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第80話 メアリ=アンのささやかなる願望

 メアリ=アン。

 彼女はそう呼ばれて愛されていた。

 アリスによく似た容姿、鈴の音のような愛らしい声、天使と見紛う微笑。

 《アリスによく似た少女メアリ》。住人たちはみんな彼女を愛し、可愛がっていた。


 しかし。


 メアリ=アン。

 彼女はアリスにはなれない。

 アリスによく似ていても、愛らしい声で歌っても、天使のように微笑んでも。

 《アリスの模造品メアリ》。――もっと確かな愛が、欲しかった。



 きいろとあおのおんなのこ。

 笑いながら泣いてるおんなのこ。

 子どもたちの小さな妖精。

 絶望の色だって纏えるけれど、



 ――それでも、アリスみたいには愛してもらえない。



 もっと愛して。

 変わらない愛を。

 もっと求めて。

 私しか見えないように。

 もっと貪って。

 それすら惜しいと思うほど。

 もっと笑って。

 私だけに頂戴。

 もっと言って。

 私を愛してるって、それだけ、ただ求めてるのはそれだけなの――




 だから《アリス》になったのに。




 どうして?

 それでも貴方が見てるのは、《私という無二の存在アリス》じゃなくて《名無しの少女あのこ》。

 これ以上、何を求めているのかが分からない。……ねえ、教えて。



 どうして私は、貴方に愛してもらえないの?




 ☆★☆




 チェシャ猫の視線に射竦められたメアリは、見ているこっちが可哀想なほどに青くなっていた。

 助けてくれるはずのドードー鳥は傍らでおやすみ、これだけ青ざめていれば美少女も形なしだ。


「ち、チェシャ猫……どうして……」

「どうして、って聞きたいのはこっちなんだけどね。何でこんな真似をしたわけ?」


 だけどチェシャ猫は容赦ない。

 その一言一言にメアリが怯えているのは分かっているだろうに、わざわざそんな刺のある口調。――止められない私も私なんだろうけど。嫌な奴、分かってる。でもどうしようもないもの。ふくれあがるこの気持ちは。


「あ、ありすは……知らない……会いたい、って言ったのは、たしかに私だけど……でも、でも、ドードー鳥が連れて来たんですもの!」

「そうじゃなくてさ。――それはいいよ、別に。ありすにも責任があるみたいだし。そうじゃない。どうしてアリスになろうなんて思ったわけ? って」

「だ、だって……」


 泣きそうな声音。少しつつけば、きっと破裂してしまうだろうと思うほど。


「だって、みんな、アリスが好きだから! 好きになってもらいたかったのよ……私だって好かれたい! みんなアリスアリスって、そうやって、言うから……っ」

「メアリ、あのね」


 チェシャ猫がふいに優しい口調で呟く。

 諭すように、幼子をあやすように。……実際、メアリは泣き喚く幼子みたいだった。


「アリスっていうのは、君が思うほど素敵なものじゃあないよ。――愛されて。愛という名のもと奪われて、結局は殺される。……それに、メアリ、君は十分愛されてたと思うけど」

「……っ」


 何を思ったか私をちらりと振り返りながら言うチェシャ猫に、ぎゅっと胸の前で両手を握りしめ、メアリは俯く。


「それでも……足りないわ。アリスみたいには、愛してもらえなかった」


 こんなに可憐な少女が、足りないと呟いた。

 もっと愛してほしい。

 ……それは、実際、限りのない欲なのだろうけど。

 アリス。アリス。

 この国の人がどれだけ、アリスのことを溺愛していたのかが分かる。だから、こうやって、どこかで愛されない歪みが出てくるのだ。


「それに……私は、私は……アリスに似てるから、って言って愛されてただけ。似てなかったらそんなもの、意味がないのに」

「だけど、メアリ……君もこの国の住人だから。分かってたでしょ? 理性じゃなくて、本能がアリスを欲しがってる。どうしようもないこと」

「分かってる……私だって、アリスが好き。一方でどんな嫌悪感を覚えていたって、この心臓がアリスのことを愛してるの! だから! だから……アリスになろうって思ったんじゃないっ」


