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第90話 ハートの女王の心臓

「お姉さま! よかった、無事だったのね!」

「ありす! チェシャ猫ぉ! 心配したよおー!」


 そして私とチェシャ猫、ジョーカーの三人がちょうど部屋から出た時、廊下の向こう側から二つの影が駆けてきた。

 ――グリフォンとメアリだ。

 よかった無事だった、と思わず目を凝らせば、その姿はどことなく……ぼろぼろというか。満身創痍とまではいかないけど、身体のあちこちには創傷が見受けられる。グリフォンなんかは羽がまた少し縮んでいるような……気のせいだろうか。むしろ私の方が心配になってしまうんですが。


「ジョーカーは!? あのろくでなしはどうなったの!?」

「ろくでなしって……」

「……ここにいますけどー。ごめんなさいねーろくでなしで」

「うわあ出たあ!?」

「お化けみたいに言わないでくれるグリフォン」

「まあ、あなたよくもお姉さまの前にぬけぬけと姿を現せたわねっ」

「いや、一緒にいたんだし……ていうかそれはある意味僕の科白だよねメアリ」

「どういう意味よ!」


 ……あ、でも元気そうだ。大丈夫みたい。むしろジョーカーの方が精神的に疲れている気がする。


「やれやれ。4人も集まると、さすがにうるさいね……」

「ほんとに……ってチェシャ猫、それ私も入ってる?」


 疲れた様子で呟くチェシャ猫に思わず同意……してみたけど4人って私も入ってるよね。

 見事なまでの速度で目を逸らされたので、たぶんそう見て間違いないのだろう。失礼な。私は何も騒いでないでしょうが。少なくとも、まだ。


「でもまー安心してよ。君らに危害加えるつもりないし。いちおー仲間になったからさ、そこんとこよろしく」

「し、信用できない……!」

「あは、グリフォン、僕はその科白を君にだけは言われたくなかったなー。僕は君の方が信用できない」

「あ、それ私も思う」

「どういうことありす!? だってこいつはあのジョーカーなんだよお!? 信用していいの!?」

「私はあんたほど信用できない相手を見たことないわよ」

「ひ、ひどいありす!」


 だって信用できないもん。むしろグリフォンのことを全面的に信用してあげるなんて人がいたらその顔を見てみたい。メアリも横でうんうんと頷いてるし。お前のフライトは常に飲酒仕様なんだよ。


「まあ、口論はそこまでにしてさ……ほら、女王のところ、でしょ? メアリ、道中で白兎には会わなかった?」

「え、ううん、会ってないわ。もしかしたら、先に女王様のところに行ったのかも……だとしたら危ないわ。一人で会いに行くなんて、殺してくれって言ってるようなものだもの」

「そうだね……俺たちも早く行かなきゃ。まずは階段まで行かないと」


 そうだった、さっき床が抜けて落ちてしまったんだから(色々ありすぎて忘れてたわね……)、今いるのは女王様のいる場所からは下の階にあたるのだ。とはいえ、見回してみたところ、階段なんてものは近くにありそうもないんだけど……だからこそメアリやグリフォンが来るまでに時間がかかってしまったのかもしれない。

 どうしたものかと私が首を捻っていると、ジョーカーが一歩前に進み出た。


「一番近い階段はこっちだよ。案内するからついてきて」

「……信用していいの? チェシャ猫」

「大丈夫。ジョーカーについては心配しないで」

「そこ。聞こえてるし」


 刺々しい口調のジョーカーだが、それでもその声に敵意は含まれていない。……私は疑ってないけどね? もちろん。

 むしろ、今の私にしては頼もしくもあった。城の兵であるジョーカーがいるのなら、城内の道に関してはきっと大丈夫だろう。……エースさんとは違って。今までお城にずっといた人なんだし。

