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第95話 100番目の少女

「おまえはアリスなんかじゃない」


 言葉が、胸に突き刺さった。

 冷たい目がわたしを囲む。四方八方からわたしを睨む。様々な色の双眸が、けれど同じ表情をたたえて、わたしを見ていた。


「おまえなんかアリスじゃない」

「おまえをアリスとは呼ばない」

「おまえはアリスにはなれない」


「や……めて……」


 一歩、後ずさる。

 やめて。お願い、やめて。分かってる。そんなの分かってるから、やめて。

 そんな目で見ないで。一番に愛してくれなくていいから。やめて。嫌わないで。やめて。

 ゆっくりと距離を縮めてくる集団に、思わず足を引けば、肩が何かにぶつかった。

 驚いて振り返れば、そこには――


「メアリ」


 ――そこには、同じく冷たい目をした、


「君のことは、愛せない」


 チェシャ猫がいた。



「やめてえええええええーっ!!」



 わたしは叫ぶ。叫びを上げる。喉が張り裂けんばかりに声を張り上げていた。

 やめて。お願い、やめて。そんなこと言わないで。どうして。どうして。どうしてなの? どうしてわたしではアリスにはなれないの?


 どうして、愛してもらえないの?


 わたしはアリスじゃないから? メアリ=アンだから? それとも、もっと他の理由なの? もっと違う、――


 わたしが、あの子みたいに、かわいくないから?


「っ! いやっ……」


 思わず両手で顔を覆った。いや。やめて。――言わないで。

 気付きたくない。知りたくもないの、そんなこと。

 足がもつれてよろめいた。よろめいて尻餅をついた。……なぜだかチェシャ猫は、もうそこにはいなかった。



 ――気が付けば。



 わたしはナイフを持って、『彼女』と対峙していた。

 場所はさっきと変わらない、街の片隅の寂しい通り。なのに、目の前に立っているのは街の人々ではなくあの子で、今度はわたしの方がナイフという牙を持っている。

 ゆっくりと顎を持ち上げれば、真っ青な顔で震えているあの子。……ずっと殺したかった、憎いあの子が、目の前にいる。

 『殺せ』手の中でナイフが笑った。『殺せ。そうすれば、おまえが愛される少女(アリス)だ』、と。


 あの子を、殺せば。


「あ……メア、リ……?」


 その唇はわたしの名前を紡いだ。――やめて。

 ぶるりと震える、ナイフを携えた二本の手。呼ばないでよ。その声で呼ばないで。

 《メアリ》だなんて、呼ばれたくなんかないわ。

 だって、あなたよりわたしの方が、ぜったいに、






「メアリ!」


 はっと我に返る。取り落としたナイフが石畳を打って、甲高い音を立てた。

 ……わたし、今、なにを?

 見れば、目の前にはかたい意志を秘めた瞳をした彼女がいる。さっきまでの怯えの色はどこにもない。


「……あ……、わたし……」


 代わりに肩を震わせたのはわたしの方だった。――わたし、彼女になんてことを。

 彼女を殺せば? 殺せば、どうなったっていうの? ……わたし、一体何を考えていたの?

