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第88話 歪み

お待たせいたしました。

今回から完結まで、基本一日一回ペースで更新していく予定です。

よろしければお付き合いください。

「痛っ……!」


 容赦なく瓦礫の山に打ちつけられ、私は苦悶に身をよじらせる。

 痛い。痛いってレベルじゃ済まないくらいに痛い。まさかこんな短時間で二回も全身を打ちつけるなんて。いくら二回目とはいえ痛みには慣れるもんじゃないらしく、あふれた涙で視界がぼやけた。これはもう生理的な反応だからどうしようもないと、痛みと涙とがある程度収まるまで待つ。

 落ちたそこは、客室の一つみたいだった。もともとは天井だったものにつぶされ、砂塵が舞い、品のある家具なんかもめちゃくちゃだし台無しだけど。明かりはついていなかったのかそれともさっきの衝撃で壊れてしまったのか、部屋の中はうす暗い。


「いったあ……まさか床が抜けるなんて予想外だったな。お城なんだから多少派手にやってもいいと思ってたんだけどー」


 痛みで動けない私よりずっと早く立ち直ったのは、ジョーカーだった。自身の後頭部をさすりながらも、その口調は軽々しい。……まるで、私と同じところから落ちてきたとは思えないくらいに。


「地盤沈下かな。お城なのにさ。女王陛下に相談しなきゃかなー、まあそれは後ででいっか」


 ぶつくさと呟きながらもジョーカーはひょこひょこと歩いてこっちへやってくる。

 一方、私は全身が痺れて動けないまま。変なところをぶつけたのかもしれない。それに……、チェシャ猫は? どうなったんだろう。意識がなかったなら、受け身もとれていないはず……。

 どうにかして探さなきゃ。少なくとも、ジョーカーより先に見つけなきゃいけない。言うことを聞かない身体をどうにか奮い立たせ、私はやっとのことで瓦礫の山から這いずり出した。

 そうして見回したその部屋は、思ったよりも広かった。どうやら隣り合う部屋の壁が取り払われて続き部屋になっているみたいだ。チェシャ猫は一体どこに落ちたんだろう……、そんなに遠くにはいなかったはずなのに。


「それよりねー、ありす。僕の話も聞かないで、一体どこ行くつもりさ?」


 後ろから急に声をかけられ、びくんと肩が跳ねる。……気付かれていた、らしい。当たり前か。

 怯んじゃ駄目だ。そう思っていても本能的な恐怖が働いて、おそるおそる後ろを振り返ってしまった。一見無邪気そうな笑みを浮かべている青年は、それでも不気味な光沢を放つ鉈を担いだままだ。


「今度こそ逃がさないよ? 逃がしたら僕がお叱り受けるんだからね、もー。大人しくしてよ」


 窘めるようなことを言いながらも、その顔には喜色が滲んでいる。……楽しそうだ。何が楽しいかなんて、聞きたくもないけど。

 視線はジョーカーから外さないまま、私は後ろ手に瓦礫の山の頂上まで登っていく。ゆっくり、ゆっくりと。ジョーカーも、分かっているんだろうけど止めようとはしない……逃げられないとは分かっているからか。たしかに、一人でこいつから逃げられるほど私の運動能力は卓越していない。むしろ私の能力は平均以下なのだ。――それに、私には、意識を失ったままのチェシャ猫を置いていくことなんてできない。


「……なにが、目的なの」


 私は呟いた。声はかすれていた、でもジョーカーの耳にはちゃんと届いたようだ。

 彼はきょとんとして、


「なにって。……それはまあ、女王様に聞いてもらった方が早いと思うけどね」


 悪意なく言う。


「僕らはアリスが欲しいだけだ。それ以外には目的も、理由もないよ」


 けれど、私はその言葉に――心底、嫌悪した。

 肩が勝手に震える。それ以外には目的も理由もない、って?

 顔をしかめて、さらに私は尋ねる。


「……そのためなら、手段も選ばないわけ?」

「うーん。まあ、そうかな」

「誰が傷ついても?」

「うん」

「誰が……死んでも」


 押し殺した声で吐き出しても、ジョーカーは相変わらず平然としたまま答える。


「僕らは所詮替えが利く存在だ。誰がいなくなっても構わないんじゃない?」


 ――それは自分すらも、なの?

