第96話 真実
それは、世界がまだ黄金色にあふれていた頃の話。
ある日の昼下がり、私は彼と出会って、穴に墜ちた。最初はただの好奇心だった。好奇心でひとり、おかしなうさぎさんを追いかけて――。
「――元の世界に、帰る?」
「ええ。そうです」
いつものように女王様のほさ(って何か知らないけど)で忙しいシロンが帰っているのを待っていたら、帰ってきたシロンは、絵本を膝の上に乗せてぼんやりしていた私を見るなりそんなことを言った。
「なに。何で? 何で帰らなくちゃいけないの、私? ……なにか悪いことした?」
「いえ……そういうことじゃありません」
「じゃあ、どうして? 私、シロンと一緒にいたいよ? なのに何で帰らなくちゃいけないの……?」
シロンがどうしてそんなことを言ったのか、私にはさっぱり理解できなかった。シロンはいつもそういうことがあると『アリスはまだ子どもだから』なんて言う。失礼よね、ほんとに。でもこの時ばっかりは笑いごとじゃなかったの。
私には、元の世界に帰る気なんて全くなかった。シロンとずっと一緒にいたかった。それが幸せだったの。……なのに。
「な、泣きそうな顔をしないで下さいっ!? 違いますアリス、べつに僕があなたをどうというわけではなくて!」
「……じゃあ、なんで……?」
「そ、それは……」
涙をがんばって堪えながらシロンを見上げていると、シロンはうっとつまって目を逸らした。……やっぱり、シロンは私のこと嫌いなのかな? そう思ってうつむくと、シロンは慌てたように私の頭をなでて。
「違います! 違うんです! ……あの、でも、陛下が……」
「女王様……? 女王様がどうしたの?」
きょとんと首を傾げると、シロンはしゅんと長い耳を垂れさせた。
……女王様が、どうかしたのかな。
不安になりながらもシロンの頭をよしよしとなでてあげる。こんな場面で言うことじゃないけど、耳を垂れさせたシロンは、かわいい。
「アリス……。女王陛下は、危険です」
「危険……? あぶないの? どうして? 女王様はいつも、私と遊んでくれるよ? やさしくしてくれるよ?」
「分かっています、僕と違ってたくさん遊んでくれるんですよね。――しかし陛下は、あなたを気に入りすぎた」
気に入りすぎた? どういうことなんだろう。それって、悪いことなのかな? シロンの声はなんとなくとげとげしてるけど。
「あなたが来た当初、陛下の御機嫌が優れていなかったということは言いましたね」
「うん。女王様のご機嫌が悪かったから、だれもおうちから出ちゃいけなかったんでしょ?」
「そうです。……女王陛下は、大きな力を持っています。その気になれば国ひとつなど簡単に滅んでしまうくらいに」
「そうなの? 女王様って、すごいのね!」
「……アリス、あなたにはいまいち緊張感というものが……いえ、何でもないです」
シロンは何故かおでこに手を当ててため息。……なんだろう、疲れてるのかな。あとでマッサージしてあげよう。
「……まあ、それはいいですが……。その陛下の不機嫌を引っ繰り返してしまったのがアリス、あなたです。陛下はあなたを一目見た途端気に入りました。今までの不機嫌はどこへやら、ほら、あなたも覚えがあるでしょう? これでもかというくらいになで回されていましたからね」
「あ、そういえば。ぎゅーってされてぐりぐりされた! でもねシロン、女王様ってとーってもやわらかいのよ」
あのときは窒息するかと思ったけど。でも私も将来あんなふうになりたい、ボンでキュッでボンなおねーさんになったらシロンもいちころ? よね!
「……あなたも随分と女王陛下に懐いているようですから、こんなことを言うのは心苦しいのですが……」
シロンはふうっと長い息を吐き出す。そうだった、シロンは女王様が危険だって言ったの。でもどうして? 女王様はあんなにやさしいのに。
「陛下はあなたを好きになりすぎた」
「好きになりすぎ……? それって悪いことなの?」
「ええ、――彼女の場合は。狂愛もいいところです」
きょうあい? なんだろう、それ。……悪いことなのかな。
でも、シロンには女王様を責めてほしくない。だってシロンと女王様は仲が良いんでしょ? いつも楽しそうなのに。シロンが女王様を悪く言うなんていや。……それも、私のせいなの?
