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第66話 断ち切られた人形の糸

「帽子屋には、恋人がいたんだ」


 ミルク君はぽつりぽつりと語り出す。

 いつもは元気に跳ねている耳がしょんぼりとしおれていて、睫毛も伏せがち。

 もしかしたら、できれば本当は語りたくない話なのかもしれない、と私は思った。


「それが、前の前のアリス。10年も前のことだから、僕は覚えていないけど」

「前の前……」


 2代前。口の中で呟いて思う、――そういえばそうだ、帽子屋さんも言っていた。『名前』に関することは帽子屋さんから聞いたんだったと、思い出して胸が痛む。

 帽子屋さんは、与えられたその名前を失ってしまった人なのだ。

 仔細や経緯は全く知らないけれど、それはすごく辛いことなんだろう。じゃないと帽子屋さんがあんな顔をするはずがない。そして、ミルク君もそんなことを言い出したりしないだろう。

 感情を素直に表す子だけど、それ故に立ち直りは早い子だ。こんな風に押し殺して震えているなんて、まずありえない。そう思うと、何だかとても――悪いことをしている気に、なった。


「ううん、恋人って言うと少し違うのかもしれない。どっちかが告白したわけでもないし、気持ちを確かめ合ったわけでもない――ってエースが言ってた――けど、気が付いたらいつも一緒にいたんだって」


 友達ではないだろう。それは雰囲気から分かる。

 そもそも帽子屋さんはあんまり女の子の友達いそうに見えないもんなあ。……あ、いや、変な意味ではなく! 今すごく誰かに睨まれた気がしたんだけど。

 孤高の人、って感じなんだ。決して無愛想なわけじゃない。優しいけれど、いつもどこかで孤高の狼のような気高さを匂わせている。

 そんな帽子屋さんのそばにいられた――或いは、帽子屋さんをそういう風に変えてしまった唯一の女性。その人は、一体どんな人だったんだろう?


「ありすは、多分もう名前の話は聞いたよね? アリスだけが与えられる、僕らの名前の話」

「あ……うん。帽子屋さんに」


 上目遣いで窺ってくるミルク君に、私はこくんと頷く。名前。帽子屋さんが失ってしまった、名前。

 ……いや、正直私にネーミングセンスなんてものがあるとは思えないんですけどね。

 だって近所の犬をポチ1号ポチ2号で済ませる私だよ。まかり間違ったらチェシャ猫なんかタマになっちゃうよ!


「――でも、どうして名前なんて? わざわざアリスに付けてもらう意味があるの?」

「んー……とね。うまく説明できないんだけど」


 ミルク君は困ったように眉尻を下げる。うまく説明できない? そんなに複雑な理由があるのだろうか。


「僕らは、アリスが好きだよ――勿論、ありすも含めてね。それで、その“好き”って言うのはね、もうずっと昔のひとたちから、遺伝子レベルで僕らに植え付けられてる本能なんだ」

「……うん」

「だから、アリスに何かしてもらうのは嬉しい。名前をもらうのも一緒、――分かる?」


 確認を求めて見上げてくるミルク君。いや、確認というよりもどこか、分かって欲しいと言っているように聞こえる。けれど私はむうと唸って、唇を結んだ。

 申し訳ないし正直には言えないけれど、遺伝子レベルで植え付けられてるっていう辺りから最早分からなかったんですが。それは私にはない感覚だ。――いや。

 ……もしかしたら、子が親を好くのと同じ感覚なのかもしれない。

 そういえば、元の世界でいう名前だって普通は親につけてもらうものだ。私はそれを当たり前と感じていて嬉しいなんて思ったことはなかったけれど、自分の名前はそれなりに気に入っている。もしかして未だ判明しない私がアリスとして選ばれた理由がたとえ『名前がありすだから』というふざけた理由であったとしても。


 ……もしかして、この国の住人たちにとって、アリスというのはいわゆる“母”的な存在なのか?


 ハク君もミルク君もヤマネ君もディーもダムも、チェシャ猫もグリフォンも帽子屋さんもエースさんも――


「――っ駄目だ想像しちゃ! 特に後半! 違うっ! 絶対にちがああああう!」

「ありす!? ど、どしたの!?」


 突然叫び出す私に、当然驚いて仰け反るミルク君。

 ご、ごめんほんっとうにごめん! 真剣なお話中すみません!