 思わず呑み込んだ言葉。思わず、出かかった言葉。もしそうなのだとしたら、もはや嫌悪どころか同情すら覚えられるかもしれない。

 自分すらも駒なのか。《アリス》という存在に捧げるだけの駒に過ぎないって言うのか。……そう、言い切れるのか。

 だとしたら、なんて悲しいことなんだろうか。


「そんなにまでして……、アリスは、あなたたちに何をくれるわけ?」


 最初は威嚇に過ぎなかった言葉が、今は純粋な疑問に変わっていた。

 そこまでして、アリスに何を求めるのか。

 私には分からない。運命。そんなものを感じたところで、アリスは振り向いてくれるのか。くれたのか? くれないから奪い合うんじゃないのか。

 それで、そこまでして、あなたたちは一体何を得られるっていうの。


「それは、人それぞれじゃないの」


 ジョーカーが、踏み出した。瓦礫の山が、私の手の平の下で音を立てる。

 ――崩れる?

 本日三度目の衝撃を予期して、私は思わず手を浮かせた。

 でも、それらが崩れ落ちることはなく、ただ欠けた天井の残骸の欠片が転がり落ちて……暗い床で、カツンと音を立てる。

 それを思わず目で追って、私は目を見開いた。


 チェシャ猫が、いる!


 積み重なった瓦礫の下、落ちた拍子に転がり落ちていったのかもしれない。窓の近くに、黒い革のソファーの陰に隠れるようにしてチェシャ猫が倒れている。

 ジョーカーのことなんてまるで忘れたように、私は瓦礫の山を転がり落ちるように下りていった。チェシャ猫。彼は、暗い床に横たわったまま動かないけれど。チェシャ猫! 焦燥と安堵に背中を押されて、私は五秒足らずでそこまで辿り着いた。