「……それって、一体どうなっちゃうの?」
「……断言は、できませんが……陛下はあなたを手元においておきたいと思っている。ずっと、ずっと」
「私、女王様のこと好きだよ。ずっとここにいてもいいよ?」
「そういう話ではありません。陛下は……もっと近くにあなたをおいておきたいんです」
もっと近くに。今より、近く。
……それは、なんだか怖かった。だって、今でも私は女王様が好きだし、近くにいるつもりよ? なのに。
これ以上近かったら、いったい、どうなっちゃうの?
「……シロンは……?」
「…………」
私と女王様がもっと近くなっちゃったら、シロンはどうなるんだろう。不安になって聞いたのに、シロンは目を合わせてくれない。どうして? シロンは――どうなっちゃうの?
「……僕、は……」
じっと見つめたままでいると、ようやくシロンの唇が少しだけ開いた。
「僕は、いられません。……というか、陛下が許さないでしょう。陛下は本当にあなたと二人きりになりたいのだから」
「え……」
「怖いでしょう。――ごめんなさい。本当は、あなたを怖がらせたくなかったのに」
身体が勝手にぶるりと震えた。すると、シロンが私の身体をやさしく抱きしめる。
……ちがうの、シロン。わかんないけどちがうの。怖くなんて、私……。
「今のままでは、あなたにどんな危害が及ぶか分からない。――だから、あなたを元の世界に帰します。元の世界に帰ればさすがに陛下も手出しできませんから」
「……シロン……」
「おそらくあなたは、チェシャ猫に願ったのでしょう?」
びくりと肩が跳ねる。……シロン、気が付いてたんだ。ルーシャにお願いしたこと。
『シロンとずっと一緒にいたい』
それは、ささやかな願いだったの。
ひそやかな願いだったの。
最初はほんとうに、ただひとつの、願いだった。
――ただね、にんげんは、うさぎさんとは違って欲張りだから。
「《願い》を叶えるチェシャ猫。あなたは彼になにかを願ったはずだ」
「……うん」
「願いの中身を問い質すつもりはありません。願ったことを今さら責めようとも思いません。……ただ、」
「……うん」
「ただ、《願い》には代償がともなう。――それは即物的なものではなくても、《願い》の数だけ必ず支払われるものです」
「……うん」
シロンの使ってる言葉は難しくて、言ってることはよく分からなかった。
でも、言いたいことは、分かった。
「あなたが《願い》を叶えてもらった数だけ、陛下も彼に願うことができます。その時陛下が何を願うか――おそらく、ここまで言えば分かるでしょう?」
「……私を……私は、女王様のものにされちゃうのね?」
「陛下ならそうするでしょう。――ごめんなさい、アリスっ……僕が、僕の力がもっと強ければ……!」
シロンの声に力がこもる。同時に、私を抱きしめてくれている腕の力も強くなった。
その時、はじめて女王様が怖いって思ったの。女王様が――なんで、私を?
