第89話 ひとつの傷
濃い硝煙が上がる。
拳銃が、ゆっくりとすべり落ちる。
そして、それは乾いた音を立てて、床を打った。
崩れることなく留まっていた天井に、ひとつの弾痕を残して。
「……全くさあ」
ひとりの声が、くゆる煙をかき消した。
――その声を発しているのは、私でも、ジョーカーでもない。
「人を殺そうとした上に、俺への謝罪は何もなく自殺しようとするってどういうわけ」
それは、私が聞きたかった声だった。
聞きたいと思っていた声だった。
それが今、驚愕の表情を浮かべるジョーカーの後ろに、立っているのだ。
私と同じ黒髪に目に痛い色の三角耳、それに、夜空を映したような瞳。
「――チェシャ猫っ!」
言葉にした途端、立ち尽くしたままではいらなくなって、弾かれたように私は駆け出す。
チェシャ猫。
彼はどう見たってようやく立っているって様子で、ふらふらで、呼吸も浅かったけど、でもそんなことを考慮するような余裕は私には残されていなかった。
チェシャ猫。
ただ、ただ、そこに立っていたのだ。
「チェシャ猫!」
「二度も呼ばれなくても聞こえてるって……っと」
明らかな満身創痍。軽い口調で言いながら、それでも、抱きついた私を無下に扱うことなく抱きとめてくれる。
よかった。
無事だった。それだけで、それだけがもう、何物にも代えがたいことだった。よかった。本当に、よかった。何かを言おうとして、でも何も言えなくて、ただ私は抱きしめる力を強くする。……そして。
「……猫、何で」
「何でっていうのは何。俺が生きてたこと? それとも、銃口を逸らしたことを言ってる?」
そして、残されたジョーカーは呆然とした様子で呟く。――そう。
彼は、死ねなかったのだ。
……いや、そう言うと死ぬことを肯定するような言い方になるけど。そうじゃなくて、彼はたしかに死のうとした――けれど、それをチェシャ猫によって阻まれたのだ。
とっさに銃口を逸らされ、銃弾はジョーカーの頭ではなく天井を撃ち抜いた。その証拠に、彼の真上にあたる場所には小さな亀裂が入っている。天井の崩れた部分に比べれば、それは微々たるものなのだけれど。
「いや……まさかあれで死んだとは思ってなかったけど、何で」
「後者ってこと? 大体ね、それ俺の銃じゃん。人の銃で勝手に自殺するのはやめてほしいな。弾数減らされるのも勘弁」
チェシャ猫は私を抱きとめたまま自分の銃をつまんで拾い上げ、腰のベルトにしまい直す。それを見てため息をついたジョーカーは、さらに質問を重ねた。
「……一体、いつから起きてたのさ?」
「ありすが撃った時から。銃なんか撃たれたら起きるに決まってるでしょ、うるさいんだから」
……え、そんな前から? じゃあ、その後の会話は全部聞かれてたっていうのか。
嘘だと見上げると嘘じゃないよ、と肩を竦めて言われた。
「あんたがありすを吹っ飛ばした時、ありすがあんたを慰めてる時、いつ殴り飛ばしてやろうかってずっと考えてたよ」
「…………」
「しかも散々慰めてもらった上に、結局死のうとするしね。自分が死ぬことで何か罪滅ぼしになるとでも思ってた? あんたが死んだ後も、この世界は続いていくのに」
ジョーカーにきつい言葉を投げつけ続けるチェシャ猫。――待って、そんなに言わないであげて。
彼だって混乱していたと思うのだ。辛くて、どうしようもなくて、申し訳ないと思ったはずなのだ。
「あの、チェシャ猫」
「ありすは口を挟まないで。……ありすは簡単に絆されるんだから。こいつは結局、快楽殺人者なんだよ?」
厳しい口調で言い切られ、私は思わず口を噤む。……でも。
そりゃあ、目の前にいるのは残虐非道な行為を繰り返した人殺しかもしれない。かもしれない、ではなくそうなのだ。
でもね。それでも、一人の人間なんだよ。
絆される、というか。神経がどうかしてると思われるかもしれない。それを構わないとは思えないけど……こんな世界にいるせいなのかもしれないけど。目の前で人を殺しているところを見ていないから、なのかもしれないんだけど。
「被害者、なんだよ」