 ――うん、そう。『私たち』は、大丈夫。


「……みんな……。大丈夫かな」

「今は他のことを心配してる場合じゃないよ、ありす。みんなのためにも早く女王をどうにかしなきゃ――でしょ?」

「……うん、そうね」


 ぽつりと呟いた言葉は、チェシャ猫にも届いていたらしい。……分かっては、いるのだ。

 そう。私が早くどうにかしなきゃ。それがみんなの安全にもつながる。


 帽子屋さん。ミルク君。ヤマネ君。ディー。ダム。公爵夫人。エースさん。それに、ハク君。

 今ここにはいない、それでも大切な『仲間(みんな)』。


「頑張りましょ、お姉さま。わたしも頑張るわ」

「そうだよお。ちゃっちゃと女王倒して、みんなのところ帰ろうよ」

「……うん。ありがとう、メアリ、グリフォン」


 走り出しながら、私は少しだけ笑んだ。……そう、私は一人じゃない。

 ここにも、大切な『仲間』がいる。

 だから私は頑張れる。もうボロボロだ、って時にも。まだもう少し、と立ち上がることができる。

 だから、今も、まだ頑張れるって思うのだ。


「やれやれ。それにしても、床が抜けるなんて思わなかったな」

「……あなたのせいじゃないの、ジョーカー」

「いやだなメアリ。睨まないでよー、僕は壁壊しただけだよ?」

「その衝撃が伝わったんじゃないかって言ってるのよ! お姉さまの体重だけで床が抜けるわけないじゃない!」

「……なんかメアリ、その言い方やめない?」


 ちょっと今傷ついた。悪意がないのは分かるし庇ってくれてるんだろうけど傷ついた。まるでジョーカーが私の体重のせいで床が抜けたと思っていると言わんばかりの物言いだ。メアリはえ、と目を丸くしていたが。

 でもたしかに、いくら何でもあれだけで床が崩れ落ちるなんてことがありえるだろうか? いくら私が重かったとしても、それだけで抜けるなんて床としての機能さえ果たせていないじゃないか。しかもここは、お城の中なのだ。城の床がそんなに簡単に崩れるなんて。


「妙だね」


 チェシャ猫は言った。その言葉は、どちらかというとジョーカーに向けられている。さっきまで相手方だったのだから、何か知っているんじゃないかという思惑があるんだろう。


「僕は知らないよ。たしかに壁を壊したのはまずかったかもしれないけど……女王様には好きにしていいって言われてたしさー」

「……好きにしていいって、まさかお城を壊していいって意味で言ったんじゃないでしょ」

「えー、だって女王様にはもうお城はいらないのに」

「……いらない?」


 チェシャ猫の耳が、ジョーカーの言葉にぴくりと過敏に反応する。いらない。

 ジョーカーは何気なく言った言葉のようだったが、私たちにとってはどうにも引っ掛かる科白だった。

 『女王様には、お城はいらない』? 彼女が自身の終焉の時を悟っているからか……? ううん、でも、そしたら。


「じゃあ、女王様は何のためにお城に戻ってきたの? わざわざお城で……」

「『この時』を迎えるのは『ここ』がいいって言ったのは女王様だけどね。何か理由があるんじゃない? 僕はそーゆーの知らない、面倒だから聞かなかったし。女王様もジャックにしか言ってないんじゃないかな」


 ……適当だ。こいつ、かなり適当な性格だ。たしかに見た限り面倒事は嫌いそうだけども!

