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どこまでも いつまでも(三十と一夜の短篇第21回)

作者:カラスウリ


 寝転がったオレの腹のうえに、おんながまたがっている。
 濃紺のセーラー服姿のおんなである。
 ひだスカートはまくり上がり、おんなの生白い太ももが、くっきりとオレの前にさらされている。
 ここはオレの部屋で、今夜は最も夜の長い冬至だ。
 壁の時計は午前二時を指している。
 空気は肌を切るかのように冷たく、夜はまだ十分ふかい。おんなと愛を確かめあうにしては、いささか間の悪い時間ではある。

 オレはおんなを知っている。
 勝ちきそうな顔立ちをした、背の高いおんなだ。
 このおんなは随分ながい間、オレにつきまとっていた。だがオレらは恋人同士でも夫婦でもない。
 オレに、おんなに渡せるだけの愛情はない。おんなの感情はいつだって一方通行だった。その情熱は、オレにとって混乱しかもたらしてこなかった。今夜の所業も、おんなの勝手な思いが積もりにつもっての結果であろう。

 おんなの顔つきはいつもにまして歪み、苦しげだ。
 精神的な苦痛に、おんなは支配されているらしい。原因はオレの新しい彼女かもしれない。だからといって寝ていたオレから、布団をはぎとる理由にはならない。だが、そんな理屈がこのおんなに通じるわけもないのは、オレが一番分かっているはずであった。

 オレとおんなの間には何の約束も。取り決めもない。
 あってもおんなは、お構いなくやってくる。
 おんなにとっては鍵も扉も。不法侵入も関係はない。犯罪者ではないが、限りなくそれにちかい思考の持ち主かもしれない。うんざりするほど長いおんなとの付き合いで、オレはそう感じていた。それでもここまで強行されるとは思っていなかった。全くもってオレの油断である。

「ゆきただ」
 もはや儀式のように、おんなは名を呼ぶ。

 オレを見下ろす色素のうすい瞳は、忌々しげな光りで満ちている。なのに名を呼ぶ声は、どこまでも甘い。
 おんなの目の色は随分とうすくなってきている。
 最初はもっと。ひとにちかいものであったはずだ。
 いつの間にか、おんなは濁ったしろい目になっている。ひとのものではない。これではまるで、死人しびとの目だ。

「ゆきただ」
 おんながまた呼ぶ。

 オレはゆっくりと(かぶり)を振り、無言で否定を示した。するとオレの脇腹のあたりにあったおんなのてのひらが、躯の線を確認しながらゆっくりと上へうえへと滑りだす。やがてその両の掌が、オレの肩から首へとまわされた。
 喉仏を押さえられた。
 まだ力は、はいっていない。しかし急所を抑えられた事で、知らず冷や汗がにじむ。

「ゆきただ」
 おんなが愛おしげに名を口にする。口調とは裏腹に、喉を抑える手のひらには力がこもり始める。

 今度は頭を振れなかった。
 ただただ。おんなが恐ろしかった。

 ※ ※ ※

 一番初めのおんなの記憶は、窓越しにこちらを覗き込む瞳であった。
 当時オレは四歳。
 その頃のおんなの瞳の色は黒かった。濡れたような黒ぐろとした眼差しで、おんなはじっと幼子のオレを眺めていた。
 今思い起こしても、ショートカットが初々しい。制服姿の若いおんなであった。

 見たことのない顔であった。
 幼いオレは興味を惹かれて、窓辺へ近寄った。まだ背が低く、オレの顔は窓には届かない。考えてから、歯磨きをするのに使っていた踏み台に立った。そうするとあつらえたように、おんなとオレとの距離が縮まった。
 おんなとオレの目線が合う。
 おんながわらった。
 慈しむように。がれるように。
 母とは随分と違うわらい方であったが、奇麗だと感じた。
 ただおんなは妙な感じであった。
 おんなの後ろには、春先のうすく青い空がひろがっていた。その空に溶けてしまいそうなくらい、おんなもまたうすかった。
 躯がうすいのではない。おんなのかもし出す雰囲気は本当にそこにいるのか、子供のオレが疑わしく思うほどに頼りなかった。
 しかしおんなの目は、今よりずっと生きいきとしていた。眼球の奥には、こまやかな赤や黄のきらめきが点滅していたような気がするのだが、間違いであろうか。ともかくチビのオレを惹きつけるほどの、魅惑的な目の持ち主であったことには違いない。
 そうしてオレらは、しばし互いに見つめ合った。
 それからもおんなは、窓辺へとやって来た。毎日来る事もあれば、半月くらい姿を表さない時もあった。
 おんなは気まぐれだった。

 ある日。窓を指差し、「おねえさんがいる」母にそう告げた。
 オレの言葉に、母は変な顔をした。顔をあげ、母は確かに俺の指差した方を眺めている。なのに、「いないわよ」と言う。オレは驚いた。母はそんな単純な嘘をつく人ではない。

「いるよ! いる。いる」
 オレは言いつのった。

 おんなはそこに居る。
 居間のテーブルで三時のおやつを食べているオレ達をーーオレをまっすぐに見つめている。

「ママ、ほらそこだってば!」
 オレは大きな声をだした。おんなが、くふりと笑みをふかくした。

「くーちゃんの気のせいよ」と、母はぶっきらぼうに言った。
 気のせいなどではない。おんなはすぐそこに居る。存在はうすいが確かにいる。
 しかしどうにもおんなの姿は、母の目には映らないのであった。
 おんなはオレにしか見えない、得体の知れないものであると、この時オレは知った。

 お盆で親戚の集まりがあると、酔っぱらった叔父たちは決まってオレらチビ連中に幽霊の話しをしたものだ。オレらはキャーキャー騒ぎながら、怪談話に聞きいった。おんなも、そんなものなのかもしれない。母との一件以来、オレは「窓の幽霊」とおんなを呼ぶようになった。


 月日を重ね、おんなは家以外にもしばしば現れるようになった。
 幼稚園を脱走した(オレはこまっしゃくれたチビで、幼稚園などというガキっぽい場所が嫌いであった)時である。
 ひとりで家にむかって歩いていると、背後から声をかけられた。か細い声であった。

