第87話 狂い出す歯車
「あいつは、殺人狂なんだ。狂ってる」
道中、チェシャ猫は私を背負ったまま小さく囁いた。
私の震えは依然として止まっていなかった。鼓動は落ち着いてきたけれど……、手が、いつまでも恐怖を訴えている。
――《ジョーカー》は、言葉にできないくらい恐ろしかった。
冷徹な光を湛える瞳。鈍色の輝き。思い出すと、呼吸さえもできなくなりそうになる。……何で、あんな目ができるの。
そんな私の怯えを、口にせずともチェシャ猫は感じとってくれたんだろう。けっして沈黙を落とすことなく、私に話しかけ続けてくれていた。
「女王とは違う“狂い”だけど……、同じくらいに狂ってるんだ。敵、味方、そんなものは奴にとって関係ない。……殺したければ殺す」
それでも、その口調は厳しい。当たり前かもしれない。喘ぎながら、懸命に空気を欲しながら私は尋ねる。
「……ハク君は……だいじょうぶ?」
「……多分。他に帽子屋やエースもいたし、白兎を見殺しにしたりはしないはず。それにあいつ自身も言ってた、女王の命令はありすとメアリ、それに白兎を生きたまま女王のもとに連れていくことだ――って」
殺されはしない。……それだけを聞いても、安心はできなかった。
殺されはしない? ――だったら、何をされるの? 『手や足の一本くらい』。そう言ったのは、ジョーカー自身だった。
怖いよ。ますます呼吸が苦しくなる私に、チェシャ猫は小さく首を振った。
「今は、女王のところに行くしかないよ。……ジョーカーだって、いくら奔放でもアリスにしばられてるのは間違いない。女王をどうにかすれば、奴をどうにかする方法も見つかるかもしれない」
「……そう……、ね」
そうだ。そうだ、怯えてる場合じゃない。――ハク君を助けるためにも、私はやれることをやらなきゃ。
汗で濡れた手をぎゅっと握る。今はチェシャ猫の背中に頼っていることしかできないけど、私にだって、女王を止めることができるかもしれない。その鍵を握っているのは、たしかに私なんだから。
「うん……頑張るわ」
「うん。その調子」
チェシャ猫がかすかに笑う。元気づけてくれようとしているのは分かった。
分かってる。チェシャ猫だって不安なんだ。……彼にだって、ハク君が大丈夫っていう確信があるわけじゃない。
でも、だからこそ、私が弱気になっているような場合ではないのだ。……私が頑張らなきゃ。
「白兎は、グリフォンがメアリを連れてるって言ってたね。グリフォンならうまくすり抜けられてると思うけど……、ありす、もし二人を見かけたら言って。俺も注意して見るけど」
「分かった。見つけたら言う」
グリフォンとメアリね。うん、絶対見落としたりしない。私がチェシャ猫の目になろうと、頷いてこっそり心に誓った。
回した腕に力を込めて、過ぎゆく景色に目を凝らし見慣れた姿を探す。
時にはトランプ兵に見つかって、追われたりしたけれど……怖いなんて言って目をつむってる場合じゃない。幸い、チェシャ猫の足は他の追随を許さないほどに速く、かすり傷の一つさえ負うことはなかった。
「本当は倒すのが一番確実なんだけど。ありすを狙われても困るし、……ごめん、少しだけ怖い思いさせるかも」
「……、……こっちこそごめんね。私は大丈夫だから、気にしないで、お願い」
――女王のところまで、思い切り走って。
私がそっと囁くと、チェシャ猫はこくんと頷いた。……大丈夫。チェシャ猫を信じてるから。
私はただ懸命にその背につかまって、グリフォンとメアリを探すだけ。
枝分かれする廊下を、何度も曲がりくねりながら駆けていく。迫りくるトランプ兵をいなして、かわして。
そして、十何人目かのトランプ兵を振り切ったところで、私は過ぎゆく風景の中に見知った影を見つけた。
「――っいた! グリフォンとメアリ!」
「どこっ!?」
「右! トランプ兵に囲まれてる!」
ちっ、とチェシャ猫は舌打ちをする。それから急ブレーキをかけて直進を止め、私が指差した方向へと勢いよく突っ込んでいった。
「仕方ない、助けに行くしかないか……! ありす、ちょっと揺れるから、ちゃんとつかまってて!」
「分かったっ」
さらに加速する景色。どんどん近くなる、グリフォンとメアリ。
二人の背後にはどうやら分厚い壁しかなく、それをいいことにトランプ兵は半円形になって二人を囲んでいるらしかった。何か詰問している最中のようで、彼らはまだ私たちに気が付いていない。
――このまま。このまま、どうか気付かないで。
祈る私が、あと5歩、4歩……3歩くらい、と思ったところで、チェシャ猫は軽やかに跳躍した。束の間の浮遊感。