 だけどそういうことが分かってたら、こっちだって対策の練りようがあっただろうに。……まあ、そんなことを言ったって始まらないんだけどさ。


「女王様、何かここじゃなきゃいけない理由があったのかなあ?」


 グリフォンが小さく首を傾げる。どうなんだろうか。お城じゃなきゃ、いけない理由。華々しい終焉を迎える、という口実でもおかしくない気はするけど、それで何か大切なことを見逃してしまっては台無しだ。


「城は何せ女王の領地だからなあ。俺あんまり詳しくないし、メアリ、何か知らない?」

「……お城には、何度も来ているけど……わからないわ。女王様がここを選んだ理由は、よく」

「僕も分かんない。僕が聞いてないんだから、他のトランプ兵も知らないんじゃない? やっぱり知ってるのは女王様とジャックくらいだと思うけど」


 走りながら顔を見合わせ、お互いにため息をつく。……今のままでは情報不足だ。このまま下手な予測を立てても、余計ややこしくなるだけだろう。

 とりあえず保留にしよう、とチェシャ猫は言う。もちろん異論はなかった。しばしの沈黙が訪れ、ただ走るだけの時間が続く。


「……ねえ、ジョーカー」

「うん?」


 その長い沈黙を破ったのは、チェシャ猫だった。ジョーカーは前を走る足を休めないまま、振り返りもせずに返事をする。


「それじゃああんたは、今処刑されようとしてる《アリス=リデル》って言うのが誰かも知らないわけ?」

「知らない。興味なかったし」

「……あんた、本当にさっきまでのジョーカー? なんか、しおらしさの欠片もないね」

「んー、僕って元々そーゆーキャラじゃないからね。変わりたいって言ったけどさー、正直この年にまでなったら性格は変わんないし変えられないよ? ねーメアリ」

「どういう意味なのよ、それは」


 ジョーカーの言葉にむくれるメアリ。……まあ、それはそうかもしれない、と私はひっそりと思った。メアリには内緒だけど。

 ジョーカーも、何だかんださっきまでの通りだ。あの猟奇的な感じはもうないが、軽い口調と物腰は健在である。でもそれが彼の素だって言うならまあ仕方ないわよね。彼の性格自体に難があるなら別だけど、そういうわけでもないみたいだし。


「大体、僕はありすに会いたい気持ちでいっぱいだったしね。女王様の言う《アリス=リデル》なんてどうでもよかった。そんなの彼女の好きにすればいーし」

「先が思いやられるわね……」


 ……うーん、でもある意味難あり、か?

 一種の異端なのかもしれない、ジョーカーは。《アリス》という言葉を目の前にちらつかされて、何故興味を持たないでいられるだろう。そんな重要なことを『どうでもいい』の一言で一蹴するなんて。


「アリスといえば、さっき白兎が何か言いかけてたよね。僕の予想が正しいならどうのこうの、って――それもジョーカーに遮られたんだけどさ」

「てへ。そういえば遮った覚えがある」

「……あれ、なにか聞かれてまずいと思ったから遮ったんじゃないの?」

「んー、別にそういうつもりはなかったよ? あれは単に遊んでほしかっただけ」

「…………」

「……やだなー、怒んないでよ猫」


 そりゃあ怒るでしょうが。私としてはもう呆れるしかない。ハク君の重要だったかもしれない言葉すら、ジョーカーの気まぐれによって阻まれてしまったんだから。

 となると本当に、女王様のところに行ってたしかめるしかないのか。いや、結果がどうあれ向かうことには変わりなかっただろうけど、情報があるのとないのとではやっぱり違う。……でもだからって引き返すわけにはいかないしね。


「まあ、行けば全部分かるよお。考えてないで行ってみようよ、チェシャ猫?」

「お、グリフォン。君ってば、たまにはいいこと言うんだね」

「やだなあジョーカー、そんなに褒めないでよお」

「やだなあ、そんなに褒めてないよ」

「……え?」

「……え?」


 それにしたって緊張感のないジョーカーとグリフォン。あのチェシャ猫すら先が思いやられる、とばかりにため息をついた。……この人たちに比べたらチェシャ猫も十分常識人よね、うん。

 そんなことをしているうちに、先頭を走っていたジョーカーが速度をゆるめ始めた。階段についたのだろうか。というか、一番近い階段でもこれだけかかるなんて。


「……ん?」


 合わせてスピードをゆるめると、もうほとんど止まりかけていたジョーカーがひとり呟いて首を傾げた。

 どうしたんだろう。

 廊下の突き当たりの脇、不自然に広く外に出っ張っている部分――おそらく踊り場があるのであろうそこを覗き込むジョーカーに近寄り、どうしたの、と言おうとしたところ。


「崩れてる」

「……何だって?」


 先に声を上げたのは、チェシャ猫だった。私やグリフォン、メアリも、その後にそれぞれの驚きの声を上げる。崩れてる?