「ゆきただ」

 オレの名ではない。しかしなぜか振り返ってしまった。振り返ってから、あ。しまった。咄嗟にそう思った。
 電柱の陰に隠れるようにして、おんながいた。周りに他に人影はない。オレたちは住宅街の細い路地裏に居た。おんなは濃紺のセーラー服を着ている。おんなはずっとそうだ。幽霊だからそれしかないのか、常に制服を着て現れる。

 家の窓越しではないおんなが居る。
 驚きでオレの幼い躯はびくんと震えると、バカみたいに動かなくなった。おんなと顔を付き合わせるのに慣れてはいたが、オレにとってのおんなは窓だけにいる幽霊であって、現実世界のものではなかった。

「ゆきただ」
 おんなが再度その名を呼ぶ。

「……ちがうよ」
 勇気をふりしぼって首を振ると、おんなが悲しそうな顔をした。

「ゆきただ」
「ちがう」

「ゆきただ。なんだぞ」
 言いふくめるような言い方であった。

 声には意のままにしたいという強引さがにじんでいたが、同時に哀しみの響きがあった。
 頷けばおんなはきっと、小躍りして喜ぶであろう。その情景が目に浮かんだ。
 簡単な嘘である。しかしそれによって今後「ゆきただ」になってしまうのは嫌であったし、納得がいかなかった。
 幽霊のおんなは、ずっとオレに会いに来ていた。おんなからの好意の視線は、幼いオレにも伝わるほどにあからさまであった。なのに違う名を呼ぶ。おんなはオレとゆきただなる人物を勘違いしているのだ。そう思うと、落胆と幼い怒りが頭を持ち上げた。
 ここは意地でもながされてはなるまいと、「ちがうよ。くーちゃん」
 胸をはって、そう答えた。

「ゆきただ」
「くーちゃん。くにゆき。五歳」

 右手をかかげ、指をひろげてみせた。
 そうすると、さくら組みのえみ先生はよくできたねと手を叩いて褒めてくれる。しかしおんなは違った。
 おんなはオレの宣言に、気圧けおされたかのように、半身うしろに躯をひいた。
 おんなの躯が揺らぐ。
 顔を辛そうに歪め、ぬぐうう、と喉の奥から気味の悪い声を絞り出した。
 呆気にとられて、その様を眺めた。
 おんなが上半身を折り曲げる。そのままゆらゆらとおんなの輪郭がほどけていく。
 俺は目を見張った。
 頭も。肩も。腕も、足も。すべてがあやふやな線と形となっていく。後ろの景色が、おんなのぶよぶよになった半透明の躯越しにうっすらと透けて見える。寒天かんてんみだいだ。おんなは終いには、ばしゃりとみず音をたていなくなった。

 口のなかがカラカラに乾いた。目の前で何がおきたのか、理解できなかった。
 オレは阿呆みたいにぱっくりと開けていた口を閉じると、恐るおそるおんなが立っていた場所まで近づいた。まっくろなみずがわずかだが残っている。アスファルトの上でそれは、うんとうすめた墨汁のようであった。
 ひとが水になるなど考えられない。
 今のオレなら自分の頭が変になったかと思うかもしれない。しかしいくらマセていてもそこは幼稚園児の悲しさで、オレは目の前でおこった事実をすんなりそのまま受け入れてしまった。

 おんなに悪いことをしてしまったと思う反面、せいせいとした。
 おんなはオレを不愉快にした。だから罰があたったんだ。
 オレは駆け出した。駆けるうちに高揚感が増していく。そうなると、これっぽっちも罪悪感はなくなり、してやったりと、勝ち誇ってわらった。
 ひとりで家に戻ると、家には鍵がかかってはいれなかった。
 仕方がないので葉ばかり茂らせた紫陽花あじさいの大きな株の下にしゃがみこみ、地面をいじくって時間をつぶした。こんな事ならおんなを水になどせずに、一緒に遊んでもらうのだったと、惜しい気持ちになっていた。


 小学生になった頃には、おんなは窓辺の幽霊というよりは、妖怪にちかいのかもしれないと考えるようになっていた。
 現れるとおんなは「ゆきただ」と間違った名を呼ぶ時もあるが、大抵はじっと無言で見つめるばかりになっていた。余程オレに否定されるのがこたえたのかもしれない。
 薄気味悪いが、実害はない。
 大人ならば医者に走るだろうが、子供なのでふかく考えない。
 もののけが見えると言うと、男子から羨望の眼差しで見つめられた。小学生男児とは総じて馬鹿なものである。女子からは嘘つきと陰口をたたかれた。

 おんなは付かず離れずオレを見つめ続けた。
 次にはっきりとおんなが近寄って来たのは、十二歳の冬であった。
 オレは小学校六年生になっていた。
 その日母はいなかった。
 暖房のない自室は寒いので、ストーブのある茶の間で宿題をしていた。風が強い日で、窓ガラスがかたかたと鳴っていた。
 目を上げると、真っ白く曇ったガラス越しに人影がある。
 ああまた、おんななのだな。気にもとめずにそう思った。オレは人影を無視すると、さっさとすましてしまおうと算数のドリルに集中した。
 勉強は苦手ではない。かなりできる方であった。
 授業中に、しっかりと聞いていると大抵はその場ですとんと理解できた。漢字も数式も。楽に覚えられる。教科書を読むと、すぐにも情報は知識として頭へ刻まれていく。
 満点をとって嫌がる親はいない。母がオレを自慢にしているのも感じていた。
 逆にどうして皆が、オレと同じくらいできないのか不思議でならなかった。
 三年にもなって、九九も満足にできない同級生がいた。みなで代はり代はりに教えてあげようという提案があった時など、心底驚いた。ものすごく努力して身につけるタイプの子どもがいるのだと、初めて気がついた。

