第70話 無情なる運命に逆らおうと、貴方は言った
そうして凄惨なる悲喜劇は幕を下ろす。
――そうね、たとえば、追う少女が追う少女じゃなくなったとして。
彼女の代わりがいるのなら、何一つ困る必要はない。追われる兎との鬼ごっこを再開して、永遠に回り続ければいいけれど。
私がそれを望んでも、貴方がそれを望まないなら、追う少女は兎穴の入口に帰れるのかしら?
私は帰りたい。
だって私はもう彼らの望む存在じゃないんだもの。
私は帰りたい。
たとえ貴方たちが、このままの私すら望んでくれたのだとしても。
私は帰らなきゃ。
――白兎の時計の針が、12を指すその前に。
そうして不思議の国の物語は幕を上げる。
「……正気? ありす」
「正気も何も。……私はいつも通りよ、チェシャ猫」
「だったら……何で、そんなこと」
「城に来ないと《アリス》の引き継ぎは出来ないって言うんだもん。行くしかないでしょ」
あのあと、あのまま滑稽に泣き喚きながらもメアリが城の兵を引き連れ帰っていったのはもう、4日も前のことになっていた。
そしてその次の日だったか、今度はメアリを伴わず――前回伴われていたのはどちらかというと兵隊さんの方だったけど――城の兵がやってきて、無表情のままで私に告げた。
“《アリス》の名をメアリに渡す気になったのなら、城に来い”と。
チェシャ猫は私の隣で信じられないという顔をしているが、相手がそう言うならこっちも則るしかないだろう。腹は括っている。ここまで来たんだ、ついに。
「私はアリスでいたくなんかない。分かってるでしょ? チェシャ猫」
「……だけど本当は迷ってる、んだよね」
彼も分かってくれているはず、と思って放った言葉。しかしそこで思わぬ反撃を食らい、私は思わず言葉につまる。
……迷ってる。当たり前だ。こんな状況で、迷わない奴がいるものか。
「そりゃあお城なんて敵の本拠地だし、怖いし、罠かもしれないってことは重々承知してるけど……」
「そうじゃなくて。――アリスであってよかった、って一度も思ったことないの? って」
だけど、だけど。続けようとする私の言葉を否定して、チェシャ猫が私の髪を一房持ち上げる。
アリスであって、よかった……?
ないことはない。勿論ある。――勝手に連れて来られて、その上嫌な思いもたくさんして、本当なら死ぬほど嫌いになってるはずなのに。
「……チェシャ猫と出会えたことは、よかった、って思ってるよ」
その科白は、思ったよりもすんなり出てきた。よくできました、というようにチェシャ猫がアメジスト色の瞳をすっと細める。……本当に、宝石みたいだ。さもなくば、その宝石を砕いてちりばめたか。
「何で私がアリスに選ばれたのか、未だによく分からないけど――でも、ちょっぴり、感謝もしてる。私、これで元の世界に戻ったらきっと周りに強靭とか何とか言われて崇め称えられそうだわ」
「それは元からでしょ?」
「うるさいっ」
言って脛を蹴る。
失礼なこと言うわ。私はそこまで強靭じゃない。少なくとも、元の私は。……普通の、私の基準で言うならば“普通”の世界で生きてきた女子だったんだから。
けれどチェシャ猫は文句の一つも言わず、目を、伏せる。
「……ねえ、やっぱり、帰りたい?」
「そろそろしつこいわよ」
背中にすり寄ってくる温もりを感じながら、思ってもいないことを口にする。
うん。帰りたい。