好きになってくれるのはうれしい。私も女王様が好き。ずっとここにいたい、って思ってる。でも……でも。
「……怖いよ、シロン……」
その首に腕を回して力を込めた。私の声は震えてた。そんなつもりじゃ、なかったのに。
「私、女王様のものになったら、どうなっちゃうの?」
「…………」
「女王様はいっぱい首を刈るひとなんでしょ? 私も首だけにされちゃう?」
「…………」
「シロンには――もう二度と、会えなくなるの?」
怖い。怖いよ。ねえ、助けて、シロン。
女王様は好きだけど、女王様のことは好きだって思うけど……だけどね、それ以上に私はシロンが好きなの。
怖いよ。
「――っアリス!」
ぐい、といきなり身体を引き剥がされる。なに? 驚いてシロンを見れば、その真っ赤な目が私を見ていたの。
「……シロン?」
「そんなことは絶対にさせません! 僕が、僕があなたを元の世界に戻します! そもそもあなたがここに来てしまったのは僕のせいです、責任を持って帰してみせますから!」
シロンは真剣だった。
いつもみたいに恥ずかしがったり照れたりしないで、私の目を見て言ってくれたから。
――世界で一番だいすきなひと。
……ねえ、それが聞ければ、私、十分よ。
「……シロン……だいすき」
「――僕もです、アリス」
――ただね、にんげんは、うさぎさんとは違って欲張りだから。
「最後の願いを叶えてほしいの」
元の世界に帰る前の、最後の夜。
私はあの黄金色の森に来ていた。
森ではいつもと変わらないようすで《願い》を叶えてくれる猫さん、ルーシャが切り株に座っていたわ。
「どうしたんだい、アリス? こんな夜更けに」
「私、もう元の世界に帰らなくちゃいけなくなったから」
「何だって? それはまた、何でこんな唐突に?」
目を丸くするルーシャ。彼が驚いた顔を見せるのはとてもめずらしかったけれど、その時の私はそれどころじゃなかった。
「ねえ、ルーシャ。お願い。最後に願いをひとつ叶えてほしいの」
「いいけれど……、その前に、君が帰ってしまう理由だけ教えてくれないか?」
「女王様が、私を殺しちゃうかもしれないから」
そうじゃなかったら、帰るなんて絶対にいやだった。……だって私、この世界が好きなのに。
それでも――シロンは私が死ぬのはいやだって言う。お願いだからって言う。……だからね、私、帰らなきゃ。そう言えば、ルーシャはちょっとだけ眉尻を下げた。
「そうか……。女王様がねえ、それはまあ、仕方のないことかもしれないな」
「……お願い、叶えてくれる?」
「もちろんさ。僕は君の望みなら何でも叶えてあげよう」
ありがとう、と私は言う。ルーシャはいつでもやさしいのね。みんなは彼に気をつけなさいって言うけど、彼は、ほんとうにいい人だ。……ただ、みんなは彼が危ないんじゃなくて、その《願い》を叶える能力は危ない、って言いたかったのね。私が願いを叶えた数だけ、女王様も願いを叶えられるなんて。
知らなかったの。今さら、遅いけど。
「私、シロンとずっと一緒にいたい」
それでも願ってしまう私は、悪い子なのかな。――ごめんね、シロン。
『シロンとずっと一緒にいたい』。
それは、彼の前では一度口にしたことがある願いだった。というよりね、それが最初の願いだったの。はじめて彼に願った、ささやかな望みだった。
だけど、それが今では果たされなくなったから。
「……それは……、アリス。一体どういう意味で?」
「あのね、ルーシャ、今すぐじゃなくていいの。ちょっとして、女王様がふつうに戻って、また一緒に暮らせるようになったら。私はやっぱりシロンが好きだから……一緒にいたいよ」
離れたまま、なんて耐えられないの。
ずっと一緒にいたいの。
泣いても、ケンカしても、大っ嫌いって言っても、それでも一緒にいたいって思うの。……好きなの。だから。
「シロンと、一緒に、いさせてください……」
出会っただけじゃ足りなくなってしまった。
好きって言い合うだけじゃ足りなくなってしまった。
少しの時間を共有しただけじゃ足りなくなってしまった。
にんげんは、うさぎさんとは違って欲張りだから。
ずるいよね。ひとつの願いを叶えただけじゃ、がまんできなくなってしまったの。
もっといっぱい、って望んでしまった。
もっとたくさん、って願ってしまった。
……私、悪い子だ。ずるい。知ってる。だけど……。
「――わかった。その願いを叶えてあげよう、アリス」
私はぱっと顔を上げる。目にたまっていた涙が勢いで頬にこぼれる。でも、そんなこと気にしてるような場合じゃなかったわ。
「ほん、と? ほんと!? ルーシャ、ほんとに、叶えてくれる!?」
「もちろんさ。嘘なんてつくものか」
そうよね。ルーシャは嘘なんてついたことはなかった。いつもやさしくしてくれたもの。思うとどんどん嬉しくなってきて、私はルーシャに飛び付いた。
「っ、ありがとう、ルーシャ!」
「落ち着いて、アリス。……まだ話は終わりじゃないよ」
終わりじゃない? どういうことかしら。ルーシャに飛び付いた格好のまま固まっていると、ルーシャが上から覗き込んできた。
「おそらくね、女王様はすぐには元には戻らないだろうと思うんだ。それくらい女王様は君に御執心だ」
「ご……しゅうしん?」
「ああ、そうだね、御執心じゃ分からないか。君に夢中ってことさ」
それを聞くと、やっぱり少し怖かった。……夢中。
私、女王様が好きだよ。でも、女王様には、他の人も好きでいてほしいの。だって私にも他にも好きな人がいっぱいいるから。……私は、そう思うのに。
「だから、君にはきっと長い間この国を離れていてもらわないといけないと思う」
「それって、どのくらい……?」
「そうだねえ。――女王様が死ぬまで、かな」
「え……」
女王様が死ぬまで? ――それって、一体いつまでなの?