 常日頃。
 オレは優等生としてクラスメイトのやっかみと賞賛の視線を集めるのに慣れていた。
 気持ちのよいものであった。しかしどこか後ろめたさを感じる時があった。まるで後だしじゃんけんをしている。あるいは、いかさまをしてゲームに勝ち続けている。そんな居心地の悪さが、時折ふっと心をかすめるのだ。どうしてなのか。考えても分からなかった。友人に聞こうにも、同じ心持ちになりそうな人物に、心当たりなどなかった。

 算数と漢字のドリルをやり終えると小腹が空いていた。五時をまわっている。母が帰ってきて間食をしていたら小言を言われる。見つかる前に何か口にしようと席をたった。
 がたん。と一際大きく掃き出し窓の向こう側で音がした。
 誰かが縁側に上がり込んだような音だった。おんなはいつも驚く程しずかである。母か友人かもしれないと思った。
 暖房で曇った窓ガラスの白いかすみを、片手で拭いた。水滴でにじんだように見える外で、き出しの花壇につもった枯葉が、風にまっているのが目にはいった。

 寒いんだ。
 冬だから。
 すごく寒い。
 外で一夜を過ごしたら、きっと翌朝にはシャーベットみたいになっている。
 当たり前のはずのその光景が、何故なのかオレの胸をこの時きりりと締めつけた。
 オレは一人でいることに、不自由や寂しさを感じない子どもだった。年齢よりもしっかりしていたし、親を含めた他人の干渉を嫌う子どもであった。
 しかしその時のオレの胸のうちにこみ上げてきたものは、ぼんやりとしていたが間違いなく寂しさであった。
 意味も分からず、オレは唇を強く噛んだ。オレのちいさな世界は欠けている。足りないものがある。あったのだ。思いだせないけれど感じる。オレは……

 まなじりに涙が滲んできて驚いた。

ーーコンナノハイヤダ。ヤメルンダ。

 オレは反射的に窓辺から遠のいた。
 考えるのをオレは投げ出した。
 この時突き詰めて考えれば、その後のおんなとオレの関係は変わっていたのかもしれない。しかしどちらにしろ、そこまでが限界であっただろう。幼いオレはそれ以上の思考の広がりには、ついていけなかったはずだ。
 オレはきつく目を瞑り、眦に浮かんだ涙を乱暴にぬぐった。再び目を開けた時。世界はオレに充分理解できる程の大きさに戻っていた。
 流れる水滴でぼやけるガラス越しの庭を、至極たいらな気持ちで眺められる。
 不可解な感情はわいてこない。よし、OK。問題解決だ。
 そのときだ。
 がたんと再度音がした。玄関の方だ。今度こそ母であろう。急いで向かった足は、けれど途中でぱたりと止まった。

 曇りガラスの引き戸にへばりつくようにして影がある。影は犬や猫ではない。影は人型だ。掌から胴体、膝までを強くガラス戸に押し付けている。
 影はじっとりと貼り付くようにそこにある。

「……誰?」
 喉おくからかすれたような声がでた。

 本当はすぐにも分かっていた。
 押し付けられた影は紺色だ。ひだスカートの紺色だ。しかしオレは、オレの思いつく解答を全力で否定したかった。だからオレは誰かと影に問いかけた。
 影はへばりついたまま、体全体を使いうねうねと変な感じで動いている。
 おんなではない。違う。おんなのはずがない。
 おんなはオレを、こんなにも驚かせない。オレに否定されるのを、あんなにも恐れていたではないか。
 では誰であろうか。
 回覧板をもってくる、お隣の柴田のおばさんの足とは全然違う。もっとずっとまっすぐで、奇麗だ。近所の鸚鵡オウムを飼っている家のお姉さんと似ている気もしたが、こんな不自然な格好で、玄関戸にへばりついたりしない。

「……だれ?」
 再度問いかけた。答えはない。

 戸外の影が、ずしゃりと動いた。その動作はつぶれる。あるいは崩れたという有様であった。
 鳥肌がたつ。
 そっと。足音をたてないように、オレは後ずさった。
 玄関と廊下をへだてるのれんが首筋をかすめた。躯が震え飛び上がった。そのままきびすをかえすとばたばたと、今度は足音など気にかける余裕もなく、茶の間に逃げ込んだ。
 はやく。早く。母に帰ってきて欲しかった。
 余程のことがなければ、かけてはならないと教えられている職場の電話番号は冷蔵庫に磁石でとめられている。電話の子機を手にとった。頭にはいっているはずの、たった六桁がでてこない。
 自慢の記憶力はどうした。
 番号を確認すべく冷蔵庫へ視線を移し、そこで子機を胸にきつく抱きしめた。
 いないはずの台所にひとがいる。
 紺色のセーラー服。胸のりぼんは臙脂色えんじいろ
 唾を飲み込んだ。そんな馬鹿な。馬鹿な。ありえない。
 能面のような真っ白な横顔。ショートカットにした黒髪。母よりずっとうすい躯つき。
 いつもと同じ。おんなであった。

 今迄もさんざん目にしてきた。
 おんなをわずらわしいとは感じても、怖いと思はない。
 目にするのはいつも外。窓ガラスの向こう側か、道の途中。家のなかになど、はいってきたことはない。おんなは、テレビの向こう側で流れている映像のようなものであった。
 見えているけど、さわれない。れてこない。そんな存在であった。
 それが家の中にいる。おんなの意図が分からずに、オレは立ち尽くすばかりであった。
 玄関の鍵は閉まっていたはずだ。どうやってあそこから、オレに気づかれずに台所までやって来たというのだ。幽霊だ。妖怪だ。今迄そう考えていたくせに、オレはおんなに節度ある人としての行動を期待していたわけである。
 我ながら幼稚きわまる発想だ。ちゃんちゃら可笑しいが、この状況では流石に笑えない。

 おんながゆっくりと顔だけをこちらへ向けた。目が合った。途端。おんなの表情がかわった。色のない唇がうっすらと開けられる。聞かなくとも分かる。間違えた名を、飽きもせず紡ぐのだ。

「ゆきただ」

 首を振った。
 けれどいつもより。うんと控えめな動作で振った。
 閉ざされた空間で、おんなの次の動作が予想できない今、この場の主導権を握っているのはオレではなかった。子機をきつく握ったまま、首を振るしかできなかった。

「ゆきただ」
 おんなの声に喜色が滲む。それが一層怖かった。
 おんなはオレに何を期待している? オレが応えられない何を求めている?

