第72話 私。
「城門前まで着けば、とりあえずの心配はないだろう。ただし、退路は目で確認しておくこと。引き継ぎが終わった後は、女王がどんな行動に出るか分からない」
帽子屋さんの説明を受けながら、私たちはうす暗い路地裏を抜けていく。
住人たちが起き出す時間にはまだ早いにしろ、中央の通りを堂々と歩くような度胸や無謀さはさすがに持ち合わせていない。……というか、そんなことをするのは相当の馬鹿か死にたがりくらいだ。
「名目上は一応の引き継ぎだからな。見境のない住人とは違い、城の奴らは儀式が終わるまでは少なくとも大人しくしているだろう……よし、前方は誰もいない。チェシャ猫、後ろは?」
「ん、おっけー。問題ないよ、誰もいない」
帽子屋さんが振り返らずに聞くと、呑気な声でチェシャ猫は返した。ただし、勿論音量は控えめで。
何だか、いつもよりも寂しいように感じる、黎明の行進。
しかし、それも当然のことだ――いくらここが路地裏といえど、街中は街中だ。あまり大人数で移動するのは得策とは言えない。
そこで、私たち10人のグループを二つに分け、城までの別ルートを辿っている最中なのだ。
私のグループは、帽子屋さん、チェシャ猫、グリフォンにミルク君、そして私。
帽子屋さん、チェシャ猫、グリフォンなんて3人も主戦力がいるのは、こっちのグループに私がいるせいだ。……そこのところは説明しなくても分かってもらえると思うけど。
そしてもう一つのグループは、エースさん、公爵夫人、ディーダムとそれにヤマネ君。……夫人とヤマネ君がいるし、迷子にはならないと思う。大体街にいれば嫌でもどでかく見える城までの道を間違える意味が分からない。エースさんは元々お城に勤めていたわけなんだし。
「エースにも同じことを説明しておいたから、大丈夫だとは思うが。……どうせ城門前で合流する」
「街中はまあ……大丈夫だよ。問題は城の中、あの女王様がどんな行動に出ることか」
「女王様ってやっぱりサドだよねえー……ゲームが終わったら俺、女王様のペットになりたいなあー……」
「グリフォン、あんたは一人緊張感のない本音が駄々漏れしてるからとりあえずその口を噤め」
いや、本当に緊張感がない。あのミルク君だって、やっぱり幼さゆえの不安のためか、口を噤んで俯いているのに。その小さな手は私の手をしっかり握っているけれど、それでも心に強く根付いた不安は払拭できないようだった。
……グリフォン、おろおろうろたえてほしいとは言わないけど、貴方、もう少し緊張感ってものを持った方がいいわよ。
「……ありす……」
「うん? 何、ミルク君」
「……僕、が、……守るから」
俯きながら、唇をぎゅっと噛んで私にそう告げるミルク君。
――いや、本当、ミルク君の健気さの欠片ほどでもグリフォンに誠意ってもんがあったらなあ。
思いながら、私はミルク君の頭を撫でる。
「うん、ありがとう」
「……うん」
大丈夫。
貴方のその優しい気持ちに、私はもう、何度救われたことか。
ずっと守られてきた。貴方の明るくて優しい気持ち。――だから、大丈夫。
「ほら、お前たち、そろそろちゃんと前を見ろ。そこは十字路だから――よし、人影はないな。さっさと越えるぞ」
「ここを越えたらいよいよお城の前だねえ」
帽子屋さんが左右と前方を確認し、さっと前方の細道に飛び込む。
続いて私とミルク君、グリフォン、後方を確認していたチェシャ猫も。
最後の十字路、クリア。――グリフォンの言う通り、ゆるやかな右カーブを描く細道の先には、もう立派な造りの城門が見えていた。
「エースさんたちは、もう着いてるのかしら」
「どうかな。……距離的にはこっちの方が少し長かったから、着いていてもおかしくないと思うが」
大丈夫。エースさんたちなら、大丈夫。言い聞かせて激しい動悸を抑えながら、細道を連なって歩いて行く。
見上げるほどの大きな城門。――勿論お城の兵士が立っていてどきりとしたけれど、そうか、今回は怯える必要はない。少なくとも、引き継ぎが終わるまでは。
「! アリス!」
――けれどやっぱり、そう言ってあからさまな警戒の色を向けられると焦る。
槍を構えた兵の一人が、叫んで私の方を凝視した。帽子屋さんが牽制に出ようとした、ところ。
「こらこら、そうやって誰でも彼でも槍で威圧しないって教えただろう。俺たちだって、今回は少なくとも正式に招かれた客人なんだ」
兵の横にひょいと長身の影が立ち、その槍の柄を握る。
――エースさん、だ。
多分上官なのであろう彼の登場に兵はひっと幾分失礼な悲鳴を上げて姿勢を正す。……エースさんも、お城じゃ結構な権力者なのか。あれだけ強ければ当たり前か?