 どくんどくんと高鳴り、赤い血が迸る心臓。

 その心臓が、アリスを愛していると叫んでいる。

 ――気持ち悪い感覚だろう。私は思わずそう思ってしまった。

 メアリがアリスになろうと思ったのも、仕方のないことかもしれない。

 愛されたい。なのに愛している。わけの分からない感覚の中で、そう思ってしまったのも。


 ……だけど。


「……チェシャ猫。あの、ちょっといい?」

「ありす?」


 言って、私はチェシャ猫から離れ立ち上がる。

 そこかしこにぶつけた全身が痛くてよろめいたけど、そんなことを気にしている場合じゃない。あえて気丈に振る舞ってみせなきゃ。

 震えるメアリの前に立てば、思ったよりもメアリは小さくて、せいぜい私と同じくらいの背丈だった。さらに言うならば、メアリは華奢で小柄な女の子だ。


「メアリ。貴女の気持ちは、分からないでもないけど」

「し、知ったようなこと言わないでっ」


 それでも強気に噛み付くメアリ。……知ったようなこと。そう言われれば、そうかもしれない。


「そうね。貴女たちがアリスをそんなに愛している気持ちは正直よく分からないけど、――それでも、愛されたいって気持ちは分かる」

「…………」

「アリスなんて存在がいるなら尚更。しかも似ているって言うだけで愛されてるんなら皮肉な話よね」


 チェシャ猫が、何を、と言いたげな表情で私の方を見ていたけれど、それは無視。飲み込んでおく。

 もしかしたら、チェシャ猫には分からないのかもしれないけど。


「だから、アリスになりたいって気持ちは、間違いじゃないのかもしれない。そこのところの難しいルールとかは――、よく、分からないけど」

「……なに、よ」


 明らかな猜疑と狼狽の目つき。怯えている、とは私でも分かった。


「だけどねメアリ。そんなんなら多分、アリスになっても虚しさは変わりゃしないわよ」

「な……」

「だって、“アリスに似てるから好き”って感情が、“アリスだから好き”に変わるだけだもの。どうせそんなに変わらない。満たされないのは同じ」

「……な、何でそんなこと……っ、私の立場に立ったこともないくせに!」

「確かによく分からないけどね。貴女の気持ちなんて」


 あっさり肯定すると、メアリは捨てられた子犬のような目で私を見た。

 ……弄んでいるつもりはないんだけど。

 でも、メアリがあんまり弱気なことを言うものだから、つい苛立ってしまう。

 もしかすると、彼女があまりによく似ているからかもしれない。私自身に。


「大体私は貴女にお説教したくて来たわけじゃないし。貴女がそんなに嫌がるなら、これ以上言うつもりもない」

「っ! な、なら何でっ」

「腹が立ったから。――それ以外にある?」


 泣きそうに歪む顔。

 それを見て、ついに私は、その頬を思い切りひっぱたいた。


「っ!?」


 ぱあんと響く乾いた打音。

 頬を叩いただけではさすがに倒れ込んだりしなかったが、それが何なのかを理解した時、メアリは明らかな驚愕をその目に浮かべていた。

 チェシャ猫も……多分、同じようなものだろう。

 文句も詰問も何も出てこないところを見ると、声さえ出ないのかもしれない。驚きすぎて。……私も相手も女の子なわけだから、一応私は平手で我慢したんだけど。


「な……っ、何、するのよっ!?」


 ようやくメアリは声を絞り出すけれど、泣きそうな顔で言われたって気迫も何も感じない。……ただただ苛立ちが増幅するだけ。


「何って、ひっぱたいたんだけど。ずっとこうしたいって思ってたから」

「……っ」


 涙に潤む大きなサファイアの瞳。

 必死に睨んでいるんだろうけど、私が睨み返すと、すぐに怯えに歪んでしまう。

 まるで、おもちゃを取り上げられた小さな子どもみたい。


「腹が立ったのよ。まるで自分だけが不幸みたいに……こんなに愛らしい容姿をして、みんなに愛されているのに。ディーやダムやミルク君は本当に貴女のことを慕っていたのに」

「っ――」

「腹が立つの。貴女、私によく似てる」


 愛されないといじけてみたり、わがまま言って振り回してみたり。

 ……よく似ていて、気持ちが分かるからこそ、腹が立つ。

 まるで鏡を見ているみたい。もどかしくて、腹が立って、――そうして、救ってあげたくてしょうがないのに。


「大切なものって……そういうのって、多分、その時には気付かないものなんだろうって思うけど。……でも、失った時に気付くんじゃ遅すぎるのよ。貴女は一体、自分の何に責任が持てる?」

「……っ」

「私は、今なら言える。私は私の全ての言葉に責任を持つわ。たとえ間違っていても、やらないで後悔するのは嫌なの」


 私を捉えて歪む瞳。どうしようもなく、苦しげに。

 ――ああ、そんなこと、簡単に誓えたもんじゃない。分かってる。私も、ついさっきまではきっと言えなかった言葉。やっては後悔して、踏み切るのが怖くなって、足を止めてしまう。そうして遠慮を知ってしまう、大人になっていくように。

 だけど、それなら私は、己の未熟を愛したい。せめて、せめて今だけでも。格好悪く足掻いて生きたいって思う。

 ――だって今は、大切な人がいるから。

 だから、今は。まっすぐに前を見据えて。


 見据えた先は、美しい青の瞳。


「愛されたいなら愛しなさい、メアリ! 本当に愛してほしいなら、全部見て! 貴女が今愛しているものだけじゃない、他にも素敵なものは世界にたくさん溢れてる! 全てを愛せない限り、全てに愛してもらおうなんてただのわがままでしかないわ!」