「やっとだ」
 おんなが躯の向きを変えた。
 真正面になり。一歩こちらへ向かう。オレの躯は痺れたように動けない。蛇に睨まれた蛙だ。

「やっと。ここまできた」
 さらに一歩。
 狭い室内だ。すぐにもおんなは間合いを詰めるだろう。そうなったらオレに逃げ場所などない。背だっておんなの方が高い。手足は細いが、果たしてこんなにも無様ぶざまに震える躯で、おんなに勝てるとは思えない。
 捕らえられたら? どうされる? 
 その想像にオレは震えた。

「ゆきただ」

 更に一歩。
 回らぬ頭で、それでもオレは賢明に考えた。

「……どう、して?」

 オレの曖昧な問いかけは、かすれた小声ではあったが、おんなに届いた。
 策があったわけではない。ただ単に、おんなの歩みを遅らせたかった。だが希望が生まれた。
 おんなの足が一旦止まる。
 おんなが小首を傾げた。
 震える舌で次に何を問いかけようと、口を開いた。
 考えろ。考えるんだ。その自慢の脳みそで考えろ。
 おんなの感情などはこの際どうでもいい。オレに危害が及ばないようにする。そんな会話を思いつけ。そうしていつも通りの関係にもっていくんだ。
 ここに勝手に入ってくる行為が間違いだって、おんなに思いださせるんだ。
 お前は窓越しの幽霊だ。もののけだ。ここに来るのは違ってる。

「……どうして、来たの?」
「……」
 オレの問いかけにおんなは、さらに小首を傾げた。
 そのまま、おんなは動かずにまっすぐに見つめてくる。よし。おんなは止まった。オレのよみは外れてはいない。
 おんなは眠りかけのような、どこかぼんやりとした目つきをしている。そこでオレは気がついた。まっくろな。そのなかに様々な煌めく色彩を含んでいた瞳が変わっている。今のおんなの目の色はうすい。乳白色の、まるで白目しかないような目の玉で、じっとオレを見つめている。気持ち悪い。

「あいに」
 オレがおんなの目の色に気を取られているうちに、ゆっくりと、おんなが口を開いた。

「きた。……やくそくだから」
「やくそく?」
「そうだ。やくそくだ」
「して……ないよ?」

 なんだ。おんなの勘違いだ。
 きっとまた。ゆきただなる人物との約束を間違えてやって来てしまったのであろう。本当に馬鹿だ。
 オレは躯の力を抜き、ちょっとだけ笑った。
 びびりすぎた自分を笑ったのだが、おんなは違って受け取ったみたいだ。おんなの柳眉がかすかに上がった。目にこもる光が剣呑になる。
 オレはどうやらヘマをしてしまったらしい。背筋が凍る。
 おんなの躯が動く。今迄の動作が嘘のような、素早い動きで目の前まで迫ってきた。

「わすれたのか? ゆきただ!」
 言いつのる語気が荒い。

「また、わすれたのか!? また!」

 オレの二の腕をおんなが掴む。
 そこからじんじんと凍ってしまいそうな冷気が伝わってくる。
 ひっと、か細い悲鳴がオレの喉奥からもれた。
 目の前でおんなの臙脂色のりぼんが揺れる。
 捕まった! 咄嗟に目を瞑り、顔をそむけた。どこからともなく水の匂いが濃く漂ってくる。夏の、こころが沸き立つような水の匂いじゃない。よどみ。うねる。凍り付くような寒々とした水面の匂いだ。
 おんなに握られている腕は、痺れて感覚がなくなってくる。握りしめていた子機が床に落ち、鈍い音をたてた。

「ゆきただ。忘れたのか? あれだけ誓ったのに!」

 おんなの躯がオレに覆い被さってくる気配を感じた。
 おんなは怒っている。ゆきただなる人物と間違えて、オレに対して怒っている。怒りの感情をまっすぐに向けられるのは怖かった。オレの足は動かない。手も。指も。躯のあらゆる部分は動きを忘れ、それに反して心臓の鼓動は五月蝿いくらいに躯の奥底で暴れまわっている。
 やだやだやだやだやだ。
 目尻に涙がうかぶ。もうすぐおんなの唇が触れそうな距離にいるはずだ。おんなの吐息を耳に感じる。

「ごめんなさい」
 考えなどなしに、言葉は咄嗟にオレの口から飛び出した。

「ごめんなさい。ごめん。ごめん」
 言いながら涙が浮かぶ。
 どうしてオレがおんなに謝るのか。全く分からないまま、ちいさな謝罪はとめどもなく口からもれた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ゆるして。ごめん」

 おんながはっと腕を離した。
 うす目を開ける。オレは尻から床へと倒れた。そのまま腕で顔と頭をかばって這いつくばる。みじめだとか。みっともないとか。普段のオレなら鼻で笑いそうな格好だが、なりふり構っていられない。
 おんなが戸惑っているかのように、視線を宙に走らせている。そして二、三語呟いた。なにを言っているのか聞き取れない。或は気のせいだったかもしれない。だがおんなの怒りの気配がすっとおさまった感じがした。
 オレとおんなの間にピンと張っていた緊張の糸が緩んだのを感じた。

「きょうじゃない? きょうじゃない?」
 おんながぐるぐると室内を歩き回る。足元からどういう仕掛けなのか飛沫があがる。

「きょうじゃない? まちがえた?」
「……今日じゃない」
 オレは顔をあげると勇気を振り絞り言った。よし、声はもう震えていない。

「まちがった。まちがった。ゆきただ、まちがった」
「間違いだ、間違いだ」
 おんなの足がずしゃりと溶けるように水になる。
 足をなくしたおんなの躯はみるみる溶けていく。
 あの時と一緒だ。またたく間もなく。おんなの姿は崩れてなくなる。

