第82話 生きてこそ
「は、ハク君……?」
驚きに腰を浮かせる。
嘘、本物……だよね。いや、疑う理由もないけれど。
でも、今まではこんな風に近くで、当たり前のように話す機会もなかったものだから、どうしても不思議に思ってしまう。しかしそんな私を見下ろして、ハク君は涼しげな表情のまま首を傾げた。
「何ですか、ありす? 変な顔をして」
顔は元からだ失礼な!
どうやらハク君は私と違い、こうして話していることを大して変なふうにも思っていないらしい。ああ、まあ当たり前か……。だって、私はもうアリスじゃないんだから。捕まえたら元の世界に戻れる――話はもはやそんな次元にはないのだ。
……それよりも。
「ありし日の私の仇ィっ!」
「ぐっ!?」
私は突然、派手にラリアットをかました。
不意打ちを受けたハク君は勿論、なかなか殺人的な音を立てて床に倒れ込む。
うん、よし。……チェシャ猫やグリフォンなんかと違って背丈が私に近い分、ラリアットしやすいな。綺麗に決まったし、何だか達成感。
「な、何してんのさありす!?」
私が勝手に満足する中、動揺を声にしたのはミルク君だった。
いや、多分他の人も、声に出さないだけで驚いてはいるのだろう。目が一様にまんまるくなっている。
「いや、ね……だから、ありし日の私の仇」
「だからどういうこと!」
てへ。
舌を出してこつんと自分の頭を小突く……なんて私がやっても気持ち悪いだけなのでやらないが。うん。やりませんよ。
「ちょっとね。この少年に恨みがあって」
何の話かって、……私が出て行ったチェシャ猫を追いかけていった時の話だ。
ずっとしばいてやろうと思っていた。乙女の唇は安くないぞ! ていうかこの国の人のこの無意識のセクハラ癖どうにかしろ。
「よし、すっきりした。ってわけで起きてハク君?」
「……、……随分と横暴ですね……」
「いい加減やり返さないと」
やられたらやり返す。それが私の流儀だ。……いいことなのかどうかは分からんが。今の場合は多分悪循環を生むだけですね。分かってます。
でもこの国の人たちに翻弄されてばかりっていうのも癪だし、まあ、……痛み分けってことで。分けてないけど。
「……何だか、随分この国に順応してきたようですが。それでありす、帰る算段はあるんですか?」
「え? それは……ハク君が考えてくれるかなって」
「帰る気あるんですか」
ありますてへ。
仕方ないじゃない。頭悪いんだもん。
と思っていると、エースさんが私にあんまりだという目を向けていた。……さっき俺にあんなに底冷えするような目を向けたのに、と。うんごめんね? でもそれはそれだ。大体私はエースさんほど楽観的ではないのだし。
「……まあ、いいでしょう。元よりありすに期待はしてませんから」
しかしハク君は相変わらず失礼な奴だ。でもその通りなので別に期待してもらわなくて構いません。ラリアットしたばっかりだしね!
と、思ったのだが。
「――むしろ、ここまで揃えただけで上出来、と言うべきでしょうね」
「え? 何が?」
「味方ですよ」
味方。――そういえば、そんなこと。言われて初めて気付いて、私はぽかんと口を開ける。……ああ、我ながら残念な頭だなあ。3歩歩いたら全部忘れる、ざるのような造りにでもなっているのかもしれない。笑えない。
そう、忘れていたけど、そうだった。味方が、みんな、揃ったのだ。私はぐるりと周りを見回す。こちらを一様に見つめるみんなの瞳。それに合わせて、ハク君が凛とした声で告げていく。
「帽子屋、公爵夫人、三月兎、眠り鼠、双子の兄、双子の弟、ハートのエース、――それにこの場にはいないですがチェシャ猫に、メアリ=アン。……それから、白兎」
最後に自分の役名を告げ、ハク君は赤い瞳を一周させた。
「メアリ=アンが同時にアリスの名を負うことになってしまったのは誤算でしたが……、まあ、これも使いようによるでしょう。グリフォンを味方につけることもできましたし。貴女にしては上出来です、ありす」
……とりあえず、褒められてる気がしない。
ていうか、そういえばチェシャ猫は部屋にいなかったのね。どこに行ったんだろう? またふらふらしてやがるのか。いつものことと言ってしまえばおしまいだが。だけど、大事な話をする時に限っていないんだから。
「ありす。手を出してください」
「え。あ、え? え、えと、こう?」
手。手? 出して、って?
