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第56話 嘘つきアリスと嘘つくチェシャ猫

 夜半の月が、カーテン越しに淡い光を踊らせる。

 神秘的というよりは魅惑的なその色に、ぼんやりと、霞んだ焦点を向けていた。


 ――宵。


 それは、妖魔の時間。

 闇が手を取り踊り明かす、悪魔たちの、時間だった。

 支配権は人間ヒトにはない。――こんな、塗り潰したような黒の中じゃ。



 私はそんな中、ひとり眠れないでいた。

 眠くない。

 そんな子供みたいな、単純な理由で。

 瞼を閉じたって目の前の景色は鮮明に思い出せるし、思考に靄がかかることもない。完全なる覚醒の状態。……こんな時じゃなければ、ありがたいのに。


 知らない世界。


 考えてみればこんな状況下でぐっすり眠れていた私の方がどうかしているけれど、それでも、眠れるということはありがたいことだ。食事もきちんと取れていた。……うーん。私って案外、肝っ玉大きいのかな。

 いやそれもありがたいことだけれども。何だか複雑。ありがたいけれど!

 原因は絶対あのパラサイト姉のせいだ。思いながらちょっと恨んだ。感謝すべきところでも。


「……お姉ちゃん」


 ふと、口に出して呟いた。何だかひどく現実味がない。

 何の意味も持たないただの記号のようで、私は、すごく、怖いと思った。

 ――私は。

 遠い世界にいるのだと、今さらながら、思い知らされる。


 違うんだ。私はこの世界の人間じゃない。



 ――『これは、夢よ』。



 それは最初だけの戯言。

 今さらこれを夢だなんて割り切れるほど、私は気楽になんてなれない。

 だってね、こんな生々しい悪夢なんて、長く続くわけがないもの。


 だけどこれを現実だと受け入れられるほど、私は強くもないよ――?



 ……せめて。


 こんな狂った世界でも、誰かが愛してくれればよかったのに。



「――勝手な願い、か」


 ため息を一つ、落とした。


 愛して、だなんて。

 彼らは『アリス』を愛しているのに。

 私はそれ以上、何を望めると言うのだろう。


 幼稚でわがまま、だなんて、私には似合わないと思ってたのに。

 ――馬鹿な話。


 私は今、こんなに子供だ。


「……憂いは女を美しく見せるって言うけどね」


 ふいに、自分のものではない低い声が、私の思考を汲み取るように響いた。

 驚いて身体を起こす。


 ――この、声は?