 オレは用心しながら四つん這いのまま進む。床が濡れている。おんなは消えた。周囲を見回す。二度。三度。矢張り消えている。どこにもいない。
 おんなのうすい躯も。色のかわった目玉も。不条理な怒りの気配も。奇麗さっぱり消え失せている。
 オレを取り囲んでいるのは、いつも通りの室内風景だった。
 大きく息をひとつ吐き出した。けれど本当におんながいなくなったのか分からない。もしかしたら、まだ近くに居るかもしれない。
 油断するな。
 オレはおんなの気配に全神経を集中しながら、少しずつ進んで行く。幼稚園児の時はこれほど怖くなかった。成長していった結果、オレは恐れを知った。おんなの怖さを理解した。幽霊であれ、もののけであれ、アレはオレに害をなそうとするものだ。
 ガクガクとする足でなんとか立ち上がると、オレは自分の部屋に逃げ込んだ。
 扉を閉める。窓の鍵を確認する。そしてベットにもぐり込むと、頭から毛布と布団をかぶり震えた。北風に窓が鳴る度に、おんなの恐怖に身を縮めた。


 その夜。
 おんなの夢を繰り返し観た。
 細切れの夢にうなされては、目覚めるをくり返した。
 夢のなかで、おんなはオレを追ってくる。オレはほそい。曲がりくねった迷路のような空間を逃げ惑う。何度も、なんども。おんなはどこに隠れてもオレを探し出す。
 夜のなかで目覚める度に、現実のおんながいないかと、オレは恐怖に包まれた。
 終いには懐中電灯を持ち込んで、灯したまま眠りについた。
 翌朝。寝不足のおもたい頭で起きだしたオレは、下半身の不快感におののき飛び起きた。めくった下着はべったりと汚れていた。夢の怖さに漏らしたのかと焦ったが違う。
 生まれて初めての夢精であった。


 おんなはそれからもオレの前に姿を表し続けた。
 オレは中学生になっていた。
 段々とおんなとの距離は縮まってくる。オレはなす術も無く、やって来るおんなに怯えた。
 おんなはコワイ。
 なのにおんなと顔をつき合わせた日は、高確立で下着を汚した。それがやるせなかった。
 女全般に恐ろしさを感じるようになっていた。
 母親にさえ嫌悪を感じ始めた頃、オレはクラスの女子に告白された。

 中学にあがってから、徐々に周囲の女子はおんなの子から女に変わっていった。
 おんなを恐れていたオレには、有り難迷惑な話しであった。
 放課後に友人二人を引き連れて告白してきた女子を、オレはその場で振った。女子と付き合うなど、とんでもない。肩を落として背をむけた彼女が、オレ憎さに豹変しないか。考えだすとその夜はなかなか眠れなかった。
 だがオレの心配はあっさりと消え去った。
 件の女子は数日後にはサッカー部の奴と、ちゃっかり付き合っていたのだ。そして半月もせずに別れた。
 彼女たちの「つきあって」や「好き」は、かるかった。告白の時は思い詰めた表情をして、頬を染めているくせに、どこまでもかるかった。なかには「お試しで」つきあわないかという女子も居た。

 運動会や宿泊学習。文化祭やクリスマスといった行事になると、がぜん彼女たちははりきって「そこそこ合格点の男子」を探す。成績が良く、バスケ部であったオレは彼女達が欲しがる合格点の男子であった。それだけだ。そこにオレ個人の人間性はほとんど関係無かった。
 毎度他人の名を呼びながらオレをおびやかすおんなの、しろく濁った目つきに比べ、彼女たちの熱は単純でさめやすい。分かりやすい。
 オレは用心しながら、その華奢で無遠慮な手をとるようになった。

 同じ年の。あるいは年下の彼女達との恋愛ごっこは、オレのおんなに対する憂さをはらしてくれた。
 彼女たちの束縛は、我が儘に過ぎなかった。うざいと思う事はあっても、オレを怯えさせる闇はない。しかもどういうわけか付き合っている女がいると、おんなはオレに近づかない。最初は気のせいかと思ったが、オレは部屋のカレンダーに印をつけて確かめた。当りだ。理由は分からないが、少女たちはおんなを遠ざける。
 オレは一気に恋愛ごっこに精を出した。
 ふわふわして怒りっぽい彼女たちとの怖くない関係は、時間潰しには丁度良い遊びであった。
 いつの間にかおんなへの恐怖は薄れていった。乗り越えられたと思った。
 高校に進学してからも、常に彼女をつくっては、別れ。別れては又作った。おんなは姿を見せない。たまに現れても、とおく。視界の隅をかすめる程度だ。オレは青春を謳歌した。

 そして高三の冬。
 一足先にオレは推薦を決めて大学受験から解放されていた。
 そんなオレに彼女が受験勉強を強請った。小柄で愛らしいくりりとした瞳の彼女。きつい顔立ちのおんなとは、真反対のタイプばかりオレは付き合っていた。
「ママ、夜勤で帰るの遅くなるから」
 看護士をしている母親の不在を狙って誘ったのは、彼女であった。その理由を察してオレも着いて行った。彼女の言葉の意味が分からぬ程の朴念仁ではなかったし、既に彼女とは躯の関係があった。
 英語のテキストも辞書もほっぽり出し、オレ達は遮光カーテンをひいたうす暗い部屋で、恋人たちの行為に夢中になった。その後彼女は風呂に行き、オレはうたた寝をした。そのはずだ。
 なのにこの状況はなんだ。
 眠っていたオレのうえに、おんながいる。

 ※ ※ ※

 きつい眦の線。勝ち気な顔立ち。そしてセーラー服。おんなはオレが四歳の時から変わらぬ姿で、オレのうえにまたがっている。
 冷たいと思っていたおんなの掌からは、ひとと同じように熱を感じる。彼女はどこだ?