「チェシャ猫!」


 返事はない。……ぴくりともしなかった。

 眠っているように閉ざされた瞼。顔は、抜けたように白い。……そんな、まさか。

 思わずその頬に触れようとして――いや、したけれど、それは背後からの声で阻まれる。


「逆に聞くけどさー、それはありすに何をくれるのさ?」


 反射的に、チェシャ猫を庇うようにして私は振り向く。

 ジョーカーが、鋲の音を立てながらこっちへとやってきていた。

 今度は悪意を含んだ声。……そう、聞こえる。後ろにチェシャ猫を庇っているからか。


「そんなに一生懸命守って。……何なの、それ? 同情?」

「……、違うわよ。そんなんじゃない」

「ふーん? 違うなら、何。恋とかゆー下らない感情なわけ? どうにも理解できないなあ」


 鉈を片手で引きずったまま、ジョーカーはどんどん迫ってきていた。

 でも、私はもうこれ以上下がれない。……チェシャ猫がいる。置いて逃げることは、私にはできない。たとえ、私が――。


「大切な人なの。ゆずれないから」


 ここは絶対、通せない。


「……つまんね」


 ジョーカーは憎々しげに吐き捨てた。つまらない? 上等だ。こっちだってあんたに理解してもらおうと思って言ってるわけでもない。

 でも、約束なの。約束したの。“絶対、何があっても俺から離れないで”。それは私がチェシャ猫に対して立てた約束も同義。……絶対、離れるものか。置いていったりしない。


「異端のアリスっていうからどんなのかと思ったけど、結局そーゆーのにしばられちゃうんだ。……それで死ぬんだよ、ねえ、分かってるの?」

「っ……」


 底冷えする冷たい目が向けられる。お菓子みたいな甘い色が、今は突き刺さる刃のようだ。

 それを見ていると、何もかも忘れて逃げ出したくなる。謝って済むならそうしたいって思ってしまいそうになる……、でも。


「殺されない」


 怯む自分を叱咤して、私は声を張り上げた。


「あなたには殺されない。死んでなんか、やらないから」


 私はチェシャ猫を置いていかない。絶対に守る。

 それに……、もう一つの誓いも、絶対に破ったりしない。

 死なない。死んでチェシャ猫を悲しませたりはしない。生きて帰ると、私は決めた。


「……わがままだねー。何それ。全部手に入ると思ってる? ムカつくんですけど」


 ジョーカーに背負われた鉈が、ゆっくりと抜き放たれる。

 怖い。――怖いわよ畜生。刃物なんて、包丁だって怖いわ! こっちは戦い方のたの字も知らない一般市民なんですけど、まあ遠慮もへったくれもあったもんじゃない。

 でも、だからと言って易々と死んでやるわけにはいかないのだ。

 少しだけ振り返ってチェシャ猫の腰のベルトを少し拝借。手に冷たい重量を覚えて……、私は、それを抜き取った。――無機質な光を放つ、回転型拳銃リボルバー

 それを両手で目の前に向けて構えると、ジョーカーはすっと目を細めた。


「……まさか、それで僕と戦う気?」


 そんなわけあるか馬鹿野郎。こちとら銃の使い方も知らない素人ですよ、見よう見まねで安全装置をようやく外せるくらいの。言わずとも、頬をひと筋の汗が伝っていく。


「近付かないで。撃つから」


 それだけようやくひねり出す。……強がりだなんていうのは、相手にも伝わったに違いない。

 トリガーにかけると、途端に震え出す指。銃口が火を噴く瞬間が怖くて堪らない。指を引けば、弾が出る。……当たり前だ。


「やめといたら? 震えてるよ」

「……んなの、分かってるわよ」


 余計なお世話だ。それでも構えなきゃいけないのだ。この緊迫を、維持しなければならない。

 撃つか、死ぬか。……たとえ、撃つことが死ぬのと同義でも。ひたすらに目の前の死神を見据え、私はその時を決断するしかない。怖いだとかできないだとか言ってる場合ではない、根性だって気合いだってやり切らなきゃいけないのだ。


「無謀だよ、やめときなって。君が撃たなきゃ僕は君を殺せないし。傷付けることもできない、女王陛下のめーれーだから」


 ジョーカーの声音がふいに優しくなる。でも、その言葉に私は、むしろ怒りさえ覚えた。……何よ、そんなこと。

 沸き立つ気持ちとは逆に、手の震えはゆっくりと収まっていく。ひとつ深く息を吸って、私は言ってやった。


「無謀なんて承知だっつってんのよ! お節介はいいからさっさとそこよけなさい、――あんたに構ってる暇はないの!」


 瞬間、手の中の銃が火を噴く。衝撃が指から手首、肩を撃ち抜いた。

 手がじんじんと痺れ、硝煙が上がる銃口の向こうで――。


「……まさか本当に撃つなんてね。当たってたらどーするつもり?」


 ジョーカーは、笑っていた。

 無邪気に、でも不気味に、でもなく――

 ただ、少し、面白そうに。

 その笑顔にはじめて興味の色が浮かび上がる。


 ――外した。


 銃弾は右に逸れ、ずっと向こうの壁を撃ち抜いていた。勿論、はじめて銃を持ったんだから、当たらなくて当然なのかもしれないけど……。痺れる手を未だ真正面に構えたまま、私は唇を噛んだ。


「感謝してよね、ありす。僕が死んでたら多分君は元の世界に帰れなかったよ? 君の世界は殺し合いも何もないつまんない世界なんでしょ。はじめて人を殺すって、どんな感覚か君には分かる?」