全然違うことを考えていたので、私は言われたことにすぐに反応できなかった。
そうして胡乱げな視線を向けられながらも右手を差し出すと、ハク君の手が、するりと私の手を取って。
――口付けた。
「ありす。貴女は僕に対する誓約を忠実に守ってくれました。ならば僕も応えましょう。僕は必ず、貴女を元の世界へと戻してみせます」
それは、そう、まるで忠誠を誓った主に対してするみたいに。
わわわ、な、何してんのこの子ー!
唇に同じことをされたことがあるのに(いや、不本意だが)たかが手の甲ごときで動揺するなんておかしいのかもしれないけれど、それでもやっぱり赤面してしまう。まるで慈しむような瞳。とろけるような、甘い声。畜生美形砕け散れ!
「ありす」
「ぴゃいっ!?」
しかし胸中で毒づいても、実際はどうせこんなもんだ。……虚しいなあ、私。
条件反射のごとくびくりと肩を震わせた私を見て、でもハク君はいつものように面白がるんじゃなくて、年齢にそぐわないほどに秀麗な微笑みを浮かべた。あれ、と私は思う。その笑みは、――そう、たとえば。
月並みな言葉だけど、さながら、天使のようで。
「よく、頑張りましたね」
……よく、頑張った?
私は知らずぱちくりと瞬いていた。それから。
また何で、そう、まるで私よりも年上みたいに。
そう、ちょっとだけむっとして、その言葉を突っぱねようと思ったのだ。何で、そんな子供みたいにって。私の方が年上なのよって。
「もう、帰しますから。……もう、帰れますから」
だけどそう言ったハク君の声に混じっていたのが同情なんだか悲哀なんだか、それともどうしようもないほどの後悔だったのか――とにかくぽつりと心に落ちてきて、墨みたいに広がって、胸全体を震わせて。
帰れる。
その言葉ばかりが、胸の中でこだまみたいに裏返って行き交っていく。
だから。
次にぽつりと落ちてきたのは何だったんだろうって自分で思いながら、私は知らず知らずのうちに、顔を両手で覆っていた。
「……ありす」
「ありす」
みんなの、私を呼ぶ声が聞こえる。
この世でただ一つの、私の名前を呼ぶ声。
アリスなんて、童話のように決められた名前じゃない。
歯を食いしばって声を呑み込みながら、私は、ひねり出すように呟いた。
「……たり、前でしょ……」
震えて、掠れた声だったけど。
一緒に、嗚咽も漏れてしまったけど。
「当たり前でしょっ……帰りたかったんだから……!」
それでも、言わずにはいられなかった。
ハク君が私の涙をそっと指で拭って、そのせいでそれは余計にあふれ出してきてしまう。
洪水のようにぼろぼろと落ちてくる涙をもはや止めようともしないで、私は、子供のように泣き出した。
帰りたかったんだから。
ずっとずっと、あの世界に、帰りたいと思ってたんだから。
「ありす……ごめんなさい」
無理をさせました。そう言って、ハク君はわんわんと泣き喚く私の身体をそっと抱きしめる。抱きしめてくれた腕はあたたかくて、ほら、また、枯れることなく涙があふれてくる。
知らないうちに溜め込んでいた色んなものがあふれ出してきて、もう私自身ではどうしようもなくなっていた。
愛する世界。愛する人たち。……会いたくて、仕方がない。
けっして、この国の人を、ここに集まった人たちを恨んでるわけじゃない。
だけど、突然奪われたものを、人を、世界を、懐古しないわけにはいかない。思い出さずに、私はどうして生きられただろうか?
