○02○ 缶コーヒー
茶髪のサンタは「お兄さん」と呼ぶのがしっくりするような人だった。
二十歳以上なのは確実だけど、大学生よりは落ち着いている。でもまだおじさんの気配は見えて来ないから……三十歳以下?。
じゃあ、あたしより十歳ほど上だろうか。
――そうだ、千明先生と同じくらいかも……
そう考えた途端、胸が痛む。
新卒でうちの高校に赴任して来た千明先生。
授業中だけ眼鏡を掛けてること。ひょろっと細長くて少し猫背なこと……そして猫背を指摘されると「癖になってて」と照れ笑いすること。
大学は現役合格したのに「ちょっと遊び過ぎて」他人より一年長く大学生をやってたこと……
今までたくさん聞いた千明先生の話。たくさん見て来た千明先生の癖。
「わ、あ、あのっ。大丈夫ですか?」
慌てた声が聞こえて我に返る。あたしの目からはぼろぼろ涙がこぼれていた。
「あのこれ、迷惑でなければ……うちの販促品で申し訳ないけど」
茶髪サンタは缶コーヒーを左手にまとめて持ち、大きな右ポケットからティッシュを取り出した。そのまま片手でパッケージをパリッと割って渡してくれる。
「あ……あでぃがど……」
うわ、恥ずかしい。まともに喋れてないじゃない。
受け取ったティッシュを慌てて引っ張り出す。
お兄さんはベンチの反対端にそっと腰掛けた。多分あたしの顔を見ないようにしてるんだろうな。
そうだよね。突然泣かれたら困るよね。
ちょっと休憩しようと思っただけなのに、変なことに巻き込まれた……なんて考えているのかも知れない。
でもあたし、なんで泣いちゃったんだろ。しかも全然知らない人の前で。
そういえば宅配便の販促品なんて見たことないなぁ。そんなことを考える余裕が少し出て来た頃には、息が落ち着いて来た。
『三田急配』のロゴと鹿のマーク。確かにあの軽バンと同じだ。
そして、ティッシュを五枚使ったところで、ようやく涙も鼻水も止まった。
ふぅ……とため息をついたのを見計らったように、ベンチの向こう端から声が掛かる。
「コーヒー……飲みませんか?」
お兄さんは律儀に、自分も飲まずに待ってたみたいだった。
彼の厚意を無駄にしても悪い、という気持ちが湧いて、「ありがとうございます」と手を伸ばす。きっともう冷めてしまっただろうけど。
するとお兄さんは、ひとり分の距離だけ近付いて、あたしに缶を渡してくれた。
意外にもまだコーヒーは熱々だった。かじかんでた手がじんわり温まる。
缶を見てみると、ミルクが多い甘いコーヒーだった。あたしが唯一飲める種類。
「いただきます」とお兄さんに頭を下げてプルタブを開け――ようとしたのに、上手くできない。手がかじかんで力が入らない。
「あ、開けましょうか」
お兄さんが慌てて、もうひとり分移動して来る。あたしたちの距離は今や、小さな子どもがようやく座れる程度しか離れてない。
「す、すみません……何度も」
あたしは頭を下げながら、お兄さんに缶を渡す。
知らない人が近くにいるという不安よりも、情けなさや恥ずかしさの方が大きくて、なんだか色々どうでもよくなって来た。
少なくともこのお兄さんは仕事中なんだし、あたしをどうこうしようという『不埒な輩』ではなさそうだし――今のところは。
カシッと音を立てて、タブが引き起こされる。
「あ……振った方がよかったのかな」という呟きには焦りが浮かんでた。でも「大丈夫です。ありがとうございます」と受け取る。
だってあたしも振るのを忘れてたし。
お兄さんはホッとした表情で自分の缶も開ける。それを見届けてから改めて、「ありがとうございます。いただきます」と、あたしは缶に口を付けた。
まだ熱いミルクコーヒー。喉を通ってお腹に入るとじわっと身体が温まる。
はぁ……と安堵の息をついたら、同時に隣からも「ふぅ……」と聞こえた。
ほっこりした気持ちになったのも束の間。大変なことに気が付いた。
……話題がないよ?
だよね、見知らぬ他人同士だもん。
昼間なら、天気がいいですねとか今日は寒いですねとか言えるけど、今は夜だし、あいにくの曇り。
夜でもせめて晴れてたら、星とか月が見えたかも知れないけど。
それにあたしは喋り上手ってわけでもない。でも、きっかけを作らなきゃ……
「あの……」
同じことを考えていたのか、ためらいがちにお兄さんが話し始める。
「はい」
「もう少しでクリスマスですね」
あー……そっち? その話題振っちゃう? さっき泣いてた女子高校生に向かって振っちゃうわけ?
でもまぁ、他に共通の話題なんてなさそうだから、しょうがない……のかな?
「そうですね……しかも連休で」
あーもう、何言ってんのよあたし。
そんな言い方じゃあ、オトナの人は下世話な話題が真っ先に思い浮かんじゃうんじゃないの?
アイリたちが連休だお泊りだ、なんて変なことばっかり言うから、ついうっかり出ちゃったじゃない。
「連休ですねぇ……僕たちにとってはあまり嬉しくないんですよね」
「え、そうなんですか?」
なんか意外な方向に話が流れて、つい訊き返した。
「ええ、荷物なんてのは、流れ作業で運ばれて行くものじゃないですか。配ってくれって言われるから、僕たちが配る。それこそ一日で何百個とか、一番忙しい日には一日――まぁ、とにかくたくさん配るんですけどね」
「あぁ……そうですね」
そういえばこのサンタさん、宅配便の配達員なんだっけ。
「連休は忙しいんですか?」
仕事の人が『嬉しくない』なんて言うのは、忙しいからなんじゃないかしら。
でもお兄さんは首を振った。
「いないんですよ。これがもう、三割以上は留守になります。特にこの時期はね、普段出歩かない人まで出掛けたりしますから。お子さん連れなんて特に」
「そっか。留守になっちゃうんだ」
うちはほぼ毎日ママがいるけど、小さい頃はクリスマスの頃におもちゃ屋さんに出掛けたこともあったっけ。
「そう、留守宅が多いんです。不在票入れて、別の地域を廻ってる時に『今帰って来たからすぐ届けてくれ』なんて無茶を言うお客さまも多いですし」
「へぇぇ。勝手なんですねえ」
相槌を打ちながら、ドキッとした。あたしはどうだったろう。
大抵は翌日以降に再配達をお願いしてる――よね?
「勝手なんです。でもそれがお客さまですからね。それに僕がもしも客だったら、って考えることも多いですよ。だって欲しいものはできるだけ早く手元に来て欲しいじゃないですか」
欲しいもの――あたしの欲しいものは、もう手に入らない。
うっかり思い出して、苦しくなる。
あたしの望みはきっと、サンタさんにだって叶えられないよ。