思わず呟いていた。縋るようにも聞こえたかもしれない、チェシャ猫は私を見下ろして何とも言えない表情をしていた。
「それでも被害者なの。アリスっていう呪いに囚われた犠牲者」
彼も、と。
――この国の住人は、大方そうなんだろう。
狂っていく歯車。逆さに回される発条。アリスによって。
そしてそのアリス自身も、その呪いの犠牲者なのだ。
誰を責めたらいいかなんて、決められない。
「……何でそういうとこだけ優しいかな、ありすは」
頭の上で嘆息するチェシャ猫。……何だ、それはどういう意味だ。
むきになって反論する前に、チェシャ猫はジョーカーに向き直る。
「この子のそういう科白を聞いても、あんたの良心は痛まないわけ? 死ぬことは償いになる? むしろただの逃げなんじゃないかって思わない?」
「…………」
「それとも、あんたは逃げ場を求めてたの? ありすに」
元の仮面をかぶってしまった無表情のジョーカーに、チェシャ猫はためらいなく叩きつける。
「だったら、何も変わらないだろ」
チェシャ猫はさらに語気を強めた。さすがにジョーカーも少し頭に来たらしい、チェシャ猫をきっと睨み返すと結んでいた唇を開く。
「お前に何が分かるんだよ、猫」
「あんたのことなんてよく知らないし知りたくもないけどさ、でも自分勝手だ。《アリス》を逃げ場に使うんなら、あんたの父親と同じでしょ」
「――っ、違う!」
ジョーカーが声を荒げ、飛びかかろうとしたのか体勢をわずかに低くする。でもチェシャ猫はそれに構えることもなく、ただそれをじっとアメジスト色の瞳で見つめていた。一瞬のぶれもなく、まっすぐに。
浮かんだ色は、何とたとえればいいのか。挑発、というのがおそらく一番ふさわしい表現で。……だから。
「ふざけんな……お前も、殺してやるっ!」
自身の鉈を拾い上げて、ジョーカーがこっちに向かって走り出す。――殺される。そう、慄いた時だった。
「ごめん、ありす。ちょっと離れてて」
「えっ……」
怖くて目をつむった瞬間、とんと背中を押され、黒い革のソファーに倒れ込む。
柔らかかったから痛くはなかったけれど、まさか、と焦燥に押されて私はすぐに振り向いた。
「チェシャ猫!」
鉈を振りかぶるジョーカー、避けようともせずに立ち尽くすチェシャ猫。
――何で、いったい、何を考えてるの!?
今度こそ、と私は思った。間に合わない。何もできない。時間がゆっくりになっていく感覚がまた私を襲う。だけどもどかしいくらいに私の動作は遅く、緩慢な時間の流れにさえ追い付けない。
鈍くきらめく鉈の刃がチェシャ猫の首を刈り落とそうと速度を速めて、私は手を伸ばすことすらできずに、
「――やめてよ馬鹿、あんた殺したくないんじゃなかったの!?」
――叫んでいた。
ものすごい速さで振り下ろされようとしていたはずの鉈は、しかしチェシャ猫の頭ぎりぎりのところで止められる。
見れば、鉈の向こう、わずかに見開かれた薄茶の瞳が視界の端に私をとらえて困惑の色を映し出していた。……まさか、私が叫ぶなんて思ってもなかったんだろう。
「あ、りす……?」
「自分で言ったんでしょ! 殺したくないって! 何考えてんのよ!」
でも、さっきの叫びだけじゃ私の気はとても収まらなかった。
間抜けな体勢で突っ伏していたソファーから起き上がって、私はずかずかとジョーカーの前まで歩いていく。さっきまでの恐怖が引っ込んだ代わりに、腹の底からふつふつと怒りが沸いてきていた。それこそ煮え滾った油のように。そうしてジョーカーの前に立つと、私は彼が握ったままの鉈をびしりと指差す。
「鉈! 捨てる! そこに直れ!」
「えっ、え、あの、ありす」
「つべこべ言わずにとっととそこに直んなさい!」
「は、はい!」
何故か敬語になるジョーカー。後ろではチェシャ猫が苦笑を漏らしていた。さっきまで鉈を突き付けられていたというのに、まるで緊張感がない。……それは私もか。
「あんた、自分が今何しようとしたか分かってる!?」
「え、あの――」
「あのじゃない! 返事はイエスかノー!」
「はいっ!?」
見事に声が裏返っている。……結局それはイエスなんだろうか。イエスととっていいんだろうか。とっていいのよね?
