第84話 クリムゾンハーツ
ソファーでちょっと横になろうと思っていただけのつもりが、いつの間にか眠っていたらしい。窓から明るい日差しが差し込んで、私は眩しくて目を覚ました。
「……朝……?」
いつもの柔らかいベッドじゃなくてソファーで寝たせいか――それでもソファーも十分ふかふかで高価そうなんだけど――身体が重い。重たい瞼をゆっくりと持ち上げながら身じろぎをしようとして、……ソファーのせいだとかそういう理由じゃなくて物理的にすごく重いことに気が付いた。
腰。腰のあたり。何かが乗っかっているようで、動くことすら叶わない。痛くはないが、重量は結構あるようで、ちょうど人の頭くらい…………頭くらい?
「…………」
嫌な予感を覚えて、私は重く感じていた瞼を何もなかったかのようにぱっちりと開いて機械的な動作で自分の腰のあたりを見下ろす。
すると。
そこには、派手な色の(具体的にはピンクとか紫とかの)三角耳をぶら下げた黒い頭が、どでんと突っ伏していた。
「……。……」
とりあえず、深呼吸。もぞもぞ動く耳を見下ろして、落ち着いて深く息を吸って。準備ができたら、はい口開けて。
「ぎゃああああああ変態ィィイイイィィイイ――っ!!」
お天道さまが東からひょっこりと顔を出した、午前5時。
今日も元気に私の可愛げの欠片もない悲鳴と殺人的な打撃音が響きましたとさ。
「あは。なんか久しぶりだね、これ」
「そして何であんたは嬉しそうなのよ!」
私はすぱこーんとスリッパで頭を叩いてやった。誰のかって? そんなの決まってる、この一連の騒動(というほどでもないかもしれないが)の元凶、チェシャ猫のだ。
「全く……、朝からいい迷惑だ」
「本当だよ! ひどーいありす!」
「え、私? 私の責任なの?」
と思ったのに、どうやら責任は私持ちらしい。帽子屋さんもミルク君も、そりゃあない。
――騒動は、チェシャ猫が私の上にもたれるようにして寝ていたことから始まった。
曰く「あったかそうだったから」。……私は湯たんぽか。
とにもかくにも淑女に対して遠慮も何もあったものじゃなく密着していたチェシャ猫に起きて気付いた私は、まあとりあえず叫び声を上げてみた。普通の反応だ。私は悪くない。
しかしまあ、あえて言うなら時間帯が悪かった。
朝5時。元の世界の私ならぐっすり夢の世界にいる時間だ。今日だって起きたのはカーテンが開きっ放しの窓から光が入ってきたせいで、5時と言えば比較的早い時間帯だろう。現代日本のように時計にがんじがらめにされている社会なら別として。
まあそんなこんなでこの世界も例外ではなく、帽子屋さんと夫人とハク君以外はまだおねむの時間だったわけですね。ちなみに彼らが何をしていたかというと、帽子屋さんは紅茶を楽しんでいて、夫人はちょうちょと戯れてらっしゃったそうです。本人談。……夫人さん、別にそんなあからさまな行動しなくても貴女が天然だってことは知ってるから。朝早く起きてちょうちょとキャッキャウフフしなくてもいいから。あ、ちなみにハク君は知らない。まあ早起きそうだよね、何ともなくても。
まあ、言ってしまえば、みなさまを起こしてしまいましたとさ。
「僕らまだ寝てたかったのにさあー、ねえダム?」
「全くだよディー。子どもは寝なきゃ大きくならないんだよ?」
不満そうなディーダムはぴったりくっついて大きな欠伸を一つ重ならせる。藍色の瞳は同様に眠たげで、……いや、たしかに起こしたのは悪かったけど、貴方たち結構寝てるでしょ普段。
「………………」
そしてヤマネ君はどう見たってご機嫌ななめ。……いや、ごめんなさい、何だかんだこの子が一番怖い。いつも眠たそうなのはそうなんだけど、その睡眠を妨げられた怒りがひしひしと! 何故かチェシャ猫じゃなくて私に! たしかに、叫び声を上げたのは私だけどね!?