「ちょっとジョーカー、嘘言わないで、だってさっきわたしたちはここを通って……」

「嘘じゃないよ。何なら見てみなよ」


 むっとした表情でジョーカーがその場をよけると、彼の後ろに位置する階段の様子が私たちにもよく見えた。

 崩れている。

 一見しただけで、それはそうと分かる。階段の中腹あたりから、そう、まるでさっき突然崩れてきたあの床のように。……ただの瓦礫と化した、階段。


「……これは、故意だな」


 チェシャ猫が呟いた。砂礫状になったそれを手ですくい、篩にかけるように指から落としていく。


「誰かが俺たちを阻んでる。……って言ってもまあ、俺たちを阻むような相手なんて、たかが知れてるけど」

「問題はどうやってやったか、だよねー」


 真剣な声音のチェシャ猫に対し、ジョーカーの口調はやっぱり軽い。でもその表情には猜疑の色がたっぷりと含まれている。

 どうやって、やったか。

 そりゃあ、私たちが女王様のところまで辿り着くのを阻止したい輩は簡単に思いつく。女王様自身もそうだし、その命を受けたトランプ兵もそうなわけだ。でも、こんな立派な階段を、粉々に?


「これは百歩譲ってふつーのトランプ兵が細工できたとしても、さっき床が崩れた時は他の兵なんていなかったしなあ」

「じゃあ、さっきのは事故でこっちは故意だっていう可能性は?」

「お城の一部が崩れるなんて事態がそうそうあることじゃないし、あっていいことじゃないからねー……僕としてはやっぱりどっちも故意であることを疑うけど」


 チェシャ猫とジョーカーに倣って私も崩れた階段を仰ぐ。……とても、登れたような高さではない。チェシャ猫の身体能力ならいけるかな? ただ、今は怪我をしてるから微妙だろう。せいぜいそんな程度だ。私じゃ絶対に無理なことくらい、見れば分かる。


「んー……どうしようね。他の階段回ってそっちも崩れてたら意味ないし。あんまりここで時間使っちゃうと、女王様待ちくたびれちゃうよ」

「何をしでかすか分かんないからな、あの暴君様は。……あ、そうだ」


 ふと、何かを思いついたように顔を上げるチェシャ猫。そうだ?

 何か嫌な予感を感じたのか、隣でグリフォンが半歩分ほど後ずさった。


「あのさ、グリフォン。君はどれくらいの重さまで耐えられる?」

「や、やっぱりそういう展開!? い、いや、そんなに重いもの持てないよ俺は!? ありすが限界! せいぜいありすが限界!」

「そう。……じゃあメアリは大丈夫なんだね」


 何だそれはどういう意味だ。言おうとしたが、分かり切っていることだったのでやめた。失礼ね、そんなに太ってないわよ。……そりゃあメアリよりも重いだろうけどさ。

 そんな私の心中を知ってか知らずか、チェシャ猫は親指でくいっと階段の上を指差す。


「じゃあ、メアリとありすを上まで運んでくれる? 一人ずつでいいから」

「え、……そしたら、チェシャ猫とジョーカーはあ? どうするの?」

「俺はあれなら登れないことはないけど……どうだろ。微妙だな。ジョーカーは無理っぽいし」

「あのね、そういう目で見ないでくれる。獣人みたいな意味分かんない身体能力はそりゃ僕にはないよ」

「……別に何も言ってないけど」


 意味分かんないって、とチェシャ猫は小さく呟いて肩を竦めた。……たしかにチェシャ猫、というか獣人の身体能力はずば抜けているんだろうけど、それを『意味分かんない』って言うのはあんまりな気がする。