 今までの彼のどの声とも違う、淡々とした声。これがジョーカーの素の声なのかもしれない、と思った。

 人を殺すことを好むようなことばかり言ってる、彼の。……はじめての『それ』というのは――いったい、どんなものだったのか。


「はじめて殺した相手の顔は、その後どんなに殺しを繰り返したって忘れられないんだよ」


 冷たい声だった。

 私がその声に異変を感じ取るような暇もなく――私は、紙のように吹き飛ばされる。


「うぐっ……」

「ああ、でも、あれかな……僕は殺されておいた方が君の記憶に残れたのかな? だったら殺されておいた方がよかったのかな、せっかくアリスの記憶に残れるんだったらさ」


 どうやって、とかそんなことを思考してるような時間もない。壁に激突してようやく止まって、ずるずると座り込む。胃の中身が逆流してきそう。

 涙で視界がぼやけて、でも俯いてはいられなかった。

 鉈の刃面が、乱暴に首に押し付けられる。……見上げれば、ジョーカーが無表情のままそこに屈んでいた。


「もう一回聞くよ。何でありすは、そんなに一生懸命になるの?」


 答えを誤れば殺される。そんな場面、なんだろう。

 でも、見つめたその双眸に覚えたのは、恐怖でも怒りでもなくて――


 違和感、だった。


 何も映さないようにすら見えるその目には、でも、隠し切れない感情の色が浮かぶ。

 焦がれ、とでも言えばいいのか。……私はそんなふうに思った。

 だって、じゃなかったら、何でそんなことを聞くの。


「……大切だからだって、言ったでしょ」


 存外、私の喉からは落ち着いた声が出た。目も逸らさない。

 動揺したのはむしろジョーカーの方だった。……死を目の前にして、怯えない私にか。


「何が大切なの? 他人だよ? 所詮出会ってちょっとしか経ってない――他人なんでしょ? ……血がつながった家族だって、どうせ、裏切るのに……」


 捲し立てるように投げかけられる、問い。……それに、小さく呟かれた最後の言葉。

 ――“血のつながった家族だって、どうせ裏切るのに”。

 ふいに私は直感する。ああ、それがおそらく彼を閉ざしてしまった鍵なのだ、と。

 それを拾い上げてあげることが、殺意に囚われた彼を、呪いから解放してあげる方法なんだろう。


「……あなたは」


 そう思ったら、彼ももしかしたら可哀想な人なのかもしれない。

 もちろん……彼のやっていることを肯定することは決してできないけど。

 それでもきっと、彼にも何か辛いことがあってこうなったのだ。あるいはそれが《アリス》に関係あるのかも。

 だったら、私がどうにかしなきゃ。私にできることはそれだけだ。私やチェシャ猫の身を守るためにも、それしかない。私は心を決めてその頬に手を伸ばす。


「どうして、そんなに怯えるの」


 ジョーカーの目が見開かれる。そこにもう、さっきまでの無機質さとか冷たさとかはない。

 ただ、迷子になった子どもみたいに私を見下ろす、仮面の剥がれた青年がいる。


「何……言って」


 ……何でだろうなあ。

 よく、分からないんだけど。

 どんな凶悪な相手でも、どんな恐ろしい人殺しでも、ただひとりの人間になっちゃったら助けてあげたいって思っちゃうじゃない。……甘い、なんて言われなくても分かってる。自覚が足りないのも。でもね。

 未だに握りしめていた拳銃を、私は床に捨てる。カランと乾いた音。……ごめんね、チェシャ猫。勝手に拝借した上勝手に捨てるなんて、私はどうにもひどい人間かもしれない。


「な、何してっ……それ捨てるってこと、分かってるの!? ありす、死にたっ――」


 はっとそこでジョーカーは口を噤む。自分の言っていることを理解したからだろう。

 『死にたいの』?

 それじゃあなたは、殺したくないの? そりゃ女王様の命令は生きたまま連れてこいだろうけど、それじゃ、あなた自身が『殺したくない』って言ってるみたいだ。


「……そんな死にたいなら、止めないけど」


 取り繕われた声音には、それでも動揺が滲んでいる。

 ごめんね。向けられた鉈も、私はもう怖くないの。


 あなたはきっと、私を殺せないんでしょ?


「殺されないわよ、言ったでしょ。……でも」


 でも。


「あなたも、救わなきゃいけないの」


 首に突き付けられた呪縛から逃れることは簡単だった。刃を逸らせば、それは追いかけてこようともしない。

 立ち上がって、目の前で呆然と佇む青年を抱きしめる。……迷いもしなかった。そうしようって、何でかな、思ったの。剥がれ落ちる虚無の下から、寂しさがのぞいたから。


「アリス」


 それは、いつのアリスを呼んだんだろう。前のアリスかな、それともその前のか。それか――彼すら知らないアリスを、記憶もないまま呼んだんだろうか。

 でも、そのアリスはきっと、あなたに何かをくれたんだね。

 だからあなたは、アリスが欲しいんだね?


「殺されないわよ。それに、あなたを殺しもしない。怯えないで」

「……っ」


 抱きしめた肩が震える。どんな表情をしているのかは、私にはもう分からない。

 ただ、私の腕の中で鉈を取り落とした青年が、困惑した声音でぽつりと呟いた。


「何で……」


 ――それが、泣いている、と思ったのは私だけだったろうか。


「……何で、そんなに一生懸命になるの……?」


 三度目の問い。でも、それは今までの二度の問いとは違った。『何で、僕のために』。――少なくとも私にはそう聞こえた。

 本当はね、面倒臭いのよ? 何で私がこんなことしてるんだろって思ったりもするよ。殺してこようとした相手を救おうだなんてそんな偽善的な性格でもなかったはずだし。でもさ。