勿論帰りたいよ。お姉ちゃん……、お父さん、お母さん。私のことを心配してくれている人が、どれほどいることか。――こんなにも胸を締めつけてやまない、会いたい人がどれほどいることか。会って、言葉を交わし、もう二度と離れないように……互いの存在を確かめるように、抱き合っていたい。
だけど。
「ありす」
名前を呼ばれたから振り向く。何、と言おうとして、私は動きを止めた。
「俺、ありすが今回の《アリス》で、本当によかったって思う」
真剣な眼差し。
宵闇に落ちていく夕日を映したような、そんな色の双眸が、私の姿を映している。黒髪黒目の、月並みな少女。背も低ければ、顔の造りも人並み。愛嬌があるわけでもない。
だけど、それを映した彼の瞳の奥には、たとえようもない激情が燻っている。ゆらゆらと、熱に浮かされたように。
「……何を、今、そんなこと」
「他に言う時ないでしょうが。これでありすも《アリス》じゃなくなるんだから」
顔を間近まで近付けられ、思わずどぎまぎする。なに……馬鹿みたい。今さら。
チェシャ猫は微笑んで、さらに言葉を紡ぐ。
「ありす。アリスに選ばれてくれてありがとう。アリスとして来てくれてありがとう。俺と出会ってくれてありがとう。たくさんのことを教えてくれてありがとう。いつもありすらしくいてくれてありがとう」
「チェシャ、猫……」
「あの女王様が、役目を終えたありすをそう簡単に帰してくれるとは思えないけど――」
黒い頭が肩に乗っかった。それは思ったよりも重くて、座っていたベッドに倒れ込みそうになる。
「――何としてでも、俺たちが君を元の世界に帰すから。白兎を見つけて、無理矢理にでも、君を元の世界に帰す。誓うよ」
背中に回された腕。ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。
……チェシャ猫。
掠れた声が、胸中で漏れた。
「ありすは、言ってくれたよね」
「……え?」
「アリスとチェシャ猫じゃなくて――、ありすと俺になりたいんだって」
「……あれは、その」
「俺、すごく、嬉しかった」
もうずっと前にも感じる、些細なことでケンカしたあの夜。いや、ケンカとも言えないか。……あの、お互い理解しながらも、仲違いした夜。
嫌いだなんて言ったのが、既に遠いことのよう。あれが必ずしもいい出来事だったとは言えないにしろ、何だか、あの時が懐かしい。
「勿論、嫌いって言われたのはきつかったけどね。ねえ、訂正してくれる?」
「……馬鹿」
「馬鹿、じゃなくてさ」
苦笑するチェシャ猫に、私は笑いとも言えない程度に苦い顔をする。
「それとも、俺のことは好きじゃない? 今でも嫌いだって思ってる?」
苦笑が突然拗ねた声に変わった。――何よ、そんな声で言われたら、冗談でも嫌いとか言えないじゃない。
「……嫌いじゃ、ない」
「ん。もう一息」
ようやくのことで吐き出す言葉。
だかしかし、それ以上私に言わせるつもりか! 顔から火が出るわ恥ずかしい!
「言えるか! ええい、離れろっ!」
「うわっ! ちょ、ありす、突然立ち上がらないでよっ」
ベッドから落ちるじゃん、とチェシャ猫が危うげもなく言う。……落ちてないじゃん。
むしろ落ちたらざまあみろだった。落ちればよかったのに。むしろ今からでいい落ちろ。
「……ひっどいなあ、ありす……最後の最後までこんな感じなわけ? せっつなー」
「あんたの事情なんて知らないわよ」
「何か冷たいなあ、折角俺あんなに格好良いこと言ったのに」
「だからそれも知るか!」
大体、それはあんたが勝手に言ったんでしょうが!
私に変な責任を押し付けるんじゃない!