 嫌なほど聞き覚えのある声。そんなに長い間一緒にいるわけでもないのに、もう聞き飽きてしまったほどの。


「ありすは相変わらず可愛げないよね。そこが好きだけど」


 失礼な言葉。普段なら何をと殴りかかりたくもなる、挑発的な口調で。


「――チェシャ……、猫?」

「あたり」


 悪戯っぽい声音に首を巡らせれば、扉に背中を預けた、極彩色の人影が目に入る。

 それは予想通りの人なのに、どうしてか心臓がどきりと跳ね上がった。


「眠れないの? ありす」


 一体、いつの間に部屋に入ったのか。

 薄い月明かりに照らされた妖艶な姿に、私は思わず息を呑んだ。


 きれい。


 何故だろう。そんなことを思ってしまう。

 変なの。今までそんなこと、思ったこともなかったのに。


「……あんた、何で人の部屋入ってきてんのよ」


 だけど口をついて出るのは、やっぱり悪態。――いや、だってやっぱり、侵入されたわけだしねえ。

 しかもこんな夜に、男が女の部屋へと。……夜這い? 一瞬そんな言葉が脳裏を掠めた。いや忘れろ私。そんな馬鹿なこと。


「まあ、夜伽のお相手をというか……夜這い?」


 けれど私の想像はクリティカルヒットした。鮮やかに。

 うわあ。変態、土に還っちゃえ。


「死ねばいいのよ変態……」

「え、あんまりじゃないそれ」

「当然の主張だわ」

「主張だったの」


 苦笑される。……苦笑したいのはむしろ私の方だ。乾いた笑いさえ喉からは漏れてこないというのに。

 ていうか、冗談だよね。冗談だよね? 冗談じゃなかったらはっ倒して逃げるんだけど。


「ま、冗談冗談。挨拶みたいなものだから気にしないでよ」

「それって最低よ。だから彼女がいないんじゃない?」

「うわあ、傷付くなあ」


 そんなの心にもないくせに、と小さく睨む。

 傷付いた様子なんて全くない。笑いながら言われても、説得力の欠片だって見い出せないじゃない。


「何しに来たの。変態」

「……とりあえず変態って呼ぶのやめてくれる?」

「さっさと用件言って消えて変態」


 眠くはないけれど、顎を動かすのでさえ疲れる。正直、チェシャ猫相手じゃあ。

 それに……さっきの独り言を聞かれていたんだと思うと、少し、気恥ずかしい。大したことは言っていないけれど、だってチェシャ猫相手だし。


「何だか、胸が騒ぐ夜だったから。ありすも眠れないんじゃないかと思って」

「……あんたと一緒にしないでよ」

「でも、実際そうでしょ?」


 くすくすと笑われ、何も言えなくなる。

 チェシャ猫の言う通りだ。胸が騒ぐと言われれば、確かにそんな気もするし。……心を見透かされたようで、何だか居心地が悪い。


「――帰りたい?」

「え?」


 むむうと唸っていたところに、唐突に出てきた単語についていけず私は目を丸くする。

 帰りたい、って?


 ――元の、世界に?