 恐ろしいことをしようとしていた。彼女を殺せば愛される、なんて思った。

 思わず手で顔を覆う。自分のあまりの醜さに嫌悪さえした。――ああ、わたしはなんて、なんて最低な、


「だいじょうぶ。メアリ、大丈夫だから」


 突然、彼女がその腕でわたしをぎゅっと抱きしめる。

 ――大丈夫。

 頭上から降ってきたのは、けっしてわたしを責める言葉じゃない。突き放す言葉でもない。ただ、大丈夫だって。

 喉がびくんと跳ねて、震えた。……声にならない声が、勝手に、唇から漏れていく。


「私が、あなたのことを見てるから。あなたっていう一人の女の子を知ってるから」


 彼女が紡いだ、その言葉が。

 よどんだ泥濘の底から、わたしをすくい上げる。


 『あなたっていう一人の女の子を知ってるから』。


 ……ああ。

 知ってる。わたしも、知ってるの。


 最初ね、わたしはあなたのことが大嫌いだった。わたしの欲しいものは全てあなたが奪っていくから。死んでしまえばいいとさえ思った、……そう、死んでしまえと思ったわ。

 でも、――でもね。わたしが拒絶した時でさえも、あなたは、その瞳でまっすぐにわたしを見るから。


 本当は、憧れていたの。


「メアリは、メアリのままでいいんだよ」


 あの時ね、あなたがアリスだって言われる理由がわたしにも分かったわ。

 だからあなたの力になりたい、って思った。本当は好きになれるって気付いた。


 だって、あなたにはそんなにも眩しいから。


「……あり、がとうっ……!」


 溶けていく光。わたしの中の汚い心が、全部浄化されていく。

 大丈夫。彼女のその一言だけで、本当に何もかもがひらけていく気さえした。

 ……そうね。わたしのままで、いいのよね。わたしは他の誰でもない。わたしはメアリ=アンっていう、たったひとりの女の子。だって。


「大好きよ、メアリ」


 ――だって、わたしはわたしのままで、愛されたいわ。


 大粒の涙が最後にひと粒だけぽろりとこぼれて、しゃぼん玉のように、夢は弾けた。










 父親が立っていた。

 それは、紛れもなく父親その人だった。

 焼けたはずの家。死んだはずの父。二度と見られなくなったはずの、その風景。

 使い古してボロボロになったソファーの前に立ち尽くして、あの人は、“いつものように”どこか遠いところをぼんやりと見つめているのだ。


「父さん……?」


 僕は無意識のうちにそう呟いていた。――呟いてから、気が付いた。


 それは、あの日だった。

 運命の、あの日だった。

 あの日と同じ光景が、今、目の前に広がっているのだ。


『**』


 ――フラッシュバックする過去。

 過去であるはずの、現在。

 頭痛。揺れる二つの世界がその影を重ねる。

 吐き気。空洞だった胸の中に憎悪が芽吹き始めた。

 黒い血に彩られるばかりのその日が、口を開けて僕を待っている。


『***』


 ああ、これがあの日の光景ならば、この後父親の唇から紡がれる言葉は――。

 いやに高鳴る心臓の音ばかりが、奇妙な静けさの中を満たす。

 ――いやだ。やめて。どうか、僕の気のせいであって。

 願えども世界は逆さまには回らず、引っ繰り返した時計の砂は止められない。

 ゆっくりと振り返る父親の顔。時間がねじれていく感覚。その濁った色の双眸が僕をとらえて、









「誰だ、お前は」






『*********************************************************************************************************************』


 無意識だった。僕は、壁に立てかけてあった彼の仕事用の鉈をつかんだ。つかんで走り出していた。

 世界に音はなく、やけにゆっくりと時間が僕の脇を通り過ぎていった。

 そこで濁った眼がようやく鈍色の刃を認め、驚愕の色を浮かべる。

 僕は何事かを叫びながら、手の中にある鉈を振り上げた。その時頬を掠めていった生温いものは一体何だったろう。

 口から飛び出る音のない叫びがやまないうちに、僕は鉈をその脳天に振り下ろそうとして、



「ジョーカー!」



「……え……!?」


 いつの間にか、目の前にいた相手は――鉈を振り下ろそうとしていた相手は、黒髪の小柄な少女に変わっていた。

 慌てて振り下ろす速度を殺し、何とか鉈の刃が相手に届く前に止める。お陰で彼女に怪我はなかったが、それでも、


「何で……?」


 呆けずにはいられなかった。何で。何で彼女が、ここに?


