Ⅸ
ツバサが連れて来られたのは、屋敷の地下の奥にある台所だった。
ドゥマクがその扉を開けるや、ムアッとした熱風と、それに混じって生ゴミの悪臭がツバサの鼻腔を刺激した。
熱風の中で通気口はドアしかなく、換気が悪い。
これでは悪臭がこもってしまうのも仕方がない環境だ。
「…………っ」
ツバサは思わず目を疑う。
もちろん台所を一目しただけで悪環境だということがわかるほどだったが、さすがにこれは想像以上であった。
「おいっ! 仕入れていた魚はどうした?」
「今三枚におろしているところです。それから油で揚げて、タルタルソースで召し上がれるようにしています」
「備え付けとスープはなにを作っている?」
「ホースベルのフライとノイノのスープです」
「パンは焼けてます。輪切りにしてトーストしますか?」
――ホースベルにノイノねぇ……。
ツバサは台所の中を見渡した。コンロの前で忙しく手を動かしている二人の男女、その二人を手伝っている女中が二人。
それらをひとりずつ確認していくと、
「――あれ?」
石畳の上に置かれている麻袋に視線が止まった。
その中には、ツバサの世界にもある、見覚えのあるものが入っていたのである。
「っと、ジャガイモにタマネギ……?」
台所女中の一人が、ツバサが視線を向けている麻袋から、ジャガイモを五つほど取り出し、泥を落としていく。
そして皮を向き、細長く切り分けると、ドロドロとした油の中へと投入した。
「最悪だな……」
おもわずボソリ。
「最悪とは?」
それを耳にしたドゥマクが、ツバサに視線を向けた。
「揚げ物をした後の油は、野菜とか揚げたものの味や風味が沈殿するものだけど、だからといって使い続けるわけにはいかない。ある程度濁りだしてきたら取り出して、新しい油と交換しないといけないんですよ」
他の町の田舎屋敷と比較したわけではないが、油を変えていないというのは、それだけ衛生的に悪いということは、ツバサとて理解できていた。
うなぎの名店や、焼き鳥屋で使われる百年以上使われているタレは、基本的に低温殺菌されており、また継ぎ足しを毎日しているため、そもそも最初のタレなんていうものはなくなっているのである。
また、屋敷の主人やその家族、食事に招待された来客が利用する食堂があるのは一階であり、その調理をしているのが地下だ。
老舗旅館なども、造りとしてあまり人が入らない地下や食堂より上の階に台所に設置されていることがあるが、この場合従業員や調理した料理を運ぶためのエレベーターを利用しているため、料理は温かい内に運ばれる。
……が、それがない場合、食堂とキッチンが隣接していない以上、運搬で時間が経ってしまい、料理はすでに冷めた状態になってしまうのだ。
この世界と関係はないが、イタリアの料理が美味しくないという風評被害は、ヴィクトリア朝において、上流階級の時点でこのような食事環境にあったからであった。
「その油なら、本来昨日の晩には届いていたはずらしいですよ」
ドアのほうから聞き覚えのある声が聞こえ、ツバサは首をかしげた。
そこには他の台所女中と同様の、お仕着せに身を包んでいるメリサンドの姿があった。
「っと? あれ……なんでメリサンドがここに?」
メリサンドの持ち場は|雑役女中である。
他の使用人の手伝いもすることが多々あり、ここにいることはおかしくないのだが、
「お嬢さまから言われね、あなたの教育係を任されたのよ」
と言われ、ツバサはなるほどと思った。
「よろしくお願いします先輩」
「……えっ?」
メリサンドはおどろいた声でツバサを一瞥した。
「もう一回、言って」
「えっ? メリサンド先輩……?」
「もう一回っ!」
「あぁっと……もしかしてメリサンドって、この屋敷ではオレの次に下っ端だったりするの?」
昨夜、メリサンドが言っていたことは、あくまで例えなのだとツバサは思っていたのだが、もしかして本当だったのだな考えを改めると同時に、彼女の、自分が先輩と呼ばれることに対する高揚した顔に言葉を失っていた。
「あっ! ドゥマクさん……ちょっといいですか?」
料理人の女性が調理で濡れた手をエプロンで拭きながら、ドゥマクのところへと歩み寄った。
雰囲気は三十歳になろうとしているのか、髪は帽子の中へとしまわれているが、顔は汗でテカっており、脂が乗った魚のような輝きがある。
「どうかしましたか? ジャンナさん」
「昼食用にと準備していたシルバーが足りないのですが」
「シルバー……って、たしかナイフとかフォークのことを言うんだっけか」
それがどうして執事であるドゥマクに聞くのだろうかと、ツバサはジャンナに視線を向けた。
「っと? 彼は?」
「あ、はじめまして。今日からこの屋敷にお世話になるナカガワ・ツバサといいます」
スッと背筋を伸ばし、頭を下げるツバサ。
「はじめまして。私はここで料理人をしているジャンナ・ボノーミって言います」
物腰の柔らかい声で返され、ツバサはジャンナを改めて見なおした。
「ところで、どうして食器をドゥマクさんに?」
「ご主人さまや客人の方々に提供する料理を盛る食器類は高級なものを使っていて、それを管理しているのがドゥマクさんの仕事なの」
メリサンドがツバサに耳打ちする。
「つまりシルバーもドゥマクさんが管理していると?」
ツバサの返しに、メリサンドはうなずいた。
「来客が来るのは昼ごろであるから、ご主人さまと奥さま、ユリアーナさまの分で足りると思うのだが」
「あれ、メイリスさまの分は……?」
この屋敷の家族構成を先に聞かされていたツバサは、いぶかしげな声で訊いた。
「…………っ」
途端、周りの空気が凍りつく。
「っと? あれ? なんかマズイことでも言った? もしかしてあの仮面少女、引き籠もり? 食事は自分の部屋で食べるみたいなもの?」
もしかして失言した? と、慌てだしたツバサに対し、
「もしかしたら適当に言ったのかもしれないけど、言い得て妙なところがなんとも」
とメリサンドはためいきをついた。
「メイリスお嬢さまはすこしご病気で、それが他の人に転移してはいけないと、今隔離状態にあられる。食事も後でこちらから部屋へお届けする形となっている」
ドゥマクの説明を聞きながら、
……あれ? それだったらなんで昨夜オレに会うようなことをしたんだ?