気配に気が付いてようやく振り返ったトランプ兵の頭が――可哀想なことに――チェシャ猫の蹴りを受けて、綺麗にのけぞった。
「チェシャ猫!」
「ありすお姉さまっ! 無事だったのね!」
心底安堵したような二人の声。……メアリ、ちょっと違う。
「猫、貴様ァっ!」
「捕らえろ! 目的の女も一緒だ!」
蹴りが入ったトランプ兵は突っ伏してもう起き上がることはなく、代わりに周囲にいた仲間の兵たちがぐるりと振り向いた。
目的の女というのはおそらく私のことだろう。私を捉えたトランプ兵の目は、一様に同じ色をしていた。……怖い、とは思ったけど、怯まない。ただ振り落とされないようにチェシャ猫の背にしがみつくだけ。
「生憎だけど、ありすは渡さないよ!」
チェシャ猫は声を張り上げる。と思ったのと同時に、目の前に迫ってきていたトランプ兵の身体が水平に薙がれた。重力に逆らって派手に吹っ飛んでいく相手。
そして次、さらに次。振り落とされまいと必死な私には何が起こっているのか分からないようなスピードで、チェシャ猫がトランプ兵たちを軽く倒していく。腕が、足がしなやかに伸びて、私にはトランプ兵の身体が弾けたようにも見えた。
「――もらった!」
「っ!」
だけど、私というハンデを負ったチェシャ猫が、訓練されたトランプ兵の攻撃を全て受け流せるわけもなく……、ふいに両脇から迫ったトランプ兵の槍がきらめいた。チェシャ猫は反射的に上体を反らせる。けれど。
「お姉さまに何しようとしてるの馬鹿っ!」
突如、メアリの甲高い声がどこからか聞こえた。
かと思えば、左側から迫っていたトランプ兵が、何故かすごい速度で視界の右側へと吹っ飛んでいく。……そうすれば勿論、右から迫っていたトランプ兵に激突するわけで。
「……え?」
「あ……?」
私とチェシャ猫は、思わず呟いていた。
見れば、メアリがさっきまでトランプ兵が立っていた位置に、肩で息をしながら立っている。――え、あれ、メアリ? 今のは……え?
「ッこの女!」
しかしそこで、怒りで我を忘れたのか、残されたトランプ兵が本来の目的――メアリを連れていく、という――も放って小柄なメアリにつかみかかろうとする。
そこに颯爽と割って入ったのは、最後に残された一人であるグリフォンだった。
あの臆病で気の小さいグリフォンが、思い切り、思いっ切りトランプ兵を殴り飛ばしたのだ。
「な、なんかよく分かんないけど殴っちゃったあ! なんかごめんなさい!?」
……あ、やっぱり臆病だ。
けれど、謝られたとはいえ容赦なく殴られたトランプ兵は堪ったものじゃなかったらしい、わずかな呪詛の呻きを残してどしゃりと床に倒れる。
気が付けばそれが最後で、見渡せばさっきまで二人を囲んでいたトランプ兵は今やみんな床に倒れ伏していた。お荷物でしかない私としては、それを見回して唖然とするしかない。……ええと、とりあえず?
「だ、大丈夫、二人とも……?」
「お姉さま! それにチェシャ猫、助けに来てくれたのね、ありがとう……! わたしなら大丈夫! ついでにこの獅子鷲野郎も大丈夫よ、多分。滅多なことじゃ死にそうにないし」
「メアリ俺に冷たいんだよお、ひどいよねえ……」
……うん、あんまり相性よくなさそうね。二人を交互に見て思った。
でもとりあえずは無事みたいでよかった。私はほっと胸をなで下ろす。
チェシャ猫も二人の様子を見て安堵したのか、頷いて彼らを促した。
「よし、なら二人とも、女王のところに行こう。時間がない……、ジョーカーの力は圧倒的すぎる」
「分かってるわ。早く行きましょ、……乗せてグリフォン。ほら早く」
「あの……、メアリ乱暴……」
うん、だってメアリはグリフォン嫌いそう。
別に同情してやることもないので私は言う。
「いいじゃない、グリフォン。あんたドのつくマゾでしょ?」
「いや、だけどお……こういうのじゃないんだって、俺が求めてるの。ほらもっと、ありすみたいな」
「気持ち悪い」
「気持ち悪いわ」
「……ありすもメアリもひどいなあ……」
だって気持ち悪いんだもん。何だ私みたいなって。
でも言いながらグリフォンは、どこかあきらめた様子だった。肩を竦めると、何だかんだ言いながらもメアリを背に乗せる。あ、いや、単に臆病なだけか。
「行くよ」
それを見計らって、チェシャ猫が言った。すると間髪入れずにまた景色が流れ出す。
慌てて後ろをついてくるグリフォン、走っているというか、……飛んでいる。屋内じゃ飛ぶには天井低くないか? 大丈夫なの?
