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第79話 ありすとアリス

「っつ……!」


 どさ、と遠慮なく落とされて、顔面から土に突っ込むはめになる。

 痛い。柔らかい草がところどころ茂っているとはいえ、下ろされたのではなく落とされたのだ。しかも長身イケメンの肩から。……結構痛いんですけど。


「……女子なんだから、もうちょっと丁重に扱ってよ」

「あんまりそういう風には見えないな。そこまで薄汚れてると」


 けれどこいつは私をそういう風に扱う気はまるでないらしい、……まあそうだろうけど。

 むしろお姫様のように扱われた方が怖いと、私は負け惜しみのように口の中で呟いてみる。


「それで、メアリは? どこにいるの」


 私は身体を起こして土を払い、冷たい目をしたドードー鳥を見上げた。

 私を俵担ぎでメアリがいるというここまで連れて来たのはこいつだ。挑発したせいか元からそのつもりだったのか、その方法は非常に乱暴だったけど。


「――あら、ありすじゃない。こんにちは、わざわざ来てくれたの?」


 けれど、ドードー鳥に聞くまでもなく。

 背後からそれは現れた。

 鈴を転がしたような愛らしい声音が、鼓膜に不愉快な言葉を突き刺す。


「そう。あんたに会いに来たのよ、わざわざ」

「それはどうもありがとう、ありす。嬉しいわ」


 皮肉すら分かった上で言葉を返す、メアリ。嫌な奴だ。

 分かってる。私も似たような、最低な奴。私たちは所詮似た者同士なのだ。

 思って、振り返る。振り返れば――


「――え、……メアリ……、よ、ね?」

「嫌だ。今さら何を言ってるのよ」


 思わず、目を見開いた。

 振り返れば――いたはずなのは、黒髪黒目の美少女。

 なのに。

 振り返った私の目の前にいたのは、見事な金髪と碧眼を持った美少女だった。


「その、色」

「ああ……言わなかったかしら? 私はメアリ=アン。アリスに成り代われる唯一の存在」


 まとった空色のエプロンドレスをくるんと翻し、金髪碧眼のメアリはにこやかに微笑する。


「貴女がアリスだったうちは、アリスに倣って黒髪黒目でいなきゃいけなかったけれど。貴女がアリスじゃない今、私は通例に則って金髪碧眼なの」


 似合うでしょ、と。

 ……悔しいけれど可愛い。本物の美少女だ、私なんかとはまるで別物。

 彼女がアリス、と言われればああと納得が行く。それはこの国にお似合いだ。


「私は今じゃ本物のアリス。メアリ=アンでいなくてもいいの。これならチェシャ猫も、私のことを好きになってくれる!」


 高笑い。

 ……咽び泣き?

 いや、それはよく似ていた。……好きになってくれる。

 アリスだから。アリスなら、好きになってくれるって。

 ――いや、と、私はさっき抱いたばかりの自身の思いを否定した。

 本物の、美しい『愛される少女』のように思われたのに、それでも彼女はそれじゃない。


「メアリ」

「もうメアリじゃないっ」


 私が低くそう呼ぶと、メアリは裏返った声でそう叫んだ。

 ――ああ、壊れてるのか。私が感じたのは、そんなこと。


「ううん。貴女がいくら完璧なアリスになったって、メアリであることには変わりないわ。よく聞いて、メアリ」

「な、に……何なのよ」


 あからさまな威嚇。怯えの入り混じった感情だけど。

 私は引かず、どころか一歩、メアリの方に足を踏み出す。


「見てくれだけ好きになってもらって、それで満足? 貴女はそれでいいわけ? アリスっていう上辺を見てもらえば、それでいいの」

「うっ――うるさい! うるさいうるさい、黙って! 貴女にはもう関係ない!」

「たしかに私はもうアリスじゃないけど。でも、こうやって存在してる。関係できないことはないわ」

「私はアリスなのよ!? この国の人は愛してくれる、みんな、チェシャ猫だって本能には逆らえないわ! 女王様が私を見たのと同じように……恍惚のあの目で、私を、見てくれるの!」


