魂を奪われ悪魔の操り人形にされてしまいました。
願いを叶えた代償は、その時の悪魔の気分次第。
命を奪われる時もあれば、リンゴ一個で済む時もあります。
全く割に合わない時もあれば、万事上手くいく時もあります。
そして、悪魔の魔法には幾つか制約があります。
1.悪魔は自分で自分の願いを叶えることが出来ない。
2.契約を結ぶにあたり、悪魔は契約者の質問に全て嘘偽りなく答えなければならない。
3.契約書にサインした時点で願いの内容と、その対価を変えることは出来ない。
ただ、悪魔もその制約を誰よりも理解しています。
ですので質問されてないことには何も答えません。
願いの対価が何なのかも、訊かれなければ絶対に教えてくれません。
故に
願いを叶えることで頭が一杯な間抜けは、取り返しのつかない代償を支払うことになります。
願いを叶えて貰ったにも関わらず対価の支払いを拒否し、悪魔の怒りを買った者は、呪いでバラバラにされたり、燃やされたりします。
結局のところ、楽をして欲しいものを手に入れようとすれば、ろくなことにならない、ということです。
そのことが、悪魔と契約した者達の失敗談が教訓として広まった現在。
この国ではもう、まともな人なら悪魔と契約しようなんて真似は、滅多にしなくなりました。
しかし、それでも悪魔の不思議な力は魅力的なのか、どんな代償を払っても叶えたい願いがあるのか、彼の元を訪れる者は後を断ちません。
その証拠にホラ、今日も森の中にある悪魔の屋敷に人がやってきました…
◆
「これはこれは実に珍しい、貴族の坊っちゃんがオイラの屋敷に辿り着くとは」
常に薄暗く、いっそ禍々しい空気さえ感じる森のど真ん中、そんな場所にあることを忘れる程に、その屋敷は中も外も美しく、とても綺羅びやかでした。
屋敷の中を明るく照らす大きなシャンデリア、見るからに高そうな工芸品の数々、大理石の床、飾りなのか通路に幾つも並べられた騎士甲冑、どこか虚ろな表情を浮かべる使用人たち。これらは全て、この屋敷の主が契約の対価として受け取った、あるいは奪っていったモノです。
そして、この屋敷の主である悪魔は今、豪華で広い応接間にて、フカフカの高級ソファーに腰を下ろし、ガラスと宝石で装飾された執務用デスクを挟んで、わざわざ屋敷まで訪ねて来た客人と向かい合っていました。
「お前が、『契りの悪魔』か」
青い髪の青年は言葉と態度こそ高圧的でしたが、その姿は中々に悲惨でした。屋敷に辿り着くまでに何度も危険な目に遭ったのでしょう、衣服はところどころ破け、至るところに傷ができてます。息もすっかり上がっており、足もプルプル震え、屋敷の女中に肩を借りてようやく応接間まで来れたぐらいです。護衛役として同行し、今は部屋の入り口で控えている騎士の二人も似たようなもので、主人と違って自力で歩いてこれましたが、逆を言えば主人に肩を貸す余力は残っていませんでした。
「如何にも、オイラこそが古より森に住まう悪魔、『オルド・フランデレン』さ。ようこそ我が屋敷へ、勇気ある若者…『フレデリック・ブルーデ』伯爵」
しかし目的の悪魔が目の前に居る、その事実に青年…フレデリック伯爵は喜色の笑みを浮かべると、肩を貸してくれていた女中を礼も言わずに振り払い、改めて悪魔と向き合い口を開きました。
「御託は良い。それよりも、どんな願いも叶えられると言う話は本当だろうな?」
「ふふふ、勿論本当だとも。なんなら今ここで証明してみせようか?」
ニコニコとした笑みを浮かべる悪魔に対し、フレデリックは無表情。乱暴に腕を振り払われた女中は、少し不満げな表情を浮かべると、まるで白髪のようなセミロングを靡かせながら、その場を離れて行きました。
「いや良い、違ったら殺すまでだ」
「おぉ怖い恐い、最近の若者は血の気が多すぎる」
割と物騒なことを真顔で言うフレデリック、しかし悪魔は笑顔を崩しません。配膳車にティーセットを乗せて戻ってきた女中さんは、営業スマイルを浮かべています。一瞬、フレデリックから視線を逸らした悪魔と目が合い、彼がニコリと優しく笑うと、女中さんの笑みはより深いものになりました。
客人そっちのけでそんなやり取りをする二人、おまけに女中は客よりも先に自分の主人に茶を淹れ始める始末。これでも伯爵のフレデリックは、少しイラッとしました。その様子を察したのか、悪魔は視線を戻すと咳払いを一つ挟むと、こう言いました。
「しかし、君は自力でオイラの元に辿り着いた、その事実は称賛に値する。故に今回は特別に、どんな内容であろうと3つ、君の願いを叶えてあげよう」
まさかの言葉にフレデリックの無表情が崩れました。悪魔のことを調べる際、あらゆる文献と生き証人を集めましたが、どんな者であろうと願いは一人につき一つ、二つ以上の願いを叶えた者は、誰も居ませんでした。故に恐らく、これは千載一遇どころの話ではありません。女中が客である自分よりも先に、護衛の騎士達に茶を振舞い始めたことにだって目を瞑れます。
思わず当初の目的を忘れ、勢いに身を任せそうになるフレデリック。しかし彼は寸前のところで、文献の記録に残っていた者達の失敗談と、その末路とも言えるこの屋敷の中のモノ達を思い出して踏み留まります。
「どうせ貰うものは貰っていくのだろう、対価は何だ?」
悪魔はどんな願いも叶え、そして必ず対価を持っていきます。フレデリックの調べた限りですと、何を対価に指定されるのかは悪魔の気分次第で多少変わるものの、やはり大きな願いほど大きな対価を要求されるようです。
ここにきて、望みを叶えた瞬間に魂を抜かれた騎士みたいにはなりたくないフレデリックは頭を悩ませます。そんな彼の様子に、悪魔は唆すように…もとい、囁くように告げました。
「そう警戒なさんな、オイラは悪魔だが鬼じゃない。対価は君にとって『3番目に大切なモノ』、それ1つで願いを3つ叶えてあげようじゃないか」
