Ⅶ
ツバサは書庫の横にある部屋のソファでうつぶせになっていた。
服を捲し上げられた彼の背中は露出されており、腰のところには湿布が貼られている。
死ぬほどの痛みがあった令嬢からのヒップドロップは幸か不幸か、彼を殺すような衝撃には達していなかったようだ。
――うぅむ、死ななかっただけ良かったのかもしれないな。
[死に戻り]による時間遡行はなかった。
と言うよりは、できればなかったほうが良かったとも言える。
さすがに屋敷に入る前まで遡行されてしまっては、詰んでいたとも言えるのだ。
もし死んでいたとして、そのセーブポイントがこの屋敷で最初に目を覚ましたところであれば、彼にとって万々歳なのである。
「あの、ドゥマクさま。彼は?」
ドゥマクにそうたずねる珊瑚朱色の家女中……アルペルティーナは、いぶかしげな表情でツバサを見すえた。
「新しくこの屋敷で働くこととなったツバサどのだ」
その問いかけに、ドゥマクは淡々と応える。
「お兄さん、かっこいいね」
アスラに似た少女が、ツバサの頭をポンポンと叩いている。
なんとも人を小ばかにしたような態度に、「謝りなさい」
と、ツバサは眼光を鋭くし、令嬢を睨んだ。
「ドゥマク、この男を殺していいよ」
「チビすけに殺される云々以前の問題だぁっ! オレが下敷きになっていなかったらそんなこともできなかったんだぞぉぅてててててて」
ムリに起きようとした祟り目か、ツバサの腰に激痛が走る。
ツバサはその痛みに耐え切れず、起き上がることができなかった。
「ドゥマク……」
それでも喧々としたツバサの声色に恐怖を覚えた少女は、思わず涙目になり、執事に助けを求めたが、
「わたくしもツバサどのと同じ意見ですユリアーナさま。彼がお嬢さまの下敷きになっていなければ、最悪こうやって与太話すらできなかったのかもしれないのですよ」
淡々とした口調で言い放つドゥマク。その隣にいるアルペルティーナも、ツバサの意図に対しての態度を取る。
当然、悪いのはこのお嬢さま……ユリアーナ・シュトールであり、取り付く島がないとはまさにこの事だった。
「うぅ……」
ユリアーナは頭を抱え、キャップを深々と被ると、表情を悟られないようにした。
「ごめんなさい。それとありがとう」
自制心からか、ユリアーナはちいさく謝罪する。
身分的にユリアーナが誰彼構わずに頭を下げるような身分でないことは、ツバサとてわかっている。しかし、彼女が傲慢な性格ではないのだなという印象もあった。
「っと、このチビすけがユリアーナさま?」
ツバサは視線をドゥマクに向けた。
「はい。この方がカスバル・シュトール卿の第一子ユリアーナ・シュトールさまでございます」
そう紹介されたが、「なんていうか、じゃじゃ馬だな」
ツバサはなんともはやといった表情で、そのユリアーナを一瞥する。
「こちらとしては貴族の娘という自覚を持って欲しいのですが」
アルペルティーナの顔に、苦笑の色が浮かび上がった。
それだけでもわがままに付き合っている部分もあるのだなと、ツバサは察した。
「さきほどもご命令してくだされば、わたしが探しだしましたのに」
「だよなぁ……お嬢さまだったら誰かにお願いすることなんてよくあるはずなのに」
ジッとユリアーナを見つめるツバサ。
「もしかして、なにか隠していたとか?」
「――……っ」
咄嗟にユリアーナは皆から視線を逸らした。図星である。
「うわぁ、わかりやすい。もしかして見られたら困る日記帳とかそんなやつ?」
「そ、そんなのはアレを手に入れてからはつけた記憶がないわ。魔法の円盤ですべて声を入れているからね」
――魔法の円盤?
「それってなに?」
「薄っぺらいビニール製の円盤を回転させて、法螺貝の口に吹き込むのよ。その円盤に針を落として……」
「あぁ、要するに録音ができるレコードってことね」
仕組みを聞けば然程珍しいものでもないなとツバサは思った。
普段聞いているMP3音源やCDも言ってしまえば仕組みは一緒なのだが、この世界にコンピューターがないことは理解している。
したがって、その原始的な方法とすればレコード、蓄音機と似たようなものなのだろうとツバサは思ったのだ。
「えっ? なんで知ってるの?」
が、ツバサが思った以上にユリアーナは爛々とした目でツバサを見つめている。
自分、もしくはそれを作った人物以外の人間が、どうして仕組みをすぐに答えられたのかという興奮の表れであった。
「あっと、円盤の表面に刻まれた歪みにそって針が動いて、その振動で音が鳴るみたいなもんだろ?」
――あれ? そういえばエジソンが蓄音機を発明したのって一八七七年くらいじゃなかったっけ?
