第76話 私、そして、貴方。
「ぐ、グリフォン?」
上擦った声。ああ、いくらこの国で過ごしても、こういうことには慣れないなあ――そんなことを頭の片隅で考えながら、私は、熱を帯びた金色の双眸を目の前にしていた。
「とぼけよう、なんて思わないでね? ……俺、本気だから」
いつものように間延びしない口調。こうして聞くと、その声音は……いつもよりも低く聞こえる。
――そして、私はいつの間にか閉じ込められていた。背中に感じるのはソファーの背の柔らかい感触、左腕を乗せていたひじ掛けにはグリフォンの手、頭を置いた右側にもまたしかり。
……ああ、この国の人ってどうしてこういうことばっかり手慣れているんだ。何なの? どこかで習ってんの? それとも血? どっちにしろ嫌だけど。
って、そんな……現実逃避をしている場合でもない。グリフォンは避けてくれそうもないし。
「あ、あの、グリフォン、か弱い女の子にそんな真似は」
「ありす」
「……すみません」
茶化すことすらできない。
目の前の方は、答えが得られるまで何が何でも引かないつもりらしかった。
「で、でもだって、いきなりそんなこと言われたって……」
「簡単だよ。イエスかノーか、選択肢はそれだけ」
「…………」
それが難しいんだっつーの!
怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、今の奴はそんなことが効くような相手ではない。
私はぐっと口を噤むと、彷徨っていた目線を伏せた。
喉が詰まる。言葉の奔流が、形にならない言葉の奔流が競り上がってくる。
「……私は、グリフォンといると、楽しいよ。殴りたくなることも多々あるし――、話が伝わらなくて疲れることもあるけど」
ていうかそれが90%なんだけど、……とは言わないでおく。
「でも……、だけど、私は、元の世界に帰りたい」
「そっか」
あっさり。解放されるのかと思って上を向けば、そこにはまだ揺らぐことない黄金の瞳が一対並んでいた。
「でも、ありす。俺はあきらめ悪いからね」
いつも気弱なあのグリフォンが言う科白とは思えない、――不覚にもどきりとしてしまった。 その言葉に返す言葉を私が何も思い付かないまま、妖しい輝きを放つ双眸は離れていく。
「相手は、元の世界か。……なかなか強敵だなあ」
そんな、――何故だか――泣きそうになるような科白だけを私の中に残して。
☆★☆
「ッあ――っ! 腹立つっ!」
言って、俺は腕に絡み付いてきていた兵士の腹に膝を叩き込んだ。声にならない声を上げ、兵士は足から崩れ落ちる。
「……どうしたんですか、猫」
「どうしたも何もない! 腹が立つんだよ、腹が!」
「結局残党処理になってしまったことですか? たしかに、女王をみすみす逃してしまったことは惜しいですが……」
「だーっ! そうじゃないんだってば、白兎!」
ああ、もどかしい。伝わらないこの気持ちを持て余すように、俺は後ろからつかみかかってこようとした兵士に蹴りを入れる。手加減なくやってしまったから、しばらく起き上がれないかもしれない。……別にいいけど。
「じゃあ一体何だって言うんですか、さっきから……奇声ばかり上げて」
「奇声って言うな、奇声って」
「奇声としか言いようのない迷惑な声でしたけど?」
腹が立つと言えば、白兎にも腹が立つ。何でこんなに淡々としてるんだ、こいつ。俺の嫌いなタイプだ。女王様のようなヒステリックな輩の、次に。
「だから、腹が立つんだってば。……くそ、あの獅子鷲野郎、羽全部毟ってやる。そして火にくべてやる」
「グリフォンですか……。どうかしたんですか?」
「嫌な予感がした」
「…………。それだけでとばっちりを受けるグリフォンが可哀想ですね」
とばっちりじゃない。口の中で呟く。
いや、分かってる。そんなことを言っても分かってもらえないのは。……俺だって確信があるというわけではない。
だけど。
「何か苛々する。無性に腹立つ。あの顔を殴ってやりたい。……気のせいのはずがない」
「はいはい」
白兎は俺を冷たくあしらう、が、そんなことじゃあめげたりしない。まあ、大体白兎が信じるか信じないかなんてどうでもいいことだ。
「おーい、チェシャ猫、白兎! こっちは終わったぞ」
「帽子屋。案外手こずりましたね」