「馬鹿! なら何でそんなことしたのよ、自分で殺したくないって言っときながら! さっきのは嘘だったわけ!?」
「え……あの、いや……」
圧倒されて困り果てるジョーカーは、やっぱり年下の男の子にしか見えなかった。だけど容赦する気もなくて、私はさらに捲し立てる。
だって、だって、そんなの許せないじゃないの!
「違うなら何よ! 殺したくないなら殺すな! 殺したくもないのに何で、っ、何で、そんなこと……っ」
けれど、そうやってなじっているうちに、私はどうしても我慢できなくなった。……何をって。
「これ以上っ……殺そうと、しないでよ……」
前を向いていられない。何故だか滲み出した涙が、こぼれそうだ。
そんな無様なところを見られたくなくて、私はジョーカーの胸に拳を当てたまま顔を伏せた。
――何でだ。何でなんだ。
こんなに涙脆かったっけか私、いや違う、論点はそんなところじゃない。……何で、そんなことしようとするんだ。分からない。殺したくないのに、何で殺そうとするの。何があなたに、そんなひどいことをさせるの?
「……だからありす、何でそういうとこだけ優しいのかなあ」
狼狽して何も言わないジョーカーの代わりに、後ろでチェシャ猫がため息をこぼした。
うるさいな。潤んだままの目でキッとチェシャ猫を睨むと、私はジョーカーの隣を指差した。
「いいから、チェシャ猫もそこ直んなさいよ」
「え。俺も?」
「当たり前でしょ。あんたが挑発したんじゃない、この子を」
責任はチェシャ猫にもある、と私が断言すると、やれやれとばかりにチェシャ猫は肩を竦める。……やれやれじゃないのよ。自分が何をしたか分かってるのか。今だって、満身創痍のくせに。
「……もう、死ぬかと思ったんだから」
「あれ。心配してくれた?」
「っ、当たり前じゃないの」
からかうような口調で笑むチェシャ猫に対し、私は笑えなかった。……笑えるわけないでしょうが。あんたに向かってジョーカーが鉈を振りかぶった瞬間の私の気持ち、少しは考えなさい。
怖かったんだから。
あんたが死ぬかと思ったら、私は怖い。
「何でこの国の人たちって、そういうこと、するの……」
今度こそ大声で思いっ切り叱咤してやろうと思った。思ったのに、何とかせき止めていた涙があふれ出てきて、――どうしようもなかった。今度こそ堪え切れず、私は両手で顔を覆う。続いて口から漏れ出す嗚咽。
「ちょ、ちょっとありす」
「え、ありす……?」
手の平の向こうからは、困惑する声が聞こえた。……怒るよりも、こっちの方が二人を動揺させたらしい。
だけど、一体どうしろって言うんだろう。あふれてくる涙を止める方法があるなら教えてほしいくらいだ。言いたい言葉が喉につっかえて、何も言えやしない。……この二人に言ってやりたいことがたくさんあるのに。
「何、も分かってない、じゃないの」
何でわざわざ殺し合うような真似をするんだろう。――死にたくない、し、殺したくないはずなのに。
なのに殺し合うなんて、ただの馬鹿じゃないの。
「……あー、分かったよごめん、ありす。俺が悪かった」
手の平の向こう側でのため息。あまりに気持ちのこもらない謝罪に、腹が立ってつい拳を振り上げる。
「っ、嘘、ばっかり! 何が分かってるのよ!」
「わっ、ちょっ、殴んないでよ! 泣きながら殴るのはなしでしょ!」
「ありよ馬鹿! さっき勝手に死のうとしたくせに!」
「いや、別に死のうとは――だから殴るのやめてって! ありすってばほんっと暴力的なんだから!」
「うるさい!」
手をぶんぶんと振り回すと、チェシャ猫が小さく悲鳴を上げた。何よ、鉈を突き付けられても声一つ上げなかったくせに!