「行けるなら行けばいいじゃん。僕は他の階段探すからさ」

「他の階段が無事だって根拠はどこにもないでしょ?」

「そんなの君が一緒に来たって同じだよ。一人でも多い方がいいだろ、そっちは」


 そっち。……女王様のところに向かうメンバー、ということだろう。

 そりゃあ一人でも多いに越したことはないけれど……。


「でも、一緒に行くって約束したでしょ。ジョーカー」


 それじゃお先に、とは私にはとても言えなかった。だからそう言ったんだけれど、ジョーカーはあからさまに顔をしかめてみせる。

 馬鹿だな、とでも言いたいのかもしれない。


「あのね、ありす。そーゆーこと言ってる場合じゃないでしょー? 君馬鹿? 早く女王様のところ行かなきゃなんないっつってんのに」

「うん。でも、約束したわよ」

「……あのね」


 駄目だこりゃ、とばかりに肩を竦めるジョーカー。そんな風にされたって、約束したものはしたんだもの。

 一緒に行く、って言ったばかりだ。そんな大切な約束を反故にするなんてできるはずがない。


「……お姉さま……」

「ほらメアリ、君もこのお馬鹿なお嬢さんに言ってあげてよ。夢見てんじゃねーよって」

「……そうね。一緒に行きましょう、ジョーカー」

「…………は?」

「お姉さまが一緒に行くって言った以上絶対なの! 何としてでもあなたを連れていくわ!」

「えっ、ちょっ、マジ勘弁……」


 ナイス、メアリ。私は親指を突き立てる。メアリも輝かんばかりの笑顔で私を振り返った。

 そうよ、みんなで行かなきゃ。一人でも多い方がいい、それならジョーカーだって一緒の方がいいでしょ?


「それじゃあ、全員で上がる方法を考えましょ? 何かあると思うの」

「え、マジで……? ……たとえば何があるのさ」

「うーん……グリフォンが積載量を増やす、とか」

「いやだから無理! 俺ありすでギリギリだって!」

「何でそんなに必死なのか知らないけど……ほら、ファイト!」

「何でそういうところだけ可愛い顔するのお、ありす!?」


 頑張れば行けるような気がするもの。ジョーカーは細身だし、頑張れば行けないことはないと思うわよ? チェシャ猫は自力で上がれるって言うし。怪我してるからちょっと心配だけど。

 それでもひたすら否定し続けるグリフォンに私が唸っていると、メアリが神妙な顔で言った。


「お姉さま、チェシャ猫がジョーカーを抱えて跳ぶって手もあると思うわ」

「あ、それありかも」

「いやそれはないでしょ!」

「なしの方向で!」

「……何で二人ともそんなに必死なの?」


 チェシャ猫とジョーカーは全力で否定していた。代わりにグリフォンが胸をなで下ろしていたけど。

 うーん……、なかなか決まらないわね。できないことはないと思うんだけど。いや、人一人抱えたらチェシャ猫はきついか? チェシャ猫だって大変だしねえ……。


「じゃあやっぱり、グリフォンが――」

「なし! なし! なし!」

「三回も言わないでよ。……うーん、それも駄目か……どうしよう?」


 腕を組んで、お互い顔を見合せながらうーんと首を捻る。

 行き交う唸り声の中、「あ」と声を上げたのは、チェシャ猫だった。


「ジョーカー、どれくらいの高さだったら登れる?」

「どれくらいだったら……? まあ、今の半分くらいだったらいけるとは思うけど」

「半分か……いけるかな」

「……チェシャ猫、どういうつもり?」


 私が尋ねると、まあ見てて、とばかりにチェシャ猫は片目をつむってみせる。

 何をするつもりなんだろう。

 かと言って何をすることもできず、ただ見守っていると、チェシャ猫は階段のあったところまで進み出て、ぐっと腰を落とした。

 ――まさか、自分が階段の代わりに?

