第94話 ラスト・アリス
――目が覚めた。そこは暗闇の中ではなく、光が溢れる世界だった。
「う……」
ちかちかする。ちかちかして、くらくらする。
視界に光が溢れていて、何が何だか分からない。
ここは一体どこ? 何がどうなったの? 何で私は、こんなところに……?
「ありす。目が覚めたか?」
――女王様っ……!?
驚くほど近くで聞こえたその声に、私は思わず弾かれたように起き上がった。
寝起き特有のふわふわした感覚も、明るすぎる光でぼやけた世界も一気に吹っ飛ぶ。突然明瞭になる思考と視界。顔を上げれば、目の前には鮮やかすぎるくらいの真紅をまとった女性が――この国の最高権力が立っていた。
「悪夢からよく帰ってきたな。ご苦労様」
しかし、動揺する私をよそに、彼女は何でもないようにそんなことを言う。しいて言うなら、面白そうに。
悪夢。知ったように言う、いや実際知っているのかもしれない。……私に何が起こったのか、私が何を見ていたのか。
私は少しむっとして彼女から一歩離れると、その言葉に応えた。
「ええ、お陰で色々と分かりました、どうも」
それは聞けば皮肉でしかないが、まあ事実だ。アリスのこと。このゲームのはじまりのこと。この世界を歪ませているもののこと――。全てではないけれど、見えなかったものが色々見えてきたと言うべきか。……だからと言って、今さら女王様に対して寛容になれるわけではないが。
けれど女王様はそんな私の不躾な態度に気分を害すこともないようで、逆に艶やかな笑みをこぼしてみせた。
「ふふ、どんな悪夢を見てきたのかまでは私には分からぬがな。……しかし、お前が一番乗りであることは確かだよ、ありす。したたかなものだ。他の者はまだ目覚めておらぬ」
「なん――?」
他の人。まだ、目覚めていない。
そんなわけの分からないことを言われてようやく、私ははっと我に返った。
そうだ、そうだった私、ここから落ちたんだ! みんなはどうなったのかと見回せば、そこは。
「え……、……嘘……」
何も変わらない。
何も、変わっていない。
なんにも変わらないまま、全てがそこにあった。
崩れたはずの床も。落ちたはずの、みんなも。
すぐそこに、横たわっている。
「驚いたか? まあ、あの演出も悪夢の一環だからな。悪夢へ誘うための方法というか。……白兎もそこにいる、安心するといい」
色々言いたいことはあった。どんな演出なんだと叩きつけてやりたかったけれど、
――ハク君!
白兎というその言葉に全てを持って行かれる。彼が、今度こそ、ここに。
必死に見回して探せば、たしかに、倒れ伏すようにして眠っているみんなの中に混ざって彼も瞼を閉ざしていた。金髪に白く長い耳、まだ幼さの残る顔つき。間違いなくハク君だ。
……ただし、その表情はどことなく苦しげだ。魘されている、というのが正しいだろうか。
「……悪夢って、……どういうことなの?」
「そのままの意味だがな。その者が一番見たくない夢を見る――それだけの話だ」
一番見たくない夢。……私の頭に即座に浮かんだのは、『大切な人が殺される夢』なんていうものだった。家族や、仲の良い友人を失う夢。私にしてみればもっとも見たくない類の夢だ。
そこで、先刻の出口のない部屋でのグリフォンとのやりとりを思い出す――アリスは、あれを『女王の罠』と言った。……だったら、あれがグリフォンの悪夢、ってこと?
「奴らのことだから、今頃お前が死ぬ夢でも見ているのだろうな。あるいは、その手で直接お前を殺す夢か――ふふ、どうだ、ありす?」
「どうだも何も……さいってーね、あんた」
「何とでも言うがいい。軽口を叩いていられるのは今のうちだけだからな」
嫌な奴だ。……分かってたけど。
でも、ただの悪夢だと言うなら、結局それは現実ではない――覚めれば消えるもののはずだ。いくら嫌な夢を見たところで、それは現実にはなりえない。覚めてしまえば終わり、のはず。
なら、アリスはどうして、『正しい選択をしたことで救われた』なんて私に言ったの?
「聞きたいことがありそうな顔だな。それなら質問される前に答えてやろう、お前の友人たちが見ているのはただの悪夢ではない」
「……ただの悪夢じゃ……ない?」
どういう意味だ。そんな意味を込めて彼女を睨みつけると、彼女は怯んだ様子もなく婉然と微笑んだ。
「夢でありながら、夢ではない。あの底は、女王の心臓だ」
女王の心臓。……アリスもそういうふうに形容していた。
でもそれが、その悪夢と一体どう関係しているっていうの? その意図を測り切れず黙ったままいると、女王様は、どこか恍惚とした表情で言った。
「知りたいか、ありす。教えてやろう――あの底では、夢が現実になる。あの底で見た夢は、この世界で現実になる。あの底ではみな、悪夢を愉しんでいるのだ」
「な……」
夢が、現実になる。
私は、心臓が幾本もの細い針で突き刺されたような感覚を覚えた。……夢が、現実に?
「それが女王だよ、ありす」
彼女はにっこりと笑んでいた。
それが、女王。
つまりそれが……女王の力だっていうことなんだろう。
……なんてこと。
それも、他人の悪夢を現実にするだなんて。人が一番見たくないものを……現実に、する?