なんと悪魔は、先に対価を示してきました。本来ですと、少しでも相手から良いものを奪う為に対価の説明をせず、事後承諾で契約を済ませた後にぼったくるのが彼の常套手段です。契約の制約を知っており、尚且つ質問と交渉を重ねたとしても、足元を見てくるので完全に得ができる契約を結べる者はほんの一握り。
そんな奴が、縁も所縁も無い自分に願い事を3つも叶えてくれると言い、こちらにとって悪くない条件を提示してきた。人類史規模で見てもまたとないチャンスではあるが、どう考えても何かの罠にしか思えない。
フレデリックは疲れた身体に鞭を打ち、回転の悪くなった頭を必死に働かせ、いつの間にか目の前に立っていた女中さんを無視しながら、悪魔の意図を探ろうとします。けれど考えても考えても、悪魔が何を考えているのか分かりません。それでも、藁にもすがるような思いでこんな森に足を踏み入れ、屋敷に辿り着くまでに何度も死にかけたのです、最後の交渉で失敗して全ておじゃん、なんて展開は何がなんでも避けたいところです。なのでギリギリまで考えようとしたフレデリックでしたが、目の前の女中が中身入りのティーカップを自分の頭に乗せようとしたところで遂にブチ切れました。
「さっきから鬱陶しいぞ女中風情が!! 僕をバカにするのも大概にしうあッちゃあぁ!?」
反射的に出た平手打ちは、思いのほか素早い身のこなしで避けられて、その拍子に女中の手から離れたカップから熱々のお茶が溢れ、フレデリックの頭に注がれました。
悶絶するフレデリックを尻目に、当の女中は知らん顔。それどころか、謝罪の一言も無しにその場を離れていきました。因みに部屋を出る際、フレデリックの護衛の騎士に一礼、主人である悪魔には満面の笑みを浮かべながら手をフリフリ、悪魔の方もニッコリと優しげな笑みを浮かべて手を振り返します。
こうまで露骨な扱いの差に疑問を抱かずにはいられないものの、あまり深く考えたら考えたで傷が深くなりそうなので、フレデリックは考えるのをやめました。そして、ついでに決心もしました。
「分かった、その条件を飲む」
「そうこなくっちゃ、では願いをどうぞ」
不敵な笑みを浮かべる悪魔を前に、フレデリックは緊張からか一度深呼吸して心を落ち着かせると、願いを口にしました。
「消えた僕の婚約者、『シャーロット・サンレイ』侯爵令嬢を、この場に喚び出せ」
この国の名門貴族の一つ、サンレイ侯爵家。ひと月前に侯爵邸を盗賊が襲撃し、侯爵夫妻と嫡男、まだ幼かった次男に加え、当時働いていた使用人は一人残らず皆殺しにされていしまいました。そんな中、一人だけ遺体が見つかっておらず、未だに生死不明のままな者が居ました。それこそがサンレイ侯爵唯一の娘にして、フレデリックの婚約者でもあるシャーロット・サンレイでした。
サンレイ侯爵家特有の鮮やかな深紅の髪と瞳、そして彼女自身の美貌は貴族社会でも有名で、フレデリックが婚約者の地位に納まった時は、彼女を慕う者達が嫉妬に駆られ一波乱起きたほどです。それ故サンレイ家襲撃の件は、国中に激震を走らせました。
襲撃犯である盗賊団は既に討伐されましたが、彼らの根城を捜索しても彼女は見つからず、肝心の盗賊達は情報を喋る前に全員殺されてしまったそうです。その後も決死の捜索は行われましたが彼女の行方は未だ掴めず、生存も絶望的と言われています。それでもフレデリックは諦めることなく、自身の手勢を率いて彼女を探し続け、そして最後の手段として、藁にも縋るような思いで悪魔の元を訪れたのです。
「承知した。じゃ、これを」
悪魔が指をパチンと鳴らすと、どこからともなくヒラヒラと一枚の紙と、妖しく輝く羽ペンがフワフワと漂うようにして、フレデリックの元に落ちてきました。咄嗟にその二つを受け取ったフレデリックは、それが噂の魔法の契約書だと気づきました。
「そのペンで自分の名前を書き込めば契約成立、君の望みが叶う。さぁ、その記入欄にサインを」
複雑怪奇且つ、どこか芸術的な文様が施された契約書。その中央に『シャーロット・サンレイを我が前に喚び出す』と言う、先程フレデリックが悪魔に願った内容が、ジワジワとひとりでに文面として浮かび上がってきました。そして、左下には対価の内容…『我が3番目に大切にしているモノを差し出す』と言う文面が、右下には自身の名を書き込むための記入欄がありました。
フレデリックはほんの少しだけた躊躇った後、ゴクリと唾を飲み込むと、一息に自分の名前を書き込みました。
その瞬間、契約書が眩い輝きを放ちました。
「うっ!?」
あまりの眩しさに、思わず目を閉じてしまったフレデリック。しかし光はすぐに収まり、代わりにそこには無かった筈の人の気配が。それに気付き、目を開けたフレデリックは、自身の前に立っていた人物を目にして、驚きで更に目を見開きました。
「は?」
フレデリックの目の前に立っていたのは、さっきまで散々自分を苛つかせてくれた、白髪の女中さんでした。
「どういうことだコレは!!」
目の前の女中を押し退け、激高しながら悪魔に掴みかかるフレデリック。しかし、怒り狂う彼を前にしても、悪魔は依然としてニコニコしたままです。
「おいおい落ち着いてくれよ、あと手を服から離しておくれ、シワになる」
「ふざけるな、このペテン師が!! 僕が欲したのは貴様の見窄らしい女中なんかじゃない、婚約者の侯爵令嬢だ!!」
「だから落ち着きなって、オイラの魔法はちゃんと君の願いを叶えたよ?」
「貴様、それ以上戯れ言を抜かすと本当に…」
苦労して森を抜け、屋敷に辿り着いたにも関わらずこの仕打ち。既に堪忍袋の緒が切れかけていたフレデリックは、悪魔の態度にとうとうブチっといきました。目の前の悪魔を八つ裂きにすべく、控えている護衛たちに命令しようと口を開こうとしました。しかし…
「だって彼女こそが、君が捜していたシャーロット・サンレイ本人なんだもの」
さらりと告げられた言葉に、フレデリックは硬直しました。
「まさか…そんな……」
ぎこちない動きで背後を振り返り、突き飛ばされたせいか不機嫌な表情を見せる女中…シャーロットに目を向けます。髪の色は深紅でなく白髪、腰まで伸びていた筈のロングヘアーはすっかりショートになっていました。しかし良く見ると、輝くように鮮やかな深紅の瞳と、貴族社会を魅了した美貌の面影は、確かに彼女のものでした。