 わがままを言って母親を困らせる子供のように、メアリはいやいやと首を振って叫ぶ。

 愛されたい。なんて、切実な願いなのだろう。

 ぱっと涙の粒が散る。細い肩は小刻みに震えている。――本当は分かっているんだ、真実を。


「分かってるんでしょ、貴女は――」


 それならこれで最後、とどめ。

 そうして終わらせようとした、のに――


 またも髪を強く引っ張られて視界がぐらりと転がる。


「った……!?」

「余計なことを僕のアリスに吹き込まないで。邪魔だよ、お前」


 地面に頭をしたたか打ち付けて、ぐわんぐわんと世界が歪む。

 文句を言ってやる余裕さえなかった。痛い。そして、状況を上手く受け入れられなくて。

 今度は何だ、なんて下手に勘ぐる必要もない。今度もまた同じだった。髪を引っ張られて、そのまま地面に引き倒されたのだ。

 けれどさっきと違うのは、今度はドードー鳥の顔が目の前にあること。美しい顔立ちも歪むと結構な迫力だ、と、痛みに顔をしかめながら思った。まだ髪をつかまれてる、し。


「お前なんて連れて来なければよかった。アリスの望むこととはいえ……アリスをそうやって惑わすなんてね。お前もあれと同じだ」

「あ、れ……?」

「猫だよ。よく似ている」


 ――ああ、チェシャ猫、か。

 そういえば彼はアリスを惑わすとか何とか。……確かに言動には謎が多いけど。

 でもねドードー鳥、よく考えてもみてよ。メアリはその猫が好きなのよ? 貴方はどうやら毛嫌いしてるみたいだけど。


「私は貴方の方が厄介だと思うけどね……私がアリスだった時はあれだけ執拗に追い掛けておきながら、今はチェシャ猫に似ている、ですって」

「……何が言いたい」

「どうせ貴方もメアリの上辺しか見ていない。アリスっていう名前が付いてれば何でもいいんでしょ? 実際、アリスじゃなくてアリストテレスでもいいんじゃない?」

「――舐めるなっ」


 ぐい、と髪を力任せに引っ張られる。あまりの激痛に、私は声にならない悲鳴を上げた。ぶちり。何かのちぎれる音。私の堪忍袋の緒……であるはずもなく、それは、私の髪の毛の断末魔の音だ。

 痛い。涙で視界がぼやける。髪って女子の命でしょ? いや、私は髪を大事にしていた方とは言い難いけど……それだってありえない。大体髪が抜けるまで引っ張るってどういうことだ。……そもそも貴方アリストテレスって分からないでしょ。多分。


「アリス! 俺にこいつを殺す許可をくれ!」


 ドードー鳥が喚く。けれどメアリはまだ震えていた。唇を真っ青にし、ただただ私を見下ろしている。

 だけどドードー鳥はあきらめず、まだ、叫ぶ。


「アリス! お願いだ、こいつを殺す許可を――」

「うるさいな。そろそろ黙ったら?」


 ぐしゃり。

 ドードー鳥を遮ったのは土を踏む音か、それとも。

 私は滲む涙をぱっと振り払い、激痛にも構わず目を上げた。


「この前はあんたとは戦いたくない、なんて言ったけど。……今、俺、怒ってるから」


 ピンクと紫なんて目に痛い色彩。私と同じ黒色の髪に生えた、三角の耳。

 目に入った瞬間、全ての出来事が、違う世界まで吹っ飛んでしまった。


「チェシャっ――」

「ありす。ごめん、油断した」


 私はがばりと身体を起こす。髪を押さえられてるかも、なんて今さらになって思い出すけれど、その必要はなかった。

 既に髪は解放されている。……ただし、何本か抜けてしまったけど。絶対毛根傷付いた。

 しかしその元凶であるドードー鳥は、今は何故か立場が逆転して、四肢を広げて地面に転がっている。


「まさか、グリフォンがありすを見捨てて逃げるだなんて……」

「ち、違うの。グリフォンが悪いんじゃない。私がみんなのところに行きなさいって言ったから」

「ありすにそう言われたからってのは言い訳にならないよね。情けない」

「ち、チェシャ猫……?」


 ……もしかして、いや、もしかしなくても怒ってる?

 吐き捨てるような口調に、私は思わず目を白黒させる。……私が、こんな無茶をしたからか。


「まあ、いいや。ありす、ひどい顔してるけど……それもいい。お小言は帽子屋と公爵夫人が一から百まで取っておいてくれてるから」


 そ、それはそれで怖いんですけど!

