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第60話 君の呼ぶ声、目覚めたのはついに一度だけ

変態だ、変態がいます。

 優しさなんて偽りでいいとは言わないけど。


 優しさなのなら偽りでいいっていうのは、ほんと。








「ぁ――」


 声が出ない。出なかった。

 金縛りにあったように身体が動かないのだ。まるで鉛みたいに重くなって。

 茂みの向こうに隠された光景を網膜に映す度、痺れるような苦い衝撃が体中を駆け巡る。


 チェシャ猫と、私の知らない少女。


 二人はまるで久しく再開した恋人同士のように、唇を交わし合っていた。

 アリスが前にされた義務的な哀憐の情なんかじゃない、まぐわい合う愛恋の証。


『わたしが貴方の“アリス”になってあげる』


 彼女はそう言った。黒髪黒目。多分彼女が、【メアリ=アン】。

 確信するとともに何かが崩れ落ちた。チェシャ猫の、『愛嬌があって優しい子』なんて科白を今思い出す。

 ――つまり、選ばれたのは、私じゃないってこと。


 それだけだ。それだけの話。


「――……っ」


 ふっと目の前が真っ暗になった。比喩なんかじゃなくて。

 視界がふさがれたように、柔らかくフェードアウトする光。

 見えない。見えなくてもいい。分からない。分からなくていい。


 ――知らなくていいの、そんなこと――


 認めたくない。認めたくない認めたくない認めたくない認めたくない認めたくない!




 こんな感情、知りたくもないのに!




「――あ、りす――っ!?」


 鼓膜に叩きつけられる聞き慣れた声。気付かれた。どうやら動揺したあまり、茂みを揺らしてしまったらしい。

 逃げなきゃ。

 訳も分からず高鳴る鼓動に弾かれて、私は徐々に戻りつつある仄暗い光を頼りに声とは反対方向に駆け出した。

 重いはずの身体に追い打ちをかけて、茂みの中を突っ切っていく。


 だけど聞こえた。聞こえてしまった、最後の言葉。



「ねえ、あんな子放っておいていいでしょう? あの子はもう、アリスでも何でもないのよ」



 ――。

 そう。そうだ。


 私はアリスなんかじゃない。

 ねえチェシャ猫、聞いてる? 聞こえてるよね。


 私は、貴方の好きなアリスなんかじゃないの。


 耳をふさいでも今さら遅い。ふさいだって声は反響する。今さら聞いて困ることなんてないから。

 もう聞いちゃったもの、逃げたって追いかけてはくれないのよ“アリス”?

 嘘。逆さま。追いかけるべきなのは、白兎なんだから。私はもう穴へと落ちてしまったの。


 戻れやしないんだわ。


 初めて絶望という感情が喉元まで込み上げてくるのを感じた。胃の辺りからふくらんでくる吐き気を覚えて、思わずその場に倒れるように座り込む。

 どうしよう。どうすればいいんだろう。何もかも、分からなかった。


 突き放したはずなのに、私が先にさよならを決めたはずなのに。

 アリスでいたくはないのに、アリスでなくなることがものすごく怖い。


 ――微かな、足音。


「拠り所を失うことが、そんなに怖いですか? アリス」


 そんな私に、上から冷水を浴びせるように無機質な声が叩きつけられた。

 驚いてはっと顔を上げれば、そこにはアリスが探すべき“白兎”である、ハク君が立っている。さっきの足音は彼だったのか。

 思わぬ再会。思わず息を詰める。それでも、やっぱり彼は冷たい目をしていて。


「……ハク、君……」

「驚くことはないでしょう? 貴女は味方を10人集めました。味方が全員揃った時会おうと、前に言ったじゃないですか」


 少年らしくないなんて、会う度思うことだ。今さら改めて感じることもない。

 だけど、味方が10人……? 私の周りにそんなにいたかしら。というか集まっていたのだとしてわざわざ、今このタイミングで出てくるものか。

 そんな私の疑問に答えるように、ハク君は御丁寧にも指折り数え始める。


「チェシャ猫に、公爵夫人に、帽子屋に三月兎にヤマネに――グリフォンは味方じゃなかったはずですが。ディーにダムに、あとエースと」

「……グリフォンは違うの?」

「ええ。まあ、あれは裏切りというか……本来ならばルール違反、なんですけどね」


 彼は言って、肩を竦めた。

 本来ならば――というのは、一体どういうことだろう。確かに出会いは、明らかに味方としてのものではなかったけれど。


「僕も腹を括りましょう、アリス」


 そっと意味深なことを囁いて、ハク君は小さく微笑む。冷たい雰囲気はもう溶けていた。


「貴女は僕の言った通りに味方を10人集めました。それなら僕も、覚悟を決めるべきで」

「ま、待ってハク君。さっき言ったのは全部で8人……、よね? あと二人は誰なの?」

「あぁ――言うのを忘れていました。考えたら普通に分かると思いますが、相変わらず馬鹿なんですねアリス?」

「ば、馬鹿って……そこまで馬鹿じゃないもん。だって、どう考えたって他には――」


 馬鹿ってあまりにもひどい。

 そんな私の子供っぽい反論を遮るように、ハク君はすっと手を上げる。

 驚いて口の動きを止め、黙ったままにその仕草を見守っていれば、ハク君は手を森の奥を指すように私の後ろに向けた。


「います、よね。分かるでしょう? あと二人の、“アリス”の味方」


 振り返りたくはなかった。

 見える気がしたから。


 だから、ただ黙って、息をつめてその先の言葉を待つ。


「一人目は、――メアリ=アン。勿論知っているでしょう?」


 私は頷かなかった。

 振り返りたくはない。嫌なの。

 今も、腕を絡め、笑み合っているなんて思ったら。


 私は、怖いよ。


「……もう一人は?」


 震える唇を無理矢理文字の形に変え、掠れた声で尋ねた。

 あんなの味方なんかじゃないとか、そんな風に喚くことはしない。だってあくまでそれはアリスの味方なんでしょう? 私だって子供じゃない、どれだけ辛くたって困らせるようなこと言っちゃいけない。

