第83話 「そう、だから。」
チェシャ猫視点です。
地平線に半分沈んだ太陽が、燃え尽きんばかりに赤く輝いている。
泣き疲れたのだろうありすは、帽子屋にあやされて(もっとも、本人はそうは思っていないだろうが)隣の部屋で安らかな寝息を立て始めていた。……こういう時はいつも、彼女が非力な少女なのだということを嫌だというくらいに思い知らされる。
俺はため息をつきながら、二つの部屋をつなぐドアを閉めた。
「寝たよ、ありす」
「そうですか。……猫、貴方も随分と律儀な性格ですね」
「……どういう意味?」
少なくともいい意味で言われたんじゃない言葉に少しだけむっとしながら聞くと、白兎はいえ何でも、と涼しげな顔で言って強引に会話を終わらせた。……どうせ、帰ってきてから俺が一度もありすにちょっかいをかけてないことを言ってるんでしょーに。
律儀とかそういう以前に、俺は単にバツが悪いだけだ。なんて口に出せば、ありすには「あんたどうしたの。熱でもあるの?」とか言われておしまいだろうが。……悪かったね、素直じゃなくて。
「それで。これから、どうするの? 女王様逃げちゃったけど」
自分の想像に少し嫌になって部屋の中をぐるりと見回せば、既にみんなどこかしこに腰かけたり壁に背中を預けたりして、話を聞く姿勢をとっていた。聞く姿勢。逆に言うならば、話し合いではなく結論をまとめる場に過ぎないということだ――今回のこの集まりは。
その中でも部屋の中央のテーブルを挟むように置かれた一対のソファーの片側に座った白兎は、さも当然だという風な顔で口を開く。
「決まっています。――女王を、殺します」
途端、周囲に緊張が走る――しかし、動揺は起こらなかった。
それぞれ、予想はしていたのだろう。俺も同様だ。筋肉が強張るような感覚を覚えながらも、驚きが声に出ることはない。ただ長く息を吐き出して、白兎を見つめた。
「……まあねえ、白兎ならいつか言うと思ってたけど」
「遅すぎたくらいです。勿論、それで全てが解決するような状況ではありませんでしたが――」
白兎は一度だけまわりを見回して、そして言った。
「ありすを無事元の世界に帰し、さらに僕たちがこの国の呪いから解放されるためには、今女王を殺すしかないでしょう。その布石として、ありすが国民たちの《アリス》の認識に変化を与えてくれた。それは、城の兵士にしても違いはない。そうでしょう? エース」
「ああ。自分たちが何を守り、何を奪い、何に忠誠を誓うべきなのか――確実に混乱が起き始めているね。今なら……やれる」
何を“やれる”というのか。分かり切った話だ、まだ幼いミルクや双子はごくりと息を呑んだが。
それより少し年上のくらいの白兎は、それに動じることもせずに続ける。さらに、と。
「ありすは、僕との約束通り味方を10人集めてくれました。ここに集う10人の《アリスの駒》――と、ついでにグリフォン」
「……え、なに、俺の扱いひどくない?」
「今はメアリがいないから正確に言えば9人ですね。ですが、彼女もおそらく力になってくれるでしょう」
しれっとグリフォンの悲痛な声を無視する白兎。……ああ、そういえばこんな子だったな。ありすが来た時から大分、実年齢と精神年齢の幅が狭まっていたんだけど。
まあ、これくらいの方がいざという時には頼りになっていい。どうにも頼りない子どもが白兎なんて役を負っていたんじゃ困るし。
「今なら、国民の意志――つまり国の意をも覆すことができると思います。女王は兵士という盾、それに城という器を失いました。今がおそらく一番脆い時。女王を壊す時がやってきた。僕はそう思っています」
窓から差す夕日に照らされて、白兎の右頬は赤かった。
でもそれよりも赤く煌々と光る瞳は、獲物を狩る肉食獣の目だ。
……俺が言うのもなんだけど、兎というには相応しくない。兎の皮をかぶった何とやら、だ。
「……異論は?」
はなから受け付ける気などないくせに、白兎はそう言ってまわりを見回した。
いや、まあ、俺には異論なんてないけどね。――ありすが無事なんなら。
「異論、というんじゃないが」
しかし、俺とは違って元来生真面目な帽子屋がそこで口を開いた。