けれど、その速さは少しゆるめているとは言え、チェシャ猫とも遜色ない。そんなに速そうには見えないのに。失礼だけど。
何というか、この国の人はみんな見かけ倒しだ。いや間違った、見かけ騙しだ。
――というか、見かけ騙しといえば。
「ていうかあの、メアリ、さっきのは一体……」
「え? 何のこと、お姉さま?」
「あの……えっと、トランプ兵を吹っ飛ばした、やつ?」
そう。メアリだメアリ。
疑点について私が尋ねると、メアリはちょこんと首を傾げた。……かわいいな畜生。語尾が疑問形になったのは勿論、それがメアリだったかどうか未だに信じ切れないせいだ。……だって、大の男が飛んだのよ? それをこんな華奢で小柄な少女がやるなんて。一体どうやって。
けれどメアリは、暫時考え込むような素振りを見せてから、ああと頷いて。
「それなら簡単よ。だってわたし、《メアリ=アン》だもの」
……理由になってない。
「そういう役なのよ。ヤマネとかもそうでしょ? これは“不思議な力”なの」
にっこりと微笑むメアリ。……いやいやいや不思議な力って。何だそのメルヘンで非常に曖昧な能力は。微笑まれても困るんですが。
でも覚えはある、そういえばヤマネ君との感動の出逢いの時に、彼があの小さな身体で大の男を倒したことがあったっけ。それはそういうわけだったのね、……不思議な力ってなんか全然分からないけど。
納得できるんだかできないんだかよく分からなくて私がうーんと曖昧な返事を返すと、メアリはさらに笑みを深めた。
「分からなくてもいいわ。どうせ大したことができる力じゃないの」
「……え、大の男一人吹っ飛ばしてるのに?」
嘘だ。それは嘘だ。
「あれくらいが限界なの。さっきはお姉さまが危なかったから頑張ったけど」
……危険に晒されていたのは、どっちかというとチェシャ猫だったような。
私を乗せた下で、チェシャ猫がかすかに苦笑していた。
「ほら、二人とも、そろそろ着くからそこらへんで無駄話はやめて――」
ちゃんとして、とでも言いたかったのか。
――今となっては分からないチェシャ猫の科白が、それ以上紡がれることはなかった。
突如、右側から抜けてきた轟音が耳をつんざく。振り向く間もなく衝撃が訪れる。何が起こったのか、私には分からなかった。分かるはずもなかったのだ。理解する間もなく、そのまま身体が宙に投げ出される。
浮遊感。
「――お姉さまっ――!?」
「ありす! チェシャ猫っ!」
――え、あれ、何で?
何故かゆるやかになっていく時間の流れの中で、私は浮いたまま回転する世界を見下ろしていた。
岩石でも持ってきて砕いたような轟音が聞こえた方、つまり視界の右側に目をやると、そこにはあったはずの壁がない。ただ、その足下に壁だったものが無残に取り残されていたのと、多量の砂埃がけぶるだけ。
さらに右、私たちの一歩後ろを走っていたグリフォンとメアリはどうやら平気だったらしい。よかった、と思いながらさらに目を移す、と。
元は壁だったはずの、今は大きく口を開けるばかりの暗い穴の前に立っていたのは、トランプ兵と同じ制服を着て、キャラメル色の目を獰猛に輝かせた――死神だった。
「みいつけた」
にい、と笑う。死神がわらう。
途端、ゆっくり進んでいた時間は元通りになって、私は何を覚える暇もなく後ろの壁へと叩きつけられた。
「……ッ!」
瞬間、視界と聴覚が別世界まで飛んでいった。
痛い。激痛に声すら上げられない。肋骨が軋んで、肺から空気が全部押し出された。どこを打ったのかも分からないくらい、衝撃の余韻だけが全身をめぐって、私は耐え切れずにうずくまる。
何が。どうして。何で?