「そんなの私が聞きたいわよ!」


 ……逆ギレされてしまった。

 殺されかけていたにもかかわらず全く動じない、それどころか目を吊り上げて怒っている様子さえ見せる。偽者、ということはなさそうだ。

 だとしたら、僕は今まで幻でも見ていたんだろうか。夢? いや、大体僕は何でこんな場所に――ここは、燃えたはずの家なのに。

 やっぱりこれも妄想か何かなのかと考えていると、彼女が落ち着いた様子であたりを見回してから、小さく首を傾げた。


「ここは……あなたの、おうち?」

「……うん、まあ……僕の、っていうか……父親の」


 僕の家と言うには少し抵抗があったからそう言ったのだが、その言葉に、目の前の少女は申し訳なさそうに眉尻を下げた。……迂闊だった、とでも思っているのかも。

 でも気にしなくていいのに。べつに僕は気にしてなんかいない。

 だって、父親はもうとっくの昔に、僕が……。


「じゃあここが、あなたの記憶の場所なんだ。……ごめんね」


 頭をぎゅっ、と抱え込まれる。

 ……最初、何のことだか分からなかった。何が起きているのかも理解できなかったし。

 身長差のせいで大分おかしな格好だったけれど、おそらく彼女は抱きしめている、つもりなんだろう。

 まるで、そう、小さな子どもをあやすみたいに。


「我慢しなくていいのよ、ジョーカー」

「え……?」

「辛かったら、無理せずに泣いたらいいわ。……どうせここには私とあなたしかいないし」


 だから、何が。

 そう言いたかった。そう言うつもりだった、僕は。

 ……なのに。


「お父さんのこと、大好きだったよね」


 ――そんなの、ずるいじゃんか。


 『お父さんのこと、大好きだった』?

 そんなことを、君が聞くわけ? ……僕に?


 だったら、答えなんて最初っからひとつしか用意されていない。


「っ、当たり前……だろ……」

「うん」

「どんな最低だって、……父親……なんだから……」

「うん。……知ってるよ」


 声が震えた。精一杯強気に言い返すけど、喉に込み上げてきたものがつっかえて、うまく笑い飛ばせない。


 当たり前じゃん、そんなの。

 知ってるよ。

 分かってるよ。……大好きだったよ。


 大好きだったよ。父さんのこと。


「馬鹿じゃないの、っ、そんなこと知ってるよ……!」

「……うん。そうだよね」


 凪いだ声音が、どうしようもなくやさしい。――覚えていないはずの、覚えてもいないけど、何だか母さんみたいだって思った。……母さん。馬鹿な(ひと)だった、でも、彼女は幸せだったと言う。

 ねえ。それでも父さん、あなたは母さんを愛してた?

 聞けなかった問い。もう届かない問い。だけど、



「父さんも、おまえのこと、大好きだったよ」



 僕を抱きしめてた背の高い影が、そう言ってくれた気がしたから。

 ――ねえ。僕らは家族だったって、そう信じても……、いいかな?










 追われる立場が、いつの間にか追いかけていた。

 白兎というのは得てしてそういうものかもしれない。アリスから逃げているつもりが、気が付けばアリスを追いかけているのだ。


「ハク君?」


 ――だからこそ、交わらないと決めた。

 彼女は歴代の《アリス》ではない。それを望んで連れてきたのは、自分自身ではないか。


「ハク君? どうしたの……?」


 後ろからは彼女の声。

 けれど僕は背中を向けたまま振り返らない。

 その目を見れば、きっとこの決心が揺らいでしまうから。

 五指を握り固め、手の平に爪を立てる。駄目だ。それでは駄目なのだ。僕に、そんな権利は、ない。


「――僕は」


 ただ、ひとつだけ。

 最後にひとつだけ、彼女に言っておこうと思ったことがあった。


「僕は、大丈夫です。女王陛下のことならよく知っています。ここが《女王の心臓》であり、今見ているのがただの悪夢だということも。でも大丈夫です」


 大丈夫。そればかりを繰り返す。

 ほんとうに、大丈夫だ。そのつもりで僕は、ここに今立っているのだから。

 だから。


「貴女が本当にこの国の呪いを解く《アリス》だったんですね。……貴女を連れてきてよかった。乱暴な方法でしたが、貴女をアリスとして選んだことを心からよかったと思います」