真剣なのはいつものことだが、その目にはいつもと違った決意が見て取れる。……ありすに何か言われたのかもしれない、多分、彼の恋人だったアリスのことで。まあ……そういうのに動かされるのは帽子屋らしいけど。
「一つ、気になることがある。彼女を殺して、この国はどうなる? たしかに今なら国民たちに革命を促すこともできるだろう。しかし、その後は? 王がいなくて成り立つような国ではないだろう」
「たしかに、そうです。だから今まで待ちました」
この国を心配する帽子屋の疑問はもっともだ。けれど、その指摘にまるで揺らぐ様子のない白兎。
『だから今まで待った』? さすがの俺でも、その言葉には思わず眉をひそめてしまった。今になったから、何か妙案が浮かび上がってきたというのか。
「僕は、彼女の次に王を継ぐ者を待っていたのです。この国のトップとして、新たなる政治の上に立つ者を」
「次期王……か? しかし、彼女の血筋もいないのに、一体誰が――」
白兎の口もとが弧を描く。……まさか、と俺は思った。他には誰も気が付いていないようだが、『今まで待った』という白兎の言葉に当てはまるのはおそらく彼女しかいない。
「メアリ=アンです」
今度こそ、部屋中に言い知れぬ動揺が走った。
俺はその言葉を予期していたからあからさまには出さないものの、それでも正気かとは疑ってしまう。――メアリが、次の女王、なんて。
「待て、白兎! お前、本気かっ……!?」
「僕は冗談でこんなことを言いませんよ。それとも何ですか、帽子屋。不満ですか?」
「不満も何も! メアリは子どもだ、それにっ――」
「子どもというのは理由になりませんね。今の女王もまだ幼い頃から役に就いています、できないことはないでしょう。政治のことは僕らがサポートしていけばいい」
相変わらず無理難題を言う、……白兎らしいが。
しかしそんな悠長なことを言っている場合じゃないみたいだ。メアリが女王だなんて、さすがの俺も黙っていられない。彼女自身がどうこうという話ではなく、彼女を王にするというそれ自体について。
「待って、白兎の意見を先に聞かせてよ。どういう思惑で、メアリを女王になんて言ってんの?」
手で帽子屋の批判を制し、俺は率直に尋ねる。帽子屋もさすがに分別のある男だ、一理あるとばかりにとりあえず非難の言葉を止めた。……それを見た白兎がかすかに満足げだったのに、少し腹が立ったが。
「まず一つ。彼女はこの国にいる中で、もっとも《アリス》に近い存在です――これについては詳しく説明しなくても分かってもらえるでしょう。彼女は愛される存在ですから」
人差し指を立て、白兎は言う。たしかにそれは分かる、彼女はアリスに近い存在だ。俺たちの本能的な愛を次いで受ける存在。……それ自体の理解はできる、が。
「そしたら、根本的な《アリス》制度はなくならないんじゃないの? 解放を唱えてるくせに、それじゃめちゃくちゃだ。女王が本能的な愛の対象じゃ、女王がルールなことは変わらない」
「チェシャ猫。貴方はつまりそれじゃ意味がない、と?」
「俺たちの呪いは《アリス》が原因だ。彼女たちが悪いとは言わないけど、その存在はなくさなきゃいけない」
そうでしょ? と同意を求めると、頷いたのは帽子屋や彼を慕う子どもたち、それにエースだった。公爵夫人はさっきから見守るような体勢でいるし、グリフォンは理解してるかどうかも分からないからほっとくとして、白兎はどうやらそうは思っていないらしい。……どんな考えがあるんだか。
「勿論、アリスなんて存在は、二度とこの国には呼びません。したがって、《白兎》という役もこの国には必要なくなる――僕の代で終わらせるつもりです」
「それは、分かるけど。……そこじゃなくてさ」
「新しい王はみんなに認められた存在でなくてはならない。分かるでしょう」
たしかに、みんなに認められるという点ではメアリは適任だ。何だかんだ言ってもアリスを愛する俺たちは、彼女を否定することはできない。
しかし、それで変わるのだろうか? 同じ轍を踏むことにはならないだろうか? メアリがもし愛に狂って、今までの女王と同じように道を踏み外したとしたら。
視線を落として逡巡する俺に、白兎は呆れ顔で小さくため息をついた。