「だからありす、俺は別に死のうとなんてしてないって!」
「嘘つかないでよ! じゃあ、何でさっき――」
「だーかーらーさー。聞いてってばありす」
頬を挟まれ、「にぎゅっ」私はつまる。……変な声が出たじゃないか。
大体、さっきの行動が自殺行為じゃなかったら何だと言うんだ。涙目のままじとーっと睨むと、チェシャ猫は長いため息をついた。
「そいつには、俺は殺せないよ」
そいつ。言われて私は、ジョーカーを見た。
今の会話でそいつと形容される人は、ここには勿論ジョーカーしかいない。……殺せない?
どうしてそんなことが断言できるんだろうか。だって、殺されかけたじゃないの。今まさに。
「ジョーカーに、《チェシャ猫》は殺せないんだ」
チェシャ猫はまっすぐにジョーカーを見据えていた。ジョーカーは、反論しようともしない。唇を引き結んだまま、ただ床に視線を落としていた。
「……それって、どういう意味?」
「ありすもこいつから聞いたでしょ? こいつは兵の命なんてどうとも思ってない。だからためらいなく殺せるんだよ」
……それは。
そうなのかもしれない。だから、殺したくないと言いながらも手に掛けることができるのかも。それはまるで、おもちゃを壊すように。
「そして、それは自分すら同じだ。こいつにとって自分も《ジョーカー》という名の兵でしかない」
「……ジョーカー」
「…………」
呼んでみても、ジョーカーは顔を上げようとしない。目も合わせてはくれない。彼が何を考えて今俯いているのかも、私には分からなかった。
あなたは、自分すらもどうでもいいって、そう思ってるの?
「《ジョーカー》ってのはまあ、役なしよりはずっと偉い立場にいるからね。普通のトランプ兵を殺す分には問題ないんだ。でも」
「……でも?」
「《チェシャ猫》は、殺せない」
チェシャ猫は高らかに、まるでなにものかに宣言するように断言した。
殺せない。
ジョーカーは――チェシャ猫を。
それは、実力的な話ではなく。……もっと、根本的な、心理的なもの。
「この国の最高権力である女王様の命令があれば別だろうけど、そいつにとってはその役が一番大切なものだから、《ジョーカー》よりも上にいる《チェシャ猫》は殺せないんだよ」
気が付けば、ジョーカーは血管が浮き出るほど強く拳を握りしめていた。
役が、一番大切だから。……それしか持っていないから。
だから、殺せないと言うのか。
さっきのもただの威嚇で、本当は殺せなかったってこと?