「……ハク君」

「ですから、貴女はどうか、この国を救って下さい」


 前にもお願いしたこと。もう一度、念を押すように言う。

 分かっている。彼女がそれをきちんと理解しているということは。けれど、今回の言葉に含んだ意味は、少しだけ違う。


「僕は、大丈夫ですから」


 震えないように声をぴんと張って、そう告げた。

 彼女はやさしいから、きっとこんな僕さえも救おうとするんだろう。しかし。

 救われるわけにはいかない。――救われる形を、僕は持っていない。

 この国でもっとも罪深い《白兎》でありながら、真っ先に救われることを望むなんてできるはずがない。

 僕にあるのは贖罪だけ。罪人に宛がわれた烙印を隠しては生きていけない。

 最初の《アリス》を連れてきてしまった。全ての悪夢を始めてしまった。そしてさらには、彼女までをも巻き込んだ。その僕が悪夢から逃げるわけにはいかないのだ。


 だから、僕は、もう。


「……やっぱり責任感強いのね、白兎って」


 ――え、は。何だって……?

 思わずこぼしそうになった。……彼女があまりにとぼけたことを言うから。

 『やっぱり責任感強いのね』? いくら彼女が要領のよくない子だとはいえ、まさか僕が何を言っているのか分かっていないなんてことはないだろう。そんな感想を抱くような場面ではないはずだ。僕は驚きに目を瞠ったまま、振り返ってしまった。


 その瞬間、あの黒い瞳と目が合う。


「だからね、ハク君。私難しいこと言われても分からないんだってば。――何が大丈夫なのか、全然分かんないの」


 凍てついた心をやさしく溶かす、お日さまのようなあたたかさを持った瞳。

 きらきらと輝いて決して光を失わない瞳。

 ――どうしよう。あまりにもきれいで、目が離せない。


「ハク君はすごく責任感が強い人だから、……悪夢の形も、他の人とは違うんだね? 恐ろしいっていうよりも、何だか悲しんでるみたい」

「……あ……」

「幸せになっちゃいけない、って思ってる?」


 僕は。

 白兎だから。

 白兎の、血を継ぐ者だから。


 ゆるりと首を傾げた彼女を目の前にして、僕は、何も言えなかった。


「私頭よくないから、そういうのよく分かんないのね。何で幸せになっちゃいけないの? 誰を救うとか救わないとか、そんなの、みんな救えばそれで幸せじゃない」


 何で。

 何で貴女は、そんなことが簡単に言える?

 みんな救われて、それが、幸せだって?

 それが公平な決断だって?

 戸惑う僕に彼女は、小さく肩を竦めてみせる。


「んー、この国の人って本当基準分かんないのよね……普段横暴なのに変なところで殊勝なんだからさ……」

「……僕は……僕が、幸せになることは」

「幸せになってください」


 苦笑気味の声に、僕は思わず目を瞠った。

 幸せになって、ください?


「じゃないと私が来た意味ないじゃない。最初に救ってって言ったのハク君でしょ」

「……え、あ……」

「大体、ハク君がいないと私元の世界に帰れないんだよ。ひとりで勝手に不幸になろうとしないで」


 ああ、そうだ。――そうだ。

 何せ、彼女は僕が連れてきた異世界の人間。いや、でも僕は。

 逡巡する、というより混乱する僕に、彼女はさらにその苦笑いを深めた。


「いいのよ? ハク君は幸せになっていいんだよ。私が保証するから」


 幸せになって、いい?