「これで最後、かもしれないんだよ? ……そのまま元の世界に帰ることになるかもしれないんだから」
「それは、分かってる、けど」
ふいに真剣になった声音にどきりとしながら、私は曖昧に返す。
分かってる――いや、分かってない。
まだまだ心の整理がついていない。
離れたいと願って仕方がなかったはずなのに、今、こんなにも愛おしい。
それに――私はまだ、ハク君との約束を果たしていないのに。
この国の呪い。
解くって、約束、……破りたくはないなあ。ベッドの上に、情けなく再び座り込む。
そんな私の姿を見て、チェシャ猫は淡い微笑を浮かべた。
「俺は一生――これから先、たとえどうなったとしても――ありすのこと、忘れないよ。……だけど、ありすは違う。帰るべき幸せな世界があって、その人生を、俺のことなしで語ることができる」
左手首をそっとつかまれ、チェシャ猫の頬に当てられる。
あたたかいとも、つめたいとも言えないような、……そんな体温。
だけど、ああ、生きてるって――この体温は夢なんかじゃないって、私はそう思った。
「そして、いずれは伴侶を見つけて、……ありすのことだからそこそこの人だろうね。容姿は俺以下かな。そして幸せに年を取って、幸せに暮らす。――そっちの世界がどんな感じなのかはよく分からないけど、ありすも、お仕事とかをするのかな」
けど。
今、同じ時を生きていたとして。
……私たちは、相容れない。
決して交わらないのだ。二つの世界は。
「そして、俺たちのことは、忘れていく。……まるで俺たちの存在すら夢だったかのように。今、こうして感じている体温すら、きっと、すぐ、忘れてしまう」
否定できないのが何よりも悲しかった。
今こうして触れている肌の体温も、感触も、抱いている気持ちすらも、泡のように弾けて消える。離れた瞬間にも、すぐ。
「……でも、多分、チェシャ猫だっておんなじよ」
「そんなことない」
間髪を入れない否定の言葉。――どうして私は、この人と同じように否定することができないんだろう。
今、こんなにも近くて、こんなにも分かっていて、こんなにも想っているのに。
「俺はありすを忘れない。だって、今まで生きてきた時間が全て色褪せてしまうほど、ありすは俺の全てを染めてくれた。――声も、笑顔も、仕草も、何もかも……俺の世界にはもう、ありすしかいないのに」
「チェシャ、猫」
そ、それはさすがに恥ずかしい――言おうとした言葉すら遮られる。
「瞬きする時間すら、呼吸していることすらもどかしいよ。いっそこの心臓を抉り出して、ありすの世界まで連れていってほしい」
――だけど、本気だ。
この人は、本気なのだ。
何も冗談でそんなことを言っているわけじゃない。私を見つめる夕闇の色の瞳が、熱情の炎を灯している。
恥ずかしい、なんて、言えなかった。
「……そんなこと」
「できないのは分かってる。無茶を言ってるのも分かる。……そんなこと、しなくたっていい。でも、それくらいの気持ちなんだってこと、覚えておいて」
世界が違う。生きてきた世界が違うから。
その気持ちの重さは、とても、私じゃ支え切れない。……情けない。
支えてあげたいのに。誰よりも、何よりも、貴方を支えていてあげたいのに。
「いつかありすは俺の容姿や名前、それに二人で一緒に話したこと――俺の性格だって忘れるだろう。忘れてもいい。責めたりしない。ありすには元の世界で幸せになってほしい、けど……」
だけど。
懇願するような、声音。
支え切れやしない。この腕じゃ、とても、それは重すぎて。
「これだけは、忘れないで。――こんなにも、ありすを思う馬鹿な男がいたってこと」
世界が違う。
たった、それだけで。
私と貴方の運命線は、交わらない。
「……約束、するわ。忘れない。私なんかをこんなに一途に思ってくれた、馬鹿で素敵ないい男がいること」
「俺も――忘れないよ。ただ一人、可愛くないし暴力的だけど、それでも俺に優しく笑いかけてくれた素敵な女の子がいること」
ぎゅうっと、強く、強く。
チェシャ猫の背中に手を回す。生温かい体温。それを、忘れたくなくて。
チェシャ猫も私を抱きしめ、その腕に力を込めた。今という時を刻む、ただ必死に生きている鼓動を感じようと。
きっと、こうして約束を交わしたことすら忘れてしまうんだろう。時が経てば。
時間というものは残酷で、流れる時間が多ければ多いほど、何もかもなかったようにしてしまうから。
「愛してる、ありす」
それでも私は、忘れない。
今、貴方と抱き合って目をつむる、最も残酷で幸せなこの時間を。
「……行こうか」
「そうね。――行こう、お城に」
身体を離して、立ち上がる。
――たとえ、どれほどの永い時間が、無情に流れていったとしても。
私は忘れない。大丈夫。
どんな時間の流れが襲ってきても、今つないだこの手は引き裂けない。
……佳境。です。
ついに、って感じですね(笑)
いよいよ手のかかる子たちとのお別れも近付いています。
まあ、予定ではまだ続くんですが(^O^)
でも本格的に終わりが見えてきました。
まだもう少し、お付き合い願います。