フレデリックは思わず彼女に手を伸ばしました、しかし当の本人は露骨に嫌そうな表情を浮かべ、伸ばされた手を払いのけました。明らかな拒絶の態度に少しショックを受けたフレデリックでしたが、すぐに我に返ると悪魔に向き直ります。
「な、なら、何故、僕を見ても彼女は何も言わない。これでは、まるで…!!」
フレデリックは婚約者としてシャーロットに優しく、大切に接してきました。そんな彼に応えるように、シャーロットも彼に心を許し、慕っていました。間違いなく、彼女はフレデリックのことを愛していました。にも関わらず、フレデリックを前にした今のシャーロットの態度は、まるで赤の他人…いや、それどころか、シャーロット・サンレイが誰のことなのかさえ分かっていないようです。現に目の前の彼女は、自分が何故魔法の契約書でフレデリックの前に現れたのか理解していないのか、きょとんとしています。
「まさか、貴様が何かしたのか!?」
「そうとも言えるし、違うとも言えるね。なにせ記憶を消したのはオイラだけど、そう願ったのは彼女自身だからね」
告げられた事実にフレデリックは絶句しました。
あの惨劇から逃げ延びた後、長い逃走の果てに森に迷い込んだシャーロットは既に身も心もボロボロでした。貴族社会でも有名だった美貌はすっかり損なわれ、サンレイ一族の証でもある真紅の髪もすっかり白髪に変わっていました。しかし幸か不幸か、森の中を散歩していた悪魔と遭遇し、そして相手が噂に聴いた契りの悪魔だと分かるや否や、願いを叶えるよう頼みました。
『私の記憶を消して!!』
筆舌にし難い、悲しみと絶望に染まったその相貌で泣き叫ぶように、そう願いを告げたのです。
「その時は丁度女中が一人欲しいと思ってたから、オイラの元で働くことを対価にして、彼女が消したいと願った記憶を消してやったのさ。それ以来、記憶を消した彼女は一人の女中としてオイラの元で働き続けている、ただそれだけの話だよ」
悪魔に願って記憶を消した後は、ドレスを女中服に、長かった髪を動きやすいショートに。貴族令嬢だったことを忘れ、一人の女中として働き続け、気づけば早一ヶ月。そうして、今の彼女がありました。
「シャーロット…」
悪魔に記憶を消したいと願う程に、あの日の出来事は彼女の心に深い傷を刻み込んだようです。その事実に、フレデリックは思わず呻くように、婚約者の名前を呟きました。シャーロットが生きていた、そのこと自体は喜ぶべきことです。しかし、このまま記憶を失った状態の彼女を連れ帰ったところで、何かと苦労することになるのは確実です。
「悪魔よ、二つ目の願いだ」
「はいはーい、どうぞ」
見た目はすっかり変わり、悪魔の女中として働き続け、婚約者である自分を認知することができない。これでは折角連れ帰っても、彼女が本物のシャーロット・サンレイであると周囲に信じて貰えないかもしれません。なので、フレデリックは決めました。
「消えた彼女の記憶を戻せ」
フレデリックがそう言うと、悪魔は再び指をパチンと鳴らし、またもや契約書が飛んできました。それを受け取ると、彼は再びサインを書き込みました。すると契約書が光りだし、シャーロットの身体が同じように光り輝き始めます。
「う…」
光が収まると白髪の女中は、記憶を戻す反動によるものなのか、頭痛に苦しむように頭を抑え、小さく呻き声をあげていました。すると突然、彼女の髪が伸び始めました。ショートヘアはあっという間に腰まで伸び、その最中に色も白から鮮やかな真紅に変わりました。女中服はそのままでしたが、頭痛が収まり彼女が顔を上げた時には、フレデリックの良く知る婚約者の姿がありました。
「フレデリック、様…?」
「嗚呼シャーロット、迎えに来たよ!!」
シャーロットの口から自身の名が出てきたことにより、フレデリックは彼女の記憶が戻ったことを確信しました。何やら『髪はサービスしといたよ』と悪魔が呟いていましたが、そんなことはどうでも良いと言わんばかりに、フレデリックは未だ膝立ち状態のシャーロットを強く抱き締めました。
「良かった、無事…とは素直に言えないが、とにかく良く生きててくれた」
フレデリックの腕に収まったまま、シャーロットは暫く呆然としていました。悪魔の元で働いていた一ヶ月分の記憶に、取り戻した悪魔と会う前の記憶が混ざり合い、気付いたら婚約者の腕の中に居たのです、混乱するのも無理はありません。それでもシャーロットは目を閉じて深呼吸すると、気持ちを落ち着かせて自身の記憶と向き合い、すぐに頭と心の整理をつけました。
そしてフレデリックに抱き締められたまま、シャーロットはもぞもぞと動き出しました。やや背の高いフレデリックと、小柄なシャーロット。それなりに身長差がある二人なので、フレデリックに抱擁されると、シャーロットの頭の位置は彼の胸に辺りにきます。
やがて、定位置が決まったのか、動きを止めたシャーロットは開口一番にそうフレデリックに問いました。
「フレデリック様、サンレイ家は…私の家族は、どうなりましたか?」
「……残念だが、生き残ったのは君だけだ…」
あの日、シャーロットの家族は幼かった弟も含め、皆殺しにされていました。屋敷で働いていた使用人たち、料理人や庭師さえも、彼女を除いて誰も生き残っていませんでした。屋敷を守っていた警備の者すら例外でなく、しかも不意討ちでもされたのか、何故か抵抗らしい抵抗もせずに殺された形跡がありました。
現場を検分した警邏隊の者はその様子に、『まるで賊が目の前に居たことにすら気付いていなかったみたいだ』とさえ言いました。
「だが仇は討ったよ、サンレイ家を襲った賊どもは一人残らず僕が殺してやった。何より、まだ君が生きている。サンレイ家はまだ終わっていない」