 その言葉に心が震える。震えて、ひとつの音を奏でる。

 僕は。誰よりも罪深い僕は、それでも、幸せになっていいと貴女は言うのか。


「あなたも、長いこと一人で悩んできたんだろうから。だから私を呼んだん、だよね」


 『幸せになっていいんだよ』。

 ……『幸せになって下さい』。

 『ひとりで、不幸になろうとしないで』――


 すっと差し出されたその白く細い手が、今はひたすら眩しく見えた。

 見上げれば、変わらずやさしくて強い色をした瞳が、僕を映している。


「だからね、ハク君。――私を呼んでくれてありがとね」


 彼女は《アリス》。そして僕は《白兎》。

 ならば、僕はその手を振り払う術などはじめから持っていやしないのだ。……それなら。

 できるなら、できるならばその手のやさしさに応えたいと、その時僕は心からそう願った――


 僕がもし、この血に継がれてきた罪を清算する日が来たなら。

 もし、その後も僕という存在が、たしかにそこにあったのなら。

 原初に咎を背負ったご先祖さま。――ひとつだけ、僕にも、望みたいことがあります。



 どうか、言わせて下さい。

 そう言ってくれる貴女がいるだけで、僕はもう幸せですと。





 ☆★☆





「う……」


 グリフォン、メアリ、ジョーカーに続いてハク君がその目を開ける。ルビーみたいに真っ赤な瞳。その目と視線が絡まって、私はほっと息をついた。


「ハク君! 起きた」

「……あり、す……? ここは……」

「ここはお城よ。わかる?」


 言えば、ハク君は緩慢な動作で周囲を見回したあと、安堵したような笑みを浮かべて小さく頷く。ハク君の悪夢は無事に終わらせることができたようだった。……よかった。

 これで3人目。いや、グリフォンを入れたら4人目か。メアリとジョーカーはもう悪夢から解放されている。あとは、チェシャ猫だけ。


「何故だ!? 何故だ何故だ何故だっ! 何故貴様にそのようなことができる!」


 順調に彼らの目を覚ましていく私とは裏腹に、玉座から立ち上がってうろたえたように吠えたのは女王様だった。

 そりゃあ、私が死ぬのを今か今かと待っていた女王様にしてみれば面白くないだろう。私を殺そうとする彼らの悪夢を覚ましてしまったんだから。

 でも、だからって何故だ、なんて聞かれても。


「女王様。それはあなたがよく知ってるんじゃないの?」

「何……?」

「私が《アリス》なんだって言ったの、あなたでしょ」


 いびつに歪む女王様の顔。私が《アリス》だから――そのせいかどうかは知らないが、私はどうやら彼らの悪夢に干渉できるらしい。干渉、というのが正しい言い方かどうかは分からないけど。

 でも、グリフォンの悪夢を覚ますことができたんだから、もしかしたら、と思ったのだ。女王様が彼らを悪夢に突き落とす代わりに、私がそこから救い出してあげられるのかもと。それには正しい選択――本物のアリスが言うには――をしなきゃいけないらしいけど、今のところ大丈夫みたいだ。


「ッ、くそっ! そんなことは許さん、許すものか! 今すぐ殺してやる!」

「っ!」


 女王様はひと際ヒステリックに叫ぶと、某猫型ロボット仕様のポケットよろしくどこからともなく大きな鎌を取り出した――銀色に輝く、綺麗な三日月型を描いた刃。

 待って、武器を出されたら私何もできないんだってば! そう思って一歩後ずさる、けれど。


「ちょっとちょっと、女王様ってばそりゃあないんじゃない!? 気ィ短すぎだっつの!」

「どけジョーカー! 貴様からバラされたいか!?」

「それは勘弁だけど、ありすが殺されるのも困るんだよね!」


 振りかぶられたそれを同じ色の輝きで受け止めたのは、先ほど目覚めたばかりのジョーカーだった。

 鎌に鉈。……何ともおかしな組み合わせではあるけれど。


「ジョーカー……」

「ほら、ありす、ぼうっと見てないで猫を何とかしてよ! ここは任せろとかそんな格好良いこと僕は言えないからね!? もって数分だから!」


 独特の金属音を響かせながらジョーカーは言う。焦るその口調には、それでも『女王を抑えてくれている』という心強さを感じた。……彼がいてくれてよかった。

 背中を向けているジョーカーには見えないだろうけれど、私は彼に向けて小さく頷く。そうね、まずはチェシャ猫を。彼の悪夢を覚ましてあげなきゃ。……その間、女王様のことはよろしくお願いします。

 未だ床に横たわってうなされる最後の人に駆け寄り、私は今までの3人と同じように、そっと彼の頬に触れる。……いや、正確には触れようとした、だ。


 ――瞬間、私は拒まれるように弾かれた。


「痛っ……!?」

「お姉さまっ!?」


 触れようとした指先にぴりっとした痛み。それは静電気程度のものだったけれど、それでもそんなことを予期していなかった私は思い切り手を引いてしまった。……何、今の?