――チェシャ猫が無事だったのは、もちろん嬉しいことだけど。
「……ほんと?」
「…………」
ジョーカー本人はうんともすんとも言わず、ただ気まずげに目を逸らすだけ。
でも、否定できないってことは、そういうことなのかもしれない。
……かわいそうに。
私はそう思った。もう何度も抱いた感想だけど、同情なんてされたくなくても。
お父さんを失った日から、その手で葬った日から、それ以外にはもうなにも持つことを知らないのか。その上辺だけの名に、縋りついているのか。
「だからそいつは――って、ちょっとありす」
チェシャ猫が続けようとした言葉は無視して、私はジョーカーの前に立つ。
やっぱりほら、私よりもずっと小さい背中。ぎゅっと縮まった肩。……全然小さいじゃないの。
ごめんね、チェシャ猫。でも、その先に続くんだろう警告は、残念だけど聞けないよ。
「つらかったんだね」
ぎゅーっと、小さい子をあやすみたいに抱きしめる。
もちろん実際は私よりでっかいんだけど……大丈夫だよって、安心させるように。
本日初対面ながら、抱きしめるのは二度目だ。でも、今度はね、さっきよりももっとあなたのことを知ってるから。
こぼれないように、抱きしめてあげられるかもしれない。
「でも、ひとりじゃないから。……死んだら駄目だよ」
何も知らない《ジョーカー》っていう存在から、私とあなたの関係に。
あなたを知ることで、少しでも近付けたらいい。
貼り付けた仮面の笑みのあなたがどんな人でも、その隙間から寂しさがのぞいたのなら。
私が、あなたの友人になってあげられる。
「……っ……」
ジョーカーが、今度は私の背中に手を回した。
そしてきつく抱きしめてくる。……そこにある温もりを確かめるように。――ほら、まるで弟だ。
「……ちょっと、かなりジェラシーなんですけど」
すると、後ろからため息。不貞腐れた声が聞こえた。私は思わず苦笑をこぼす。
「さっきから俺、なんか悪役みたいじゃん。ひどくない?」
「別にチェシャ猫のことを悪く言ってるわけじゃないわよ」
「ジョーカーばっかりずるい。俺だって頑張ったじゃん」
……まあ、手のかかる子の多いこと。別に他意があるわけじゃないんだけど。
一気に二人の弟ができたみたいだ。仕方ないからなでてやるかとチェシャ猫の方に手を伸ばそうとしたのだけれど、
「…………」
「うっ!?」
ジョーカーがそれを阻止するように腕の力を強める。……あの。痛いんですが。
「ちょっとジョーカー、どういうつもり」
「…………」
「……何、あんたも?」
無言のジョーカーに、チェシャ猫はさらに語気を強める。何故そこで敵対意識なんだ。というか『あんたも』ってどういうことだろうか。
「絶対ありすとか競争率低いと思ってたのに。グリフォンもそうだけど、どんな物好きさ」
「……は、ちょっと待ってチェシャ猫、今聞き捨てならない科白が」
「……別に猫には関係ないでしょ。女の子は顔じゃないんだよ」
「お前もかジョーカー!!」
今、私ものっすごく失礼な言葉を聞いたぞ! 女の子は顔じゃないって! それはつまり私の顔が相当悲惨だってことだろ馬鹿野郎! 腹が立ちすぎて普段は一個しか使わないエクスクラメーションマークを二個も使ってしまったわ!
「ありす返して」
「猫のものじゃないじゃん」
「離せよ」
「いやだ」
しかし、間に挟んだ私のことなど二人はどうだっていいらしい。お互いに私を引っ張り始めて――え、何で?
私の言葉は無視なのに引っ張り合うのは私なのか。そんなに引っ張り合いをしたいなら綱でも引っ張ればよろしいだろうに。って痛いし!
「痛い痛い痛いっつーの! どっちも離せ!」
「やっぱり僕、あんたのこと嫌いだよ」
「へえ、奇遇だねジョーカー。俺もだよ」
「って人の話を聞け!」
二人の絡んだ目線には熱情……ではなく、敵意が宿る。下手したら火花でも飛びそうだ。
なのに、何で私はのけ者なの!? いや、会話に入れてほしいわけではないですが、腕を引っ張られてるのに話は無視ってどういうことだ! 殺し合いにならない程度にケンカするのは構わないけど、まず私を離してほしいんですが!