「救ってあげたいの」


 私は、この国が好きなんだよ。

 好きになっちゃったの。仕方ないじゃない、恋みたいなもんなんだから。

 運命なんて恥ずかしいことは言えないけど、それでも来てよかったって思う。

 私が救えるなら――ただひとりでも救えるのなら、その寂しさを拾い上げて、一緒に抱きしめさせて。


「替えが利く存在なんて、言わないで。私っていうアリスが出会ったのは、あなたっていうジョーカーしかいないんだよ」

「……っ」

「あなたが運命を覚える相手アリスも、みんな同じじゃなかったでしょ?」


 あなたに何かをくれたアリス。裏切ったアリス。……それぞれだと思うの。

 でも、それって当たり前のことでしょ。だって違う人だもん。違う相手に同じものを求めても、返ってくるものが違うのは当然だ。

 きっと、あなたたちがアリスに運命を覚える理由も、一人ひとり違うんだよね。


「……ありす」

「うん」


 彼の過去に、何があったかは分からない。……何があったとして、人を殺すことは私には認容できないことだ。

 だけど、懸命に今に縋りつこうとする彼に手を差し伸べたいと思うのも、おんなじで。


「……死にたくないよ」

「うん」


 まるで小さな少年のようだった。私よりも大きいのに、私の背中に回してぎゅっと抱きしめる腕が、震えている。


「……僕、殺したくないよ……」


 ――それが、きっと彼の本音なんだ。

 殺したくなんかない。震えながら呟く声は小さく、弱々しいけど。

 それでも、何度も、必死になって繰り返している。


「……うん」


 そんな彼の言葉をかき消してしまうほどの存在が――《アリス》がこの世界にたしかにいることを感じながら、私はその髪をしばらくなで続けていた――





 ☆★☆





 ――父親をね、殺したんだ。


 しばらくの沈黙の後、ジョーカーはそう呟いた。

 頬は涙に濡れ、目は真っ赤になっていたけれど、でもその表情はどこかすっきりしている。散々泣いたからだろうか。


「父親は、だらしない人でね。母親と結婚したのはいいけど……その後すぐ、4代前のアリスを好きになった。……まあ、この国の住人がアリスを愛するのは必然だけど、でも、父親は本気だったんだ。それは、たしかに恋だった」


 ――所帯持ちにもかかわらず、アリスに手を出そうとしたんだって。

 床に足を放り、壁によりかかったまま彼はぽつりぽつりと過去のことを話し出す。私は隣で膝を抱え、黙ってそれを聞いていた。


「でもさ、その時にはもう、母親のお腹の中には子どもがいたんだよ。……それがもう、19年も前のこと」

「……それが、ジョーカーだったの?」

「うん、そう。父親は僕の存在が邪魔だった。僕さえいなければ何とでもなると思ってた――母親は、それでも父親を愛してたけど」


 馬鹿だよね。そう言って笑うジョーカーの声は、まだ弱々しい。

 彼の人生を歪め、狂わせてしまうほどの出来事。そう簡単には克服できないのだろう。

 私も複雑な気分になりながら、話の続きに黙って耳を傾ける。


「父親は、生まれたばかりの僕を、そんな下らない理由で殺そうとしたんだ。母親は、僕がいれば父親とのつながりになると思って……守ろうとした。でも、その結果、父親は誤って母親を殺してしまった」

「! お母さんを……」


 くしゃり、と彼の顔が歪む。泣きそうだ、と言えばいいのだろうか。

 ひどい。あまりにもひどすぎる。いくら他に好きな人がいたからって、結婚した相手でしょ? そして殺そうとしたのだって、自分の実の子だ。自分の血を分けた子どもだ、だというのに。