 違う意味で震え上がる私の背中をそっとさすると、チェシャ猫は、ドードー鳥の方に向き直った。


「それで。とりあえず、ドードー鳥……何か言い訳しておきたいことある? 後になったらもう言えないかもしれないよ」

「な、何をっ――」

「怒ってる、って、さっきも言ったと思うけど? 何回言えば分かるわけ?」


 挑発するような言葉。でもそこにいつものにやにや笑いはなく、ただ、戦慄するような鋭い眼光がある。……怒ってる、言われなくても……分かるくらい。


「それとも、言いたいことは何もないわけ? それならそれで助かるんだけど」

「……そ、その娘が」


 明らかに怯えた声音で、でもドードー鳥は勇敢に口を開く。

 その娘。……私のことだろう。他にいない。メアリは青くなったままドードー鳥の向こう側で固まってるし。


「お前にとって、何だと言うんだ? そんな何でもない娘に、何の意味がある」


 何でもない娘。ちくりとも来ない。だって私の方も、相手のことをどうでもいいと思っているから。

 チェシャ猫も別段ショックを受けたふうでもなく、ふわりと首を傾げる。


「つまんないね、ドードー鳥。まさか最後に言いたいことがそれだけなんて……雑魚って感じしかしないんですけど。ま、それなりに相応しいと思うけどね」

「な……」


 むしろショックを受けているのはドードー鳥の方か。

 私の頭上で交わされる口論。いや、口論と言うには一方的すぎる気がしないでもないけど。

 けれどそれにもチェシャ猫はいささか飽きたらしく、ため息を一つ落とすと、――懐から黒光りする銃を取り出した。


「ちょっと、チェシャ猫っ?」

「安心してよ。一発しか撃たないから」

「そう、いう問題じゃ――!」


 じゃきりと構えられる銃。銃にはあんまり詳しくないけれど、引き金を引けば弾丸が出てくるのは間違いない。

 焦る。いくら何だって、それは。……だって、当たれば死んじゃうじゃないの。綺麗事を言っていると分かっていたって。


「ドードー鳥も安心しなよ、一発だから。苦痛もない」

「…………」


 ドードー鳥はどこか悔しそうな表情。けれど、そこに恐怖も何もない。

 嘘、うそ、何でそういう顔をするの? あきらめるってこと? 避ける気もないわけ?

 そこまで考えて、気付く。……ドードー鳥の右足のひどい傷。ドードー鳥がさっき地面に転がっていた理由、か。息を呑んだ。

 ああ、あれじゃ動けないわけだ。上手く銃弾を避けようにも、立ち上がれもしないし。


「ち、チェシャ猫……」

「そんな顔したって無駄。大体、撃たれるのはありすじゃないでしょうが」


 目を決して逸らさず、銃口も逸らさないまま、チェシャ猫は淡々と言う。

 ……そんな。

 それはあんまりだ、と、声にならない声が言う。でももう喉がふさがっていた。何で、こんな時に限って、私の役立たず。


「それじゃ。またね、ドードー鳥」


 止めることもできず、チェシャ猫が軽い言葉で締めくくり、続いて銃声。

 とどろく衝撃。

 ドードー鳥の心臓に向けて銃口が火を噴くその瞬間、私は、思わず目をつむった。


 血や肉を抉る、間の抜けたいやな音。


 私の胸が抉られたように痛み出して、心臓が、この身体の中でのたうち始めた。

 嫌だ。いやだ。やだやだやだ、熱い、怖いっ――


「ありす」

「――いやっ――」

「ありす! 何を怖がってるの」


 名前を呼ばれ、子どものように腕を振り回す。触れないで。お願いだから触れないで!

 けれど振り回していた腕は呆気なくつかまれ、私はすぐに、チェシャ猫の困ったような顔を目の前にすることになった。

 しかしそれだけで私が落ち着くはずもなく、震える唇で、何とか言葉をつないでいく。


「いや、だ、だって、ドードー鳥がっ」

「いや、ありす、落ち着いて、よく見て。……寝てるだけだから」


 ……え?

 パニック状態に陥っていた私を落ち着かせるように、ささやくような低い声でチェシャ猫は私をなだめる。

 “寝てるだけだから”。

 その言葉には、さすがの私もぴたりと動きを止めた。


「……寝てる、だ、け?」

「うん、そう。……麻酔銃、って言って分かる?」


 頷くとも首を振るとも、よく分からない曖昧な仕草になってしまう。……イメージは、わくけど。


「麻酔銃は、殺すためじゃなくて、眠らせるための銃。……てか気付いて欲しかったな、俺の普通の弾丸が出る回転式拳銃リボルバーはこっち」


 腰のベルトをぱんぱんと手で叩いて示され、私は釣られて視線を落とす。

 ……そういえば。

 言われてみれば、いつもそこから取り出していたような気がしないでもない。

 あの銃は懐から取り出していた。それに……よく見れば、それは普通の銃よりも少し大きく、形もどこかいびつだ。


「まさか、ありすの前で殺したりしないって。……本当なら八つ裂きにしてやりたいところだけど」

「……私の前じゃなかったら、殺す、の?」

「こらこら、そんな顔しない。――ありすはそれを望まないでしょ、なら殺したって無駄だ」


 頭を少しだけ乱暴になでられ、うんと気のない返事を返す。

 ああ、……よかった。

 力が抜けて、不思議な安心感がどっと胸に押し寄せる。よかった。振り返ればたしかに、ドードー鳥は仰向けに転がっているだけ。……胸も微かに上下している。眠っているだけ、で、間違いないようだ。

 自分を殺そうとした相手の無事を願うなんて、この国の人には変に思われるのかもしれないけど、それでもやっぱり相手の死は願えない。


「それじゃあ、とりあえず」


 私の髪をさらりと梳いて、チェシャ猫は口を開く。

 その声音の向けられた方向に、私も目を向けた。


「――メアリ。邪魔者もようやくいなくなったし、君と話さなくちゃね」


 視線の先には、金髪碧眼の可憐な少女。

 アリスとなった彼女は今、真っ青な唇を震わせて、チェシャ猫の双眸を見つめていた。



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