異世界なので、自分がいた世界の知識がどこまで通じるかはわからないが、この世界がヴィクトリア朝あたりなのだろうなとツバサは推測していた。
屋敷の廊下にはオイルランプが点々と備えられているため、その後に出てきたガスランプがまだない時代ともなれば、エジソン式の蓄音機もないということになるが、もちろんこれはあくまでツバサの推測である。
そもそもガスランプがヴィクトリア朝において街灯として灯されだしたのは一八〇七年とされており、それが一般家庭に普及されたのは一八七〇年。エジソン式蓄音機が発表されたのはそれから七年後のことだ。
「すごい、あの子がわたしに教えてくれた仕組みと一緒だわ。もしかしてあなた魔女? いや男性だから魔法使い?」
「いやいや、話が飛躍し過ぎだって。そもそも魔法っていうのはどうあがいてもできないことを魔法っていうの。オレが言ったのはそういうタネがあるってことだ」
と、話を続けて、ふと……「あの子?」
ツバサはユリアーナの顔を、訝しくみる。
「そのレコードを作った人を知ってるってことか?」
「知ってるもなにも、それを作ったのはこの町……いいえ、この国一の大魔法使いの孫娘だからね」
ユリアーナは、さほどない胸を張る。
見た目の年齢からすれば、ツバサと同じくらいなのだが、同年代の少女からすれば、平均よりも低い胸板であった。
――原理を知ればそんなにすごくないけど。
ツバサはそんなユリアーナに呆れてものが言えなかった。
「ところでお嬢さま、書庫でいったいなにを探しておられたのですか?」
ドゥマクが子どもに質問する姿勢でユリアーナを見た。
「えっと……別に本を探していたってわけじゃないのよ。メイリスからちょっといらない紙がないか探してってお願いされていたのよ」
「つまりそれで書庫の中でいらない本を探していたってわけか」
「そうそう。あの一番上の埃かぶっている本とかだれも読まないでしょ」
「勝手に決めるな」
ツバサはユリアーナの頭をコツンとチョップする。
「ツバサどの、すこしご自分の立場を考えられたほうがいいのでは?」
ドゥマクがそうたしなめるが、「誰も読まないって誰が決めた? もしかしたら誰かが読むことだってあるだろ?」
ツバサの言葉に、
「たしかにそれは盲点でした」
ドゥマクはスッとうしろへと足を引き、ちいさく頭を下げた。
「オレが暮らしていた国に大きな、誰でも利用できる大きな書庫があって、そこでは探せば五十年前に発行されたような、ほとんど誰も読まないみたいな本もちゃんと綺麗に管理されてるんだよ」
「それにしてもメイリスさまはいらない紙でなにをしようとしていたんでしょうか?」
アルペルティーナが小首をかしげる。
「それはわからないけど、レコードを楽にする仕掛けを作るみたいなことを言っていたわ」
「発明家ってところなんだろうか」
「かもしれないわね。まぁあの子……魔術を否定している部分があるし」
ユリアーナはツバサの腰に手を添え、
「風よ・安らぎの歌・奏でよ」
言葉をひとつひとつ、呪文のように詠うや、ユリアーナの手から柔らかい暖かさを、ツバサは腰から感じ取った。
「はい。これで一応は動けるはずよ。まぁまだ給仕だから腰が痛くなるようなことがあるだろうけど」
ツバサはゆっくりとからだを起こすと、腰を捻り、痛みを確認した。
今まで感じていた腰の痛みはすっかりなくなっていた。
「おぉ、すげぇ腰の痛みがほとんどなくなった」
ツバサが嬉々とした声を上げる。
「面白いわねあなた……気に入ったわ」
幼い少女はやわらかな笑みを浮かべ、ツバサを見すえた。
「ツバサどの、わたしとてこれ以上の暇は許されておりません。そろそろ仕事場に案内いたしますので」
ドゥマクは主と家女中に頭を下げる。
「っとそうだった。それじゃなユリアーナ」
「ユリアーナさまですよ」
ツバサの、礼節のない言葉に、ドゥマクが鋭い目で忠言する。
「っとそうだった。以後気をつけますユリアーナさま」
「別にいいわドゥマク。彼に呼び捨てられても不思議とイライラしないから……といっても、あくまで私やドゥマクの前だけにしておきなさい。私やドゥマクたちの立場がなくなるからね」
ユリアーナはちいさくウインクする。
やっぱりじゃじゃ馬だ……と、ツバサはドゥマクの後をついていくように小部屋を後にした。
ツバサが小部屋を出てしばらく経っての事だった。
書庫の横に備えられている小部屋には、ユリアーナと彼女のお付きであるアルペルティーナが、先程までツバサが寝ていたソファに腰を下ろしている。
「なるほど、メリサンドがお父様に彼をこちらに置いておくことを呈したわけね」
「はい。奥さまが言ってらした片翼の飛天が彼ではないかと。この国では見たことのない服装と漆黒色の髪ですし……」