 驚いてチェシャ猫を見下ろす。端正な顔つきが歪み、形のいい唇からは呻くような声が漏れている。たしかに悪夢にうなされている、のに。


「……何で、触れないの……?」


 チェシャ猫は――私から見て、うすい膜のようなものを通した向こう側にいた。

 というか、チェシャ猫の身体が何かに包まれているのだ。透明なそれはよく目を凝らさないと見えないけれど、たしかにそこに存在している。……チェシャ猫に触ることを妨げる障壁。

 一体、どうしてこんなものが……? メアリやジョーカー、ハク君の時には存在しなかった。触れただけで彼らの悪夢に干渉できた、なのに……。


「所詮猫とはかりそめの関係だということか、ありす」


 後ろから響く女王様の声。心臓が跳ねるような心地を覚えて振り返れば、視界の真ん中でジョーカーが思い切り吹き飛ばされるところだった。


「うっ……!」

「ジョーカー!」


 紙のように飛ばされて、壁に叩きつけられるジョーカー。彼は小柄で軽いから飛ばされやすいのだろうが、それにしたってあんなに吹っ飛ぶなんて……。それに、《ジョーカー》の名を冠する彼が勝てないのなら、一体誰が女王様に敵うっていうの? 冷や汗が額を伝っていく。


「お前がそいつの悪夢に入れないのは、お前がそいつのことをよく知らないからだ」

「……どういう、ことよ」


 見たところ傷一つない、相も変わらず完璧な彫像のように美しい女王様は私に向かって微笑んだ。彼女はどうやら完全に最初の余裕を取り戻したようだった。それはジョーカーを吹き飛ばしたことによってか、それとも私がチェシャ猫の悪夢に干渉できないのを見てなのか。――どっちだってかまわない、が。


「お前は知らない。何も知らない。《チェシャ猫》という存在を、何も理解していない」

「…………」


 どういう意味なの。《チェシャ猫》を理解していない?

 完全否定されるとかちんとくるけど、彼女が言っているのはおそらく私が知っているチェシャ猫のことではない。もっと根本的な、《チェシャ猫》という役のことだ。……だけど。


「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうなの?」

「随分と強気だな。――500年前のことも知らぬくせに」


 ……腹立つわね。強気とか弱気とかそういう問題じゃないでしょうに。

 むっとしながらも、その『500年前のこと』については不安を抱かずにはいられなかった。


 ――あの頃の記憶があるのは、結局今では私と女王様だけになっちゃったから。


 そう言ったのはアリスだった。女王様には500年前の記憶があるらしい、ハク君も同じようなことを言っていたし。

 だからこそ彼女の発言は注意深く聞かなければいけない。500年前に交わされたという約束の欠片が、そこにはちりばめられているかもしれないのだから。


「ふふ。随分真剣な目だな、ありす」

「当たり前でしょ」

「そんなに、その男が大切か?」


 素直に頷く。……普段ならありえないなんて突っぱねたかもしれないけど、場合が場合だ。恥ずかしいなんて言ってる場合でもない。いや、本人が聞いてたら分かんないけどね。


「拒絶されてなお守ろうとするとは……随分と健気だな。お前がそのような性格だったとは知らなかったが」

「別に知ってもらわなくて結構よ」

「それもそうだな。お前は私を嫌っているだろうから――ふふ」

「……何がおかしいの」


 チェシャ猫を庇うような位置に立って、私は妖艶に笑う女王様を睨みつける。赤を引いた唇の端を吊り上げる彼女はとても艶麗だったけれど、とても女王様みたいになりたいとは思わない。彼女みたいに意地悪い人間になるくらいなら、不細工で十分だわ。


「お前に嫌われようがどうしようが、私にとってはもう関係のない話だ。私はとうとう手に入れたのだから」

「手に入れた……?」


 そんな私の胸中など知らず、愛おしげに目を細める女王様。その目はたしかに私をとらえていても、別のものを見ているように思えた。

 手に入れた、って何を? 追い詰められた彼女がこの期に及んで何を手に入れたっていうの?


