第61話 それでも僕だけは君を思うから
「……ありすに何をしたの? 白兎」
苦渋の色を隠すように無表情を装いながら、右足を一歩分だけ踏み出す。
俺の視界に映るのは、大人びた目で俺を見返す白兎とその腕に抱かれ眠るありす。ただそれだけだった。
「何をしたって……別に? 僕がしたことよりも貴方がしたことの方が、この子にとってショックだったみたいですが」
「――そんなこと、聞いてないよ」
生意気に口の端を吊り上げる白兎を睨みつけ、俺は低い声で呟いた。
そんなもので怯えるような奴じゃないことは分かっているけれど、そうせずにはいられない。
「……眠らせただけですよ。彼女自身は自覚していませんが、ありすの身体にはかなりの疲労がたまっている。これ以上ショックが重なれば、倒れてしまうかもしれません」
「……キスする必要、あった?」
「ありませんね」
しれっと答える白兎。この態度がやっぱり苦手というか、嫌いだ。
――いや、元々好きになる気なんてさらさらないけど。
「なら、何で」
俺はさらに視線を鋭くする。
「怒りたいのは僕の方ですよ、チェシャ猫」
けれど白兎は、そう言って強く睨み返してきた。
――何?
「貴方にありすは任せられないと言っているんです。彼女の心を独占しようとした上、他の女とキスするなんて。ありすの心を弄んでるだけじゃないですか」
「いつからそんなセンチメンタルなこと言うようになったのさ、白兎。そんなんじゃないって分かってるでしょ?」
「僕は分かってもありすは分かりませんよ、そんなこと」
俺は、白兎のあまりの剣幕に息を呑む。声は静かでも、その言葉の端々には計り知れないほどの怒りが込められているのだ。
――まさか白兎が、ありすにここまで肩入れするなんて……。
正直予想外だった。追い掛けるのは普通、“アリス”であるはずなのに。
「だから僕は、貴方のことが大嫌いです。それ以上近寄らないで下さい」
「……じゃあ、ありすを返して」
「返して? 馬鹿言わないで下さい。貴方にありすを渡すくらいなら、グリフォンに任せた方がマシです」
俺の言葉にも、果敢に噛みついてくる白兎。そんなに俺が嫌なのかと思わないことはなかったが、別に白兎に嫌われていようとそんなことはどうだっていい。
問題は、そこじゃない。
「グリフォンとかそこで持ち出して、くる?」
「所詮貴方とありすは“チェシャ猫”と“アリス”という関係に過ぎない。それよりは自分で心を開いたグリフォンの方が信用できます」
「……そこまで、か」
昨日ありすに言われたことを白兎にも言われ、さすがに俺は顔をしかめる。
分かってる。――分かってるんだ。
ありすはアリスで、俺はチェシャ猫。ただそれだけでしかない。だから離れようと思ったのに。
結局また俺は、追ってきてしまったじゃないか。
確かに俺は、信用に値しないようなクズかもしれない。
思って、嘆息した。
「……ありすはメアリ=アンの話を聞いた時、ひどく不安そうな顔をしてた」
俺はあの時のありすの顔を思い出しながら呟く。今でも鮮明に残ってる、嫉妬とも羨望とも違う、何かに怯えたような表情。
「それにメアリは、アリスになりたがってた」
「――だから?」
「だから……メアリと一緒にいれば、嫌ってくれるかなって思ったんだ」
続きを催促する白兎に、俺は思わず本音を吐露する。ありす相手じゃ言えなかった思い。
だって俺は、アリスを惑わせるチェシャ猫。アリスに答えなんて、教えてあげられるわけがない。
だから、嫌って、欲しかったのに。
「――馬鹿じゃないですか」
「え?」
丁寧な口調のままで貶されて、俺は目を丸くする。決して、その柄の悪さに驚いたわけではなく。
何故貶されたのかが分からなかった。しかもそんなに、不貞腐れたように。
「この子はさっき、眠る直前に貴方の名前を呼んだんですよ。――他の誰でもない、貴方の名前を」
「……でも……それは、ありすが見てるのは俺じゃなくて」
「まだ気付かないんですか? ありすが不安になったのは、貴方がメアリを好きだと言ったからじゃないんですか」
今まで考えもしなかったことに、俺ははと口を噤む。俺がメアリを、好きって?