心臓がバクバクと音を立て始める。いやな気持ちがまた私の心を埋め始めた。……もし、女王様が死ぬ前に、私が死んじゃったら。シロンが死んじゃったら。そうしたら……もしかして、私、もう二度とシロンには会えなくなるの……?
「泣かないで、アリス」
「っ、でも、ルーシャ……」
「君には、魔法をあげよう」
鼻の頭をつつかれて、私はきょとんとルーシャを見上げた。
魔法?
よくわからなくてルーシャを見つめたままいると、彼は微笑んで言ったの。
「今は叶わないかもしれない。シロンとは一緒にいられないかもしれない。でも、それじゃあ《願い》が叶ったことにはならないだろう? だから君には、《願い》を叶えられる魔法をあげる」
「……《願い》を、叶えられる……魔法?」
「そうさ。《願い》が叶うのは今じゃない――いつかだ。女王様も僕も君もシロンも死んだ、ずっと後に」
女王様もルーシャも私もシロンも死んだ、そのずっと後?
……え、死んでるのにどうやって叶えるの? だって私の願いは、シロンとずっと一緒にいることなのに。
よくわからなくて首を傾げていると、ルーシャはまた笑った。
「そうだね。生まれ変わる、って言ったら一番分かりやすいかい?」
「生まれ変わる……って、え、そんなことできるの? だって、生まれ変わるってあれでしょ? あの……生きてる時にいいこといっぱいしてたら、神さまが、」
「アリスはいい子だから大丈夫さ。シロンも――そうだねえ、これから善行を積ませれば何とかなるんじゃないかな」
生まれ変わる。その言葉が私の心の中で何度も繰り返されていたわ。
生まれ変わって……会えるの? 私、シロンに会えるの?
「それも、何度でも、さ。一度きりじゃきっと君は足りなくなるだろう? だから、何度でも。君は死ぬたび生まれ変わって、同じように生まれ変わったシロンと出会う。そして、一緒に過ごせるようにしてあげるよ」
「ほんとに……? ほんとに、そんなことができるの?」
ルーシャはやさしく頷いた。……本当に?
何度でも生まれ変わって。何度でもシロンと一緒に生きて。その先もずっと、シロンと一緒で……。
「だから、アリス。……今は少しだけ、我慢できるかい? 迎えに行くのが少し遅くなってしまうかもしれないけれど」
「っ、がまんするわ! がんばる、私! だからっ……」
――だから、願いを叶えてね、猫さん。
そう言うとルーシャは目を細めて頷いた。……約束。
どちらからともなく小指を絡める。そして、ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のますって言って。
「約束だからね、ルーシャ!」
「ああ、もちろんさ。アリス」
嬉しかった。これでずっとシロンと一緒にいられる、って思って。
だから、ひとりになることは怖くなかったわ。ちょっとの間だって思って。絶対、シロンが迎えに来てくれるって信じてたから……。
――だから、それが500年もの呪いの連鎖のはじまりになるなんて、気が付かなかったのね。
(そして、今まで思い出せなかったの)
(私は。私は――)
☆★☆
目を開けると、そこは白い世界だった。
見上げても、見下ろしても、見回しても白。そこに色を落とすのは私自身の色と、足元の影くらい。あまりに白いから、私も同化した方がいいのかと思ってしまったほどだ。いや、カメレオンじゃあるまいしそんなことできないけどさ。
思いの外、私は冷静みたいだった。……むしろ混乱しすぎてメーターが振り切れたのかもしれない。でも、どっちにしろ今の私はパニックに陥ることなく、目の前の細長い人影を見つめている。
「久しぶりですね、アリス」