ちなみに、それほどまでにすごい叫び声を上げたのに、唯一グリフォンだけは起きてきませんでした。……あいつ、もうなんかキングオブフリーダムだな。マイペースどころの問題じゃないよ。
……というか、ですね。
眠っているのがグリフォンだけ、ということは、当然ずっと眠り続けていたメアリも起きてきたというわけで――憂鬱なため息を噛み殺しながら、何故だか隣に座っていらっしゃる金髪碧眼の美少女を見やる、と。
「やめてみんな! ありすお姉さまは何も悪くないの!」
…………。……あるえー? 今何か幻聴が聞こえた。
「ありすお姉さまをいじめたりしたら、わたしが許さないからね!」
メアリ――だと思う多分、な美少女は私の腕をぎゅっとつかんで糾弾する。
え、ちょ、この子力強くね? その細い腕のどこにそんな力があるんですか。ていうか誰ですかあなた。性格変わり過ぎじゃないですか。
「……あの、……メアリ?」
「なあにお姉さま?」
誰がお姉さまだというのか。メアリ(確定)は輝かしいばかりの笑顔で私を振り返った。
その姿に私は、まあ、……言葉を忘れました。何を言えと言うんだ。代わりに助けを求めるごとくチェシャ猫を見やる。
「……あの、チェシャ猫? この子って、元々こういう子だっけ……」
「……うーん? まあ、好きな相手にはとことん甘えるタイプじゃなかったかな」
チェシャ猫は曖昧に首を傾げる。うーん。
好かれるようなことをした覚えがありません、っていうか前はたしか大嫌いとまで宣言されたはずなんですが。罠ですか? 油断させて刺すつもりですか?
「まあひどいチェシャ猫、ありすお姉さまを一人占めしないで! わたしだってありすお姉さまとお話ししたいわ!」
……うーん?
首を傾げて再びチェシャ猫を振り返るが、さすがの奴も苦笑気味だ。
「それは失礼しました、っと」
そして立ち上がり、私を置いて踵を返す。
――ってえ、ちょ、待ってこの状態のメアリと私は二人きりですか! いや二人きりではないですが心情的に二人きりですか! 待ってチェシャ猫!
「……もっかい、寝る……」
続いて明らかに不機嫌な声音の――声変わり前とは思えないほど低い声で!――ヤマネ君が呟くと、うさぎの形をした大きな枕をもふもふしながら去っていった。……あれは、何だろうか。うさぎは本物がいるんだから、いっそそっちを枕にすればいいんじゃなかろうか。とは、ご機嫌ななめな本人を前にしては言えなかったが。
……ん? ていうかみんな帰ってもう一回寝るムードなの? 私は? メアリに引っ付かれた状態の、私は?
「あ。ありす」
どうしようかしらと首を傾げていると、後ろからお呼びがかかった。振り返れば年寄り並みに早起きな某本物のうさぎさんがそこに。
「あの、少し話したいことがありますからちょっと……って、何ですかその顔は」
「え、ううん。別に」
別に商品化とか考えてない。考えてないよ。
「じゃあ、よければ一緒に来てもらえますか。ここでは何なので……できればメアリ、貴女も」
「わたし?」
きょとんと目を丸くするメアリ。私も同じように驚いていた。私とメアリに、話すこと……?
アリス関係か、それとも――昨日の話し合いについてのことか。おそらく後者だろう、まあ……前者も関係してないことはないかもしれないけど。
「うん、分かった。行くわ」
どうせ断る理由もない。頷くと、メアリもじゃあわたしもと同調した。……うーん? なんだか、本当に好かれてる感じなのか? そう、首を傾げてうーんと唸る私に。
「――わたしも、お姉さまに話したいことがあるの」
メアリが一転真剣な眼差しを向けて告げた。きょとんとする私、でもその瞳はどこまでも青い。……何だか。
ただ好かれてる、ってだけでもなさそうな……?
