Ⅴ
おはようございます。
燭台に挿されたままのロウソクからは、獣脂の悪臭が漂っていた。
先ほどまで灯が燈されていた証拠である。
灯りをうしなった部屋の窓の外には月が昇っており、仕事をしないロウソクの代わりに部屋の中へと光を差し込んでいた。
「んっ?」
その光にツバサの双眸は照らされ、ツバサの意識はゆっくりと、暗闇が白むように覚醒していく。
「……と、」
目蓋はツバサが思った以上に重たく、目を開けたいという意思と反するかのように、頑なに閉じようとしている。
「んっ……もしかして、失敗したのか?」
目を開けずとも起き上がることはできる。
ツバサはモゾッと上半身を起こすと、下半身にはぬくもりのあるふっくらとした毛布の感触があることに気付いた。
「これって、布団? ってことは屋敷に来ることができたってことか」
襤褸ではない。ちゃんとした温かみのある気持ちのいい布の肌触り。
いや、彼が生まれて一度も感じたことのない、高級感のある羊毛の感触。
ここが牢獄ではないことは、さすがに頭がまだ覚醒していないツバサとて、しっかりと意識はできた。
「はぁ……すぅ……はぁ……すぅ――」
ツバサは心を落ち着かせるために、深呼吸をした。
頭に酸素が行き渡り、徐々に頭のほうも覚醒へと向かっている。
次第に目蓋も痺れを切らしたかゆっくりと開き始め、しばらくして部屋の暗闇に慣れてきた。
ツバサが、自分が窓際のベッドで眠っていたことも、この時ようやく気付いたのであった。
「へぇ、月ってこんなに綺麗なんだな」
元の世界において、ツバサの部屋の東の方角に窓があり、その下にベッドを設置している。
ちょうど頭の上に窓があり、太陽の光が窓に差し込むことで、しっかりと覚醒できるからだ。
ツバサは頭を振り、部屋を見渡した時だった。
ヌッと、なにかの気配を感じ、「んっ?」
と、ツバサは首をかしげた。
ゆっくりと月明かりがその影を映しだしていく。
暗闇に浮かんでいたのは、顔半分を隠し、鳥のくちばしのような形をしたリドッドという仮面を被った、なにかがジッとツバサを見ていた。
「…………」
その仮面と目があった。ツバサはそう思った。
「――っ!」
リドッドを被った影も、ツバサの目とあったことに気付く。
それにおどろき、丸椅子からパッと立ち上がるや、そそくさと部屋から立ち去ろうとするが、
「きゃぁっ!」
激しい物音を立て、リドッドは盛大に転んだ。
部屋が薄闇に染まり、頼りになるのは窓からの月明かりだけで視界がはっきりしていない。
さらに言えば、リドッドを被った影の服装にも問題があった。スカートの丈が長く、その裾を踏んでしまったのである。
「あっと、大丈夫?」
さすがにツバサも唖然とし、倒れたリドッドの影に声をかけた。
「あ、あぁわぁ、お、おき……し、死んだかとおもったのに?」
「勝手に殺すなっ!」
声からして年端もいかない少女だとツバサは感じ取った。
が、いきなり死んだと言われれば怒らずに入られない。
ビシッ……と、大声でツッコミを入れた。
「ぴゃうっ? ご、ごめ、ごごごめめ」
部屋は未だに薄闇で、ツバサの視界ではちいさな影が震えているようにしか見えない。
が、リドッドの声からして、自分に対して怯えているのだろうと感じ取るや、
「あ、いや、そんなつもりで――」
と謝ろうとした時だった。
「おぉうじょうおおおおおおおおおさんまぁあああああああっ!」
ドアの外から、なにかが突進してくるような気配。
「なんだ?」
ツバサはギョッとした顔で、ドアの方……というよりは声がした方へと向けた時だった。
バンッと、ドアが蹴り破られたかのように激しく開けられ、
「お嬢様になぁんばしよっとですかぁっ! この腐れ外道がぁあああああああああっ!」
「おごぉっとぅたぁっ?」
ツバサの顔面を、ちいさな御御足が膝打ちをした。
「ぐぅおぉおおおおおおおおっ? なんだ? なにがおきた?」
万力で頭を潰されたような激痛を鼻骨一点に感じるや、ツバサは顔を両手で覆い、ベッドの上でジタバタと暴れ転げた。
「きぃさんっ! ナァに考えてやぁがるとやっ! お嬢様を襲おうなんざぁ、いい度胸やなかねぇ?」
ツバサを恨めしそうに見下ろしていたのは、紅色のボブカットの少女であった。
十二、三歳ほどのおさなくきゃしゃなからだつきであったが、胸を強調したようなデザインのメイド服をまとっているため、出ているところはしっかりと出ている。
「は、はな……」
「そのままお花畑にダイブして来てもいいとよ?」
ツバサの呻き声に、部屋に怒鳴りこんできたメイドは鼻で笑った。
「鼻折れたっ! っていうか、いきなりなにしやがる?」
ツバサが怒鳴るが、
「ふ、ふたりとも……やめて……、もう夜……」
リドッドの少女がゆったりとした口調で、喧嘩をおっ始めてもおかしくない警戒態勢の二人を制止した。
「す、すみません。お嬢様」
メイドはバッとスカートやからだについたほこりを手で払い落とし、背筋を伸ばすと、ゆっくり頭を下げた。
「あっと、とりあえず、状況を教えてくれない?」
もしかしてまだ夢なのでは……とツバサは思ったが、先ほどメイドに蹴られた痛みが現実であることの証明であることは理解している。
しかし、だからといってこの状況に関してはいまだに把握できないでいた。
「……っと、えっと――あなたが……屋敷の前で倒れていて、ドゥマクが従僕の二人と一緒にここまで運んで」
「それを私めが、乞食の野蛮な男は危険だと諭しているのに、お嬢さまはあなたが覚醒めるのを診ていたのですよ。私は家政婦に呼ばれていましたので、すこしのあいだ席を外してしまいましたが」
メイドがキッとツバサを睨みつける。
「……っと、フットマン? ハウスキーパー?」
人の名前……というよりは、聞き覚えのない単語が出てきており、ツバサは首をかしげる。
ちなみに乞食の部分は、今の彼の状況を簡単に説明するとまさにそうだったため、ツッコまずにいた。
「……っとね、フットマンっていうのは従僕って意味で、バトラー……執事の下で働いているの。ハウスキーパーはメリサンドの仕事を教えている人で、この屋敷でお母様たちの次に偉い人」
リドッドの少女は、丸椅子を手探りで見つけると、椅子の足をしっかりと立てると、そこに座った。
「とりあえず、メイドの上司ってことでいい?」
「そう思われても結構ですわ。ちなみに私はお嬢様のおつき……」
「――を目指している雑役女中」
メイドの少女……メリサンドの言葉を、リドッドの少女が付け加えた。
「名前だけ聞くとすげぇかっこいいな」
――まぁ、オールワークスってことは、つまるところ雑用係ってところだろうけど。
とツバサは思うだけにとどめたが、視線をメリサンドに向けてしまい、
「どんな世界でもっ! 下っ端は当然下っ端からのスタートとよね。でもいつしか私は立派な女中になって、お嬢様はしっかり育てるつもりではいますわ」
ツバサの考えていることを見透かしたように、メリサンドは自虐にも似た声で笑った。
メイドにもいろいろ種類あるのよ。担当している場所によって読み方が違ってきます。