美優みゆう?」
 彼女の名を呟きながら、オレは左右を見渡した。そして、この場の不自然さにやっと気がついた。
 ぬいぐるみがたくさん置いてある彼女の部屋じゃない。見慣れたオレの部屋でもない。けれど目がさめた時、オレはココがオレの部屋だと感じていた。
 感覚がおかしくなっている。理性では理解できない状況が、混乱に拍車をかける。

 オレはおんなにまたがられたまま、周囲の一つひとつを素早く確認していく。
 いつものベットではない。畳みに布団をひいている。部屋は和室で、襖がある。日焼けした障子には、樹々の影が黒々と映り、重たい風の音と共に揺れている。
 見知らぬ室内。なのにそのどれもこれもが、妙に懐かしくしっくりと感じるのはどういうわけなのだろう。

「迎えに来たぞ。ゆきただ」
 おんなが言う。
 おんなの熱い掌が、オレの躯中を撫で回す。指先がオレの着ている浴衣地をきりりとひっかく。浴衣なんて、幼稚園のお祭り以来着た事もない。なのに着ている。あきらかに可笑しい。
 オレは焦った。これは夢なのか? オレは美優の部屋で寝て、おんなの夢を見ているのか?
 俺は美優の姿を再度探したが、どこにもいない。剥ぎ取られた布団からは既に熱は逃げ、ただしんしんとした夜の鋭い寒さを感じるばかりだ。

「ゆきただ。やくそくだ。ゆきただ」
 おんなが言う。
 また約束の話しだ。抑えられた喉のせいで掠れた声しかでない。それでもオレは精一杯、「ちがう」おんなへ告げた。
 おんなが慈愛に満ちた瞳で、「ゆきただが忘れるなんて珍しい」愛を囁くように言う。
 小学生の時に有効だった言い訳は、今夜は通用しない。

「ゆきただは優しくて、ちっとばかり臆病だけど」
 おんなの手に力がはいる。

「あたしと逃げてくれると言ったではないか」
 息が詰まる。苦しい。

「村一番賢いと言われていたお前が、約束を忘れるというのか」
 おんなの手をどけようと、もがく。つかむ。爪をたてる。
 何をやっても女の手はびくとも動かない。万力の強さで、オレの首を絞めにくる。死ぬ。オレはこのまま、頭のイカレたおんなの化け物に殺されるのか。助けて、誰か助けてくれ。
 意識がぼやぼやととおくなる。鼻の奥が熱い。眼球が飛び出しそうな圧迫を感じる。酸素を求めおおきく開けた口から飛び出したオレの舌を、おんながぺろりと舐めた。

「無様だな、ゆきただ」
 おんなが笑う。うっそうと、ほくそ笑む。
 もうダメだ。オレはこいつに殺される。観念して、目を閉じた。その時だ。襖が何の予告もなしにがらりと開いた。

「ゆきたださん」
 凛とした声がオレを呼んだ。
 おんなではない。もっと年を重ねた声だ。オレはゼイゼイと荒い息をしながら目を開けた。
 オレのうえに、おんなはいない。
 首は絞められていない。生きている。乱れた布団にいるのはオレ一人だ。

「さ、行きますよ。起きなさい」
 襖を開けた年増の女が、有無を言わさぬ声でオレに呼びかける。
 オレは改めて年増の女を見る。白のまさった髪を結い上げ、こんな遅い時間だと言うのに、紺色の着物をきっちりと着ている。ちいさな足を包む足袋たびは、はっとする程真っ白だ。

 このひとはいつだってそうだ。
 オレはぼんやりとした頭で考える。

 母さんは癇性かんしょうすぎると、死んだ父さんがよくこぼしていた。
 父さん? 母さん? 
 この女は母なのか? 
 オレの記憶のなかの母とは、かなり違っている。なのに本能は女を母だと告げている。そうだ母だ。どうして忘れられる。
 地主だった家は農地改革で土地をとられた。
 傾きかけている家は、母でもっている。誰も母には逆らえない。

「さ、早く」
 母にせかされ、「はい」オレは半纏はんてんを羽織ると、のろのろと立ち上がった。
 部屋の外は寒い。野外はもっと寒いだろう。これから母がしようとしている事を考えると、自然動作はのろくなる。億劫だ。したくない。
 そんなオレの気持ちをお見通しとばかりに、母がちいさな。けれどはっきりと非難をこめた声で言う。

「すべてあなたが撒いた種なんですからね。しっかりおし」
 母の足袋が冷たい廊下を、きゅっきゅっと踏んで行く。

「はい」
 オレは項垂うなだれて、母と共に歩を進める。

 オレの家は地主であった。
 うえの兄ふたりは先の戦争にとられ。ひとりは大陸で。ひとりは南方で戦死した。
 本来ならば冷や飯食いであったとしても、一番自由なはずの三男坊のオレに跡取りの責務がまわってきた。

 屋敷の勝手口から、裏道へと出る。
 稲を刈り取った後の冬の田圃が、真っ暗闇のなかで広がっている。あそこも。こちらも。本来ならば全てオレの家のものであった土地だ。
 オレと母は粛しゅくと畦道あぜみちを急ぐ。前方に鎮守ちんじゅの森がある。そこにいるのだ。約束だ。とても大切な約束だ。約束の相手は恋人だ。将来を誓い合った愛しいおんなだ。満足に好きな勉学もできず。躯が弱く、徴兵検査で甲種をとれずに後ろ指をさされていたオレに、ずっとよりそってくれていた大切な人だ。

「わかっていますね?」
 畦道の先を歩く母が言う。オレの気弱さをこの人はよく知っている。

「……はい」
 オレはしたくもないだくの返事をする。
 ああ、イヤだ。イヤだ。母の紺の着物の背をじっと見つめる。華奢な背だ。背丈などはオレの肩にも届かない。やっ、とばかりに躯を押して、転ばせば良い。後は走って森まで駆け抜ける。そうすれば上手い事母を出し抜けるかもしれない。いや、できるであろう。
 それが恋人に対しての誠意である。分かっているのに躯は動かない。
 母に反抗すると想像するだけで、震えが走る。失敗した時の、母をはじめとした皆の非難が怖くてたまらない。寒さと怖さで震える躯を、自分の両腕で抱きしめながら森へ向かう。
 森には沼がある。水神を祀っているちいさな沼だ。そこで恋人が待っている。
 森の樹が夜風にうねる。森全体が生きているかのような動きが不気味に感じる。夜に飛ぶ鳥が鳴く。逃げたい。この場から逃げだしたい。
 それも出来ずに森へと入る。