☆★☆
「昨日の話し合いで、今後の予定が決まりました。……貴女たち二人に話すのが遅くなってしまったことは申し訳ないですが」
みんながいる部屋から大分離れて、しんと静まり返った一つの客間に私たち3人はいた。
朝日がレースのカーテンにきらきらと輝く中、それを眩しげに見つめてハク君は切り出す。話の内容はやっぱり、昨日の話し合いについて。……まあ、あの時私やメアリはぐっすりだったんだから、遅くなるも何もないとは思うんだけど。
「どんな結論が出たの?」
一人掛けのロッキングチェアに腰かけて、私は回りくどい問答をなしにして率直に尋ねる。どうせ私が聞きたいのはそこだ。
ハク君もその質問が来ることを予期していたのか、一つ頷いてから、口を開いた。……ただ、いつもより少しだけ、せわしなく思えるような動きで。
――それが何故か、っていうのは。
「――女王を、殺します」
その言葉を聞いて、理解した。無意識だろうか、ハク君は赤い舌で唇を舐める。
……殺す。
私も、予期していなかったわけではない。そういうこととは無縁な世界に生きてきたといっても、全く争いのなかった世界ではない。……私の周りは平和に思えても、大なり小なり争い合ってきた歴史はあるんだし、そういうものを学んでは、いる。
ただ、話として聞くのと実際に目の当たりにするのとでは、重みが全然違った。
「……それしか……、方法はないの?」
呼吸が変になりそうと思いながら、私は尋ねる。私に理解できる話とは思わないけれど、それでも。
もし、それを回避する手立てがあるのだとしたら。
「おそらく無理でしょうね。もう500年も続いてきたこの国の悪習を一新するには、彼女の存在は邪魔すぎるんです。第一、彼女を生かしておくなど、反女王派に回った人民たちは許さないでしょう」
ただでさえ好戦的な連中なんです、と肩を竦めるハク君に、私はどうにも笑えなかった。……そうなんだろうな、多分。それはきっと誰のせいでもない。ただ世界がそういう風に回っているだけだ。
「……女王様」
メアリは呟く。悲痛でもなく、誹謗でもなく。まるで同情、みたいな言い方だ。
それから彼女は、そっと私の肩に手を置いた。
「……ありすお姉さま。ここは決断すべきところだわ。たしかに女王様は可哀想な人だけど……、ううん、だからこそ、もう終わりにしてあげなきゃ」
盲目的な、盲信的なまでのアリスへの愛情。――あの女は、狂っている。
分かっている。分かっているからこそ、簡単には頷けなかった。
……自分の言葉には絶対に後悔したくない、優柔不断とはいくら言われても。
「……ハク君。一つだけ、お願いしたいことがあるの」
エプロンスカートをぎゅっとつかんで、私は言う。ああ、せっかくの夫人からの貰い物、皺になってしまうかもしれない。でもそうしなければ言えそうにもなかった。
「彼女を殺す前に、彼女ともう一度話をさせて」
「……ありす?」
ハク君が眉をひそめる。何だ今さら、とでも思われているのかもしれない。
実際、そのことを証明するかのように彼は首を傾けた。
「まあ、気持ちは分からないでもないですが……ありす、女王陛下にはおそらくもう貴女の話は通じませんよ。貴女はもう彼女の愛するアリスではないのだし――」
「分かってる。分かってるけど、話させて。お願い」
諭そうとするハク君の言葉を遮って、私は必死に頼んだ。
何でだろう。言い出した私が震えるほど怖いはずなのに。――あの狂気が、向けられる刃が、心底怖いって思ったはずなのに。
それでも、私はまだ、あきらめきれない。
「ハク君は私に、この国の呪いを解いてって頼んだでしょ。それなら、あの人にかかっている呪いも解いてあげなきゃ」
おそらく、この国の中で一番強い呪い。解くのは簡単ではないって、思うけど。
でもきっと、助けなきゃ。助けられなくても。救いたい。せめて何か私にさせて、それがたとえ罪悪感から逃れるための口実だったとしても。
助けてあげたい、って思う気持ちは本物だから。
「……まあ」
呆れたような呟きとともに、ため息が落とされる。
あきらめたといった顔つきで、ハク君は肩を竦めた。
「たしかに言いましたけどね。……ありす、貴女は強情な人だ。素直にはいどうぞとは言えませんが……、ジャックを捕らえ、彼女自身も捕縛された状態でならいいでしょう」
「っ! ほんと!?」
「ただし、あまり深入りしないこと。彼女がああなのは、貴女の責任ではないですから」
うん分かってる、ありがとう。私は頷く。頷いてから、両手をぎゅっと握りしめた。
これが精一杯の譲歩なのだ、多分。あまりに無力過ぎる私に対しては。
だからこそ私も、全力を尽くそう。できるなら――、彼女も、解放してあげたい。アリスに囚われることはないんだよって。
「それから、メアリ」
「……うん。なあに」
「貴女には、僕らの旗印になってもらいたい」
さっきとは違って、ハク君は澱みなくさらりと言い切った。
……言い切ったせいで、聞き流すところだったけれど。
――旗印? それって……、まさか。
メアリとハク君の顔を見比べながら、私は口を何度か瞬いた。
「……あの、旗印、って……」
「つまりメアリ、貴女には、次代の女王になってほしいのですよ」
ハク君の口からさらにすらすら出てくる言葉。が、しかし、これはさすがに右から左に流すことはできなかった。
女王? メアリが、次代の女王?