まずは密着しているジョーカーを剥がそうと苦戦するけれど、いくら暴れてもジョーカーは離れる様子がない。……小柄とはいえ、さすがにいい年をした青年なのだ。困り果てて動きを止めた私に助け舟を出したのは、声音をあらためたチェシャ猫だった。
「ねえジョーカー、それよりそろそろ本当にありすを離してよ。……もう行かなきゃ」
「…………」
「……いい加減覚悟を決めなよ。役に縋りつくのはもうやめたいんだろ? それとも、一生弱虫でいたいの?」
「っ、違う」
チェシャ猫を見上げて睨むジョーカー。でもやっぱり、チェシャ猫の方が上手に見える。
「だったら、分かるでしょ? ありすを離して。俺たちは行かなきゃいけないんだ、女王のところに」
「…………」
チェシャ猫がそこまで言うと、あきらめたようにジョーカーの腕がゆるめられる。名残惜しげに離れていく目が、まだ一抹の不安を残していた。
……なんかなあ。こういう風に離されると、またぎゅーってしてあげたくなっちゃうんですが。いかん、なんかこんなところで母性が発揮されてる。
「……うん、分かってる。女王陛下のところなら、急いだ方がいいよ」
「そう言うなら早くありすを離してほしかったな?」
「……。白兎には、何もしてないから。逃げられちゃった。今頃女王のところについてるかも」
言ってジョーカーは背を向けて離れていく。ハク君はもう先に行ったのか――だとしたら、なおさら急がなきゃ。
「じゃあ、僕はこれで――」
「待ってよ。ジョーカー、どこ行くのさ」
かたい声で告げてどこかへ立ち去ろうとしたジョーカーを、しかしチェシャ猫は引き止めた。
びくりと背中がひとつ震え、扉の方へと向かっていた足が止まる。振り返りはしなかったけれど。
「……どこ、って」
「変わりたいんでしょ? なら、一緒に来てよ。あんたのせいで大分時間ロスしたんだから」
ジョーカーは何も言わない。……何も言わず、ただ立ち尽くしている。
――何だかんだ言って、チェシャ猫は優しい。口調こそ叩き付けるようだけど。私がにんまり笑って見上げると、チェシャ猫はものすごく変な顔をした。何よ、照れなくてもいいのに。
「……猫」
「何さ」
「……いいの?」
声が震えていた。頑張って堪えているような声だった。
「だって、僕――いっぱい、殺したのに」
……背中が、小さい。また泣いているのかと思うくらいに。
でも、チェシャ猫は厳しい口調で言い放つ。
「それは事実だしね、他の人に受け入れられるかどうかは知らないよ。……でも、変わりたいんだったら、戦うしかないでしょ。逃げ道なんてないんだから」
「――」
だけど、それは決して突き放す言葉じゃないんだろう。
『ひとりじゃないよ』。
結局、同じことが言いたいのだ。チェシャ猫は、ジョーカーにその道を示したんだから。
「……ジョーカー。私たちと一緒に行きましょ?」
女王のところまで、もし叶うならその先の未来までも。
一緒に歩んでいける世界が作れたなら、それは幸せなことだ。
私は手を差し出し、振り返るジョーカーに微笑む。――隣に並んだ、チェシャ猫も何だかんだ笑っていた。
「選択権はあんたにあるけどさ。あんたの未来はあんたしか作れないんだから、つらくても、生きていくしかないだろ」
「……僕」
ジョーカーはくしゃりと顔を歪める。
そして、その唇で、たしかに言った。
「僕、一緒に生きたいよ」
その身に降りかかった呪いを振り払うように、ジョーカーは手を伸ばす。
そして、その震える指が私の手に触れて、二度と離れないとばかりに力強く握りしめた。
私の傲慢なのかもしれない。だけど、どうか言わせてほしい。
傷ついても大丈夫だよって。
一人じゃない、きっと私がいるよって。
ジョーカー編終了←
なんだかやっつけになってしまって申し訳ない。1話で終わるのも何だかなーと思って入れましたが、前回とほぼかぶりっていう……。
とりあえずチェシャ猫は生きてました。生きてます。