「でもね。結局、アリスは父親のものにはならなかったんだ。母親が死んだ直後――4代前のアリスは、死んだ」

「……え? 死んだ、って……」

「殺されたんだ。当時の白兎と、チェシャ猫との間の争いでね。それこそ僕の母親みたいに、誤って殺されてしまった」


 ひどい。またも同じ言葉を繰り返し、思わず口もとを押さえた。

 そんな私を見て、ジョーカーは弱く笑う。


「そんなもんなんだよ。アリスは大抵、そんな死に方をする。幸せに暮らしたアリスなんて、いないんだ」


 ……。そうね、そうなのかもしれない。でもあんまりだ。

 まるで、最初からそうなることを定められたみたいに――《アリス》と呼ばれた少女までもが。


「勿論、それで僕の父親は自棄を起こしたよ。僕を殺す理由もなくなったけど……生かす理由もなかった。ひたすら安酒を浴びるように呷る日々」

「……あなたは、どうやって暮らしてたの?」

「父親の気を逆撫でしないように、必死に気配を殺してた。食べ物は街で盗んだり、ゴミ箱を漁ったり……街の人にはよく追い回されたから、逃げ足には自信あったかなあ」


 それでも、少年時代を懐古するその目には、温かさもこもっている。

 ……辛くはなかったんだろうか? 父親の愛情も受けられず、それどころかその庇護さえない。その日の生すら自分次第だったというのに……苦しくはなかったんだろうか。

 気になったけれど、彼の回想を邪魔する気にはなれなかった。


「僕、弱虫なんだよ。ほんとは」


 困ったように笑うと、ジョーカーは一気に幼くなる。

 4代前のアリスの頃ってことは、20歳近いはずなのに……弟くらいにも思えてしまうから不思議だ。こう、思わずなでてあげたくなる、っていうか。


「戦うより逃げる方が得意だし、ムカつくって言うより怖いし。……女王陛下もジャックも白兎も、言うこと聞かない自分も怖いよ」


 ジョーカーは自身の膝を引き寄せ、顎を乗せた。――怖い。たしかに、最初に見た彼の面影はもうほとんどないけれど。

 彼も、役にしばられてるのかな。……それとも、彼をしばっているのは彼自身の過去なのか。


「はじめて人を――父を殺したのは、10年前。ちょうど2代前のアリスが来た頃だったかな」


 言って、彼は床に捨て置かれた鉈をちらりと一瞥する。

 はじめて殺した、というのも、鉈でだったんだろうか。もしかすると、だからこそひたすらそんなものを使っているのかもしれない。


「その頃には僕ももう城の兵になっててさ……人を殺したことはなかったけど。それは、女王陛下のめーれーだった。好き勝手やる父は色々邪魔だったんだろうね。父親を殺したらお前も立派な《ジョーカー》だって、そう言われた」

「……それで、お父さんを……?」

「――ううん。……生活は、保障されてた。《ジョーカー》になればお金に困ったりもしないし、好きなように生きられる。……でも、それでも、あの父親は僕の唯一の肉親だった」


 声音に、泣きそうな色が混じる。ふわりと浮かんで、弾けて消えてしまいそうな。

 膝に額をつけて、抱え込んだまま、彼は揺れる声音で言った。


「殺そうとは思わなかった。殺すつもりはなかったんだ。たとえ殺されそうになっても、僕を生んでくれた親なんだから……だから、どこか国の外に逃がしてあげようと思って。それで、殺したことにしようって決めて……だけど」


 くぐもった声でも、たしかに私の耳に届いたのは。


「僕が久々に家に帰って聞いた第一声はね――『誰だ、お前は』だった」

「っ!?」


 私は思わず息を呑んだ。――え、だって、そんな。


「お父さんが……まさか、そんな……!?」


 だって……いくら殺そうとしたとはいえ、一緒に暮らしていた息子なのに。

 自分の血を分けた、息子だっていうのに?


 それを、覚えてもいなかったっていうの?


「父親はもはや、僕のことなんて覚えてなかった。僕なんてどうでもいい存在だったんだ。……もしかしたら、母親のことも覚えてなかったのかもしれない。父親の頭にあったのは、ただ、《アリス》っていうそれだけ」

「……そんな、ひどい……」

「ひどい、のかな。それも分かんないや」


 顔を上げて弱々しく笑うジョーカーには、さっきまでの清々しさはない。

 ……辛そう、だった。

 無理に話さなくてもいいのに――そう言おうかと思ったけど、彼は構わず話を続ける。


「頭が真っ白になって何も言えない僕に対して、父親はただ『アリスはどこだ』としか言わなかった。アリス。アリス。アリス。息子なんてどうでもいい。ただ狂おしいくらい求めていたのは、《アリス》」