彼はそう言った。
私に向かって、そう言った。
「……うん。久しぶり、シロン」
だから私も笑う。目の前の、兎の耳を生やした青年に向かって――
500年前に見たきりの、恋人に向かって。
「あなたの探していた真意は見つかりましたか?」
「まあ……うーん。答えっていうか……」
「言い方が少し悪かったですね。……そうですね、あなた自身の記憶を見つけることはできましたか?」
その質問なら答えやすい。私は笑って、言った。
「うん。今まで何で気が付かなかったんだろう、答えは単純だったのにね。……私が《アリス》だった」
それが答え。ファイナルアンサーを口にすれば、目の前の青年は慈しむように私を見て目を細めた。
――そう。答えはとても単純だった。よくある話じゃない、小説や何やでも。
私こそが、500年前に穴に墜ちたアリスだったのだ。
生まれ変わり。ありきたりな話だ、それに気が付かなかった私が言う科白でもないけれど。
今までのアリスはみんな、最初のアリスの生まれ変わりだったんだ。
アリスが言っていたのは、きっとこのことだったのだろう。『あなた自身はそれを否定することで、ここまでやってきたんだから』――それは、私がアリスだということ。今までは散々自分はアリスじゃないなんて喚いてきたものだから……まあ、ねえ。今さらそうでしたなんて言いづらいけど。そう呟くと、シロンはからからと笑った。
「気が付かなくても仕方ありませんよ。あなたにあの頃の記憶はない。あなたはあくまで『光野ありす』というひとりの人間として生まれたんですから」
「100代も経たし……まあ、覚えてても気味悪いか」
――でも、その500年も前の約束を、この人はずっと守っていてくれたんだ。
迎えに来てねって。私は500年前、シロンに言った。
迎えに行きますと。シロンは約束してくれた。かならず、あなたを迎えに行きますからと。
「……ゲームを始めたのは、女王様じゃなくて……私自身だったんだね」
「いえ、ゲームの制度自体を作ったのは陛下ですが――」
「でも、何代もの私とこの国を巻き込んでしまったのは、私自身」
「…………」
フォローのしようがなかったのか、シロンは少し俯いて悲しそうな顔をする。……別にそんな顔させたかったんじゃないんだけど……。100代も経た後じゃ好意もへったくれもないけれど、それでも、彼の悲しそうな顔を見ると胸がちくりと痛んだ。
「……何度も生まれ変わるあなたを、僕は何度も生まれ変わって迎えに行きました。それが約束だったから。あなたと一緒に暮らすため――今度こそ、一緒に幸せになるために」
「……でも……女王様がそれを許さなかった、のね」
「はい。あなたがチェシャ猫に願った分だけ、陛下も彼に願った。あなたを手に入れるために。そのせいで、僕たちの約束はねじ曲げられ――ゲームが始まり、《アリス》を手に入れようとたくさんの住民たちが奪い合いました」
それがはじまり。……本当は、私と白兎がただ幸せに暮らすはずだったのだけれど。
女王様はそれを許さず、願いを使って自分も同じように生まれ変わった。そして、さらには私たちの仲を引き裂こうとゲームを始めたのだ。
「ねえ、シロン。そもそもこのゲームに拒否権がないのは、本当はアリスは連れて来られたんじゃなく、望んでここに来るからなのね?」
「ええ、そうです。……アリスの《願い》は、生まれ変わってここに来ること――彼女が望んだことなのに、拒否権も何も存在するはずがありません。元の世界に帰りたいなどと言い出すはずがないのです」
それはそうだ。これはそもそもアリスが望んだこと。帰りたいなんて言うはずがない。言うはずがなかった、のだ。