忘れていたはずなのに、どうしてそうやって掻き立てるのだろう。
彼が言わなければ、気が付きもしなかった。
その感情が、だけど今は蓋をしようもないほどにあふれてこぼれ出していて、ただ、ただ、私は疲れ切ってしまうまで泣き続けていた。
(私は、帰りたい――帰りたいの)
……でも、選択は、あまりにも残酷だ。
☆★☆
「ありす、落ち着いたか?」
「あ、はい……ありがとうございます、帽子屋さん」
そうして散々泣き散らした私は、しばらくしてからようやく落ち着いて、今は帽子屋さんの淹れてくれた紅茶でひと息入れていた。
ともすれば応接間のようにも思える、二つ黒い高級そうなソファーが対になって並んだ部屋。そんな部屋に私は今いる。あえてこの場所が選ばれたのはおそらく、似たような構造になった隣の部屋で今、帽子屋さんを抜かした主要メンバーで今後についての話し合いをしているからだろう。……私がそれに入っていないのは、私の体調を考慮したみんなが私に休むことを勧めたせいだ。まあ、勧めたというか、半分強制だったような気がしないでもないけど。
「いや、こっちこそ、悪かった。……考えてみれば、ありすはまだ14歳の女の子なんだよな」
そんな私の微妙な心情を知ってか知らずか、帽子屋さんはふっと苦笑を見せる。……少し引っ掛かる物言いではあったけれど、別に彼は私が気にするような意味合いで言ったのではないのだろう。張りつめていた糸が切れてしまった私は、うまく力が入れられずに情けなくふにゃりと笑った。
「自分でも、なんか、忘れてたんですけどね。言われたら……、涙、止まらなくなっちゃって」
目を閉じたら、さっきのことが鮮明に思い浮かぶ。まあまあ、よくあれほどまで泣き喚いたこと。やり切れなくなったのはたしかだけど、それにしたってあんなに泣いたのは一体いつ以来か。
こっちに来てから泣いたことは初めてじゃないけれど、あそこまで喚いたのは多分記憶にある限りはじめてだ。さらに言うなら、元の世界を含めてもきっと幼稚園以来の出来事。
「……あの、ごめんなさい。その、…………情けなくて……」
「何だ、そんなこと」
恥ずかしくなって俯くと、うなだれた私の頭に優しく手が乗せられる。帽子屋さんの声音はお説教の時とは打って変わって柔らかくて、枯れたはずの涙さえ出てきそうになった。……目痛いし、正直なところもうしばらくは泣きたくないんだけど。
「そもそも生まれた世界、育った環境が違うんだ。それに、何を言ったってありす、お前はまだ子供だろう? いきなりこんな理不尽な事態に巻き込まれて、よくここまで頑張れたな」
「ありがとう、ございます……」
感動。私はただ震えて、そんなありきたりの言葉を口にするしかできなかった。うう、帽子屋さん、父親にしたいぜ。……私は、ただ無我夢中で、がむしゃらで、必死に腕を振りながら走ってきただけなのに。
そんな無茶な私を守ってくれたのは、そして元気づけてくれたのはいつもみんなの方だった。一生に一度だって経験しない、珍しいを軽く飛び越してありえないような事態に巻き込まれた私を。
そう思うと、本当にありがたいんだなあ。帰りたいなんて喚いてしまった私が恥ずかしい、彼らのことを思えば気の毒だったかとすら思う。あれは私の偽りようもない本音なのだから、訂正しろと言われてもできないけど。でも、ひとつだけ。
「――あのね、帽子屋さん」
「……何だ?」
一つ息を吸ってあらためて顔を上げると、私は帽子屋さんに向き直った。私の頭をなでる手を下ろして、帽子屋さんも真剣な瞳で私を見る。
――ありがたい。ありがとうって、思ってる。だからこそ、私は思うのだ。
「私は、さっき言った通り……元の世界に帰りたいとは思っています。でも、このままじゃまだ、帰りたくない」
「……ありす?」
それってどういう、と、帽子屋さんは言ってそこで言葉を止めた。
私の目を、見て。
「……名前をあげたい人が、いるんです」
呟くように、ささやくように。でも気持ちは、強く。
私にもできることがあるって思う。だから。
決めた。
決めたのだ、私は。
帽子屋さんはやけにゆっくりと目を見開いて、私を見つめていた。それからかすかに、唇を開く。
「――チェシャ猫、か」
「はい。……帽子屋さんのことを聞いて、迷ったりもしたんですけど」
2代前のアリスの話を聞いた時。チェシャ猫に言って、あんなにも切ない顔をされた時。
私にとってはただ『名前』というだけだが、それほど得難く、嬉しいものなら、失った時の気持ちはどんなものだろうと。
目を閉じる。思い出す。怯えて逃げた、あの日のこと。
彼に絶望を味わわせたくはない。そう強く思って口を噤んだ時の気持ちは、今も全く変わっていない。だけど。
だけど、変わったことがある。
「私は、死んだりしない」
私は決めたのだ。
決めたのは、貴方を悲しませないってこと。