しかし彼の言う通り、屋敷を襲撃した賊達は既に討伐されました。何故か目撃証言が多数集まり、割と早い段階で賊の居場所を突き止めることが出来たのです。そして警邏隊と、シャーロットの婚約者であるフレデリックの私兵を主力に討伐隊が結成されました。居場所を探り当てられ、圧倒的な戦力差をぶつられた賊達に勝ち目は皆無です。侯爵邸での惨劇からたったの三日、賊達は自分達がやったことを、自分達の身をもって再現する羽目になりました。
その結果、侯爵邸を襲撃した経緯と方法、そしてシャーロットの行方を知る術が無くなってしまい、フレデリックは一ヶ月も奔走する羽目になった訳ですが。
「さぁ帰ろう、僕と一緒に、あの家に…」
そこまで言って、ようやくフレデリックは違和感に気付きます。自身の腕の中に居る彼女の反応が、自分の思っていたものと違い過ぎることに…
「シャーロット?」
いつもの彼女は、こうして見つめながら名前を囁けば、頬を赤く染め、嬉しそうにはにかんで見つめ返してくる筈でした。
「私が何故、記憶を消したいと願ったのか、分かりますか?」
こうして抱き締めれば、同じように抱き締めてくる筈でした。
「兄の趣味は、お酒でした」
けれどフレデリックの腕の中に居る彼女は、いつものように抱き締めてきません。頬が赤く染まることも無いし、何故かそっぽを向くようにして顔を横に背けています。
「父と母にバレぬよう、こっそりと高価で珍しい酒を勝手に買い集めていた兄はその隠し場所として、秘蔵の酒蔵を自分の部屋に作っていたのです」
しかも、彼女が記憶を消した理由を教えてくれるのかと思えば、始まったのは彼女の兄の話。彼女の真意が分からず、フレデリックは首をかしげるしかありませんでした。しかし…
「あの兄の部屋の床下に、まさかそんなものがあるなんて夢にも思いませんでした……あの日、異変に気付いた兄が、そこに私を放り込むまでは…」
ドクン
と、フレデリックの心臓が一際大きな音をたてました。
彼女の兄の部屋、その床下。
あの日、そこに彼女は居た。
彼女自身の口から告げられた事実に、フレデリックの心臓が破裂しそうな勢いで暴れ狂います。
冷や汗が、滝のように流れ出します。
何故なら彼にとって、それだけは、絶対にあってはならないことだから。
もしも、それが本当なら彼女は、自分は…
「『お前と弟が死ねば、サンレイの血を継ぐのはシャーロットだけになる』」
シャーロットの口から出てきた言葉に、フレデリックの心臓は止まりかけました。
「『そうなればサンレイ家の継承権は、彼女の婚約者である僕のものだ』」
そして、そこで彼は気付きました。腕の中の彼女は、そっぽを向いていた訳では無かったのです。彼女は自身の耳を、フレデリックの胸に当てていたのです。
「『なに心配するな、彼女は頭は悪そうだが、抱き心地は良さそうだ。僕の後継ぎを生んで貰う為にも、それ相応の扱いはしてやるよ。だから家族共々、安心して死ね』」
動揺して暴れ狂い、全て真実であると告げる、フレデリックの心臓の音に耳を澄ませていたのです。
「貴方に、理解できますか」
シャーロットはドンとフレデリックを突き飛ばし、よろめいた彼を涙を溜めた目で睨み付け、声を震わせます。
「一晩で家族を皆殺しにされた私の気持ちが」
床下の酒蔵の中の彼女は、全てを耳にしました。大切な家族と、使用人達の断末魔を。
「その首謀者が、貴方であると知った時の私の気持ちが」
生まれ育った我が家が、思い出ごと壊されていく音を。
「未来の夫として愛していた人が、自分のことをどう思っていたのか、本人の口から聞かされた私の気持ちが」
信じていた婚約者の本性と、兄が殺された直後に聴こえてきた彼の高笑いを。
「そんな貴方に、なに食わぬ顔で『迎えに来た』と言われた私の気持ちが、家族の仇である男に名前を呼ばれる私の気持ちが、貴方に分かりますか!!?」
あの地獄のような時間の中で耳にした全てを、シャーロットは失った記憶と共に思い出しました。家族を失った悲しみと、その元凶を前にした怒りで、彼女の瞳からはぽろぽろと涙があふれてきました。
激昂する彼女を前にしたせいか、あるいは真相が全てシャーロットにバレていたせいか、呆然とするフレデリック。そんな彼の様子に構わず、シャーロットは言葉を続けます。
「絶望、それ以外に表現のしようが無かった。夢であれと何度も願い、けれど現実を思い知る度に家族を失った悲しみと、貴方に対する憎悪で気が狂い、死にたくなった。だけど兄が死に際に叫んだ言葉が耳を離れなかった!!」
『お前だけでも生きろ、シャーロット!!』
それが、彼女の兄が殺される直前に残した、最後の言葉でした。婚約者の立場を利用して屋敷の警備体制を把握し、賊達を手引きしたフレデリックを前に、シャーロットの兄は床下に隠れた彼女に『生きろ』と、そう言い残したのです。
屋敷の人間を皆殺しにした後、フレデリックと賊達はシャーロットを探しましたが最後まで床下の酒蔵に気付かず、夜明けと共に引き上げていきました。そしてシャーロットは、誰も居なくなった時を見計らい、いつまたフレデリック達が戻ってくるか分からない恐怖に駆られながら、惨劇の地と化した我が家から逃げるように走り去りました。
信じていた婚約者に最悪の形で裏切られた彼女は、その時点で極度の人間不信に陥っており、誰も信用することができませんでした。警邏隊や騎士団にすらフレデリックの影がちらつき、誰かに真実を告げた瞬間、口封じに殺されるのではと思ってしまった彼女は、誰かに助けを求めるという手段を選べませんでした。だからと言って、何も知らないフリをして家族の仇に飼い殺しにされるなんて未来は、それこそ死んでも御免でした。
故に彼女に残された道は、ひたすら遠くまで逃げること、ただそれだけでした。走って、走って、泣きながらボロボロになっても走り続けて、遂には悪魔の住む森に辿り着き、そこで彼に出逢ったのです。
「悲しくて悲しくて、何度も死にたくなった、けれど兄の言葉が私を生かそうとする。だから私は、あの日の出来事も、忌々しい貴方のことも、全て忘れることにしたのです。なのに、よくも…」