でも、そこに現れたのが、異端の私だった。……100番目の私だけは、勝手が違った。
――『元の世界に帰りたい』。
それはおそらく、アリスが言っていたことだ。『私はこの時のために、あなたに呪いをかけた』。彼女は、100代先の自分に呪いをかけたのだ。私をただのアリスでなくするために。
その呪いはきっと私を不幸にしてしまうだろう。この国を救うために、私は犠牲になるだろう。彼女自身がそう予言した。事実、そうだった。
彼女は防衛線を張ったのだ。何度も生まれ変わる、シロンと一緒に暮らすために――甘い夢を見ながら、それでもどこかで分かっていた。簡単にはいかないことを。きっと女王様に邪魔されてしまうだろうことを。
だから、女王様を倒すために、私に呪いをかけたんだ。
「……ごめんなさい、ありす」
シロンが私の名前を呼ぶ。それは、彼の恋人の名前ではない。
「本来ならば全くの他人として生まれ、普通に暮らすはずだったあなたを巻き込んでしまった……僕にも責任があります」
「…………」
「本当なら迎えに行くべきではなかった。僕が愚かだったんです。愛しさのあまり、あなたを連れてきたりしたから……いつもいつも彼女は命を落とす。僕の目の前で死んでしまう。陛下が、自分のものにならないなら、と」
シロンの声は震えていた。
――そうね。私は何度も何度も殺された。色んな人に殺されたし、色んな死に方をした。残虐極まりない死に方だってあったし、白兎と他の人との争いで誤って殺されることだってあった。……でもね。
「僕はあなたを幸せにしたかったんです。でも、僕には力が足りず、それができない……それが分かった時点で、やめるべきでした。それが約束を反故にすることになろうと……あなたが、殺されるくらいなら」
この人は……本当に、私を思ってくれていた。
だから、何度でも、約束を守って迎えに来てくれた。自分のことなんて顧みず。
だから、目の前で私が殺された時、悔いてくれた。嘆いてくれた。彼はただ約束を守っただけなのに……自分を責めた。
やさしい人だ。
「……シロン。お願いだから、自分を責めないで」
大の男にもかかわらずぼろぼろと涙を流し出す彼に、私はぎこちなくだけど微笑む。
「あなたは約束を守ってくれたのよね。それを悔いる必要はないわ。……勝手な約束をしたのは、私だから」
「っ! ですが、アリス――」
「恨んでない。だいじょうぶ。……後悔もしてないよ、500年前、ルーシャに《願った》こと」
それでもね、幸せだったと思うのよ。
こんなに思われて。こんなに、思ってくれる人がいて。
私は幸せだった。だからね、女王の心臓でも、彼女は言っていた。
――これで、ずっとずっとシロンと一緒にいられる。
何度も何度も殺されて、それでもあなたと一緒にいたいと思ったんだよ。
それくらい彼女は幸せだったんだよ。あなたが好きだったんだよ。
束の間でも、一瞬でも、あなたと一緒にいられることが嬉しかったんだよ。
「そりゃあアリスも人間だからね、時には他の人になびいたりしたわよ? 女王様の陰謀とはいえ、色んな浮気もしたわ」
「……そ、れは……」
「だけど、それでも生まれ変わったのはあなたがいたから。あなたに会いたい気持ちで、アリスは何度も生まれ変わったの」
だから、ねえ、自分を責めないで。……あなたがいてくれてよかった。
好きだったの。私。ずっと一緒にいたいって、そう願ったんだよ。
「だからね、シロン。終わりにしよう? 私は呪われた――ううん、違うな。約束されたアリスだから。女王様を倒すために生まれてきたの」
私が生まれた、ってことはその時が来た、ってことでしょ?