 そもそも年齢からしてありえないでしょうが、何考えてるんだ私!

 壁に頭を打ち付ける勢いで糾弾しながら、ぎゅっと目を瞑る。落ち着け、私。余計なことは考えちゃ駄目だ。


「う……ごめんね、何でもない。続けてくれる?」

「……ありすが大丈夫ならいいけど……」


 すみません。大丈夫です、はい。


「続けるよ? あのね、僕はね――僕のミルクって名前は、前のアリスにもらったものなんだ」

「――前の、アリス」


 私は口の中で反芻する。

 そういえば前のアリスの話は、聞いたことがあった。私の反応に、ミルク君は満足そうに微笑む。


「うん。前のアリスは乱暴な人でね、全て自分の思い通り。気に入った名前なしにだけ、次々と名前を付けていったの。白兎やエースなんかは、そう」


 乱暴だというのも聞いたことがある。誰にだったか、ヤマネ君だっけ?

 そのせいか、私の中でも傍若無人なイメージが根付いているのだけれど。

 でもミルク君もそう言うことといい、それは乱暴な人だったんだろう。だって彼らが好きなアリスを貶すくらいだもの。彼らには、貶してるつもりはきっと全くないんだろうけど。


「代わりにね。気に入らない名前なしには、どんなに懇願しても名前なんて付けてくれない。僕がどれだけヤマネに名前をあげてって言っても、アリスは聞いてくれなかった……」


 悲しそうに、本当に悲しそうにミルク君は言う。ひどい、と私は胸中で呟いた。

 確かに、人に名前を付けるのって簡単なことじゃない。相手はペットじゃないんだから。

 私だって、迷う。私なんかでいいのかって思うし、ミルク君の提案にも正直戸惑っている。だけど。ミルク君は、さらに顔を歪める。


「それなのに、帽子屋はね、失くした名前をもう一度付けてもらうことを嫌がったんだ。アリスの恩恵を唯一突っぱねた“気違い”」

「――そう、だったんだ……」


 いや、でもそれもそうだろう。もしその2代前のアリスが帽子屋の恋人、もしくはそれに准ずるほど、それ以上に大切な人だったなら。

 アリスへの好きと異性への好きじゃきっと違うんじゃないだろうか。重みも意味も、全て。

 大切な人に付けてもらった名前を失くしてしまったとして、またさらに付けてもらおうって気持ちにはきっとならないだろう。

 私はそう思うけれど、やはり彼らの気持ちはそう簡単にはいかないらしい。当たり前だ。当事者だから。


「仕方ないって、分かってはいるんだ。特に僕は。だけどヤマネはその名前を付けてもらえなかったんだから、事情が違う。そのことで、一時期帽子屋とヤマネが不仲だったこともあったんだ」


 複雑だなあ、と思う。私よりも幼いのに。

 それは仲違いもするだろう。自分は付けてもらえなかったのに、と。愛情不信のわがままでも。

 どっちの気持ちも、分かる気はした。


「でもねえ、辛いのは帽子屋だったと思う。本人はそれと言わなかったとしても、その子のことを好きだって思ってたはずだもん。なのに、ね」


 ミルク君の表情はぐにゃりと歪む。泣きそうだ。私にはそう見えた。

 なんで、そんな悲しそうにするの。貴方のことじゃないのに。そんな、薄情なことは言えなかった。


「――なのに」


 声が震えている。定まらない視線は、私を捉えてすらいない。



「その、帽子屋の好きだったアリスはね、殺されちゃったんだ。帽子屋の目の前で」



 ――私は、息を詰める。


 殺された……? 誰に? どうして。

 一体どうして、殺される理由があった?