「……ほんっとに、最低ね」
「そう睨みつけるな。愛らしい顔が台無しだぞ?」
そんなこと、微塵も思ってないくせに。どうせ私は可愛くない。
それに誰がそんなことを聞いたか。――最低だって言ってるのよ。
「それが、あなたの願いなわけ?」
私は女王様を睨んだまま言った。
ここは願いの叶う国だと、アリスはそう言っていた。……だったら、《女王の心臓》――そこでは、おそらく女王の願いが叶うんだろう。そういう場所なのだ、多分。
そんな意味を含めて言うと、彼女は少しだけ目を見開いた。
「……そうか。そうだな。お前も結局は《アリス》だからな」
「……どういう意味よ?」
「私の望んだ形ではないが、たしかに彼女だということだ」
彼女。……アリスのこと? だから、この国の人の言い方は分かりづらいんだってば。
よく分からずに眉を寄せたままでいると、彼女はふふっと笑った。
「それよりありす、お前は友人の心配ばかりしているようだが、自分の心配はしなくていいのか?」
「……どういうこと?」
「だから言っただろう。奴らはおそらくお前が死ぬ夢でも見ているのだろう、と。……事実、お前が共鳴したらしいグリフォンはそうだったろう?」
艶やかな微笑みに、私は思わず目を見開いた。
私が死ぬ夢。――そうだ。
他の人は分からないけど、グリフォンの夢は少なくともそうだった。私と、グリフォンが壁につぶされて死ぬ夢。……彼は正しい選択をしたから救われた、とアリスは言っていたけれど。
「見てみろ。お陰でグリフォンはぐっすり良い夢の中だ、もう女王の心臓にはいない。お前が共鳴してくれたお陰でな」
長い指で示されてついグリフォンの方を見やれば、たしかに彼は、一人だけ安らかな寝息を立てている。
……全然、悪夢を見ている、ってふうではない。
つまり、私が正しい選択をしたから、ってこと……? それならよかった、けど。
「しかしありす、安心するにはまだ早いぞ」
「……え?」
「他の者はまだ悪夢を見ている最中だ。――このまま、奴らが悪夢を見続けていたら、どうなると思う?」
倒れ伏しているハク君、メアリ、ジョーカー、そしてチェシャ猫――
ぐるりと見回して、私は必死に頭を回転させる。
――現実になる、悪夢。
彼女のそれが、本当なのだとしたら。
たとえば……彼らが、女王様の言うように『私が死ぬ夢』を見ていたのだとしたら?
「死ぬぞ? ありす」
女王様が、何でもないように笑みを模った赤い唇で私の戦慄の理由を告げた瞬間。
心臓を、鋭い痛みが襲った。
「……っ!?」
「ほら、来た」
思考が全て真っ白になる。頭の中で熱がふくれ上がって、世界が塗りつぶされていく。
ぎゅっと内臓がよじれて、体内の酸素が全て外に押し出されてしまった気がした。
黒い点に埋もれていく視界の中で、女王様が唇をますますひん曲げる。
「さて、今お前を殺そうとしているのは一体誰だろうな? メアリか? 白兎か? ジョーカーか? はたまた、チェシャ猫か――」
何だこれ。何だ、これは。
立っていられない。足が震える。言うことを聞かない身体が、前のめりに倒れていく。
床に倒れた衝撃でさえ今は気にならなかった。毛足の長い絨毯のお陰、というのもあるかもしれないが。身体の自由を奪うのは、断続的に胸を刺す激痛。広がっていく疼痛。
まるで、心臓を直接つかまれたみたいに、それが胸の内で暴れ出す。
「――ああ、それとも、全員かな? ありえない話ではないな。みなお前を好いている、お前が死ぬのはさぞかし辛いだろう。だからこそ、夢の中でお前を殺めることになる」
「さい、……ってー……」
もう、それ以上言う元気はなかった。呼吸するのさえ辛い。口から空気が漏れ出していくのと同時に、ひゅーと細く変な音が出る。
痛み。吐き気。鈍痛が頭を襲って、視界にさえ靄がかかってきた。
転がっているのは決して冷たい床ではないのに、手足はどんどん冷えていく。それとは逆に、額にはべっとりと脂汗が滲んでいた。もう駄目なんじゃないかって……そんなことを、無意識に考えてしまうくらいに。
――死ぬ。
脳裏に閃光のようにひらめいた『死』という一文字。ぼやけているはずの世界に、それでも鮮明に迫ってくる。……私は、こんなところで死ぬんだろうか?
女王様を目の前にして。ここまでやってきて。大切な人に、殺されて――
約束も、守れないままで。
「いっ――……」
嫌だ。そんなのは、絶対に嫌だ!
死んでたまるか。誰との約束もまだ守れていない。ハク君との約束も、帽子屋さんとの約束も、ジョーカーとの約束も、チェシャ猫との約束も、アリスとの約束も。
大切な約束を破って、ひとりで死ぬなんて、絶対にできない……!
「……何のつもりだ、ありす?」
感覚がなくなりかけていた指を何度も握ったり開いたりしてから、私はゆっくりと床を這い出した。おそらく芋虫みたいに間抜けな格好に映っているんだろう、女王様の目には。
だけど、私には彼女を気にしているような余裕もないのでその言葉には答えず、這いつくばったまま悪夢にうなされるみんなのもとへと必死に手足をばたつかせる。
――まだ。まだ待って、私。まだ、もう少し、頑張って。
歯を食いしばって訪れる痛みに耐えながら、私はようやく、みんなが倒れているあたりまでやってきた。みんなの口から漏れる苦しげな吐息。それを見まわしてから、大きく、大きく息を吸って。
「――起きろ、馬鹿ーっ!」
声を、張り上げた。
そうして伸ばした手が、メアリの頬に触れた途端――
滲み出した黄金色の光が、再び私を包んだ。