彼女の瞳から、涙が溢れてきます。彼女の口から、震えた声が溢れてきます。そんな彼女に睨み付けられ、恨みの言葉をぶつけられたフレデリックは、ただ俯くばかりでした。しかし、やがて彼はゆっくりとした動きで、顔を上げました。
「おい悪魔、最後の願いが決まったぞ」
顔を上げたフレデリックは、笑顔でした。そして、いっそ狂気すら感じるその笑顔のまま、告げました。
「シャーロット・サンレイを、僕の奴隷にして服従させろ」
一瞬、シャーロットは彼が何を言ったのか理解できませんでした。停止してしまった思考を再び動かし、彼が俯いていたのは最後の願いを考えているだけだった事と、そして彼の言葉の意味…三つ目の願いを理解した瞬間、絶句しました。
「貴方と言う人は、どこまで腐っているのですかッ!!」
「うるさい、君は黙って僕のものになれば良いんだ。血を受け継ぐ者がいなければ、サンレイ領は他の縁者か王家に獲られるかもしれないんだぞ。それに、何も本当に奴隷扱いするつもりは無い。僕の妻になれと言ったら黙って妻になり、僕を支えろと言ったら身を粉にして僕に尽くし、抱かれろと言ったら大人しく抱かれろ、そうするだけで晴れて僕は侯爵に、そして君は侯爵夫人になれる。こんな悪魔なんかの女中を続ける必要も無くなるし、元の貴族暮らしに戻れるんだぞ。何より僕と君は元々婚約者同士だ、あるべき形に戻るだけさ」
笑顔のまま、彼は何でもないことのように淡々と告げます。本当にこの男は自分達と同じ人間なのかと、シャーロットは心の底から疑いました。
目の前の若き伯爵は言いました、『仇は討った、賊は一人残らず殺した』と。つまり彼はシャーロットの家族だけに飽きたらず、利用した賊も口封じの為に殺したのです。彼が若くして伯爵家当主の座に収まったことに関し、黒い噂が幾つもありましたが、この様子だと全て本当なのかもしれません。
そんな男の手を、彼女の家族の血で塗れたその手を、シャーロットは絶対に取るつもりはありません。しかし、シャーロットが何かをするよりも早く、今の今まで控えていた彼の護衛の騎士たちが動き、二人掛かりで彼女の腕を押さえ付け、羽交い締めにして動けなくしてしまいました。
「いやッ、離して…!!」
「大丈夫だ、そう怯えることは無い。しかも悪魔の力で服従させるんだ、僕が『忘れたいことを忘れろ』と命じれば、きっとあの日の記憶も忘れられるさ」
どうにか振り払おうとするも、騎士たちの拘束はびくともしません。そうこうしている内に、フレデリックの手には魔法の契約書と羽ペンが握られていました。
「お願い、やめてぇ!!」
シャーロットの悲痛な叫びが響きます。しかしフレデリックはそれに一切耳を貸さず、何も聞こえていないかのように振る舞いながら、契約書にサインを書き込んでしまいました。
「さぁ、これで全部、僕のものだ」
「はいよ確かに。そんじゃ約束通り、願いを叶えてあげよう」
フレデリックがサインするのを見届けた悪魔がそう言った途端、契約書が輝きだし、そしてそれに共鳴するかのように、シャーロットの身体が同じように光り輝きました。
シャーロットは契約を通じて自分の中…魂の中に感じていた悪魔との繋がりが消え、代わりにそれがフレデリックと繋がるのを感じました。彼女の顔が、家族が死んだ日に匹敵する、絶望の色に染まりました。
フレデリックもまたその繋がりを感じ取り、自身の願いが叶ったことを実感しました。絶望に染まったシャーロットに反し、あの日のように高笑いすらあげそうなくらい喜色の笑みを浮かべています。そしてフレデリックは早速、試しに一つシャーロットに命令を与えることにしました。
かつて彼女が願ったように、そして、フレデリックにとって何かと都合が良くなるように、『あの日の出来事を忘れろ』と…
「ところでさぁ、この3つの願いを叶える為の対価の話、ちゃんと覚えてる?」
フレデリックがシャーロットに全て忘れろと命令しようとした、まさにその時でした。唐突に、悪魔がそんなことを言い出しました。
「僕の『3番目に大切なもの』だろう。別に構わない、シャーロットさえ居れば他は全て手に入る」
念願が叶い気分が高揚している時に水を差されたせいか、フレデリックは吐き捨てるようにそう答えます。実際、シャーロットを手に入れた今の彼は、『3番目に大切なモノ』くらいどうでも良いと思っていました。すると…
「君の1番大切なものって、自分の命だよね?」
悪魔はニコニコ笑いながら指を一本立てて、そう言いました。
「そんで2番目に大切なものは、婚約者の家族を殺してまで手に入れようとしているサンレイ家でしょう?」
悪魔はニコニコ笑いながら指を二本立てて、そう言いました。
「そして、他でもない3番目は…」
悪魔はニコニコ笑いながら指を三本立てて、こう言いました。
「侯爵家を手に入れる為に必要な、シャーロット」
その瞬間、シャーロットの身体が再び光り輝きました。そして彼女は、フレデリックとの繋がりが断ち切られ、失った筈の悪魔との繋がりが再び戻るのを感じました。それを感じたのはフレデリックも同じで、その事に暫し呆然としましたが、我に返ると血相を変えて悪魔に掴み掛かります。
「ふ、ふざけるな貴様ぁ!!」
「ふざけてないさ、至って大真面目。オイラは何一つ嘘は言っていないし、君の願いは3つとも全て叶えてやった。文句を言われる筋合いは、これっぽっちも無いねぇ」
鬼のような形相で目を血走らせ、胸ぐらを掴み、唾を飛ばす勢いで怒鳴り散らかすフレデリックの姿は、端から見れば人間とは思えない恐ろしいものでした。
しかし、彼がどんなに『人でなし』だったところで、相手は本物の『人でない者』。全てを台無しにされて動揺し、怒り任せに怒鳴り付けたところで、悪魔のニコニコ笑顔を崩すことはできませんでした。
「さぁて、契約完了まで残り10秒前、9、8、7…」
無情にも始まった秒読みに、フレデリックの焦りは最高潮に。どうにか止める術は無いかと目を血走らせた最中、光り輝く契約書に目が留まりました。そして彼は、悪魔の手から輝く契約書をひったくるように奪い取りました。
「こんなもの!!」