「わかっていますね? ゆきたださん」
 母が再度問う。
 いや、本当に母であろうか。
 ふと疑問が今さらながらに、わいてくる。初老の女だ。オレの母は着物など滅多に着ない。オレの中学の卒業式に着ていたのが最後ではなかったか? 顔だって、こんなきつい感じではない。もっと柔和な人だ。そもそもオレ自身が変である。
 オレは戦争など知らない。知識としては知ってはいるが、体験していない。母も父もそうだ。恋人はいるが、美優とは切羽詰まった関係ではない。兄もいない。これはどうした事なのだ。オレは理解できない世界を、今夢で見ているのだろうか。闇のなか。躯に回していた腕をほどき、まじまじと己の掌を眺める。見慣れたようであり、全く見知らぬものにも見える。二つの記憶が重なりあっているかのような、目眩めまいにも似た感じを受ける。
 ここはどこだ? オレは誰だ? 
 改めてそう思った途端足が止まった。頭上で折り重なった樹々がざざざと揺れる。鳥が鳴く。

伊部いべ 行但ゆきただ
 立ち止まったオレに相対あいたいするように、母だという女が向き直る。
 オレの名を呼ぶ。
 冷たい声だ。冷たい目だ。能面のような顔だ。どうして母だと思ったのだろう。全ては間違いではなかろうか。寒気が背筋を震わせる。

「貴方は伊部の跡取り息子です。貴方は伊部の家をもり立てなければなりません」
 伊部なんて家など知らない。
 オレは邦之だ。高校生だ。跡取りなどいう時代錯誤の身分ではない。そう言いたいのに、言葉はでてこない。

「さ、いきなさい」
 母が躯を脇へとずらす。道の先が見える。沼だ。沼のふちに人影がある。小柄な影がそこにある。ダメだ。行ってはいけない。
 行ったらオレは罪人になる。
 オレには分かる。この先を知っている。

「さ、行くのです」
 無慈悲にも躯はのろのろと進みだす。子どもの頃から、この人の言葉には逆らえない。
 母の横を通り過ぎる。血管が浮き出た手で、背を乱暴に押された。思わずたたらを踏んだオレを、柔らかな手が支えた。

「ゆきちゃん」
 可愛らしい声がオレを呼ぶ。けれど今は聞きたくない声だ。顔をあげると恋人がオレを支えている。女学校の制服のセーラーを着て、下はもんぺを履いている。ふたつ結びにした髪が、オレに駆け寄り揺れている。

頼子よりこ
 知らないはずの名が、さも当然と口から出た 頼子はおんなだ。おんなは頼子だ。ああ、思いだした。おんなの化け物は頼子であった。頼子に触れられて嬉しい。会えて嬉しい。なのに怖い。心底怖い。

「出て来られたの。良かった。ゆきちゃん来ないかと思った」
「そんな事あるもんか」
 約束だ。そうだ。大事なだいじな約束だ。

 オレは年があけたら、兄の婚約者だった隣村の女と婚儀をあげる。女は腹に兄の子を宿している。子はオレの子種として扱われる。伊部には次代を担う子が必要だ。
 頼子には父親ほど年の離れた男やもめの後妻としての話しがきている。村は女余りの状態だ。若い男は都市でも少ない。頼子の下には四人の弟妹がいる。オレ達はのっぴきならない立場にある。だから今夜。ここで今夜。オレ達は……

「さ、ゆきちゃん」
 頼子がオレの掌をつかむ。寒いなか待っていた手はかんじかんで冷たくなっている。オレはその手を力をこめて握りかえしたい。なのにできない。まるでふわふわと力がでない。幼な子のように、頼子に引っぱられるばかりだ。

「さ、ゆきたださん」
 オレの背後で母だという女がうながす。力をもった言葉が闇を突き抜け、オレの鼓膜を刺す。

「ゆきちゃん。逃げよう」
 頼子が手をひく。

「東京に逃げて、ふたりで暮らそう」
 前方に沼がある。ここで春にはヨモギを摘んだ。夏には蛍を追った。逢瀬を重ね、人目をさけて躯を重ねた。飛び交うトンボをふざけて追いかけた。この故郷を捨て。家を捨て、果たしてたった二人で生きていけるのか。

「ゆきたださん」
 有無を言わせぬ母の言葉に足が止まる。
 いや、実際はここに母はいなかった。母の姿はオレの記憶が創り上げた幻だ。オレが全てを母のせいにしたがっているだけだ。実際あの夜に沼にいたのはオレ達だけだ。

「ゆきちゃん?」
 動こうとしないオレの態度に、頼子が振り返る。その顔は不安そうだ。安心させたい。けれどオレにはできない。沼のふちはすぐそこだ。オレは唾を飲み込んだ。口が乾く。舌がねばつく。

「……いけない」
 掠れた声が出た。
 頼子が悲しげに眉を寄せる。けれどその顔は悲嘆に染まっていない。彼女には分かっているのだ。だから予想していた。信頼しきれないオレの本質を、よく知っていた。母の。家の。村の強いつながりを知っていた。つながりの中でしかオレらは生きていけない。
 オレは兄の女と結婚する。頼子は年寄りの爺の家に嫁がねばならない。口減らしだ。わずかばかりの小金が頼子の家には払われるだろう。それで弟たちは、少しばかりましな食事を口にする。二人で逃げたら、伊部の家はつぶれるだろう。頼子の弟妹はひもじさで苦しむだろう。