問いかける頭の声に答えることもできずに、ただただ歯を食いしばってその痛みに耐えていた。
「ありす! 逃げて!」
「お姉さま!」
どこから聞こえるんだろう、私を呼ぶグリフォンとメアリの声がする。……ああ、チェシャ猫は? 目が開けられない。気になるのに、開けられない。痛みと――それから、恐怖で。
ひたひた、ひたひたと私の方へ近付いてくる足音。それはチェシャ猫か……それとも。
「ねーえありす、遊ぼう?」
私は薄く膜の張った――涙、か――目をうっすらと開けて、差した影を見上げた。
そこでは、死神が笑っていた。
自分で言いながら、随分かわいらしい顔をした死神だなんて考える。
咳き込みながらも私は、ゆっくりと身体を起こした。彼と向き合うためではない。チェシャ猫を探すため、さっきから声が聞こえない彼を探すためだ。腕が小刻みに震えるのにも構わず、私はあたりを見回した。――どこ、チェシャ猫。
「ねえ、何見てるのありす。よそ見しないでよ」
右。左。瓦礫ばかりなのと、まだ涙が滲んでるせいで周囲がよく見えない。
勿論ジョーカーは意図的に視界に入れないようにしていた。目なんか合わせてやるものか。……そう、思っていたのだけれど。
「――ねえ、ありす。捜し物は、もしかしてコレ?」
その不穏な声が耳朶を打った瞬間、私は振り返ってしまった。
――死神の足下に死んだように横たわる、『捜し物』。
頭からさあっと熱が引いていく。早鐘を鳴らし出す心臓。見つめてみても、チェシャ猫はぴくりとも動かない。こめかみからは……血。ひと筋の血が、流れていく。ゆっくり、ゆっくりと。
壁が壊された衝撃を、彼はもろに食らったのかもしれない。チェシャ猫が吹き飛んだからこそ、背中にくっついていた私もおまけに投げ出されたのだ。それであんなにすごい衝撃を食らうなら……チェシャ猫は。
「ちょっと、さっきから僕のこと無視しないで返事してよありす。つまんなーい」
一心にチェシャ猫を見つめていると、ふいに彼の胴体に足が乗せられ、一気に体重を加えられた。
「う、ぁっ……」
「チェシャ猫!」
めきりと奇妙な音。チェシャ猫は叫び声とも呻き声ともつかない悲痛な声を上げる。苦痛に歪むチェシャ猫の表情。
――信じられない。この男、何するわけ!?
「っ、よけなさいよ!」
私はジョーカーを睨んで、絞り出すように言った。
チェシャ猫の脇腹を踏みつけた、足。
……許せるものか。
無表情で見下ろされても、怯んだりしない。
「あんた、その足、よけなさい」
「……嫌だって言ったら?」
ゆっくりと息を吐く。ついでに、腹筋に力を込める。やまない震えを止めるように心を落ち着かせて。
「引きずり下ろすわよ」
殴りかかる、つもりだった。――勝てなくたって。
だけど、立ち上がった途端に痛みでふらついた足が、よろめいた左足が前方の床を踏みしめた瞬間。
床が、崩れた。
「いっ――!?」
がばりと口を開ける暗闇。またもや急な浮遊感。足が踏み場をなくして宙に浮いた。今度は、ジョーカーすらも同じように驚いた顔をしている。
嘘、嘘でしょ。何で床が抜けるわけ!? そりゃあ――そりゃあ、なんたってアリスは穴に落ちる設定だけど、だからって床が抜ける必要なんてあるだろうか!
そんなふうに抗議してみたって、相手は床。口もなければ耳もない。崩れていくのは止められない。傾く身体を引っ張り上げる術もない。
バランスを崩して亀裂の中に倒れ込みながら、私と、ジョーカーと、チェシャ猫はゆるやかに崩れ落ちていく。
「ありす!」
「お姉さまっ!」
穴の外から伸ばされた救いの手が、ついに私たちに届くことはなく。
大きく口を開けた闇の深淵に、私たちはなす術もなく呑み込まれていった――。
なんだか文章がものすごく納得いかなかった回……。
うーん。近いうちに直すかもしれません。内容は変わりませんのであらためて読む必要はありませんが。