 歪んでいる、と思った。

 でも、それがこの国では普通なのかな。そんな風にはあまり思いたくないけど。

 そこまで考えて、ふと私はメアリのことを思い出す。メアリ=アン、アリスによく似た少女。ジョーカーのお父さんがアリスを愛する歪みなら、ジョーカーや彼女は愛されない歪みだ。――アリスなんてものが、いるせいで。

 それなのに、この国の住人であるがゆえに、彼らもまたアリスを愛さざるを得ないんだから。


「――可哀想だなって、思ったの」

「え……可哀想?」

「うん。可哀想だよね。アリスはいないのに。……あの人のものには決してならないのに、それでもアリスを求め続ける父親が可哀想だって僕は思った」


 かわいそう。思わず反芻する。

 それを、この子が言うんだろうか。……子っていうのは変な表現かもしれないけど。

 くしゃりと顔を歪める、その表情はやっぱり幼いように見えた。


「何だろうね……僕、やっぱり冷たい人間なのかもしれないや。――だから、父親を殺したんだ」

「…………」


 再び塞ぐジョーカーに、私は何か言えただろうか。

 父親を殺したことを肯定することはできない。

 でも。でもね。


「……ごめん、ありす。全部言い訳だ」


 すっくと立ち上がり、彼は言う。

 慌てて続いて立ち上がると、ジョーカーは私の方を見ないままに歩き出した。


「絶命した瞬間の父親の顔を忘れようと、僕はそのあと狂ったように殺し続けた。でも命を奪ったことに変わりはないし、それに僕は受け入れた。人を殺すっていうその行為を」


 どこへ行くのだろう。

 どこへ行くっていうの?

 私は立ち上がったまま、その背中を追いかけることができなかった。

 ただ呆然と立ち尽くしてその背を見つめる。……どこへ行くの。どこに、彼の行く場所があるの?


「殺すだけ殺した。それが僕の仕事だった。それが僕の生きる意味だった。《ジョーカー》っていう役を手に入れて、僕はこの国の切り札として、僕は確かな存在を手に入れた。それでいいと思ってた。……それに」


 ジョーカーはしばらく歩いたところで一度だけ屈み、私が投げ捨てた銃を拾った。

 そんな……待って、どうするつもり?

 焦燥が胸を焦がし手の平には汗を握っていたけれど、足が震えて動いてくれない。喉がふさがっている。


「僕はアリスを求めてた。アリスがいれば……って思った。アリスがお母さんになってくれたら、父親ももう狂うことはなくなって、僕をちゃんと僕として見てくれるんじゃないかって。そう、思ってた。――変だよね、父親はもう死んでるのに。僕が殺したのに」


 それが、あなたがアリスを求める、理由。

 恋人じゃなくて。友人じゃなくて。……アリス自体になにかを求めたのでは、なくて。


「そうしてるうちに、いつの間にか、アリスをどうしようもなく求めてる自分がいたんだ。二つの意味で。一方は本能的に、そしてもう片方は……それを、絆にしたかった」


 愛が欲しかった。

 それを震える声で、でも高らかに宣誓するようにジョーカーは言った。

 ――でも、それなら、何故それは過去形なの?

 胸の中で、嫌な予感が歪な形にふくらんでいく。ああ、どうか当たらないでいて、そう願うけれど。

 手の中で弄んでいた拳銃を、ジョーカーはゆっくりと上げる。


「でも、もういいや」


 振り向いた。銃を掲げた手をそのままに。

 途端、心臓が激しく鳴り出す。……なんで。どうして?

 私は結局、救えないっていうの。


 結局、何も、救えないの?


 私は泣きそうにさえなった。視界がぐにゃりと歪む。

 飛び出す瞬間を今か今かと待ち構える、銃口の奥の闇に潜んだ銃弾。

 それが私を捉えた気がして、身体が動かない。動けない。

 呼吸一つ、それが漏れ出しただけで……全て、終わってしまう気がして。


「ごめんね。ありす」


 それは、一体何に対する謝罪だったんだろうか。

 分からないまま、ゆっくり、ゆっくりと――


 銃口が、ジョーカーの方を向いた。


「っ何して――ッ!?」


 その引き金には、もう指がかかっている。力を込める寸前。

 私が駆け出しても、止める言葉を放っても、きっともう間に合わないだろう。

 それでも手を伸ばさずにはいられなかった。

 いられなかったから、手を伸ばした。

 けれど。

 けれど――。



「バイバイ」



 銃声が、一発。薄闇の中に響いた。

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