 思った途端、助走もなくチェシャ猫が跳躍する。まるで足がバネになっているかのような見事な跳躍。……いくら獣人なんて名が付いてるからって、たしかに『意味分かんない』とでも言いたくなるような身体能力だ。私唖然。しかしそんな私のことなんて気にするわけもなく、チェシャ猫は階段の崩れた部分に難なくつかまる。怪我とか気にする必要もなかったみたいだ。


「グリフォン、悪いけどジョーカーの踏み台になってあげて。……これくらいならいけるでしょ?」

「ええ!? 結局俺はそういう役なのお!?」

「はいはい、行きますよーっと。……動かないでね、グリフォン」


 器用にも足だけで階段につかまり、逆さまの状態で上から手を差し出すチェシャ猫に、あきらめた様子のジョーカーはグリフォンの肩に足をかける。……グリフォンはまだ何か喚いていたけれど。

 別にそんな、ぐちぐち言うほどのことでもないでしょうに。大体あんたマゾだったでしょ。


「お、俺、踏み台として踏まれるのは好きじゃないんだってばあ……!」


 ……そんなの初耳だ。ていうか別に聞きたくなかったそんな情報。

 でもグリフォンが何を喚こうが時すでに遅し。ジョーカーはそれでも私からしたら意味分かんないと評したくなるような跳躍力で、伸ばされたチェシャ猫の腕につかまった。そしてそれをチェシャ猫が腕力だけで階段の上まで持ち上げる。……あれ、どういう原理なの。何がどうしたらそうなるの? わっかんねえ。


「よ……っと。――グリフォン、それじゃあありすとメアリをお願い」

「な、何でそんな馬車馬みたいに働かされてるのお、俺……」

「便利だから」

「グリフォンだから」

「それくらいしか使い道ないから」

「ていうか、日頃の行いじゃないの?」

「ひ、ひどいみんなして!」


 グリフォンは割と本気で傷ついたみたいだった。……あ、ちなみに最初から順番に、ジョーカー、チェシャ猫、メアリ、私ね。一番ひどいのはメアリだと思う。言葉にまるで容赦がない。

 まあ、でも何だかんだ言われながらも上まで運んでくれるグリフォンは優しいのよね。……単にへたれてるだけかしら。

 そうだったとしても、崩れた階段の上に、ようやく5人揃って降り立つことができた。それは間違いなくグリフォンの力あってのことだ。


「さて、大分時間食っちゃったな……急がないと」

「だから先に行けばよかったのにさあ」

「それはできないわよ。一緒に、でしょ?」

「そうよ、贅沢言わないでよジョーカー。ありすお姉さまにせっかく生かしてもらっておいて」

「……それはちょっと違うんじゃないかなあ、メアリ」


 ハク君は大丈夫だろうか。みんなは傷ついてないだろうか。女王様は一体何を企んでいるんだろう。……不安や心配はたくさんある、けれど。


「――行こう、チェシャ猫。女王様のところ」

「もちろん。こんな馬鹿げた遊び、終わらせよう」


 私たちは、どちらからともなく手をつないだ。もうけっしてはぐれないように。

 ――立ち止まるわけにはいかないの。大切な人が待ってるから。……大切な人がいるから。


 どんな困難だって、強くなって乗り越えるしかない。

 未来へと続く道はきっと、前にしか拓かれないから。





 ☆★☆





 そうしてどれくらいの距離を走り、どれくらいの角を曲がっただろう。正直言って時間の感覚はあまりない。とにかく、そこについたのは、私やメアリは既に息が切れ、グリフォンもとうとう弱音を吐き始めた頃だった。

 ――女王がいる、部屋。

 口の中で反芻して、目を上げた。私たちの目の前には今、昨日塗ったばかりのような光沢のある真紅の扉がそびえている。ジョーカーによると、この先で女王様は私たちのことを待っているらしい。……ついにここまで辿り着いた、のだ。