「チェシャ猫。本当に貴方は、メアリのことを何も見ていないんですね」
「……何だって?」
「彼女が一番分かっていたでしょう。《アリス》という存在の虚しさを」
あ、と俺は思わず呟いていた。
――すぐ、前のこと。彼女の告白。言ったじゃないか、彼女は。
『アリスに似てるから、って言って愛されてただけ。似てなかったらそんなもの、意味がないのに』
反芻して、苦い顔をしているのが自分でも分かった。……たしかに、彼女が一番よく知っているかもしれない。
あんなにもアリスに似ていると持て囃され、愛された少女。そうして、いきなり手の平を返されて――失望を味わわないはずがない。
「だからこそ僕は彼女が適任だと思うのです。彼女なら、《アリス》ではなく違う土台を作り上げてくれると思う。……宰相にも相応しい人を充てて、しばらくは十分な補佐をしてもらわなくてはなりませんが」
まっすぐな白兎の眼、……本気だ。
今度は俺がため息をつく番だった。深く息を吐き出してから、俺は言う。
「……それは、白兎が適任だと思うよ」
「チェシャ猫」
帽子屋が呟く、俺の名前――いや、役名を。
おそらくそれは、非難と戸惑いが入り混じった言葉だったのだろう。俺がそう言うということは、つまりメアリが女王になることを認めたということだ。
たしかに、少しはあきらめも入っているが、まあ白兎が言うのは非難されるほど悪い案ではない。メアリは元来わがままな性格ではあるから、今の女王様以上に手はかかるだろうが……しかし、根っから悪い子じゃない。盲目的にアリスを求める、なんてこともないだろう。
それに、彼女がこの国の冠をかぶるなら、おそらくそれだけでついてくる住人も少なくない。皮肉だが、たしかにそれは武器になる。
「帽子屋。あんたの気持ちも勿論分かるけどさ、もし他にいい案があるんだったら教えてほしいな。是非参考にしたいし」
そんな案があるんなら、と付け足すと、帽子屋もまた苦虫を噛み潰したような顔をした。
……所詮、この国はぼろぼろなのだ。とんとん拍子で行くような名案がぽんぽんと出てくるはずもない。
帽子屋は暫時考え込むように目を閉じてから、吐息とともに言葉をこぼした。
「……白兎。俺はな、お前が自ら旗印をつとめるとでも言うのかと思っていたよ」
「それはないですね。――僕には無理です、僕は国民の希望にはなれない。アリスを導くことはできても、アリスのいない世界の民を導こうとするならそれは逆に枷になる」
首を振る白兎。
そうだろうな、とはなから期待していないような声で、帽子屋は呟いた。
「……まあ、俺も、他に何か言えるわけではないしな……、彼女には重荷かもしれないが、任せるより他にないか」
ま、ぐっすり寝ている間に話が進んでいるのは可哀想だけど。俺はひそかに同情しながらも神妙に頷く。
「他の方も、それでいいですか?」
「……帽子屋がいいんなら、いいよ……」
「今までずっと続いてきた国政をいきなりがらりと変えてしまうのは混乱を招くからね。女王って点では適任なんじゃないかな。まあそれが火種になる場合もあるけど、問題はその内容だし」
ヤマネとエースが頷き、同意する。続いて。
「メアリなら、ありすを傷付けたりしたのは許せないけど……」
「でも、本当は優しいもんね、メアリ」
ディーとダム――ありすの言ったことが本当なら、右側に座っているのがディーで左側がダムだ――が複雑な面持ちで同意した。
ミルクも同じように頷いて、公爵夫人は相変わらず読めない笑み。でもきっと受け入れるのだろう、彼女なら。
そうして。
「……メアリが新しく王になったらさあ」
部屋中の視線が集まり、グリフォンが、壁にもたれかかったまま言った。
「俺の死刑は、取り消される?」
「そうでしょうね。何せ貴方の罪状は、アリスを庇った罪ですから。新しい王政にはそんな罪は存在しません。白紙に戻されるでしょう」
一見ふざけていると思うような質問にも、白兎は真面目くさった顔で頷く。……グリフォン、君の心配はそこなの? 他にももっと言うことはあると思うんだけど。
「それならいいよお。俺、誰が王さまになろうと、のんびり昼寝できればいいし」