カウントがゼロになる直前、フレデリックは契約書を渾身の力で破り捨てました。真っ二つに裂かれた契約書は、ヒラヒラと力なく床に舞い落ちると光を失い、それに合わせるようにシャーロットの身体を包んでいた光も消えました。
契約の魔法は中断された…そう確信したフレデリックは安堵したのかホッと息を吐き、そして力尽きるように床に崩れ落ちました。すぐに立とうとしましたが、何故か足腰に力が入らず、中々立ち上がることができません。おかしいと思い、うつ伏せのまま、彼は振り返りました。
「え…?」
彼の身体は腹の辺りを境に、上と下に半分ずつ、真っ二つに別れていました。
「うわああああああああああああああぁぁぁぁぁ何だコレはああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!?」
応接間にフレデリックの絶叫が響きます。しかし、驚くことに彼は生きていました。泣き別れした身体の断面から血は一滴も流れておらず、フレデリック自身はパニックに陥っていますが、特に痛みなどは感じられないようです。
「大切な契約書を破ったんだ、それ相応の罰が下って当然だろう?」
そんな彼を見下ろしながら微笑を浮かべ、悪魔はそう言いました。咄嗟に顔を上げたフレデリックでしたが、それと同時に破いた契約書が風に煽られたかのように舞い上がり、悪魔の手に納まります。
「この契約書にはちょっとした呪いが掛けられていてね、契約書にサインをした者の肉体は、サインした契約書と魂を通して繋がれるようにしてあるんだ。つまり契約書が真っ二つになったら、契約者の身体も真っ二つになるのさ、今の君みたいにね」
『普段は対価の支払いを踏み倒した奴に使うんだけどねー』と言って悪魔は終始ニコニコ、出会った時と同じ笑みを浮かべ続けます。
「因みに呪いの持続時間は、願いを叶えてから対価の支払いが終わるまでの間だけ。つまり君は、シャーロットがオイラの手に戻る瞬間を指を咥えて見てれば良かったのさ。なのに、どうして君は我慢できなかったんだい? ここに辿り着くまでに溜まった疲労のせいかな、それとも願いが尽く無駄になった苛立ちのせいかな、あるいはシャーロットが願いの対価に選ばれたことによる動揺のせいか。あ、もしかしてオイラがこれみよがしに契約書を光らせて秒読みなんかしたから、焦燥感に駆られちゃった感じ?」
けれどフレデリックに向けられるその笑みは、決して優しいものではありません。この悪魔が彼に向ける笑み、それは…
「お前なんかに、渡してたまるか」
過ぎた欲で身を滅ぼす愚か者への、嘲笑なのです。
「おいで、シャーロット」
「っ、はい!!」
フレデリックの惨状にシャーロットも騎士も呆然としていましたが、悪魔の呼び掛けに一瞬早く我に返った彼女は、騎士の腕を振り払って悪魔に駆け寄ります。シャーロットを逃がしてしまった騎士達は彼女を再び捕らえるべきか、倒れた主人に駆け寄るか迷ってしまい、すぐには動けませんでした。
そして、シャーロットが自分の側に寄ってくると、フレデリックに向けたものとは明らかに違う、一際優しい笑みを浮かべた悪魔は、こう言いました。
「この契約書もう要らないから、いつものように棄てちゃって」
そう言って悪魔は、破かれたフレデリックの契約書をシャーロットに手渡しました。そして、悪魔は『いつものように』と言いました。なので彼女は契約書を棄てるよう頼まれた時に、いつも利用する場所に目を向け、いつものように棄てることにしました。
「……かしこまりました…」
彼女の視線の先にあったのは、轟々と炎が灯る暖炉でした。
「お前たち、彼女を止めろぉ!!」
自らの末路を察したフレデリックが叫び、護衛の騎士達は剣を引き抜きます。しかし、悪魔が指をパチンと鳴らした瞬間、応接間に置いてあった騎士甲冑が動き出しました。騎士甲冑は護衛の騎士達よりも優雅で綺麗な動作で鞘に収まっていた魔剣を引き抜くと、彼らの前に立ち塞がります。
その間に、シャーロットはスタスタと、暖炉に向かって足を進めます。
「待て、待ってくれシャーロット、頼むから待ってくれ、僕の話を聞いてくれ…!!」
焦燥感に駆られたフレデリックが叫びますが、シャーロットは耳を貸さず、一向に足を止めません。いっそ『殺してでも止めろ』と騎士達に命じようとしましたが、彼が目を向けた途端、護衛の二人は呪われた騎士の手によって呆気なく斬り捨てられてしまいました。
「君は勘違いしている、僕は君を本当に愛しているし、全ては君の為にやったことなんだ!!君の家族を殺したのも、悪魔に願って君を手に入れようとしたのも、君を幸せにする為に必要なことだったんだ!!」
頼みの綱が文字通り斬られてしまい、フレデリックはいよいよ追い詰められてきました。身体が真っ二つになってまともに動けない今の状態で、どうにか彼女の足を止めようと必死に言葉を並べます。
「だから頼む、どうか僕の話を…」
何も知らず、こちらを疑うこともせず、『愛してる』と囁くだけで嬉しそうに笑みを浮かべる、都合の良いお人形でもあった、愚かで可愛い侯爵令嬢。今までの彼女なら、適当に好意的な言葉を並べるだけで気を引くことができる筈でした。
そして案の定、暖炉の前に立った彼女は、一度足を止めました。
「フレデリック様」
けれど彼の言葉は、もう彼女の心には届きません。
「少なくとも私は、かつての貴方を殿方として、お慕いしておりました……貴方は違ったようですが…」
振り向いた彼女は、もう笑ってはくれませんでした。
「シャーロッ…!!」
「さようなら」
そして彼女は、握っていた手を離しました。
ヒラリ、ヒラリと、契約書は少しの間だけ宙を漂い、吸い込まれるように炎が燃え盛る暖炉の中へ。
面白いぐらい、とても良く燃えました。
◆
「これから、どうする?」
悪魔は汚れも燃えカスも魔法で片付けひと息つくと、シャーロットにそう問いました。