「……とうとう、だね。ありす、心の準備は?」

「もちろん……って言いたいところだけど、ちょっとだけ、待って……」


 ……今までずっと全力疾走だったので、さすがに息が切れました。もちろん悠長にしてるような場合じゃないんだけど、せめて呼吸くらい整えないと。

 チェシャ猫が肩を貸してくれたので、遠慮なく借りる。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

 そうしてようやく呼吸は落ち着いたものの、高鳴る心臓はどうにも静まってくれそうもない。――当然といえば当然か。こんな状況で緊張しない方が、きっとどうかしているのだ。

 もう一度、深呼吸。目を閉じて。大丈夫だって、無理にでも言い聞かせて。胸に手を当てれば、たしかに生きていることを告げる心臓。……大丈夫。頑張れる。


「――うん。大丈夫、行こう? みんな」


 振り返って笑って言う、と。


「そうこなくっちゃ、ありすだもん」

「はいはい、ここまで来たら付き合いますよっと」

「どこまでもついていくわ、ありすお姉さま」

「逃げる時なら任せてねえ?」


 ほら、みんなも同じように笑ってくれた。

 私は頷いて、目の前の扉に手を掛ける。ひんやりとした感触、そして重量感。……これを開ければ最後、きっともう戻れない。――終わりのような気がするんだ、たとえ、どんな結末が待っていたにしろ――。

 またぶれそうになる呼吸を、目を閉じて抑える。

 終わらない物語なんてない。どんな悪夢にしろ、幸福な夢にしろ。いつかは終わるものだから……私が、決めなきゃ。

 私が、私自身の進む道を。


「行くよ」


 今度のそれは、私自身への合図だった。重量のある扉を力一杯押して、道を開く。

 開いた隙間から差し込む光をいっぱいに浴びながら、私は、その部屋へと足を踏み入れた。


「――ようこそ。ありす」


 その部屋の中から響いたのは、いつだったか聞いたような科白。ああ、でも違うわね、あの時は《アリス》だったから。

 女王様の声音で、でも、今呼ばれたのはたしかに私だ。

 ゆっくりと目を上げる。そしてそこに赤く美しく咲き誇っていた一輪の薔薇に、私は微笑んだ。


「ちょっとぶりです、女王様」


 だから私も、少しだけ違う言葉。それを聞いた女王様は、どこか満足そうに口を歪めた。


「今度は『初めまして』じゃないのか、ありす?」

「この間『初めまして』しましたからね。さすがに二回も同じことやるほど物忘れ激しくないですよ」

「そうか。……まあ、そうだな。私はお前にはもう、両手では数えきれないくらい会っているつもりなんだがな?」


 意味深な言葉。どういう意味だったのか、私には測りかねたけれど。

 女王様は、一人、絢爛たる玉座に腰かけていた。……脇には、誰もいない。いつも彼女を守っているジャックも。先に行ったはずのハク君も。彼女が処刑すると告げたはずの、誰だか知らない《アリス=リデル》さえも。