「さすがに城の兵だけあってな……、鍛えてる。こっちも実戦は久しぶりだし」
何かの冗談のように積み上げられた兵の身体(死んでない。手加減したから)を見上げ、帽子屋は大儀そうに呟いた。
うん、それはそうかもしれない。俺も久々、な、気がする。……本当はそこまで久しぶりでもないんだろうけど。
理由は分かってる。ありすがあまりにもアリスらしくないために、いつものように他の住人との激戦が勃発しなかったせいだ。
……せい? いや、せいって言うとおかしいな。しいて言うなら“お陰”か。俺たちだって、アリスを奪い合うためとは言え同じ国の人と戦いたいわけではないし。
「今から女王の行方を追うのは無理ですね。相手側にはジャックもいますし。とりあえずありすのところへ戻るのが先決でしょう」
「まあ、ね。……あの羽しか取り柄がないような奴、ありすをどこまで連れて行ったんだか」
「……グリフォンって言った方が早くありません?」
白兎の言葉は黙殺。うるさい、そんなことは問題じゃないんだ。
――グリフォン。そんな、不確定要素に。……焦ってるだなんて、そんなこと間違っても口にしたくない。
「何だか色々誤解しているようですけどね、チェシャ猫」
「何!?」
「……荒々しいですね。――チェシャ猫だなんて立場、彼女にも通じると思わない方がいいですよ」
こそりと耳元で囁かれる言葉。――分かってる。
彼女はそういう影響を一切受けない。アリスでも、この国の住人でもないから。
白兎も不利ならば、俺も不利だ。……ああ、こんなに早く片付くならグリフォンなんかに任せるんじゃなかった。
「あーあ、ジャック逃げちゃったなー。今日こそ差しで決着付けようと思ったのに」
「ごめんなさい、エース……。私たちがいたから……」
「え? あ! いやいや、夫人が悪いんじゃなくてさあ、あんなにあっさり退いちゃうあいつが悪いんだよ! そんなに気にすることないって、ほら、夫人は戦えない代わりに飯も寝床も用意してくれるんだし。そこの何の役にも立たないガキたちよりよっぽど――」
「だーれが役に立たないって?」
「何ならエース、君に向けた銃の引き金をこのまま引いてあげようか」
「……。すいませんでしたー」
しかし呑気にじゃれ合っている馬鹿どもは、そんなことなど気にもならないらしい。ああ、いや、公爵夫人は馬鹿に含まないけど。
銃を向け合い笑い合い、そんなことをしている場合か? それより、それより早くありすを迎えに行かなきゃ。
「そんなに急いでも、状況は変わりませんよ」
急く俺を止めるように、白兎が冷静そのものの声で言う。
――変わらない? いや、それでも。俺は行かなきゃ。
あんな奴にいつまでも好きにさせてられるか、たとえそれがただの思い違いだったとしても。……二人きりってだけでも気に食わないんだ。
「こっちにも飛べる奴がいれば……。……いや、状況は変わらないか。まずは夫人の屋敷、あと、森の方に身を潜めてる可能性もあるかもしれない。それから――グリフォンに、家ってあったっけ?」
「……あの人はよく住む場所を替えていましたからね。定住はしていませんでしたから、家と呼べる家があるかどうかは」
「……厄介だな……あいつ、気まぐれだから」
「その通りですね。時間がなかったとはいえ、落ち合う場所くらい決めておくべきでした」
ああ、厄介だ。――本当に厄介だ。
思わず舌打ちをする。
早く行かなきゃ。何がそんなに俺を焦らせるのか、今となってはもう分からない。
いつ伸びるか分からない女王の魔の手か。それとも彼女を早く元の世界に帰してあげたい一心か。……いや、もっと醜い心だということは分かっている。俺って嫌な奴、分かってたけど。
「――それでも」
「はい?」
独り言ちる言葉に、白兎の長い耳は過敏に反応した。
けれど俺は笑って首を振る。
「いいや。何でもないよ」
それでも。
――君がどんなにその気持ちを否定しても、俺の気持ちは変わらない。
君がたとえ冗談のつもりで笑い飛ばしたのだとしても、俺は絶対笑ったりしないから。
忘れないよ。
ただ一人、可愛くないし暴力的だけど、それでも俺に優しく笑いかけてくれた素敵な女の子がいること。
いつの間にか俺の世界の全てを奪っていった、泣きそうなほど眩しい笑顔が似合う君がいたこと。