「ありすが必要としてるのは“チェシャ猫”なんかじゃない。貴方のことが好きだから、追い掛けてきたんでしょう」
――白兎の腕に抱きしめられたありすが、小さく、身じろぎをした。
『もしかしたら、“私”と“貴方”になれるかもしれないと思って』
俺は言葉を失って、失ったまま、ありすの白い顔を見つめていた。
今まで気付かなかった、俺は。それがもしかしたら、ありすの本音なんじゃないかって。
「ありすの心を全く分かってない、だから僕は貴方が嫌いなんです……猫」
「…………ごめん」
「謝って今さらどうにかなる話ですか? 僕こそ、僕とありすこそ“白兎”と“アリス”でしかないのに」
「うん……ごめん」
分かってる。分かってなかった。だけど今なら、少しだけ分かる。
俺はただの“チェシャ猫”だ。ありすはただの“アリス”でしかなくて。
でもありすは、そうじゃないことを望んでる。こんな狂った世界の中で、一人、声を張り上げて。
「……ありすに、伝えておいて下さい」
白兎は俯いて、ぽつりと呟く。
「僕を白兎として、捕まえて下さいと」
俺が何も答えられないまま、白兎はそっとありすを地面に寝かせて歩き出した。
俺にそのままありすを渡しに来なかったのは、せめてもの抵抗か――それとも、気遣いか。
白兎は森の奥へと、消えていった。
「……白兎」
ため息のような声で呟いて、俺はありすを抱き上げた。――ごめん、俺が分かってなかった。届かないとは分かっていても。
誰に謝ればいいのか分からない。謝るべきではないのかもしれない。だけど。
「チェシャ猫」
ふいに名前を呼ぶ声が聞こえて、俺は目を上げる。ありすではない。それよりも高くて、甘えるような媚びた声。
声は後ろからだ。多分、メアリだろうと俺は見当をつける。
「ひどい、わたしを置いていっちゃうなんて……どうしたの?」
ああ、この声はメアリだ。俺はあえて振り返らないでおいた。
「メアリ。ごめん、俺帰る」
「え……どうして? その子、ありす?」
「うん。今、寝ちゃってるから」
「……変なの。その子はもうアリスじゃないのに?」
少し幼い言葉遣いで、彼女は不思議そうに言う。彼女には分からなかったんだろう。
「うん、この子はアリスじゃないけど……それでいいんだよ」
さらりとありすの黒い髪を梳きながら。
お世辞にも可愛いとか、そんなこと言えないけど。
「……ひどい。それって、わたしには、構ってくれないってこと?」
「ごめん。でも今、忙しいんだ」
声音は笑っているのに、段々と、不機嫌になっていく様子が分かる。
メアリは元々不安定な子だ。そういう“役”だから、仕方ないけれど。
これ以上話していると、危ないかもしれない。俺はそう危惧するけれど、メアリは高笑いして。
「ひどい……わたしがアリスじゃないからって……絶対、許さないから!」
そのまま声は、フェードアウトするように遠ざかっていった。
――。
ああ、よかった。
とりあえずこの場を凌げれば何とかなる……、か。きっとこの後も、狙ってくるだろうけれど。
メアリ、でもね、アリスなんていらないんだよ。
そっと安堵と悲嘆の入り混じったため息をつきながら、俺は歩き出す。
「ごめん、ありす。でも……今度は絶対、護るから」
半ば自分に言い聞かせるように呟いて。
俺は森の外へと向けて、走り出した。
たとえ君が僕を思うことがついになくても、(それでも僕だけは君を思うから)。
でもありすってそこまで深く考えて行動してないと思う(←ぶち壊し)
一応春休み中に更新できました! 最終日だけどね! 春休みは春休みですよね!
次回はようやく元に戻ります。コメディーも入ってくる予定、です。
まだ一件落着とは行きませんが、そこらへんはありすに頑張って頂こうと思います。それなりに。
それにしても段々と終盤に近付いてきた感じ……がします……かね?(←聞くな)
まだもう少し先は長いですが、これからもお付き合いよろしくお願いします^^