「いけない。家を捨ててオレはいけない」
 オレの言い訳に頼子が静かに涙を流す。

「だったら」
 頼子がオレの掌をそっと両手で包む。

「一緒に死のう」
 頼子が言う。とっくに覚悟を決めた顔をしている。その瞳が怖い。オレは直視できずに顔をふせた。

「できない」
 うつむきながら言う。

「二人でならできる」
 頼子がオレに縋り付く。

「できない」
「できる。生きても辛いだけなら、ゆきちゃんと」
 オレの掌を頼子は自分の首に押し付ける。細い。オレが何度も唇をよせた美しい首だ。

「ゆきちゃんが、あたしを」
 オレの掌にそえられた頼子の手だって震えている。なのに離そうとはしない。頼子は頑固だ。一度こうと決めたら決して揺るがない。

「オレが頼子を。それからオレはーー」
「沼にはいれば良い」
「沼に……」
 オレの背後から立ち去る母の足音が微かに聞こえる。
 幻は消える。それで良い。母の前で家名を汚す事をしてはいけない。するなら、そっと。母の目のないところでするのだ。逢い引きも。罪深い行為も。

 オレは両の手に力をこめる。したくない。けれど頼子の願いだからする。爺に抱かれるなどイヤであろう。違う。イヤなのはオレだ。オレが愛した初めての女が、老いた男に組みしかれ、自由にされるのかと思えばはらわたが煮えくりかえる。ちっぽけな独占欲だ。頼子はオレの女だ。オレのものだ。
 頼子が、「うう……」苦悶の声をあげる。首を絞めるオレの手に、頼子の爪がふかく突き刺さる。痛みは感じない。頼子もきっとそうだ。そうだと言ってくれ。これはお前が望んだ事なんだ。頼子の躯から力が抜けていく。ぐったりと重くなる、彼女の躯が足から崩れる。地面に倒れた頼子にかぶさるように、オレも膝をつく。頼子の頭が沼の水に浸る。髪の毛が水面に一度ぽかりと浮かび、次に沈んでいく。夜目にも白い顔は尚しろくなっている。
 苦しさに開けられた口いっぱいに、沼の水が入り込む。一瞬咽せたかのように、泡がごぼりと口中から飛び出し、それもすぐに止む。死んだ。本当に死んでしまった。そう思った途端、それまで冷たさを感じなかった手が、にわかに水を冷たく感じた。頼子は死んだ。オレは。オレは怖い。オレはできない。できるわけがない。水は冷たい。ここは寒い。ダメだ。死ぬなどとてもできない。慌てて手を離し、逃げ帰ろうとした。すると水中で閉じられていた頼子の目が、ぽかりと開いた。
「ひっ」
 短い悲鳴がオレの口からもれた。
 開いた目は、澄んだ奇麗な瞳ではない。白目ばかりの黄ばんだ瞳がオレを一心に見つめ、それから顔全体でにやりと笑った。

「又やったな、ゆきただ」
 声は耳元で聞こえてきた。
 そんなわけがない。頼子はオレがたった今絞め殺したはずだ。手にはその時の感触が生々しく残っている。恐るおそる声の方へと視線を動かす。おんなが居る。セーラー服にスカート姿のおんなだ。
 では、オレのこの手が絞めていたものは何だ。手のなかの、ぐったりとしている首は誰だ。
 ぐるりと周囲を見渡す。
 ここは沼ではない。森でもない。
 明るい風呂場にオレはいる。
 風呂場は暖かい。湯が蛇口からざあざあと湯船へと流れ出ている。たまった湯が縁からあふれ、オレの足を濡らしている。湯のなかには、舌をべろりと伸ばし死んでいる女がいる。頼子ではない。おんなではない。これはーーオレが手にかけているのは。

「美優……」
 ゆっくりとオレの手が美優の首から離れる。裸の美優が死んでいる。首には絞められたうっ血がある。

「お前はまた罪を重ねた。これからもきっと重ねる」
 おんながくつくつと笑う。楽しそうに目を細める。

「前世でお前は、今夜あたしを殺した。一番夜がながい今日。寒いさむい晩だった。事件をお前の母親はもみ消した。あたしは流れ者の復員兵に殺された事になった。お前は罪に問われなかった。共に死んでもくれなかった」

 美優が湯船で死んでいる。殺したのはオレだ。
 オレは誰だ? ここはどこだ? 先ほどと同じ問いが頭に浮かぶ。
 オレは邦之だ。高校生だ。ここは戦後のゆきただの居た時代ではない。力のある伊部の家はない。オレを守ってくれる者はいない。

「あたしはどこにいても。ゆきただを探し出す。何度生まれ変わっても。どんな姿になってでも、きっと見つけだす。あたしを殺した十八の年に、お前の罪を晒してやる」
「助けて……助けてくれ!」
 オレはおんなにすがった。

「無駄だ。ゆきただ」
 おんなが満足そうに。けれどどこか悲しげに首を振る。

「あそこで一緒に逃げてくれれば。せめてあたしの後を追ってくれたなら。そうしたら今生こんじょうで許してやれたのに。けどダメだ。お前は何度でも間違える」

 家の鍵が開く音がする。疲れをにじませた声が「ただいま」と帰宅を告げる。
「美優? 寝ているの?」
 看護士をしている彼女の母親だろう。スリッパのたてる足音が近づいてくる。躯が震える。この現実が恐ろしい。

「愛してるぞ、ゆきただ」
 おんなが甘い声で囁く。

「お前の弱さも、卑怯な部分も。全部丸ごとあたしのものだ」

「美優? お風呂なの?」
 脱衣所のドアをノックする音がする。

「玄関に男の子の靴があるけど、あなたまさかーー」
 脱衣所のドアノブが回される。
 おんながゆっくりと姿を消していく。
 風呂場でオレは彼女の遺体とふたりきり。逃げ場はどこにもない。

「美優?」
 曇りガラスのドアに影が映る。こちらを伺う気配がする。

「開けるわよ……」
 ためらいながら、ゆっくりとドアノブが回る。
 おんなはいない。美優は死んでいる。明るすぎる光が、この場をしらじらと照らしている。
 オレは乾いた唇を、舌先でゆっくりと舐めた。もうすぐあがる悲鳴が、オレの罪を突き付ける。





                                   完





 
2018年初アップ作品です。ここまで読んでいただきありがとうございました。
ホラーなのか。ヒューマンドラマなのか。純文なのか。自分でもイマイチ分かりません。
感想等いただけると嬉しいです。

原稿用紙換算枚数 53枚。

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