 だからせめて、話題を無理に変えるだけ。これが限界。許してと胸中で呟いた。


「……嫌いですか? 彼女のことが」


 だけどハク君は、私を逃がしてはくれなかった。――嫌い。そりゃ嫌いよ、大っ嫌い。

 何でこんな気持ちになるのかも分からないまま、私は絶望の海へと沈んでいく。そこから浮かび上がったとして、あるのは憎悪と嫉妬の空気ばかり。澄んだ酸素を二度と味わうことはない。


「チェシャ猫を、奪ったから?」

「……別に私は」

「強がるのはやめて下さい。純粋に聞いているんです」


 そんな残酷な純粋さがあるものか。私は目を閉じた。

 愛憎とかそんな、汚いものを知りたくはなかった。今まで知らなかったんだもの。表面上の好意とか、家族に対する純粋な愛情とか。上辺だけの羨望とか、軽蔑の意を込めた嫌悪とか、そんなものばかり。

 それが、愛憎に変わってしまうのが、私は怖いんだ。


「……怖い、のよ」


 呟いた。誰にともなく。


「すごく怖いの。その闇に呑み込まれてしまえば、帰れなくなる気がして……」

「――今見ているのは、ただの悪夢なのに?」

「え?」


 ハク君が私の言葉に対し、低く呟いた科白。驚いて目を見開く。

 一体、どういう意味なの。


「貴女はいずれ元の世界に帰るんでしょう? でもチェシャ猫はここの住人だ。――どうせ奪われるものなのに」


 ハク君は憐れむように、目を細めた。


「それでも、執着する気なんですか、ありす……」


 やめてよ。そんなこと言わないで。

 耳をふさぎたかった。だけど、そんなことをするわけにはいかない。そしたら多分負けだ。

 私は本当に、呑み込まれてしまう。そんな気がした。


「執着せずには、いられないじゃない」


 掠れた声が口からこぼれる。こんな狂った国。勝手に呼ばれて、連れて来られて、アリスとか奪い合いとかそんなふざけた話を聞かされたって。


「何かを愛さなきゃ、何かを恨まなきゃ生きていけないじゃないの!」


 いつか奪われるものだったとしても。

 誰かに愛されたい。何かを恨みたい。何かを愛したい。誰かに恨まれたい。


 それが私の存在こうのありすの意義につながるなら。


「……アリス」


 呼び方が戻っている。私は顔を上げなかった。

 泣きそうだなんて、とても言えない。弱くなっちゃいけないのに。


「でも貴女は、帰らなきゃならない」


 近付いてくる足音。でも、いくら近くても捕まえようなんて気にはとてもならなかった。帰らなきゃいけないのは分かっているけれど。

 だけど今私の心が、このままでは帰りたくないと、切実に訴えている。


「……もう一人の、味方は?」


 我ながら不貞腐れたような声音だ。そんなつもりはなかったけれど、泣きそうなのがばれるよりはいいと思った。


「そんなこと言うくらいなんだから、教えてくれるんでしょ。もう一人の味方。もう集めたって」

「ああ。僕ですよ、アリス」

「え?」


 捻くれた私の尋ね方に、あっさりと返すハク君。一瞬の間には意味が上手く受け取れずに、私は変な声をこぼしてしまった。


「僕が貴女の、10人目の味方です」


 言いながら、くいと顎を持ち上げられる。

 わけが分からず、抵抗する暇もないままにちゅと小さなリップ音が耳に届いた。

 やわらかい感触を感じたのは刹那。


 キス――された?


 そう感じたのは確か2回目。2回目だからと言って慣れるはずもなく、私の頭はフリーズする。


「は……」

「どうやら、おあいこ――みたいですね」


 名前を呼ぼうとして、にやりと大人びた笑みを浮かべるハク君に遮られた。

 彼は私の後ろの一点を見据えている。

 解放された顎を持ち上げて、私は恐る恐る振り返った。


「…………チェシャ猫」


 さっき逃げてきたはずの、蛍光色の。

 彼は目を見開いて、動かずにいる。


 ――どうして。


 来てくれたんだとは思いつつも、素直に喜べずにいた。

 どうして。私はもう、アリスじゃないのに。


 どうして追いかけてきたの?



「ありす……」



 ――それでも、やっぱり……名前を呼ばれると、何だか、安心してしまって。

 よかった、って、何だか、安堵のあまりに泣きそうにもなる。


「チェシャ、猫」


 確かめるようにもう一度、呼んで。


 私は意識を、深淵の闇へと手放した。




この国にはキス魔が多いんです多分。嫌な国ですNE!

ありすがダウンしたので次回はチェシャ猫視点でお送りいたします。

春休み中にもう一度更新出来ればいいなあ。

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