フレデリックの『シャーロットを奴隷にする』と言う願いにより、現在シャーロットの所有権は悪魔から離れています。彼女自身が対価となったことにより、すぐにフレデリックの手からも離れましたが途中で契約書を破らせた為、彼女の所有権が悪魔に戻る前に魔法も中断されました。なので今のシャーロットは誰のものにもなっていない状態、つまり自由の身なのです。
記憶と自由を取り戻した彼女はもう、悪魔の元で働く必要は無いのです。
「叶うなら、このまま貴方のお側に…」
けれどシャーロットは、悪魔の元に残ることを選びました。
消えた記憶を取り戻した彼女ですが、記憶を消した後のことも…悪魔と契約し、彼の元で働いていた時の記憶もしっかりと覚えていました。
記憶を失う前は生粋の貴族令嬢、シャーロットには女中仕事どころか、家事の経験すらありませんでした。貴族としての知識、習慣は身体が覚えていましたが、殆ど役に立ちません。故にシャーロットの女中業は、ほぼゼロからのスタートでした。
今日という日を迎えるまで何度も失敗しました、何度も通路で転びました、何度も食器を割りました、何度も怪我をしました、何度も悪魔に謝りました。それでもゆっくりと成長し、徐々に仕事を覚え、失敗もしなくなり、この屋敷で最も悪魔が信を置く存在になるまでの日々、その全てをシャーロットは覚えていました。
そして、自分の成長をゆっくりと見守りながら、どんな時でも温かく笑いかけてくれた、悪魔とは思えない優しい彼のことも、全部覚えていました。
記憶を消していた頃のシャーロットは、間違いなく悪魔に懷いていました。記憶を取り戻した今でも、シャーロットは悪魔の側から離れたいとは思いませんでした。むしろ、家族の仇が死んだ今、このまま彼の側に居続けたいとさえ思っていました。
故に、彼女は悪魔の元で働き続けることを選びました。
「……そっか…」
シャーロットのその返事に、悪魔はどこかホッとした様子を見せると、いつもより三割増しでニコニコと笑みを浮かべました。悪魔の女中として働き続けたシャーロットには分かります、今彼が浮かべるその笑みは、心底嬉しがっている時のものだと。
「けれど、さっきので元から君と結んでいた契約が消えちゃったんだよね。だから少し面倒かもしれないけれど、新しく契約を結び直して欲しい」
そう言って悪魔が指をパチンと鳴らすと、どこからともなく一枚の契約書と、魔法の羽ペンがシャーロットの元に飛んできました。彼女は両手でそれを掴み取り、書かれた内容に目を通しました。そして、思わず固まってしまいました。
「あの…」
「ん、どうかした?」
「コレ、どういうことですか…?」
新たな雇用契約の内容でも書いてあるのかと思っていたら、実際はいつもの魔法の契約書と同じでした。殆ど装飾と化している綺麗で複雑な魔法陣と、叶える願いが記された本文と、契約者サインの記入欄。シャーロットが思わず問い詰めてしまったのは、記された願いの内容でした。そこには、こう書かれていたのです。
『幸せな人生』
シンプルに短く、ただ一言、それだけが書かれていました。
「そのままの意味さ。君がその契約書にサインをした瞬間このオイラ、オルド・フランデレンが全身全霊全力を以て、そして自身の生涯を懸けて、君を幸せにすると誓おう」
随分と仰々しい物言いで、そう宣言した悪魔。しかし、そんな彼に反してシャーロットは無言でじーっと契約書を見つめているばかりで、承諾の返事どころか反応そのものが返ってきません。その様子に不安を覚えたのか、悪魔は次第にそわそわし始めます。
「……対価は、何ですか?…」
考えに考えた結果なのか、ひとまずシャーロットはそう悪魔に問いました。すると、何故か悪魔は目を泳がせ、『あー、うー、えーと…』等と呟きながら言葉を濁した後、彼女から目を背けるように背を向けました。そして指をパチンと鳴らすと、シャーロットが手にした契約書、その対価の内容が記される場所に文字が浮かび上がりました。
「え…」
それを読んだシャーロットの口からは、それしか出ませんでした。向けた背中から彼女が動揺する気配を感じ、悪魔は『やっちまった、やっぱダメだった…』と心の中で激しく落ち込みました。けれど、どうにかそれは隠して、取り敢えず微妙な感じになってしまった空気を元に戻そうと話を再開しました。
「もしも嫌なら断ってくれても構わない、何なら今の話は忘れてくれ。オイラの元で働き続けることに関して問題は無いし、前回同様それを対価として、願いは追々決めれば…」
「オルド様」
シャーロットに名前を呼ばれた途端、悪魔はビクリと身体を震わせ、恐る恐る彼女に向き直りました。振り返った先の彼女は、突き返すように契約書と魔法の羽ペンを差し出していました。
それを見た悪魔は、一瞬だけ悲しそうにしましたが、すぐにいつものニコニコとした笑みを浮かべ直し、契約書の内容を書き直そうと羽ペンを握りました。
そして契約書のサイン欄に、『シャーロット・サンレイ』の名が記されていることに気付きました。
「誓います」
ハッとして悪魔が顔を上げると、視界一杯に広がる彼女の顔。そして唇に感じた、柔らかい感触。それは殆ど一瞬の出来事で、すぐに彼女は離れてしまいました。けれど長い年月を生きる悪魔にとってもそれは、悠久の時にすら勝る幸せの一時でした。あまりに幸せ過ぎて、今のはまやかし、あるいは自分の妄想か幻覚の類だったのではとさえ思ってしまいました。
そんな、日頃から人々を騙して陥れている姿からは想像もできない、けれど実は臆病で寂しがり屋な面があることを知っている身からすれば、いつも通りな彼の姿を前にシャーロットは、優しく微笑みながら告げました。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
広い屋敷中に、喜びの雄叫びが響き渡りました。
嬉しさのあまり、悪魔は契約書も羽ペンも放り投げ、シャーロットを抱き締めました。
そんな彼を受け入れるように、微笑みを浮かべたシャーロットも彼を抱き締めました。
放り投げられた契約書と羽ペンが、ヒラヒラと床に舞い降りてきます。
床に落ちた契約書、その願いの対価。
そこには、こう書かれていました。
