第85話 運命の人
初代アリス。
それは、けっして悪い響きを持った言葉のはずじゃなかった。
ことあるごとに私を助けてくれた、彼女は、味方……のはず。
なのに。
どうしてこんなに、嫌な予感がするのだろう?
「彼女が、どうして……ううん、何て?」
「ずっと耳もとで囁いていたの。終わらせなさい、終わらせなさい――って」
終わらせる。……何をか。この国の、この制度を?
何か違う、と私は思う。はっきりとは分からない。でも何か、引っかかるのだ。……何だろう。焦燥を煽っているその正体は、一体何?
「初代アリス……?」
反応したのは、ハク君だった。
いぶかしむような顔つき。当たり前かもしれない、だってそれはもう500年も前に生きて――死んだはずの人なのだから。
「まさか彼女の声を聞いた、と?」
「うん。アリスだったわ、間違いない。直感したの」
「私も聞いたことある。初代アリスだって名乗る声、風みたいに」
「風みたいに……。初代のアリスが、今になって……?」
眉間に微かに皺をよせ、考え込む仕種をするハク君。彼にも何か引っかかるところがあるのか、まあ、そんなことを突然聞かされれば当たり前かもしれないけど。
初代アリス。何度か私を助けてくれた、声。
メアリが直感したというなら、それは彼女で間違いないのだろう。だって彼女はメアリ=アン。この国の住人ならおそらく、アリスという存在を間違えようもない。
「……ねえ、気になってたんだけど」
ふと思いついたことがあって、私は顔を上げる。ハク君も少しだけ目を上げて、私を見た。
「歴代のアリスって、どうやって選ばれていたの?」
そういえば、全く聞いたことがなかった。気にしたことはあっても。でも口にしてみた途端、色々な疑問がどっと押し寄せてくる。
今まで聞いた話が正しいなら、アリスは通例、『金髪碧眼の少女』。白兎に魅せられて夢見の国にやってくる――だとしたら。
アリスというのは、金髪碧眼の少女の中から無作為に選んでいるの? アリスという名を持つ、それだけの少女を?
そして、もしそれらの答えがどちらもイエスなのだとしたら、私は一体何?
金髪碧眼でも、正確に言えばアリスでもない。ハク君に魅せられたわけでもない……、それは条件が合致しなかったからかもしれないが。
でも、だとしたら、確実におかしいのだ。私が呼ばれた、その理由が。
「……初代アリスが、全ての基準です」
ハク君は、ぽつりと漏らした。――《初代アリス》。
最初の最初に、アリスだった、金髪碧眼の少女。
それが、基準って?
「それって……彼女に似ていることが条件、ってこと?」
「まあ、そう言うと多少語弊はあるかもしれませんが、大体そんなようなものです。初代アリスが来たのは、ゲームというよりも最初はほとんど事故のようなものでしたから」
事故? 思わず反芻した。呼ばれたんじゃなくて、初代アリスは間違ってこの世界に落ちてきたというのか。
一体、どうして。
そんな私の疑念を読み取ってか、ハク君は続ける。
「初代の白兎が、好奇心で貴女の世界へ『跳んだ』のです。迷い込んだ、と言ってもいいかもしれない。自分が世界を渡る力を有していることに気が付いて、つい使ってみてしまった。そんなところでしょう」
「好奇心で……、それで、初代アリスを見つけたってこと?」
「正確に言うなら逆ですね。アリスが白兎を見つけてしまった。アリスもひと際好奇心の強い少女だったらしく、奇異な格好をした初代の白兎を見るなり追いかけ始めました」
――それって。
口に手を当てる、思い当たるところがあって。
追われる白兎、追うアリス。
……【不思議の国のアリス】。
初代は、ゲームなんかじゃなくて……ただの事故で、ただの偶然で。
ただの、童話だったっていうの?
「それが、はじまり?」
「はい。そうして偶然こちらに迷い込んできてしまった少女を、こちらの住人が――特に当時の女王が気に入り、ゲームが始まってしまったというわけです」
聞いているうちにいつの間にか、私は手を強く握りしめていた。
じゃあ、この国で行われるゲームなんかは全て、初代アリスが原因だったってこと……?
いや、正確に言えば初代の白兎なのかもしれないが、そんな些細なことは関係ない。
「彼女は。初代アリスは、結局どうなったの?」
堪え切れなくて、早口に尋ねる。
彼女は結局、どうしたの?
この世界に永住したのか、殺されたか――それとも元の世界に帰ったか。
「帰りました。元の世界へと」
ハク君がそう言った途端、心臓をぎゅっとつかまれたような鋭い痛みが走った。
帰った。――初代のアリスは、元の世界に帰れたのだ。
どうやってか、はまだ分からない。だけど。帰った人がいた、のだ。
「一体、どうやって? それをみんなが許したの?」
「いいえ。許すはずもありませんが、……初代アリスは、初代の白兎と恋仲にありました。帰りたいと泣くアリスを、世界を渡る力を持った唯一の男は放っておけなかったのでしょう」
だから、帰した。
……それがどんな意味を持つかを、知って?
