第7話 わたしはありす
会話はない。
ただ、風を切る音が聞こえるだけ。
何だろう。どうすればいいんだろう?
話したいけれど、何を話せばいいか分からない。
チェシャ猫も、すっかり黙りこくってしまった。
私、これからどこへ連れていかれるんだろう。
多少不安だったけど、さっきより恐怖は薄れている。
大したことがあったわけじゃないのに、私は彼を信用し切っていた。どうしてかなんて、よく分からないけれど。
「……ねえ、チェシャ猫」
思い切って話しかける。声は掠れていたけれど。
「んー? なあに?」
「こ、これからどこへ行くの?」
「さっきも言ったじゃん。安全なところって」
案外彼は無邪気に笑ってそう言った。
それに安心した私は、同じように笑った。
「安全なところなんてあるの? それに、あんま信用できないんだけど」
「そのわりには暴れないね? あっ、もしかして俺に惚れちゃった?」
困ったなあとか言いつつ、へらへら笑うチェシャ猫。
……一瞬でも信用した私が馬鹿だった。前言撤回、こいつはやっぱり信用ならぬ変態だ。
そう分かった途端、私はまた暴れ出す。
「ちょっと不安だっただけよ! 降ろして馬鹿!」
「って言われてもなあ。帽子屋の他にもいろいろと来てるし、ここで降ろしたら変な輩に捕まるよ?」
うっ……、そ、それは嫌だけど。
お姫様抱っこされるのも落ち着かないの! ……ってあれ、違くない? 私、何かおかしかったぞ今。
それはさておき、どうやら何が何でもチェシャ猫は降ろしてくれないみたい。
でも、私何されるんだろう? 屈服させられる? イコール――
………………。
……うんよし、考えないことにしよう。
「ねえアリス」
「え?」
「君はどうして、この国に来たの?」
突然の質問に、私は黙り込む。
どうして……って。どうやって、なら答えるんだけど。
何て答えればいいんだろう。彼の、その質問には。
「……分かんない。ハク君に無理やり連れて来られた……から、かな?」
そう言うと、チェシャ猫は綺麗な顔を歪めて。
「……そっか」
と、だけ言った。
「それがどうかしたの?」
「ううん。……ねえアリス、君の本当の名前は何ていうの?」
私の本当の名前?
おうむ返しに聞き返す。
本当の名前も何も……あんた今までアリスって呼んでたでしょうが。
「え、えと……アリス、で間違いないけど……本名でいえば、光野ありす。光に野原の野って書いてこうの……」
って、この世界に漢字なんてあるのか?
まあ、そんな疑問は置いといても。
「こうの……ありす。そっか……ありす……」
正しい発音で、私の名前を呼ぶチェシャ猫。
その表情はどうしてだろう――どこか寂しげだった。
それを見ると、ちくりと胸が痛む。小さな棘が刺さるように。
「……やっぱり君はアリスじゃない。ありすなんだ」
「え?」
「ううん、何でもないよ。こっちの話」
笑って彼は言うけれど、私には信じられなかった。
彼の言うことは、確実に『ゲーム』に関係してる。直感がそう告げている。
――でも、私には、それ以上聞くことは許されなかった。
「見いつけたっ」
「わっ」
「きゃっ」
突然、後ろからガバッと抱きついてくる『誰か』。
その振動に思わず私はチェシャ猫の服をぐっとつかんだ。
スピードが少し落ちていたとはいえ、これだけ足の速いチェシャ猫に追いつけるなんて一体誰? それとも――この速さが普通なのか。だとしたらありえない。
「わーい、チェシャ猫とアリスだあっ」
「わ……三月兎?」
「あったりい、三月兎のミルクちゃんだよぉ」
「男の子のくせに自分でちゃん付けなんて、言うねえ」
――って、何冷静に話してんですか!?
よくよく見れば、私たちに抱きついてきたのは可愛い可愛い男の子。
ふさふさの兎の耳を持ったコスプ…………うん、兎さん。鳶色の髪の毛に、黄土色の動く耳。瞳は綺麗な橙色だった。
うわあ本当にこの世界って美形多いねえ、と思いつつ眺め……てる場合じゃなかった!
「ちょ……何ですか!? 離れていただけると非常に嬉しいのですが」
「えー、これはスキンシップだよぉ。いいじゃないっ」
「よくねえええええ!」
思わず大声で叫ぶ。
――うん、これは、あれだ。
この上に国民がどんどん積もっていって、最終的に私がつぶれるゲームだ。
その前に逃げたいです。本当によけて下さい。
「アリス、か、わ、い~い……タイプかもっ」
……今、何かさらっとすごいことを言われた気がする。
「……はい?」
「ちょっと待ってよ、ありすは俺のものだよ」
いや、チェシャ猫、乗るな。つーかいつ私がお前のものになったあああ!
と突っ込む前に、私の思いはミルク君の言葉にかき消されて。
「えー、じゃあ奪う!」
だからああ! 何でそうなるのよ! 蚊帳の外で煩悶。
いや、確かに私は今アリス屈服ゲー……じゃなかった、アリス奪い合いゲームに参加させられてるけどさ! てか奪い合われてるけどさあ!
「好きでやってんじゃないのよっ!」
ドガッ、とあからさまに痛そうな音が響く。
ふっ、渾身の力を振り絞って蹴ってやった。どこをかって? 聞いちゃいけないよ。
あー痛そうだね? でも同情はしない。
私は誰にも屈服しない。誰のものにもならないしね!
というわけで、よし、私はここから逃げることにしよう。
私はチェシャ猫の腕の呪縛から逃げ出す。でもとどめておくほどの力も、彼には残っていないようで。
「じゃあね、チェシャ猫、ミルク君。私行くから」
「ありす……」
「アリスー! 行かないでええ!」
くっ……、泣き落としの手に出たか。心にちくりとした痛みを感じる。
そりゃあそんな可愛い子に泣かれたら良心は痛むさ。痛むけど、私はそれより自分の身が可愛いのよ! 『俺のもの』『奪う』とかやだから!
ていうか、チェシャ猫までそういうことを言い出すとは思わなかった。確かに奴は変態だったけれど。俺のもの、なんて。
失望した。激しく身の危険を感じましたので、アリスちゃん退場ー。
「じゃ……じゃあねっ!」
だっと走り出す。
二人が追いかけてきても簡単には見つけられないように、すぐに身を隠せそうな所に。
つまり、――地理をよく知らない人なら迷いそうなところに。
「……そういえば、私この世界の地図とかないんだけど……迷子になって死ぬ可能性とか……」
……考えちゃ駄目なんだ。うん、そうだ。
私は、大丈夫と自己暗示をかけながら歩き出した。
嫌な予感がしたのは……言うまでもない。