「エースさん……」
「やあ、ありす。無事に着いていてよかった」
「それは……ある意味、こっちの科白なんですけど。……迷子になりませんでした?」
「嫌だなあ、さすがに自分の領地である城への道のりで迷子になるわけ」
「なってたよ」
「…………」
「…………」
……こいつ、嘘吐こうとしやがった。
しかし残念ながら妙にきっぱりとしたヤマネ君の言葉によって嘘は発覚した。うん、お前、もう永遠に迷子になってろ。
「ま、まあ、とりあえずこうして無事に辿り着いたんだからいいじゃないか! それより早く入ってしまおう、ほら、門開けて」
「はっ、はい!」
しかし門兵に命令しているところを見ると、……うーん、一応は偉い人なのか。役持ちだって言うし。
緊張感の欠片もなくそんなことを考えている間に、兵士の手によって大きな城門は開け放たれる。
城への一歩が、目の前に開けた。
「と、扉の前で待つ兵が、中を案内いたしますので――」
「え? 何で? 俺がいるんだから、案内なんていらないだろう」
「で、ですが、隊長の方向感覚はあてになりませんし……」
兵はびくびくしつつも言うところは言う。――うん、まあ、そうなんだろうけどね。あんな上司を持って大変だ。
「本音はあんまり城の中を歩き回られたくないからだろうね。抜け道とかを探させないため」
けれど素直に同情する私の後ろで、チェシャ猫がぼそりと呟く。……え? そうなの?
なるほど、城の中を探索させないため――相手も頭いいなあ。当たり前か。
「まあ確かにエースがあてにならない、って言うのはその通りだと思うけどね」
おどけた口調。……安心させるため、かもしれない。
応えるようにくすりと笑い、私は頷く。
「それでは、城内は私が案内いたします。ついてきてください」
門兵さんの言う通り、城内へとつながる扉の前で待っていた兵の一人が、深々と一礼して扉を開ける。ゆっくりと開けていく門扉、軋む音を携えて。
――うわあ、と、思わず声を上げそうになった。
豪奢。華美。優麗。豪華絢爛と、それ以外にどう表しようがあるだろうか。
天井からは城内を美しく照らすシャンデリアが吊り下がり、床にはテレビなんかでよく見るようなきらびやかなレッドカーペットが敷かれている。壁際には数々の壺やら何やらの装飾品がバランスよく並び、そして、極めつけには壁には肖像画と思われる絵画が飾られている。……お城、って言ったって、ここまで華美にやるもんか。それも玉座がある部屋でもないのに。
そういえば、広い庭園にはお邪魔したけど――あと、一回だけさらわれて客室? に入れられたことはあるけど――お城の中は、ちゃんと見たことがなかった。見る機会もなかったというか。
こうして見ると、やっぱりすごい。……ファンタジー世界のお城、って感じがひしひしと。
「酔いそう……」
そしてそんなあからさまに貧乏なことを言ってるグリフォンはここに住んでいる女王様のペットにはとてもなれないだろう。めでたしめでたし。
「こちらです」
物珍しげに見回す私たち……いや、主に私とグリフォンと年少組を急かすように、案内役の兵士さんが言う。
彼はレッドカーペットの引かれた階段を上り、そして左に曲がり、右の扉を開け、部屋を突っ切って向かいの扉を開け、――。
……何だか、この城、すっごい悪意を感じるんですが。
数えている途中で分からなくなったので描写は省くが、それはもう恐ろしいほどの回数角を曲がった。右に、左に。もしかしたら同じところを行き来しているんじゃないかと思うほど。
何これ、もしかするとあれか? 逃げようとしても城の中からは出られないように? だとすると相当悪質だ。もしかしたら、玉座の間(っていう名称かどうかは知らないけど)に向かっているわけじゃないってこと? 他の場所で引き継ぎをするのかもしれない。……厄介だなあ。
確かにこれはエースさんじゃなくても迷子になる。
「つきました。ここです」
そんな思考を延々と繰り返したところでようやく、案内役の兵がそう言って振り返った。
はっと目を上げれば、前には縦に長い鉄製の扉が待ち構えている。
――ここ、が。
再びたとえようのないような緊張感が吹き出してきて、具合の悪いような気さえする。ここが……、私の、運命の場所。
この扉の向こうには多分、既に女王様とメアリがいる。私を今か今かと待っている。
思うと、手が震えた。けれどそれをぎゅっと握りしめ、唇を噛む。
だめ。ここで怯んじゃ、いけない。
思って、一歩、前に出る。
「私が、開けても?」
「どうぞ」
兵は私のわがままに辟易することもなく、あっさりと前を譲る。
それすら余計な緊張感をかき立て、心を落ち着かなくさせた。
――ううん、大丈夫。
かぶりを振って扉の前に立つと、みんなが見つめる中、私は深呼吸をして扉に手をかける。
――大丈夫。私は、信じてる。みんなのこと。
目を閉じていても思い出せる。来てくれてありがとう、って言ってくれた時の顔。ありす、って呼んでくれた時の声。だから……、私は、大丈夫。
いずれ道を違える運命線でも、決して、これは夢なんかじゃない。
私は信じていられる。私が、今ここにいるという事実を。
「――ようこそ、《アリス》」
開けていく視界の向こうで、女王様の歪んだ笑顔が私を捉える。
その傍らには、メアリ=アンと黒い斧をちらつかせたジャック。
だけど、少しも恐怖は感じなかった。ただ、今からやることへの緊張と、少しばかりの高揚感のみ携えて。
「初めまして、女王様」
だから私は、あえてそう言ってやった。
女王様は、ううん、メアリもジャックも、驚きに目を見開く。それを見て、私はにんまり笑ってやった。少しだけ、チェシャ猫に似ていたかもしれない。そう考えるとさらに愉快で。それだけのことでも。
――生憎だけど、私はもう《アリス》じゃない。
運命を知った上で抗う私として――光野ありすとして、今日、初めて貴女に会いに来た。
グリフォンさん台無し。