なによりもあの悪魔の様な目付きの悪い三白眼がなによりの証拠だとアルペルティーナは言おうとしたが、すんでのところでとどめた。
「片翼の飛天……メイリスが持っている[未来が記述される歴史書]の挿絵に描かれた天使のようなものだとして、今はなにを意味しているのかまではわからないそうよ」
「メイリスさまは文字を解読できないのでしょうか?」
「いちおう読めるには読めるらしいけど、その時にならないと解読できないって言っていたわね」
ユリアーナはちいさくためいきをつく。
「彼がその片翼の飛天だとしたら、この国でなにが起きていることに対する一投の小石となるが、ただの竜車の轍に埋もれるだけの小石となりはてるか……」
天井を仰ぎ、ユリアーナはつぶやいた。
「どちらに転がるか見ものね――」
ユリアーナは、「さて……」とポケットからベルを取り出し、鳴らした。
「出てきなさい……カーテル」
「お呼びでしょうか。ユリアーナさま」
どこからともなく姿を見せた家女中が、ユリアーナに向かってちいさく頭をさげた。
その家女中の髪色はすこし濁った胡桃色で、すこしウェーブがかけられている。
顔立ちはスッとしており、透き通った白磁器のように美人であった。
耳はボンネットで隠れているが、雰囲気からして人とはどこか違う、神秘的な面影を放っている。
「あのツバサという少年を見張りなさい。もちろんなにか粗相があれば[注意だけにしておきなさい]」
「注意だけでよろしいのですか?」
カーテルは主の顔色を疑う。
「めずらしいですね。お嬢さまが入って日も跨いていない給仕を気に入るなんて」
「普段なら、粗相があれば彼女が暗躍していなかったことにするのに」
「あくまでお仕置きよ。少なくとも主従の関係はしっかりしておかないとね……それにうちはしっかりしているわ。他の屋敷がどうかは知らないけど……」
ユリアーナはカーテルに視線を向ける。
「それにお父さまが悩まれている偽造硬貨の件……彼が片翼の飛天であるかどうかは別として、やはりあの事件が絡んでいると思って間違いはないと思うわ」
「銀行が発行していた硬貨の型版が盗まれてしまったというというやつですね」
アルペルティーナの問いかけに、ユリアーナはちいさくうなずく。
「国一番の魔女と云われているお祖母さまがこの町にある銀行を通して、偽造硬貨だけを弾く魔法をかけているから、領地内で事件が起きることはないと思うけど……あくまで思うだけで根本的な解決にはならないわ。やはりこの国全体で起きていることならば、対岸の火事であってはいけないからね」
ユリアーナは言葉を一度止めると、
「王家直属の金融機関から、型版だけを盗んだこと自体がおかしいのだけど、それを確かめる術がないわ」
苦笑するように言い放った。
「それではメリサンドが旦那さまに耳打ちしていたことを考えれば、ツバサさんが提案したことはある意味、水面に波紋をひろげていると?」
ツバサとカスバル・シュトールの会話を、メリサンドとともに聞いていたカーテルは、怪訝な顔でユリアーナを一瞥する。
「それが泥水を浄化するほどの力を持っているとは思えないけど、まぁあなたが彼を監視することに変わりないわ」
「…………っ」
カーテルは主の、なにか悪戯を思いついたような悪童の、楽しそうな顔に思わず失笑する。
それは主従という関係というよりは、幼い頃から彼女を見守っている姉妹のような笑みであった。
「わかりました。あくまで彼がなにか粗相をした時は注意喚起まで……ということですね」
「ええ。あくまで注意喚起よ。もちろんあなた自身の仕事をしながらだから、ちょっと面倒だろうけどよろしくね」
ユリアーナはちいさく笑みを浮かべる。
カーテルは主に向かって小さく頭を下げ、風のように姿を消した。
「それからアル……おそらくメイリスが考えていることがあるとすれば、彼に一番近くでいられるのは雑役女中であるメリサンドだけだから、これから一週間くらいは台所女中の手伝いに勤めるよう、メリサンドに伝達しておきなさい」
「了解しました……ユリアお嬢さま」
アルペルティーナは主の命令を了解し、部屋を後にした。
小部屋に一人残ったユリアーナは服のポケットからちいさな、鎖が付けられた小物を取り出し、ジッとそれを物珍しそうな目で見つめる。それはツバサが持っていたはずの[タコのキーホルダー]だった。
ツバサが屋敷の目の前で気を失った後、ドゥマクたちが屋敷の宿泊用の客室に運ばれたさい、彼の身につけていたものを調べていたさいに、彼女が荷物からくすねたのだ。
「見たことのない動物だけど……けっこうカワイイわね」
この屋敷、なにがモデルかって、東方の紅魔館なんですよね。