そんなことは絶対にしない。貴方が名前を失ったりしないように。自分を責めて壊れてしまったり、しないように。
「……ありす、……」
「生きます。生きて、帰ります。私は生きて帰るんです。……帽子屋さんにこんなことを言うの、ひどいかもしれませんけど、私は死なない。死ねない」
半ば捲し立てるように告げていた。彼に聞いてもらう話でもないかもしれない。でも言っていた。言わずには、いられなかった。
私は帽子屋さんに名前をあげることはできない。何故なら彼には、名前がある。それが今は失われていたとしても。
ただ、失われているからこそ、こういう話をするのは酷だろう。きっと彼は嫌な思いをする。聞きたくないと耳をふさぐかもしれない。そんな話はやめろと怒られるかも。
だけど私には、他に名前をあげたい人がいる。……それをどうか、告げさせてほしかった。彼だから。彼だからこそ、その気持ちは伝わるだろうか。膝の上の手をぎゅっと握りしめる。手の甲に、青白く血管が浮かぶほど。
「……いいんじゃないか」
けれど、私の悪い予想に反して、帽子屋さんはそっと微笑んだ。夜空に花が開いたように、鳥が空に羽を開くように。
「ありす。いや、もしかしたら俺は、そう言ってほしかったのかもしれない」
「帽子屋さん」
「あの子とお前と、どこか重ねていた。今もきっとそうだ。……意志の強さが、似ている」
彼の笑みは切なげだ。でも、どこか吹っ切れたようでもあった。
私は少し驚いていた。優しい彼が、私の言葉に本気で怒りを募らせるなんて、そんなことは思っていなかったけど――
それでもまさか、そういう風に後押しをされるなんて。……いや、そう思えるほど無茶苦茶なことを先に言い出したのは私だが。
もしかすると、ほとんど忘れてしまった彼女に、彼はひと時でも触れることができたのか。
「……余計な話だったな。悪い、つい」
「……っいえ……」
苦笑する帽子屋さんに、私はぶんぶんと首を振る。余計だなんて、そんなわけない!
彼は、大切だったんだ。本当に大切に思っていたんだ。だからこんなにあたたかい目で、私を見ていてくれる。そう思うとなにか熱いものが喉の奥まで迫り上げてきて、堪え切れずに私は口を開いた。
「あの、彼女も、幸せだったと思いますから!」
立ち上がろうとした体勢のまま驚いた顔で振り返る帽子屋さんは、唇をわずかに開いた状態で固まっていた。群青色の前髪が、額からさらりとこぼれ落ちる。
彼女が好きだった帽子屋さん。私が好きな帽子屋さん。……こんなに、素敵な人だから。
「私も、アリスで……彼女もアリスで。だからたぶん、少しだけ、彼女の気持ちが分かります。こんな、まるで違う世界でも生きていけたのは、理不尽なゲームの中でもいられたのは、帽子屋さんがいてくれたからだって」
私は捲し立てるように言い募っていた。自分では半分、何を言っているのか分からなくなりながらも。
こんなに素敵な人だから、彼女は、幸せだったと思うの。
私にチェシャ猫がいるみたいに、関係性は少し違ったろうけど、大切な存在。
ひどい目に遭いながら、――壊されそうになりながらも、きっと彼女は後悔などしなかったのだ。
「私は元の世界に帰りたい、けど、会えてよかったとは思ってます!」
心臓がまるごと声を上げているみたいだった。
ゆっくりと帽子屋さんの端正な顔から驚きが消えていって、代わりに、困ったような切なげな微笑が浮かぶ。そんな彼はどこまでも美しくて、ああ、やっぱりこの世界が好きだ……って思った。
もう嫌になってもいいはずなのに。さんざん痛い目を見て、殺されかけて、帰りたいと泣いたばかりなのに。
――だから彼女は、死ぬことすら選べたんだろう。
こんな素敵な冒険譚、他の世界にはきっとない。
「……ありがとう。ありす」
帽子屋さんは、そっと私の頬に手を添えた。長くて冷たい指が、私の頬から熱を奪っていく。
――その目で、彼女を、見ていたのかな。触れるほど近くに、やさしい色をした瞳があった。
「俺はそろそろ、隣の部屋に戻る。……ありすはもう疲れただろう、ゆっくり休んでいてくれ」
妹をいつくしむ兄のように額をさらりと撫でてから、帽子屋さんは今度こそ立ち上がった。
彼の横顔には、決意の色が滲み出ている。正解のないパズルに、なにか自分なりの答えを見つけたみたいに。
「ありす」
ドアの前に立って、私に背中を向けたまま、帽子屋さんは私を呼ぶ。
何だろうと私がその大きな背中を凝視していると、最後に彼は言った。まるで、自分自身に誓うように。
「――俺たちは、絶対、お前を死なせたりはしない」
絶対に、死なないよ。
生きてこそ、私にはできることがある。
今話から文字数増えてます。ってあとがきに書くのもなんなんですが。
理由は単に、私がこの連載を100話で終わらせたいからなんですが……読む気起きねえよって思われましたらごめんなさい(;´Д`)
次回あたりからおそらく超展開。吹っ飛ばないように頑張ります。