第53話 喪失は優しく、不幸は甘く
もう一度だけでいい、――俺の名前を呼んで。
「帽子屋さん――っていうのね」
そう言って少女は、くすりと笑った。
金色の髪はそよ風に吹かれ、澄んだ空を映したような碧眼は、長い睫毛に彩られ優しく細められる。
美しい少女だった。
初対面の男に――しかも銃を所持している――話し掛けるほどの度胸、もしくは無謀さを備えた少女。
見た瞬間にそれは『アリス』なのだと、理解することができた。何故だろう。理由は解らなくても。
本能、とでも言うべきなのだろうか。地に這いつくばったまま、俺は少女を見上げる。
「――アリス――」
「あら、わたしのこと知ってるの? 嬉しい」
口元に手を当て、上品に微笑む少女――アリス。
その仕草が嫌になる程似合っていて、思わずどきりとした。
心臓が高鳴る。それはこういうことなのだと、初めて知ったかのように心が疼く。けれど少女は、そんな俺の心中に気付くはずもなく。
「ところで貴方は、這いつくばって何をしてるの? 新種の遊びなら、わたしも混ぜて欲しいな」
「馬鹿。そんなわけないだろ、――殺し合ってるんだ」
そう脅せば静かになるかと思って、少女をきっと睨んだ。
けれど少女は怯えた様子も怖がる様子もなく、あっけらかんと言い放つ。
「そうなの? それなら、わたしが貴方を護ってあげるね」
思わず言葉を失った。
護る? 俺を? こんな――少女が?
自分もまだまだ幼い方ではあるが、それでも少女とはあまり変わらない年齢だろうと思う。
それに平和ボケした『アリス』なんかが、護るだなんて。銃弾が飛び交うこの世界で。
「……馬鹿、言うなよ。撃たれた時の痛みを、お前は知ってるのか」
「知らないわ。だからこういうことを言うの、護ってあげるって」
少女はまた微笑む。
まるで世間知らず。まるで怖いもの知らず。
だけど――。
「わたし、アリス=リデルっていうの。よろしくね?」
その微笑みは、どこか、優しくて懐かしくて、愛おしくて。
俺は――
☆★☆
もう3日にもなる。帽子屋さんとの話は、あやふやなままに終わってしまった。
不気味なほどに何もない世界の中、私は洗濯物を取り込んで屋敷の中へと足を踏み入れる。
今やお洗濯は私の仕事になっていた。
勿論夫人の家にはお手伝いさんがいるのだけれど、何もしないまま寛いでいるというのも居心地が悪い。護ってもらっているのだから、尚更。
だから私は無理にでも仕事をもらった。やっぱり、動いていた方が何もかも忘れられるというのもある。帽子屋さんの表情も、チェシャ猫との出来事も――
「ありす?」
噂をすれば何とやら。
久しぶりに聞く低音に、私は反射的に振り返った。
そこにはやはり、目に痛いピンクを基調とした生物Cが立っている。
「……チェシャ猫」
「洗濯なんてしてるんだ。偉いね、別にありすがやらなくたってお手伝いさんがいるでしょ?」
この間の気まずい出来事など忘れたかのように、チェシャ猫はひょいと私の隣に並んだ。相変わらず端正な横顔が目に入る。
私は多少どぎまぎしながらも、うん、と小さく頷いた。
「でも、何か、何もしないのって悪いかなあって……まるでここにいるのが当たり前で、普通で、私の存在が確かになっちゃう」
何言ってるんだろう、私……。そう思っても口からはそんな言葉がすらすら出てくる。
けれどチェシャ猫は笑い飛ばすことも馬鹿にすることもせず、ただじっと私を見下ろしていた。
「……ありすは、不確かなままでいたいの?」
「え?」
静かな問いかけに、私は顔を上げる。
目を細めたチェシャ猫は、ひどく不思議そうに。
純粋な疑問を口にする、まだ幼い子供のようだった。
「ありすの言い方は、まるで、ここにいることが怖いみたいな――当然になって、流されてしまうのが怖いの? やっぱり、ここには、いたくない?」