 女王様が、ただ一人。


「随分と無防備だね、我らが女王陛下。どういうつもり?」


 私の隣に並んだのはチェシャ猫だ。威嚇と猜疑を含んで、女王様にそんな言葉を投げかける。勿論、女王様はそんなことじゃ動揺なんかしなかったけど。


「どこかの誰かが裏切ったせいで、兵が足りなくてな。それに、《この時》を誰にも邪魔されたくなかったというのもある」


 何でもないふうに言う彼女にジョーカーが軽く肩を竦めた。勘弁してよ、とでも言いたげだ。


「裏切ったって人聞き悪いな、女王様。僕は僕の道を選んだだけだよ、あ、でも一応今まで養ってくれてアリガトね」

「ふふっ、本当にとんでもない奴だな。十数年の恩義は『アリガト』で終いか?」

「って言われてもねー、僕も割と女王様のために働いたでしょ? それに僕、こう見えて年下の方が好みだからさ」

「それは初耳だな」


 世間話でもするような様子の女王様には、今のところ心を乱す気配はない。それどころか赤を引いた唇は絶えず笑みが浮かんでいる。

 ……機嫌がいい、んだろうか。

 滅亡寸前。最後の悪足掻き、と彼女も分かっているはずなのに、あえて余裕に、気丈に振る舞ってみせている。……それが女王なのか、それとも何か策があるのか。私には分からなかったが。


「まあ、ジョーカー、お前が裏切ることもある意味想定の範囲だったからな。別に構わんよ、どちらにしろどうせ滅びる」

「……?」


 その言葉を聞いて眉をひそめたのは、ジョーカーだけじゃない。私もチェシャ猫も、もちろんメアリやグリフォンだって。想定の範囲内? どちらにしろ、どうせ滅びる? 一体どういう意味だ、それは。

 でも、女王様はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに、すぐに話題をがらりと変える。


「ああ、そうだ、せっかく呼んだ客人にいつまでも立っていてもらうのもなんだな。――と言っても、ここにこれ以外の椅子はないんだが」

「椅子は別にいいけどさ。……白兎は? ここにまだ来てないの?」

「白兎?」


 彼女にしては珍しい、きょとんとした表情。……まさか、本当に来ていないの? だとしたら、ハク君は……。焦る私に、しかし女王様は。


「――ああ、そうそう、来たな。さっき」


 ハク君、やっぱり先に来たんだ!

 慌てて身を乗り出して、私は早口に尋ねる。


「じゃあ、彼は今どこにっ――」

「そう焦るな、ありす。……そうだな、まあ、でも……離れ離れは可哀想か」


 言って、女王様は再び考え込むような仕草をする。ふむ、と。……離れ離れは、可哀想。

 その言葉に何故だか、私は嫌なものを感じた。“可哀想”? いったい、どういう意図で。

 冷や汗が背中を伝うと同時に、チェシャ猫も私を庇うようにして前に出る。……でも。


「どうせ最後だ。お前たちも、一緒のところに送ってやろう」


 でも、それはもう既に遅かった。

 彼女は無邪気な微笑みを咲かせ、私たちを見る。

 それはその瞬間のことだった。

 女王様が言ってすぐに、その白くなめらかな腕を突き出した途端――


 左足が、また、沈んだ。


「なっ――!?」

「ああ、でも皆一緒のところに送れる保証はないな。一人二人くらいは一緒になれるかもしれんが」


 びきり、と足元で嫌な音。本日何回目だろうか、反射的に衝撃に構えようとする私の身体。……残念ながら、見下ろすのは怖いから視線は女王様に固定したままだが。それでも、足元で何が起こっているかくらい容易に想像がつく。


 ――やっぱり、あの時床が崩れたのも、階段が壊れていたのも、全ては彼女の意思だったのだ。


 だけど今さらそれが分かったところでどうしようもない。そんな能力があってたまるかとは思っても、現実にそれは存在するわけで。

 抗いようもなく、抗える理由もなく、足が亀裂に嵌っていく。


「きゃっ――」

「メアリ!」


 突然斜め後ろでメアリの小さな悲鳴がして、私は驚いて振り返った。……それが、いけなかったんだろうか。

 途端、岩を削るような轟音があたりに鳴り響き、大きな亀裂が耐えられなくなったかのようにフロアが粉々に砕けた。――ちょっと待って、嘘でしょこんなの!

 足元の世界が完全に崩れて、女王様の貼り付けたような笑みを見つめたまま、私たちは再びなす術もなく暗闇の底へと落ちていく。


「チェシャ猫っ!」

「ありすっ!」


 『離さないで』と、約束した。

 ――伸ばした手は、届かないまま。











(ルーシャの、嘘つき)

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