もう彼が目の前で死んでいく私に絶望を覚えることはない。そんなのはもうたくさんだ。結ばれないまま死んで、生まれ変わって、そんな呪いのサイクルを繰り返して――それはもう今回で終わり。
終わらせましょ。言えば彼は、泣いたままくしゃりと顔を歪めて笑う。
「……あり、がとうございます。ありす……」
「気にしないで、元々そのつもりでいたんだし。……代わりと言ったら何だけど、残念ながら今回の私はあなたにはときめかないからね。ハク君……あ、今回のあなたの生まれ変わりも冷たいし。あそこまでいったら冷血漢だし」
あれは私が好きとか嘘だろ。詐欺だろ。そりゃあ一番はじめの私と今の私じゃ大分開きがあるけどさ。……ハク君にしたって変わりすぎだ。
「あ、そのことなら安心してください。僕にも最初からそのつもりはありませんから」
「え、……そうなの?」
「ええ」
シロンはにっこり笑って頷く。なんてこった。それは……、それほどまでに今の私に魅力がないってことだろうか。失礼な。そりゃあ顔は落ちたかもしれないけど……性格はマシになったと思うよ! 少なくとも電波ではなくなったよ私!? それともやっぱり顔か! 顔なのか畜生! そう思ってシロンをじっと睨むと、シロンはあたふたと両手を振った。
「あっ、いえ、それはあなた自身の魅力どうこうの問題じゃなくてですね……!」
「……じゃあ何?」
「え、っと、あの……」
何故目を逸らすこの男。
「……多分、あなたはまだ忘れている約束がひとつあるんですね」
「……え?」
シロンが眉尻を下げたまま微笑むのを見て、私は思わず目を瞠った。忘れている約束? 首をいくらか傾げる、が。
……うーん……。もう記憶は全部思い出したと思ったんだけど、まだ何か残ってるのか。さっぱり思い出せない。約束、って。何のこと? 大体今の話題に何か関係があるんだろうか。
「大丈夫です。分かっています。それも500年前からの約束でしたから――僕は、大人しく手を引きましょう」
「……え、待って、だから私が分かってないんだけど」
何でこの国の人って勝手に自己完結するの。だから私が大丈夫じゃないんだって。大人しく手を引くって……何が? 何で? いまいち話がつかみ切れないんですけど。
頭の上に疑問符をたくさん並べる私を見て、シロンはくすりと笑った。
「ありす、あなたはたしかに僕には恋情を覚えることはないでしょうね。……ですが、他の人だとしたらどうでしょう」
「え……?」
恋情? ……他の人に?
考える。――最初に出てきた馬鹿の顔は、一瞬で思考から排除してやった。
「べ、べつにそういう相手はいないわよ? いないけど」
「……ありす、今あなた意識的に排除しましたよね? 勝手に記憶から抹消しないであげてください」
べ、べつに誰があんな猫のことうんぬんかんぬん。……待て私、これじゃシロンと同じだ。
「ごほん! え、えっと、で、それが一体どうしたの?」
「はぐらかさないでください……まあいいですけど。――ですから、それが答えだということですよ」
は? ……それが、答え……?
つまりどういうことだ。よく分からなくて目を白黒させていると、シロンは小さく微笑んだ。
「あなたとの大切な人の約束。忘れてるわけにはいかないでしょう」
「え……」
「――この先で待っていますよ。今のあなたを、僕よりもずっと必要としている人が」
今の私を……シロンよりもずっと、必要としてくれている人。
それは。
それは――
「……ごめん、シロン、私……」
「気にしないでください。僕ならもう大丈夫ですから」
にっこりと笑ってくれるシロンは、やっぱり大人だ。……私は子ども、なのかなあ。
切ない。彼はずっと守り続けてきてくれた約束を、私自身から破ることになるなんて。
でも、私、……行かなきゃ。行かなきゃって、思ってしまったから。
「そもそも、前提が間違っていたんです。何度生まれ変わってもずっと一緒だなんて、都合がよすぎた」
「……でも、シロン」
「いいんです。僕は十分幸せでした。そして、幸せです――今のあなたが幸せなら」
そう言い切ったシロンの顔は晴れ晴れとしていた。
なんて素敵な人。――だから、私も好きになったのね。
私の幸福を純粋に、心から喜んでくれる。彼は私みたいに欲張りではない。好きな人の幸せを一途に願うことができる、私には勿体ないくらいの人だ。
「だから、幸せになってくださいね」
私がハク君に言ったはずの科白を、今度は彼に笑いながら言われてしまった。……何だか変な気分だ。
うん、でも、そうね。私が幸せになることで、彼も幸せになれるというなら。それがたとえ傲慢でも。
「ありがとう、シロン。……あなたのこと、大好きだった」
「ええ。僕もです」
だから、さようなら。――今までありがとうね。
大好きな人に別れを告げる。……私は、行かなきゃいけないから。
大丈夫。アリスと白兎の仲を邪魔していたものは、全部私がなくしてあげるから。……どうか、その先で、あなたも幸せになってください。
バイバイ。
手を振って、私は白い世界を駆け出した。
もう振り返らない。もう大丈夫。真意は見つけることができた。後は、後は――
「チェシャ猫!」
白い世界を抜けて、黄金の森に辿り着く。
そこで私を待っていたのは、誰よりも愛しい、にやにや笑いをぶら下げた猫だった。