「――違うっ……!」


 蚊の鳴くような声。

 震える声で、それでも精一杯、抗議の声が耳に届いた。

 ――違う。

 メアリはついにぼろぼろと涙を流しながら、それでも、私を強く睨んでいた。


「全てに愛されたいなんて……、違うの、私はっ……」


 生血通う心臓が激しく高鳴っているかのように、メアリは、ぎゅっと胸を押さえて。

 苦しそうに歪む表情さえ振り切り、彼女は、肺いっぱいに息を吸い込む。


「私は……私が愛してほしいのはっ、愛してるのは! チェシャ猫、ただ一人だけなのっ!」


 それは、心からの――雄叫びだった。


 アリスになりたかったんじゃなくて。

 ただ一人の、特別になりたかっただけなんだって。


 それは、アリスでもメアリ=アンでもない、名もないただ一人の女の子の、ささやかな願い。


「……、だってさ」


 そうして私は、振り返る。


「どうする? チェシャ猫」

「……どうする、って……ねえ」


 完全に呆れ果てた顔で私を見下げるチェシャ猫。……何よ。何でそんなあきらめたような顔で私を見てるのこいつ。腹立つな畜生。


「ありすは俺にどうしてほしいわけ」

「って言われても。……メアリの気持ちに応えるのはチェシャ猫だから、私の意思とか何もないと思うんだけど」

「うわあ、ややこしいことしてくれたなあありすってば……」


 チェシャ猫はこめかみを揉むように押さえると、メアリの方をちらりと見遣る。

 私もつられて視線を元に戻すと、メアリは、俯いたままエプロンドレスのスカートをぎゅっと両手で握りしめていた。……手の甲に青白く血管が浮かんでいる、どれほど強い力で握っているんだろう。

 怖かったに違いない。

 拒絶されたら、と思ったに違いない。

 その思いを告げるのに、一体どれだけの勇気を必要としたことだろう。


「チェシャ猫」


 目をチェシャ猫の方に戻し、私はアメジストの瞳をじっと見つめる。


「応えてあげて。メアリは貴方に答えを求めてる」


 眉尻がやや下がり、チェシャ猫は小さく頭を傾けた。

 勘弁、とでも言いたいのかもしれないけど、それは私が許さない。

 逃げるなんて男じゃないわ。貴方の質問にも彼女は必死になって答えたのに。


「……メアリ」


 私の目から視線を逸らし、ふっとため息を吐きながらも彼女の名を呼ぶチェシャ猫。

 彼は私の肩に手を置いて横をすり抜けると、彼女と、ようやくまっすぐ向き合った。


「ごめん。ありがとう、君にも随分と辛い思いをさせた」


 私はまるで逆を向いているから、何が起きているのか分からない。

 ただその場に触れる吐息と沈黙が響くのを聞くだけ。

 溶けてしまいそうに熱い紫の瞳と、涙に潤んだ青い瞳が絡み合うのを思いながら。


 ――ただ、ただ、チェシャ猫の声音はやさしい。


 いとおしく、じゃなくて。

 ……もう二度とやさしくできないから、今、精一杯のことをするかのように。


「俺の責任なんだ。君の孤独を分かっていて……どうしてあげることもできなかった」


 チェシャ猫が、さらに踏み出す音。

 聴覚ばかりが過敏になる。


「君の気持ちを聞いて分かった。俺はただそばにいたふり、優しいふりをしてただけだって」


 どこまでその距離は近くなるのか。

 いつの間にか、私の肩に置かれた手は離れていた。


「……メアリ」

「言わないで」


 ――ふいに、メアリが強い口調で拒絶した。

 私は驚いて肩を跳ねさせる。言わないで? 答えを求めていたんじゃないのか。

 けれど。


「分かってる。貴方はそうやってまた優しいふりをして、結局私を好きになってはくれないんだって」

「……メアリ」


 跳ね付けるメアリの言葉に、さっきまでの弱さはない。

 ……いや、弱いからこそ、自己防衛のように針を巡らせるのか。

 どちらにしろ辛い。そんなことを言えば、同情なんていらないと彼女はやっぱり跳ね付けるんだろうけど。


「もういい。もういいわ、チェシャ猫。貴方の答えは分かってる」


 なんにも納得していないような声で。

 でも、メアリは言う。

 静かな声で。すとん、と、まっすぐ胸に落ちてくるような。


「……貴方が、私じゃなくてありすを好きって言う理由も、少しだけ……少しだけ分かった気がするから」


 ふと、その瞬間だけ。彼女の声が、ぴん、と震えた。

 メアリ――多分そう言おうとしたチェシャ猫の声にならない声を遮って。


 メアリが、私の腕に指を絡ませ、無理矢理に振り向かせる。


「ありす」


 絡み合う目と目。

 綺麗な女の子の顔が、言った。


「大嫌い」


 微笑んで、歌うように、まっすぐに。

 ――ああ、それは、私もよ。

 言った声音は、どこか、泣きそうな響きを孕んでいた。






 愛してるの、光。

 だけど、その色褪せない輝きに届かなくて羨ましくて、私はいつもきゅっと胸をしめつけられる。

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