「――いや、しかし、お前には感謝しなくてはいけないな。お前がいなければ、決して手に入れることはできなかった」

「……何なの……何が言いたいの?」

「100番目のアリスよ。お前は、99人の犠牲(アリス)の上に立っている。500年間はさすがに長かったな……しかし、お前はけっして約束を違えることはなかった。何度でも呪いにとらわれ、穴に墜ち、この国へとやってきてくれた。……感謝するぞ、《アリス》」


 様子が……変だ。冷や汗が背中を伝っていく。

 思わず一歩後ずさったけれど――チェシャ猫を置いていくわけにはいかない。私はこれ以上動けない。


「いけません! ありす、逃げてください!」

「そ、んなこと言ったって……! チェシャ猫が!」


 ハク君の声が焦燥を伴って飛んでくるけれど、私にはチェシャ猫をそのままにして逃げるなんてことはできなかった。だって、チェシャ猫は今も悪夢にうなされているのに。女王様が鎌を向けたって抵抗もできないのよ?


「安心しろ、ありす。お前を殺すのはまだ後だ。まずは《チェシャ猫》――そこで寝ている貴様からだ!」

「っ!」


 女王様が鎌を振りかざす。ハク君もジョーカーも止めようとしてくれるけど、彼らの力だけで敵うはずもない。

 慌てて振り返る。チェシャ猫のまわりには相変わらず私を拒絶するようにうすい膜が張っていた。でも、あの鎌で貫かれたならきっとひとたまりもないだろう。一突きでジ・エンド――嫌な光景が、脳裏をよぎる。


「チェシャ猫……!」


 焦る私の声に返事はない。彼はやっぱり悪夢の中。

 私が覚ましてあげなきゃ。……そうしなきゃ、どうしようもないのに。

 そうこうしている間にも女王様はハク君やジョーカーを紙細工のように吹き飛ばし、こっちへ向かってきていた。

 時間がない。チェシャ猫が殺されてしまう。私に抗う術はなく、おそらく彼女にはためらいもなく。……チェシャ猫が、死んじゃう。


「いやだっ――」


 だめ。約束したの。待って。離れないって約束したの。守るからって言ってくれたの。……生きて帰るって、約束したの。



 《500年前》に、彼と、約束したの。



 腕を伸ばす。皮膚を焦がすような痛みなんて、今は気にしてる場合じゃなかった。拒絶されようがかまわない。私は歯を食いしばり、その力の抜けた身体を抱きしめる。触れた部分がバチバチと音を立てて火花を散らした。それでも――。


「約束、破らないでよ」


 視界の端で、女王様が焦ったように何かを叫んでいた。でもそれもあふれ出す黄金色の光に塗りつぶされていく。腕の中の重みは光に、痛みは温かさへと変わり、私は私でないものに姿を変えながら墜ちていく。


 ――ねえ、ルーシャ、お願いがあるの――


 頭の中で無邪気に笑う声は誰のものだったか。……ねえ、あなたの声、聞き覚えあるわ。

 光に吸い込まれていくもう一人の私が、私を見て微笑んだ。黄金の渦の中心を指差しながら。

 私は頷く。……あそこに、真意(こたえ)があるんだろう。それなら行かなきゃ。約束を守るためにも――。


 黄金色の光が私を呑み込んでいく。どこか懐かしい思いを覚えながらも、私は、目を閉じた。

もう……あれですよね。うん。

やってしまった(´・ω・`)←

もう答えも見えてきたし、残りも少しです。私もエピローグの推敲終わったし……。

相変わらず超展開繰り広げてますが、なんとかまとめようと頑張ってます(努力

あと少しお付き合い願います。

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