 ぐしゃりと顔を歪めたミルク君。まるで、自分の恋人が殺されたみたいに。私は私できっと滑稽な顔をしていた。


「……どういう、こと?」

「そのアリスは、帽子屋のことがきっと好きだったんだと思う。だけど、屈服することはなかった。帰り道がなくても、帰る場所がなくても、気高きアリスのままでいようとした」


 声音はさっきよりも落ち着いている。佳境を過ぎたせいか。それとも私の声の方が、震えているからか。


「――だから、女王様は言ったんだ。誰にも膝を折らない“壊れた玩具アリス”なんて、殺してしまえと」


 女王。

 女王様の、ルージュを引いた美しい唇が醜く曲がるのを想像する。

 簡単だった。

 あんなに美しい顔で、あんなに醜く笑っている。


「ひ、どい……!」

「女王様は知ってたんだ。帽子屋とアリスの仲がいいこと」


 喉の奥から込み上げてくる。熱いもの。――何でそんなことを。

 分からないのは、私が世間知らずの凡人だからかもしれなかった。でも、それならそれでいいとも思う。

 自分の思い通りにならない玩具は、ゴミ箱に捨ててしまうの? たとえその人形が、他の人形と踊っていても。糸を引かれてしまえば、人形は逆らえないから――。


「女王様は許せなかった。アリスが誰かの恋人ものになってしまうのが。誰もが許さなかった。アリスを敬愛の対象ではなく、親愛の対象として見ることを」


 歌を歌うようにミルク君は紡ぐ。まるで台本でもあるみたいだ。

 でも確かに、悲劇を紡ぐにはちょうどいい内容かもしれない。だけど、決してあっていいことであるはずがないのに。


「だから今にも帽子屋に夜襲を掛けそうになっていた、憤る住人たちを束ねて、この国のルール“女王様”は言った。『誰にも膝を折らず、愛欲ばかりに溺れてしまったアリスなど、最早我らのアリスではない。殺してしまえ』と」

「なんてこと……」


 淡々と言うミルク君とは対照的に、私は奥歯を噛みしめる。

 人のありようを、そんな風に決めるなんて。やはり彼らは、アリスを人とは見ていないのだ。さしずめ可愛い人形、とでも思っているんだろう。

 許せない。私もアリスである以上、そんな粗暴な真似はとても許せなかった。同じ人間だとすら信じたくない。愛欲? ふざけないで、人を愛することの何が悪いの。アリスにはその権利すらないの?


「誰もが二人を羨み、妬み、憎んでいた。だからゲームの最中にアリスを殺しても女王様は誰にも咎められなかったんだ、――咎める者は共犯。反逆者とみなされたから」

「……あんまりな、ルールね」

「うん。だから彼女を守ろうとしたアリスの味方も、何も言えなかったんだ。帽子屋の目の前でアリスが殺されて、そして帽子屋は放心状態。魂が抜けたみたいだったって」


 私は何とか声を落ち着かせようとするけれど、妙に低い震えた声ばかりが唇から零れ落ちる。

 傍若無人。唯我独尊。そんな言葉じゃ足りない。残酷にも値する。

 帽子屋さんは一体何を思っていたのだろう。護れなかった、っていうのはそういうことか。多勢に無勢、護り切れるわけもなかったのに。

 自分を責めるべきではない。あの人は、そんな言葉にも心を閉ざして悲しく微笑むだけだろう。一体帽子屋さんが何を、間違ったことをした?


「それから……ある種の自己防衛のため、なのかな。帽子屋が何とか元気を取り戻した時には、帽子屋は、アリスにもらった自分の名前を忘れていた」

「……ショックで……?」

「うん、多分そうなんだと思う。お医者さまもそう言ってた」

「……他の人は? 誰も覚えていないなんて、まさかそんなことはないでしょう?」

「その時帽子屋は、付けてもらった名前をまだ誰にも教えてなかったんだって。二人は何か約束していたみたいで、帽子屋の名前は今度教えるって言ってね、そのまま……その機会は、二度と来ないまま」


 そういうこと、だったんだ。

 だから失ってしまった、って。

 悲しすぎる。人形という屍の上に立った人間が、下らない矜持のために、人形の糸を自ら断ち切ってしまったせいで。


「そして帽子屋はアリスのことも忘れつつある。大切な存在だったってことくらいしか、今はもう……覚えてないみたい」


 ミルク君は目を閉じた。私も同じように目を閉じる。

 黙祷、のようなものかもしれない。今はいないアリスと、幸せだった帽子屋さんを思う。


 ――どうして。


 きっと私には分からない。分からなくてもいい。

 ただこの怒りだけ、忘れたくはなかった。






 何を壊せば、誰が救われる?

 終わってしまった物語は、二度と紡ぐことはできないのに。




途中の件に公爵夫人を入れてないのはあえてです。あえて^q^

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