やっぱりこの自由人は変わらない、どうにも周囲に流されない性格らしい。悪い意味で。
でも一応、これで全員一致の可決になる。……本人を除いて。
メアリを旗印に、反乱軍の成立だ。
……あとはまあ、ありすの意思も聞いてはないけど。
「では、僕らの意見は、これで決定です」
白兎は凛とした声で告げた。やっぱり宰相向きかな、もう少し大人になったら非の打ちどころもないやり手に育つだろう。そんなことを考えながら、俺は白兎を見ていた。
「……うまく、いくかな?」
俺たちを上目遣いに見上げて、ミルクが呟く。その口振りは、明らかに不安そうだ。……まあ、当たり前か。俺だって不安がないわけじゃない。
「それは、やってみないと何とも言えませんが。しかし、これだけの役持ちを揃え、メアリ――今のアリスという旗印も手に入れました。さらに女王勢はほぼ壊滅状態にあります。……勝機は十分にある、と言えるでしょう」
しかし、そんな心配など無用とばかりに、白兎は強く言い切った。
勝機はある。たしかにそうだ。でも、彼が最初に言った通り、やってみないと何とも言えないというのは事実。状況がどう転がるかなんて、やってみなくちゃ分からない。けど。
「……やるよ」
「チェシャ猫?」
「絶対、やってみせる」
俺は半ば自分に言い聞かせるように呟いた。
――絶対。絶対に、やってやる。
別に、自信があるわけでも大した勝算があるわけでもない。だけど、決して負けるわけにはいかなかった。
目を閉じたらいつでも脳裏に浮かんでくる、一人の女の子の笑顔。
怒鳴られたり嫌がられたりしてる方が圧倒的に多いはずなのに、――何故だろう。いつも思い出すのは数えるほどしか向けられたことのない笑顔だ。そりゃメアリのように美少女とはいかないけど、笑ったらそこそこには可愛い。いつも笑ってればいいのに、なんて言ったら、彼女はまた怒るだろうけど。
「……まあ、そうですね。失敗は許されない。僕らの失敗は、同時に彼女を危険に晒すことでもある」
俺がやってみせると言ったその意味を理解したのか、白兎は頷いた。
かけがえのない、彼女の笑顔。
帰すと約束した。忘れないで、と別れも済ませた。……バツが悪くて顔を合わせられないのは、彼女を約束通りに帰せない自分がいるからだ。
失うのが怖い。元の世界に帰ってしまうのを満面の笑みで見送れる自信はないが、俺は、その日だまりのような笑顔を目の前で切り裂かれることが何よりも怖いのだ。
だから、……ドードー鳥に連れて行かれたなんて聞いた時は、心底ぞっとした。――もう二度と、そんなことはさせるもんか。
「やろう。白兎――いや、ハク。帽子屋、夫人、エース、ミルク、ヤマネ、ディー、ダム、グリフォン……みんな。絶対、やり遂げよう」
正直なことを言えば、この中にはそこまで仲のよくなかった相手もいた。
味方という名のもとに集まったからといって、お互いよく思っているわけでもない。
けれど、俺が言って見渡せば、みんなが一様に強く頷いていた。
まるで違う色をした瞳が、違う意志を持った瞳が、しかし同じ旗のもとに手をかざそうとしている。
――これが、あの子の……ありすの、力なんだ。
俺は目を閉じる。
ここに集まった絆は、間違いなく彼女がくれたもの。あの白兎やグリフォン、自分で言うのも何だけど俺までも巻き込んでしまうほどに大きなものだ。
どうしようもないこの国のいびつさを暴きながら、それでもこの世界で生きたいと俺は思った。それが多分、彼女の示してくれた道だから。たとえ、生きる世界を違えても、彼女は『会えてよかった』と言ってくれた。だから俺は、生きていける。ここで。この世界で。
「俺たちの手で、国を取り戻そう。俺たち自身と、彼女のために」
そう。ようやく見えてきたんだ。
――俺の、俺たちの進むべき道が。
「そう、だから。
――やるべきことをやろう。
やるしかないことをやろう。
やれるだけのことを、やろう。」
チェシャ猫の心中なんてありす本人が聞いたら卒倒です。
というかありすのことを可愛いなんて思ってるのはやつだけ。
……娘とか妹みたいな感情でなら帽子屋とか夫人も思ってるかなー?←
次回はまた視点戻ります。
次こそ展開が吹っ飛ばないよう頑張ります(;´Д`)