「勿論、白兎はそれで許されるはずがありません。初代のアリスは一緒にこっちで暮らそうと言ったそうですが、それでも白兎は首を縦には振りませんでした」
「……なん、で」
「初代の白兎は律儀で、忠誠心の強い男だったそうですから。愛しいアリスを救うことはできても、自分まで逃げて、女王に背くことはできなかったのでしょう」
そのままどこへでも逃げられたはずなのに。
そのままどこででも、暮らせたはずなのに。
幸せに。
幸せに、二人で。
――それなのに、白兎はその道を選ばなかったっていうの?
女王に背くことはできない、なんて言って。
「既に女王はアリスを失ったことで発狂寸前でしたから。その狂気と怒りの鞘になるもの――、いいえ、或いは標的になるものがいなくてはならない。白兎はその役を買って出たのです」
アリスは帰って。女王は狂って。白兎は、帰った。
そうして結局、誰も幸せにはなれませんでした。……そんな物語が、あったというの?
ひどい。思わず手の平に爪を立てた。そんなのって、あるものか。
「しかし、話はそれでは終わりませんでした。発狂寸前といえども、女王は恐ろしく狡猾な方で……、白兎の首を刎ねるのではなく、彼に命じました。『もう一度アリスを連れてこい』と。『でなければ、私も含めて皆殺しにしてくれる』と、付け足して」
「っ! そんなこと言ったらっ」
「勿論、もともと忠誠心の強い白兎は命令に逆らえません。……国の滅亡を目の前にちらつかされれば、なおさら。しかし白兎は、アリスを愛していた。そんな彼女を女王の狂気の目の前に、危険に晒すなどとてもできなかった」
それで。それで、ゲームが始まったのね。
震える唇で呟けば、ハク君は頷いた。
「白兎は、アリスによく似た少女を選び、連れてきました。女王は歓喜する。それをアリスと呼んで――、実際、白兎が連れてきた少女の名は『アリス』でしたが」
何の罪もない少女。
何も知らない少女が、ただ、似ているというそれだけで。
……それで基準が、初代アリスに似ているかどうかなのね。女王が、国の住人が彼女を望んでいたから。
「でも、何故それが彼女の代だけでは終わらなかったの? どうして……、500年間も続いてしまったの?」
「それは――血、とでも言えばいいのでしょうかね」
ハク君は微かに苦笑を浮かべる、あまりない表情だったから驚いた。血。女王の血、遺伝っていうことか?
「僕らみんなに流れる血が、彼女へ一心に注がれています。彼女の愛を求めているんです。――特に、代々の女王には、当時の女王の記憶があると言うのです」
「女王の記憶、が?」
「ええ。これは、女王と僕ら白兎しか知らないことですが」
その告白には、メアリも傍らで驚いている、たしかに女王様と白兎しか知らないことらしい。
でもまさか、そんな。当時の女王の記憶なんて。
そんなものが血で受け継がれる……というの?
「僕らが盲目的にアリスを求めるのも、或いはそういうことかもしれませんね……原理はどうあれ、それこそその真偽を置いておいたとしても、とにかく僕らや先祖はアリスを求めることをやめませんでした。一人の《アリス》が壊れてしまったなら、また次の《アリス》を。また新しい《アリス》を殺してしまったら、さらに新しい《アリス》を」
「……狂ってる」
「ええ」
そうでしょうとも。ハク君は言う。その顔は、どこか寂しげだった。
だって……、そんなの、血で説明できるもの?
もし今の女王様にも当時の女王の記憶があるというのなら、彼女の動機はまだ理解できるとして。
本能的にアリスを求める――そんなことが、あり得るのか。ただ、たった一人、偶然迷い込んでしまっただけの少女だというのに。
知りもしないそれを、ひたすらに追い求めるなんて。
「お姉さまには、分からないかな」
私の手にそっと自身の白い手を重ねて、メアリが囁いた。
驚いて振り返ると、メアリは視線の先で、やわらかく微笑んでいる。
「それはね、運命の人に出逢ったみたいな感覚なのよ」
「運命の、人……?」
「そう。赤い糸って、お姉さまは信じてない?」
――信じたことは、ないけど。
聞いたことはある、そりゃあ。運命の相手とは赤い糸で結ばれていて、出逢いは決して偶然ではなく必然だなんて甘い夢。……夢見がちな女の子なら、そういう奇跡的な邂逅を待ち望んでいるのかもしれない。生憎、私はそんなロマンチストではないけど。
「うまく説明できないけど、そんな感覚なのよ。わたしがお姉さまに会った時も、初代アリスの声を聞いた時にも。『ああ、この人だ』って理解したわ。直感的に分かるの」
私よりも少し冷えた手が、私の手を包み込む。
それはある意味、動物的な本能に近いのかもしれない。
でも、それを運命だと呼ぶのは、すごく理性的な話のような気もした。
だけど。
だけど、それって。
「……それは」
メアリの青い瞳をまっすぐに見つめたまま、私は尋ねる。
「みんな、そうなの?」
「きっとね。わたしはわたしでしかないから、分からないけど」
メアリは感じるという。私は感じたことがないそれを。
運命の人に、出逢ったような。
運命の相手を、見つけたような。
『ああ、この人だ』って、感じるような。
それが、アリスだって、言うの。
「それを経験したことがないお姉さまには信じられない話かもしれないけど、でも、本当なの。多分みんなそう、お姉さまを見るたび、『これが運命なんだ』って。……そう思うのよ」
それは。
それは――
「……じゃあ、ハク君」
ルビーのように赤い瞳が、私を見る。その瞳はきれいだった。輝いていた、と言ってもいいかもしれない。
まるで運命の相手を見る、そんなふうに。
「私は……、どうして選ばれたの?」
アリス。
初代アリスに似ているから、アリスだというのなら。
金髪碧眼でも、アリスという名前も持たない私は、一体何故連れてこられたというのか。
あなたたちは何故、私にも運命なんて大層なものを覚えることができるの?