今の女王に代わって、国を治める役を?
「え、え、ちょっと、まっ――」
「分かった。やるわ」
「そう言っていただけるとありがたいです」
しかし私の制止など聞く由もなく、メアリは縦に首を振った。――女王。そんな重い役職を、悩むこともなく一瞬で。
「え、メアリ……待って、それでいいの……? そんな簡単に?」
「お姉さま。そんな簡単に、じゃないわ」
そう言ったメアリは拗ねたような顔をしていたけれど。
……待って、だって、決断が早すぎる。簡単じゃなくたって、それでいいのか。本当に?
問う私に、メアリは迷うことなく頷いた。考えていたから、と。
「そういうことを頼まれるとは思っていたの。ここで女王様を殺す、なんて言うんだから」
「……え、でも……」
「大丈夫よ。多分何とかなるわ」
多分って!
にっこりと微笑むメアリは可愛いけれど、しかしそういう問題ではない。多分何とかなるとか、そんな風でいいのか。……だって、国を変えてしまうほどの、大きな決断なのよ?
それでもやる、と言うのか。迷いも不安も一切見せずに、ただ頷くことができると?
「やるわ。お姉さま、わたし……もうこの役には、《アリス》なんて存在には縋らないって決めたの」
「メアリ……」
「ほんとは世界がわたしを中心に回ればいいと思ってた、でも何もしないままにそんなことは無理ね。だからわたし、女王になる」
青い瞳は悠然とした光を湛えていた。女王になる、そう誓った澄んだ声も。言っていることは無茶苦茶だけど、彼女なりの冗談なのだろう。……いや、半分くらい本気のような気がしないでもないけど。
でも、そうしたら、きっと彼女に何を言っても無駄なのだ。だってメアリは、『私に似て強情』なんだから。
……うーん、私はそんなに強情なつもりはなかったんだけどな?
「いいんですね? メアリ」
「貴方から言ったことでしょ。大丈夫、わたし、やるから」
固い意志を持って言い切ったメアリを見て、ハク君はどこか満足そうに頷いた。
……うん、私やメアリは、強情より頑固って言った方がしっくりくるかもしれないな。
「勿論、当分の間補佐はつけますから」
「……それって、白兎?」
「分かりませんが、おそらく」
「白兎は厳しそうだから嫌だわ」
口を尖らせるメアリに、ハク君は少しだけ心外そうな顔をした。……まあ、私がメアリでも同じことを言うわ。心強いのだけど、口うるさそう。あと馬鹿にされそう。
それがなけりゃいい子なんだけど、とか考えていると。
「そうだ。あのね、お姉さま」
「え? あ、うん。何?」
メアリがにっこりと笑顔で私を見上げていたから、慌てて私は返事する。お姉さまって……、どうにも慣れそうにないな。貴女のおねーさんになった覚えは一切ないんだけど。
「お姉さまに話したいことがあるの。わたしの話、聞いてくれる?」
「え、うん。……いいわよ?」
――ていうか、ですね。
こう、普通に慕われると、照れるんですよ!
どう対応していいか分からないというか。嬉しそうに微笑むメアリに悪意は欠片も見られない、し。
ここに来る前に感じた、彼女の好意の裏側にあるもの――といっても、彼女の好意が嘘に感じたわけではないけれど――なんてただの気のせいだったんじゃないかとも思った。
けれど。
「わたしね、ここに来てずっと寝ていた間に、夢を見たの」
五指を組んで私を見上げるその瞳に、私は何か違うものを感じた。いや、違う、と。
「夢……?」
「そう。誰かがわたしに、ずっと話しかけてくる夢」
メアリは優艶な笑みを浮かべたまま、目を閉ざす。
何、だろう。何で今、嫌な予感を覚えているんだろう、私……?
早鐘を鳴らす心臓。からからに渇いた喉、頭の中をかき回すような眩暈。
――違う。裏がなかったわけでは、ない。
好意は純粋なものでも、やはり、単純な話ではなかったのだ。
何故かは分からないけれど、そんな声が耳もとで囁く。頭の中で解け、つながっていく糸たちが。
「彼女は、こう名乗ったわ――私は《初代アリス》だって」
《アリス》。
――それは、この国では、全てを覆す存在ともなり得る不確定要素。