段々と細くなる声に、私ははっと気付いた。
確かにさっきの私の言い方じゃ、ここにいたくないみたい。でも違う。違うと、胸中で否定する。
それは勿論、ずっといるわけにはいかないし、元の世界にも帰りたいって思うけど――
「……それとは、ちょっと違うの」
「違う? どこが?」
「あのね……えっと、うまく、言えないけど」
目を閉じる。
「私は、このまま、この状況を仕方ないって受け入れちゃうことが怖いんだと思う」
微かな吐息が、沈黙を追い払う。
チェシャ猫からの言葉はなかった。きっと何も言えないのだと思う。――私だって何を言っていいのか、分からないもの。
「だからね……だから、いつも同じ型にははまっていたくない。当然だとは思いたくない、どんなことも」
我ながら意味不明な言動だと思いながらも、私はすらすらと述べていた。
チェシャ猫が相手だと、どんな言葉も出てくる。素直な自分をさらけ出すことさえ、出来た。だから余計にしゃべりすぎてしまうのかもしれない。
「……ごめん、変なこと言って」
「ん。――いや、いいよ」
チェシャ猫はようやく微笑む。優しい両目を細めて焦点を結び、私の頭に大きな手を置いて。
「それよりも俺は、ありすの気持ちが知れて嬉しい」
優しい言葉がするりと落ちてきて、ふいに胸が熱くなる。
それは優しい温もりではなく、暴れるような熱で。何言ってるの、なんて食いかかりそうにさえなるほど。
「怖いんだ。知らず知らずのうちに傷付けてしまいそうで……この前みたいに」
「……あ……」
前のことを思い出して、私は俯く。
――恥ずかしい。あれはきっと、チェシャ猫のせいではないのだろうけれど。
だからこそ余計恥ずかしいのかもしれない。罪悪感を湛えた表情が痛々しく見えるくらい。
それに気付いたか、チェシャ猫は明るい声で話題を変えた。
「洗濯物、持つよ? 俺も普段何もしてないし」
「え、……ありがとう……」
腕の中の重みが消えても、気まずくて俯いたままお礼を告げる。告げるというよりは呟くみたい。
何をやってるんだろう、私……。こんな調子で大丈夫なのかしら。
仲間ともこんな風で、この先どうするの。
せめて話題があったら――何か、もっと近付ける話題があったなら。
そこではたと思い当たる。
「そうだ! チェシャ猫、ちょっと待って」
「え?」
思い切って顔を上げると、チェシャ猫が不思議そうに振り返ったところだった。
まだその目を直視するのには抵抗がある。だけど、無理矢理にでも視線を合わせて。
「チェシャ猫は――名前が欲しいって、思う?」
「……何。いきなり」
突然の質問に戸惑ったのか、チェシャ猫は眉尻を下げた。
我ながらやっぱり意味が分からない。名前なんて、突然。
頬に熱を感じながらも慌てて補足しようとすると、チェシャ猫はふいに微笑んだ。
「欲しいよ。チェシャ猫なんて、称号でしかない。俺じゃなくても代わりはいっぱいいるから」
悲しげな笑み。
私はぴたりと歩みを止める。
代わり――。その言葉がひどく、鋭く突き刺さるみたいに。
「え、何、もしかしてありすが付けてくれるの? うわあ、俺格好良い名前がいいなあ」
取り繕うような空元気がむしろ痛々しい。
私は作り笑いさえ浮かべられなかった。
勿論、チェシャ猫がそれを望むのなら、付けてあげたいけれど――
『――失くしてしまったんだ。世界で一番大切な、その言葉を――』
――それをもし失った時、チェシャ猫はどうなってしまうのだろう。
それを思うと私は、彼の隣へと、足を動かすことさえ出来なかった。
だって、帽子屋さんは、あんなに泣きそうだったのに。
それは喪失。
息苦しいほどの絶望感が、あなたを余計愛おしくするの。