「……そりゃ、帰りたい、わよ」


 帰りたいに決まってる。私はそう告げた。

 チェシャ猫はにやにや笑いを消さないまま。目だけを細めて、何だか嬉しそうにする。


「そっか」


 ……気持ち悪いなこいつ。

 申し訳ないけど正直な話。さっき綺麗だと思った私の気持ちを返せ。


「どうして帰りたいの? みんながありすを愛してくれてるのに」


 にやにや、にたにた。やっぱり“チェシャ猫”。

 時々こうして、彼は意地悪な質問を投げ掛けてくる。

 どうして、なんて。

 ……分かってるくせに聞くんだから、余計性質が悪いんだ。


「みんなが好きなのは私じゃないじゃない。『アリス』ならどんな子だって好きなくせに」

「でも、ありすも好きだよ?」

「アリスだからでしょ。――そんなの、狂ってる」


 またチェシャ猫はくすくすと笑った。何がおかしいのか。

 狂ってると言われたことが嬉しいんならマゾだ。マゾはグリフォンだけで十分だわ。

 もし私が嫌な顔をしたのが嬉しいならサドだし。……サドもあの馬鹿鳥だけで十分なんだけど。


「狂ってるわ」


 繰り返し、呟いた。でもチェシャ猫は狂笑わらってる。


「狂ってるからこそ、だよ」


 認めた。今度こそ。

 それはつまり、アリスだから好き――ということだ。今さら否定するとも思ってないけれど。

 それでもやっぱり、顔をしかめてしまう。


「――ねえありす。それはそんなに嫌なものなの? ありすは、人に愛されたくないの?」

「愛されたくないなんて、馬鹿言わないで。そんな強い人、いるわけないわ」


 生きていけないもの。チェシャ猫のにやにや笑いを眺めたまま、言葉を零す。

 だけどそれとこれとは違うもの。自分が愛されなかったら、誰だって愛されるものに嫉妬する。


「でもね。私じゃなくても、違う子がアリスだったらそっちを好きになるんでしょ? そしたら、何でもない私のことなんて簡単に殺せるわよね」


 挑発するように言った。チェシャ猫は口の端を吊り上げたまま。


「そうだね。――ありすが、アリスじゃなかったら」


 同時にじゃき、と重々しい音が響く。いつの間にか近くまで歩んで来ていたチェシャ猫が、私を昏い目で見下ろしていた。

 ――右手には銃。黒光りする銃身が、私の頭に、突き付けられている。


 怖くはなかった。


 怖くはないから、いっそこのまま何もないように穏やかに散らして欲しい。

 なんて、懇願のようで冷めた気持ちが、胸を覆い埋め尽くす。

 最近何だか、こんな気持ちばっかりだ。――怖くはないのに。


「……じゃあ、殺してよ」


 思わず私は呟いた。独り言のように。

 驚いたチェシャ猫の瞳孔が、大きく見開かれる。


「私はアリスじゃないから、殺して。出来るでしょ?」

「……ありす、何、言って」


 僅かな動揺の色が、チェシャ猫の瞳に浮かんでいた。

 でも私は引かない。

 追い詰めるように、言葉を続ける。


「言ってたじゃない。あんたが。私はアリスじゃないって」


 チェシャ猫は口を噤んだ。何も言えない、んだろう。きっと。


「チェシャ猫が好きなのは私じゃなくて、アリスでしょ? キスしたのもアリス」

「……ちが、あれは」

「うるさい。反論なんかさせない。私のことなんか好きじゃないくせに」


 分かってる。

 分かってることなのに、――口に出すのは辛かった。

 心なしか息苦しくて。喉に何かが引っ掛かって、出てこない。


「好きじゃないんなら、いっそ……」


 そう――いっそ。


「殺せるならいっそ殺してよ、チェシャ猫! 同情なんていらない、結局何もかも向けてる先は『アリス』じゃない!」

「――!」


 そう言いながら、あの時みたいに突き飛ばしたりはしない。

 できればその銃で、頭を撃ち抜いて欲しかったから。弾丸が全て、奪い去ってくれればよかった――のに。

 願いも虚しく、チェシャ猫は震える指から向けていた銃を取り落とす。漆黒の銃身がやわらかい絨毯にぶつかって、音もなく影に埋もれた。

 ――。束の間の沈黙。不気味な静けさだった。


「……名前が欲しいって、あんた、言ったわよね」


 ようやく出た声は掠れていた。でも震えてはいない、大丈夫。

 思ったよりも低かった声は、チェシャ猫の瞳を揺らすに十分で。


「本当は私、あんたに名前をあげようと思ってたの。もしかしたら、“私”と“貴方”になれるかもしれないと思って――だけど」


 目は伏せない。月明かりに晒される暗紫の瞳を見つめたまま、喉の奥につまった言葉を吐き出すように紡ぐ。


「結局私とあんたは、“アリス”と“チェシャ猫”でしかないのよ」


 チェシャ猫が何故か、泣きそうにさえ見えた。

 雨に打たれ憔悴し切った、道端に捨てられた猫のような。


「……ありす」

「呼ばないで。私はあんたに名前をあげる気なんてない」


 突き放す。

 これ以上何も、知りたくなんてない。期待なんかしたくないよ。


 貴方が私を通してアリスを見ているのなら、まるで意味なんてないのだから。


 もう放っておいて。そう言いたかった。

 その言葉が一番威力を持っていることは知っていたけれど、――あえてその言葉は呑み込んで。


「チェシャ猫なんて、嫌い」


 言った。

 ――多分、一番言ってはいけない言葉を。


 だけど他に、何て言えばいいの。

 そうとしか言えないじゃない? 生かしも殺しもしてくれないなら。

 私は『アリス』なんかでいたくない。それくらいなら、殺して頂戴。

 それさえも叶わないのなら――


「嫌い、だから、どっか行って……」


 刹那の沈黙。足音。

 静寂に満ちた中に優しいほど静かに響く。

 冷たい床を叩く音は、ひどく、緩慢に、遠ざかっていった。

 そしてついには扉の軋むノイズが、鼓膜を突き刺し虚空に溶けていく。


「……ごめんね」


 最後の言葉は、果たして、何に対してだったのか。

 ――何に対してだっていい。別に、今さら、意味を求めようなんて思わないから。











 ごめんね。ごめんね、チェシャ猫。謝りたいのは私の方。

 抱き寄せた膝に顔をうずめて、一人で、泣いた。


 嫌いなんて、嘘だよ。

 本当に嫌いならあんな風に、強く突き放したりしない。


 私が見てるのは、『チェシャ猫』なんかじゃないんだもの。


 好きだから突き放すの。――解ってなんて言わないけど。

 言い訳にすらならない、泣き言を呟いた。

 月は既に、私を見捨て地平線へと帰っていく。




 ――嘘をついたのは一体、どっちだったかしら。


 そんなのどっちでもいいわ。今さら誰も、私を裁けやしないんだから。




お久しぶりでございます……って毎回言ってますでしょうか。

テストも無事……? 終わり、ようやく勉強のことを放り出して更新することができました(^q^)←

ネガティブから抜け出したい。ですが基本シリアスなので仕方がない……のかなうーん。そうでもないような。

でも多分しばらくシリアスは続くと思います(´・ω・`)山場山場。

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