◆ ◇ ◆
病める時も、健やかなる時も
いつも互いに支え合い
死が二人を別つその時まで
共に生きること
◆ ◇ ◆
こうして悪魔は、寂しさを埋めてくれる愛しい人を
家族を失った令嬢は、幸せな人生を
互いに大切なものを手に入れた二人は
その時が来るまで契約を守り続け
いつまでも、いつまでも
幸せに暮らしましたとさ
『若き伯爵と悪魔の令嬢』
~おしまい~
⚪オルド・フランデレン
年齢不詳、正体不明、物心ついた時には既に森で独りぼっちで、自分が何者なのか、どうして自分に魔法の才能があるのか分からないまま、とても長い時を生きてきた。
ずっと寂しくして、ずっと友達が欲しくて、誰かと仲良くなる為に『人の願いを叶える魔法』を創り出した。
『願いを聞いてあげる代わりに、オイラと友達になって!!』
けれど、そうやって作った友達の殆どは、自分を『望みを叶えてくれる便利な道具』としか見てくれない。友達だと思っていた相手を何度も信じて、何度も裏切られた。
『願いを叶えてあげたから、オイラの言うことをきいて!!』
そいつらの魂を抜いて、なんでも言うことをきいてくれるようにしてみたけれど、まるでお人形遊びをしているみたいで、ただただ虚しいだけだった。
『願いは叶えてやったろ、だから契約通りにソレ、ちょうだい』
やがて人の悪意に晒され続け心を壊した彼は、人を信じることをやめ、いつしか悪魔を名乗るようになり、それに相応しい振る舞いをするようになっていった。
願いを叶えることを餌に、相手から大切なモノを奪っていった。大きな屋敷も、きらびやかな宝の山も、美味い酒に料理、貴族の身体、たくさんの召使いに兵士たち。本当に、たくさんのモノが手に入った。
でも何故だろう、いつまで経っても寂しさがなくならない。
『君も…オイラと同じ、なのか……?』
だから自分と同じように、信じていた相手に裏切られ、身も心もボロボロになったシャーロットに情が湧いて、望み通り記憶は抜いたけど、魂を抜いて操り人形にするのはやめた。純粋で素直、そして何事も一生懸命な彼女には何度も癒されたし、願いの対価では埋めきれなかった寂しさも無くなって、最早彼女の居ない生活は考えられなくなっていた。
彼女と二度目の契約を結んだ今、彼は最後まで契約を守り続けることだろう。
『んじゃ早速、ご家族に挨拶に行こうかな。嗚呼、大丈夫、何も心配いらないよ。君の幸せの為なら、死人を甦らせることぐらい朝飯前さ!!』
例え悪魔としての寿命を削ってでも、最後まで彼女と共に…
⚪シャーロット・サンレイ
家族を愛し、婚約者を愛し、悪魔を愛した侯爵令嬢。受けた恩と愛情、そして恨みは例え記憶を失っても忘れない。だから記憶を失った状態でもフレデリックに対しては嫌悪感を抱いた為、女中にあるまじき対応を取った。
悪魔と出逢った時に『記憶を消して』と願い、その記憶を悪魔が見たからこそ運命が決まった。最初から『家族を生き返らして』とか、『仇を討ちたい』と願っていたら、悪魔は彼女に興味を最後まで持たず、いつも通り足元を見ながら、願いの大きさに見合った対価を奪われて終わりだった。
フレデリックは『頭が悪そう』と称したが、彼の本性に気付けず騙されていたことを除けば、むしろ殺害現場で真相を声高々に語ったり、自分にとって三番目に大切なものが何なのか確認しなかった、どこぞの詰めの甘い伯爵より素養はある方だった。しかも努力家気質なので、初めてのことや苦手なことも、多少時間を掛ければちゃんと出来るようになる。
二度目の契約は、悪魔が契約を守り続けたように、彼女もまた契約通り最後まで対価を支払い続け、幸せな人生を送った。
⚪大漁と引き換えに一番でかくて高い魚を食われた漁師
無性に魚食いたいなぁ、とか思いながら散歩してた悪魔に目をつけられた人。対価に関しては、ちゃんと同意の上で契約を結び、実際に獲れた量を考えたら全く損をしていない、むしろめっちゃ得して喜んだ。
⚪損得勘定できなかった農夫
対価として、『収穫のうち、損もしないが得もしない量を貰っていく』という言葉に深く考えず同意した結果、手元に残ったのはきっちり昨年比とプラマイゼロ。農夫の顔が悪魔にとって、自分を道具呼ばわりした昔の友達に似ていたのが原因だとか…
⚪損得勘定できた商人
貴族御用達の老舗とガチンコ勝負するために、人ならざる者の手を借りることすら躊躇しない金の亡者。対価を決める時も悪魔相手にめっちゃ交渉したし、なんなら説き伏せて値切った。最終的に店の売上の一部を定期的に収め続ける代わりに、悪魔の加護付きの店を手に入れた。対価の売上とは別に、家具や屋敷の備品も送ってくるので、何だかんだ言って悪魔に重宝されている。
⚪魂を抜かれた魔剣の騎士
手柄を立て、富と名誉と地位を手に入れる為、『永遠の忠誠』を対価に魔剣を要求した男。そして魔剣を受け取った途端、もう用済みとばかりに悪魔の首を撥ね飛ばして殺し、対価の支払いを踏み倒そうとした。
しかし、悪魔はその程度では死なず、けれでも騎士は悪魔が死んだと思い込み、魔剣の力で数多の戦場で活躍し、どんどん出世していった。そして欲しかった全てを手に入れた瞬間、それを堪能する暇もなく、殺したと思っていた悪魔が目の前に現れ、抵抗も絶望する暇もなく、問答無用で魂をぶっこ抜かれた。今は装飾品兼用心棒として彼の執務室に騎士甲冑を着せられたまま置かれている。因みに、この騎士の件があったので契約書に例の呪いが施されることになった。
⚪なにかと詰めの甘かった、ひとでなし伯爵
にいさん が じこ で しんだ
そうしたら ぼく は あとつぎ に なれた
とうさん と かあさん を ころした
そうしたら ぼく は すぐに はくしゃく に なれた
だから きっと あのひとたち も みんな ころせば
ぜんぶ ぼく の てにはいるよね
でも ばか で かわいい しゃーろっと
きみ だけは いかしといて あげる
きみ が いないと ぼく は こうしゃく に なれないし
こうしゃくふじん に するなら きみ が よかった