「貴女に……僕は、運命を感じたからです」
けれどハク君は笑った。口は弧を描き、赤い瞳が私をうつす。うつった私は、とても変な顔をしていた。……だって。
見た目ではない。
名前でもない。
――それは、ただ、感覚的なもの。
似ているというのは……見た目でも名前でもなくて、本質だったというのか。
私が、この国の人たちの、運命の相手だったから。
「だから……私はアリスなの?」
「はい」
「うん、そう」
それは――
……あの人も、そうなの?
思わず、口に出しそうになっていた。けれど呑み込んだのは、さすがとでも言うべきなのか。
――ううん。聞くべきは、そんなことじゃない。
今はもっと考えることがあるはずと、かぶりを振って考え直す。そうしてもう一度口を開くと。
「……じゃあ、彼女――初代アリスの目的は、一体何なのかしら」
何故私を助けたのか。
何故メアリに語りかけたのか。
もう数百年も前に元の世界で死んだはずなのに、何故今になってこの世界に現れたのか。
それに、メアリの耳もとで繰り返していた『終わらせなさい』という言葉。それは、どういう意味なのか。
彼女は、憂いていたの?
自分と同じように、或いは自分のせいで多くの少女が犠牲になっていくことを?
「彼女は、私を……私たちを、助けたかったの?」
普通に考えるなら、そうだ。
アリスである私を助け、次代の女王となるメアリに終わりを促している。
それは後悔からの行動のようにしか思えない。自分のせいでこのようなゲームが始まってしまったから、それを終わらせるためにやってきたと。
「おそらく、そうだと思いますが……。実際に彼女の声を聞いているわけではないので何とも言えませんね」
ハク君は猜疑を含みながらも頷く。
そりゃ、死人がどうやってって言うのは、私も分からない。……こんな世界があるなら、幽霊やら思念やらっていうのが残されていたとしてもおかしくはないかもしれないけど。
「わたしは、終わらせなさいとしか聞いていないの。でも、それで『ああそうか』って、わたしの役割に気付いたわ。……他に目的があるとは思えない」
それで今朝、メアリの態度が一気に変わったのか。
たしかに、それだけ聞けば、初代アリスは私たちに味方して後押ししてくれているように思える。
だけど――
何で、引っ掛かるんだろう?
……何が、引っ掛かるんだろう?
何かが私に訴えている。『それは違う』、って。
何でだろう。……彼女が私の前に姿を現さないのも、何故?
私にはもうすることがないから? 私はこれで役割を終えて、後はみんなが女王を捕らえて――殺して――国を立て直すだけだから?
「……違う、気がする」
何かが引っ掛かるのだ。何とは明確に言葉にはできないけど、胸の内で燻る小さな違和感を無視することはできない。
何だろう。何が? 何で、引っ掛かっているの……?
何が、おかしいの?
「白兎っ!」
静まり返っていた客間のドアが、荒々しく開かれる。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、いつになく焦った様子のチェシャ猫。
全然気が付かなかった……。チェシャ猫のこの様子なら、廊下をかなり急いでやってきたはずなのに、足音さえ聞こえなかった。それほどまでに私が沈思していたのか、それとも猫というくらいだから音を立てないような動きでやってきたのか。分からないけど。
「どうしました? そちらで、何か……?」
「大変なんだ。――今、城の兵がやってきた。女王とともに逃げ落ちた、女王派の……つまり、女王の使者だ」
「なっ……!」
女王の使者? 私たちは一様に瞠目する。それは、まさか……女王に何か考えがあって?
使いをよこすなんてことはつまり、自分の居場所が知れてもいいと言っているようなものだ。城から逃げ落ち、隠れたはずなのに、そうして接触を図ってくる。……それは、何かリスクを冒してまでしたいことがある、もしくはあったということ。
あまりに唐突にもたらされた驚愕の事実に、私たち3人がただ息を呑んで見守っていると、チェシャ猫はかすかに震えを含んだ声で続けた。
「奴は、言った。女王の言葉を代弁して――『城にて、重罪人アリス=リデルの処刑を始める』と」
【それは果たして記憶か、運命か、はたまた虚構か?】
ハートの裁判、判決は有罪!
有罪なんなら、みんなみーんな首を刈っちまえばいいのさ!
なんだいなんだい、罪人のことかい? 今度のあわれな罪人の名は――