と、さらにツバサは眉をひそめる形となった。
病気で隔離されているのなら、他の人に合うことも当然禁止されているはずだからだ。
「もしかして、こっそり抜けだしてみたいなことをしたのかねぇ」
「そんなわけないでしょ? メイリスさまがこの屋敷の人間以外で興味をもつなんてことしないわよ」
嘆息をつきながら、メリサンドはドゥマクを一瞥する。
「しかたない。メリサンド、一緒に来てくれないか? それとツバサは台所女中の手伝いを頼む」
「基本的には?」
「野菜を洗ったり、肉の下拵が主な仕事ね。まぁジャンナさんや、料理長のクリストさんが優しく厳しく教えてくれるから大丈夫よ」
ツバサは視線をコンロの前に立っている料理長に向けた。
からだの作りがよく、袖を捲し上げているため、太い二の腕が露わになっている。
ところどころに刀傷の痕があり、なんか料理人というよりは軍人のような雰囲気がある。
顔も強面で、モミアゲとアゴヒゲがつながっており、強面だ。
「だ、大丈夫かなぁ」
怒らせたらヤバイんじゃないだろうか……と、ツバサが尻込みしようとしていた時だった。
台所女中がジャガイモのチップを油鍋からあげようとした時、彼女の手袋と袖の間に、油が跳ねる。
「きゃっ?」
それにおどろき、台所女中はちいさく悲鳴をあげた。
「…………っ」
料理長のクリストが、険しい目で台所女中の方へと近づき、
「あぁらぁっ! 大丈夫っ? いたくない? あつくない? 怪我はしてない?」
強面からは想像できないほどの甲高い声で、クリストは台所女中の手を握った。
「あ、だ、大丈夫です」
「大変、水ぶくれができてるじゃないっ! ちょっとだぁれよっ! こんな危険な油を使わせていたのは……って、わぁたしだったわぁ……うっかりさん?」
剽軽な顔で舌を出し、自分の頭をコツンと一撃。
「野郎のテヘペロほど気持ち悪いのねぇわっ!」
最初は黙って見ていようかと思ったツバサであったが、さすがに突っ込まざるを得なかった。
「見た目と口調にギャップがありすぎだっ!」
「あぁん? だぁれあんたぁ。ここは戦場よぉ。一般の人間が入っていい……っと、あぁんらぁドゥマクちゃん着てたのぉ」
ツバサに対しては険しく、逆にドゥマクに対しては色目を使うような口調。
「コロコロ、コロコロと……」
クリストの眩暈がするような態度の変化についていけず、ツバサはメリサンドが言っているとおり、まずは野菜を洗うことから始めようとした。
「あっ、ドロシアさん」
メリサンドが、さきほどクリストに心配されていた台所女中に声をかける。
「なにかしら? メリー」
「その新人には野菜洗いが終わったら、お館さまがたの食器の洗いも一人でさせておいて」
「別にそれは構わないけど、大丈夫? たしかお館さま方々が使われている食器って、最低でも金貨四十枚はいかなかった?」
ツバサはその言葉に耳を疑う。
「大丈夫大丈夫。怒られるのはそのツバサって給仕だけだから――ってぇ?」
ケラケラと笑うメリサンドの頭上に、クリストの拳骨が突き落ちた。
「バカなこと言ってんじゃねぇぞメリサンドォッ! そんなことしちまったら監督責任でオレまで怒られるんだぞ?」
ただでさえ恐ろしいクリストの顔が、さらに鬼のようになっている。
下手なチンピラならば、その顔だけで黙らせるほどの迫力があった。
「うぅ……冗談です」
「あはは。それじゃツバサくん、まずはそこに入っているホースベルを一袋洗っておいてもらおうかしら?」
「まぁそんなことはしませんし、今は野菜を洗うのに……」
ツバサは野菜が入れられた麻袋に視線を向けた。
「……これ、一袋いくら入ってるの?」
「ザッと一袋十キロよ。ちなみに今日全部を使うってわけじゃないけど、晩餐会の時は最低でも三つは使うわ」
ドロシアにそう告げられ、ツバサはげんなりした。
クリストのCVはギャグやってるときの玄田哲章さんで脳内再生。
ちなみに世界観のモデルとしているヴィクトリア朝時代でも、屋敷での台所は地下に設置されていて、換気云々以前の問題だったようです。